日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「棟方志功のいる光景」(4) 指路教会、馬車道の勝烈庵、大津ビルを経てホテルニューグランドのバーで

2011-01-28 10:28:48 | 建築・風景

新潟の友人Tさんを案内して馬車道~大桟橋ルートを歩いてホテルニューグランドに行った。
正午にJR関内駅で待ち合わせてまず食事。道路を渡った伊勢崎町でレーモンドの設計したレストランに案内するか、馬車道でカツレツ、あるいは十番館でコーヒーを飲みながらのカレーライス。そして選んだのは棟方志功が筆で店名を書いた「勝烈庵」総本店だ。

駅を出て通りかかった横浜指路教会の扉を開けた。オルガンが鳴り響いている。奏者が練習しているのだ。何度も来たことがあるが初めて聴くオルガンだ。
カウンターにいる笑顔の男性から「ヘボンさんQ&A」と書かれたパンフレットが差し出された。この教会の創設125周年記念にスイス/マティウス社のパイプオルガンが設置されてからまだ10年。十字架のない会堂の不思議な空間や、ヘボン式ローマ字を考案した医学博士ヘボンさんのことなどひとしきり話が弾んだ。この指路教会の名付け親がヘボンさんなのだ。
設計したのは後に竹中工務店設計部を率いてモダニズム建築にトライすることになる29歳の若き日の石川純一郎、外観に初期フランスゴシック様式の面影を残していて僕たちを魅了する。
暫し鳴り響くオルガンの音に身を浸す。

「勝烈庵」
小学生だった娘を連れてディズニーの映画を観に行くたびにいった店、白雪姫やダンボの姿が娘のちょっと不安気な僕にすがりつくような姿とダブッて目の裏に現れる。ここは今では夢のような出来事だが、鎌倉山に棟方志功邸を建てたとき、志功ご夫妻を車で荻窪の家へ送って行く途中で立ち寄ってご馳走になった店なのだ。僕はまだ25歳だった。
志功の倭絵に囲まれて食うカツレツ定食はサクサクとして軽く昼飯なのにもたれない。そして当たり前だけど美味い。新潟から来た彼女も眼を丸くした。とろっとしたソースもいい味で店の自慢なのだ。

馬車道を歩くとふと瞬時でも「大津ビル」に立ち寄りたくなる。JIA神奈川の事務局があり、建築家高橋晶子、飯田善彦がアトリエを構えて世に問う建築をここから送り出しているし、数年前まで坂倉建築研究所のOB、一時代を築いた親しい室伏次郎がここで仕事をしていた。でも彼らのアトリエを覘くのではなく、一階のエントランスともいえない狭いホールに入り込んで、スクラッチタイルの貼られた昭和初期の空気をちょっぴり味わうのだ。この味わいをTさんにもおすそ分けした。

そして歩き廻ってくたびれ果てて落ち着いたのが、ホテルニューグランドのバー。
慇懃に挨拶をして席に案内してくれたマスターの非日常的スタイルに横浜を感じる。
夕刻にはまだ少し時間のある薄暗いバー。仄かな光に浮かび上がったTさんがなんとも素敵に見える。いやいや、そもそも、素敵な女人なんだ。
このホテルは上野の国立博物館や、付け加えれば、熱海にあるブルーノ・タウトの設計した地階空間をもつ日向別邸の上屋をつくった建築家渡辺 仁(わたなべ ひとし)の代表作でもあるのだ。
日向邸の存続をサポートする熱海市の委員会にも関わっている僕はジントニックで、Tさんのギムレットとカチンと乾杯しながらちょっとしたその建築との縁を楽しんでもいるのだ。

このまちは僕の小さな小さな物語に充ちている。

帰ってきたボストンの私立探偵スペンサーと愛しき人精神科医スーザン

2011-01-23 18:22:34 | 日々・音楽・BOOK

「彼女、私より美人だと思う?」スーザンが言った。
この質問の答え方はわからないまぬけがどこにいる?・・・「思わない」私が言った。
「私のほうが彼女より美人だと思う?」スーザンが言った。「ぜったいに」。
彼女というのは弁護士のリタだ。

全くと!と思いながら、アメリカの男女ってのはやはりこうやって口に出して確認するのだと内心ではにやりとするものの、わが身を思ってやれやれとも!さらにスーザンはこういうのだ。
「もう少し説明してもらえる?」
「いいとも」とスペンサーは臆面もなく「きみはおれが知るなかで最高の美人だ。しかも、君の髪はリタの髪よりすばらしい」。
リタは誰もが振り向く赤毛の美人、ちょっと妖艶でスーザンと同じく久頭脳明晰でスペンサーに惚れてはいるが(多分)このシリーズの常連の誰しも、つまりクワークもベルソンも、そしてスーザンも、いやリタでさえそんなことは暗黙了解済みなのだ。僕はハーバードでドクターを取ったスーザンは手に負えないと思っているが、チャーミングなリタ・フィオーレには逢ってみたい。

作者ロバート・B・パーカーが昨年の1月に亡くなってもうスペンサーやスーザンに逢えないと思っていたら新作「盗まれた貴婦人」(早川書房)が昨年の11月に発行された。
妻君がネットで海老名の図書館を検索していて、「あれ!スペンサーが出たみたいよ」という。

そんなことは?と一瞬思って読んだのではないかなあ、といったがとにかく予約してみてくれと頼んだ。
訳者加賀山卓朗氏の後書きによると、亡くなったときに2冊が執筆中だったとのことで本作のあと、最後の作品[SIXKILL]が来年にもアメリカで出版されるようだ。
本作はホローコストが絡んだ作品で、今の裏社会の様への好奇心が刺激されるし、作品としては良くまとまっている。まとまりすぎているような気もするが、ハードボイルドの原点を踏まえているのも嬉しい。ついつい深読みしたくなる味わい深い会話構成で物語が進行する。

スペンサーの相棒、スキンヘッドの黒人ホークが出てこない。その寡黙なホークとスペンサーの男の心の通い合いを読み進めながら心待ちにしていたが、こんな風に言い訳っぽく読者(つまりフアン)に伝える。
ベルソンが聞く。「彼はどこだ」「中央アジアだ」「中央アジア?そんなところで何をしている」「いつもすることをしている」私(スペンサー)が言った。「政府のアイヴズに関係したことだ。アイヴズはしっているか?」
ベルソンは知っているが、僕は知らない。

ふと思った。ホークがこういうことをやっている立場も持っているのだということが、スペンサーシリーズが始まって30年を経て、はじめて明かされるのだ。私立探偵が公的機関の刑事連と連携が取れるアメリカのシステムの裏とその信頼関係の一側面が垣間見える。

ホークがアイヴズとは!アイヴズって「スパイだ」なのだそうだ。

土浦邸のこの写真はどうだ!

2011-01-16 10:15:06 | 建築・風景

10月末に行われるUIA(国際建築家連合)2011東京大会に連携して、DOCOMOMO150選展をやることになった。場所は東京駅から皇居に向う行幸通りの地下通路にあるギャラリーである。ショーウインドウ形式で4ブースに分かれている。
展覧会名は「DOCOMOMO Japan150―未来への遺産 Future and legacy」。ネーミング提案をしてくれたのが一世代若い人たち、というのが嬉しい。世界から来る建築家に見てもらうためにバイリンガルで構成する。

一つの課題はこの時期、こういう経済状況の中でどうしようかということだがそれはともかく、150選の組み方だ。20選と100選展「文化遺産としてのモダニズム建築展」では、事務局長として実行委員会を支えたが、もうそろそろ良いだろう、今回はキュレーターをやりたいといった。
それもまたともかく、2回の建築展では年代を追ったが、ブースに合わせて地域を4ブロックに分けての展示はどうかと考えた。そこで見えてくるものがあると思っているからだ。
モダニズム(モダンムーヴメント)建築と都市、日本の風土と選定している建築の1,920年代から70年代という時代と地域との関連性、現在(いま)の地方都市の抱える問題にも踏み込めるだろうか。著名建築家がこんな地にも建てている。何故だ?なんて考えてみる。

ヒントを得たのは、都城市民会館の保存活動をやった地元の建築家ヒラカワヤスミさんが中心となって行ったDOCOMOMO展だった。市長に送呈するために選定プレートをもって飛び、シンポジウムで話したりしたが、市の美術館での展覧会で、会場の床に大きな日本地図をおきその上に選定した建築を箱にして一つづつ積み上げた。東京が盛り上がっているのに驚いたが、菊竹清訓さんの都城市民会館の色を変えた箱が誇らしげに置いてあるのが眼に焼きついたのだ。
ではと思って東京に建っている150選のリストを数えたら、三分の一を越える52あった。ちなみに僕が見た建築は120あまり、近くでいつでも見学できる建築があるので、近々130近くにはなるだろう。少ないのか多いのかは僕には良くわからない。全部とはいかない。住宅も難しいが、鹿児島の内之浦宇宙観測所に行こうと思ったって無理だろう。でも行って写真を撮ってきた歴史の研究者がいる。ちゃんとシフトレンズで。

前段は報告だが僕がここで書きたいのは写真のことなのだ。
実行委員会を立ち上げるために何度か準備のための会合を行った。DOCOMOMOメンバーはいわば建築好き人間の集まり、老若男女(?)何をいってもいいというのが原則なので、僕はいつも勝手なことをいっていて苦笑されたり、気色張られたりする。ことに写真では。

資金が厳しいのはわかっているので、100選展のときの関係者の理解や協力を得て保管してあるパネルを使わせてもらうことになるかもしれないが、そうなったとしてもそのあと選定した50選の写真問題がある。可能であれば現在アーカイヴスとして収録してある写真を使いたいが問題はクオーリティだ。では僕が!とつい口が滑ったが、いや1枚はいい天気のとき順光で正面からちゃんと撮った写真が欲しい、とのたまったのは会場構成担当の鰺坂さんだ。建築に対する敬意としてと。

まあね、とも思った。東京中央郵便局の清水襄さんの写真は、この建築を撮ったどの写真家の写真をも凌駕していると思うが、季節を、つまり光の高低を考え早朝の5時に撮ったというし、丹下さんの代々木の体育館は、NHKの許可を得て屋上で一夜を過して日の出をまって撮ったのだと聞かされた。村井修さんの驚くべき写真もある。そんなことは知っている。

しかしである(大げさナ!)。とはいえ、人のいないシフトのきちんとした写真がその建築を捉えているのか。
これは結構な課題で建築界でも写真家の中でも今まで数多く論じられてきたが、僕の漠然たる思いは、人が使いそこで生活するために建てられたのが建築、人の気配がなくてもいいのかということだ。曇りもあれば雨や雪もあるし夕方にも夜にもなる。そういう情景の中で撮った写真ではその建築を表現したとは言えないのだろうか?

さて、掲載したのは、DOCOMOMOで選定した「土浦邸」。
扉が開いているので人の気配がある(こじ付け)。雲が窓に映っていていい味わいがあると思はない?人が生きていて味わう自然を写し撮っているではないか。皆の苦笑する顔がみえてくる。
ちなみに正面から24mmのシフトレンズでは入らないので、超広角で撮ってフォトショップでシフトとほんの少し色彩修正した写真をみせた。僕自身どうもおかしいと感じていたが、即座にみながなんだか「変?」といった。

<僕の撮った写真を使うことについてはお住まいの方の了解を得ています>

雪降る米子の鯖寿司

2011-01-12 10:12:34 | 日々・音楽・BOOK

名物に旨いものなし、と良く言われるが、いや旨いから名物といわれるようになるのだとも言う。
米子の「米屋(こめや)吾左衛門鮓」、つまり「米吾」の寒鯖を酢で〆た山陰名物、僕がお土産に頂いた「昆布巻鯖鮓」は旨い、旨いのだ。厚みのある鯖の酢〆の加減が絶妙だし、北海道産の昆布だというのは、その昔の北前舟の伝統を受け継いでいるのだろうか。
あまり旨いというものだから、あきれた妻君が食べようと思っていた一切れを僕にそっと譲ってくれた。
箱に入っていた小さなパンフレットを見る。「漬け鯵」があり`漬けに技あり`「燻し鯖」は新感覚のスモークでワインやウイスキーにも良いなどと書いてある。どれもまた旨そうだ。

米吾の歴史は江戸時代の廻船業にまでさかのぼるのだという。味わいのあるレイアウトの箱(パッケージ)に由来が書かれている。「船底一枚下は地獄」といわれた航海の安全と、船子の健康に配慮した「船内食」が今に繋がる。そこには船乗りの熱い命とたぎる心意気がこもっているというのだ。
食べるのは翌日までにと、時間まで指定されている。ご飯が硬くなるので冷蔵庫に入れないでくださいとあるが、ついつい入れてしまった。でも硬くなったとも思えない味わい。すっかり米子フアンになってしまった。(我ながら単純だ、僕は!)

その米子は大雪、プレゼントしてくれた東京女子大のOG、井山さんは元気だろうか。
米子市公会堂のシンポジウムに僕を呼んでくれた来間さんによると、地方都市の例にもれず米子も高齢化が進み、雪かきが思うようにいかなくてなかなか大変だという。
若き来間家は大丈夫か?などと心配をしていたら、国道で立ち往生して列を成している車の人たちにトイレを貸したり、毛布やお湯を配り、ありったけの米を炊いておにぎりをつくるなどをしているという、米子に近い国道沿線琴浦町の人々の姿が新聞で報道された。「琴浦町はそういう土地柄です」という一言にぐっと来るものがある。

寒いが東京は快晴。旨いすしを食った余韻を味わっている新年、なんだか申し訳ないような気もしてきた。


田上義也の坂牛邸(小樽)で明治村のライト館を考えた

2011-01-08 17:32:57 | 建築・風景

いつになく月日の経つのは早い。幻庵見学のあと30人ほどで明治村のライト館を訪ねてから三ヶ月近くになり、年も越してしまった。でもだんだん気になってきて`知りたい`との思いが強くなってきたことがある。
知りたいこと、ちょっと思わせぶりだが、最後の一節に記すことにする。

ライト館の入り口で出迎えてくださった鈴木博之明治村館長が、さらっとユーモラスに挨拶をされ、この4月に着任したばかりなのでこの館の説明はと、背の高い柳澤宏江さん(建築担当スーパーバイザー)をみなに紹介する。いや私はついこの7月に着たばかりでとはにかむ若き柳澤さんとのやり取りに和やかな笑いが起きた。
僕は何度かこのライト館に来たことがある。でも今回は見え方が違った。
DOCOMOMOで選定し重文にもなった「自由学園明日館」や「山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)」に比べてディテールや空間構成など建築の組み立てかたが緻密で、見たかった`孔雀の間`もないほんの一部、それもレプリカともいえない再現だとして、はすっかいに見ていたのが嘘のように心が打たれたのだ。
気になった発端は、明治村に行った2週間後に、北国小樽の小高い丘の中腹`入船`に建つ、田上義也の設計した坂牛邸を見せてもらったことによる。

ライトに師事した田上義也の名は、上遠野徹と並んで北海道の建築家の心のどこかに常に宿っているのだが、広く全国に名が知られているとはいえないかも知れない。
僕自身、その名はいつのころからか知っていたものの、札幌の`ろいず珈琲館(旧小熊捍邸・1927)`で美味いコーヒーを味わったが大改造されていたし、函館の`旧佐田邸(現プレーリーハウス・1928)`は外観を見ただけ。ふ―ん!という感じだった。

それでも気になっていたのは、田上義也は終戦直後にJIAの前身、旧家協会(日本建築家協会)の北海道支部をつくり上げて初代会長として北海道の建築家を率いると共に、札幌新交響楽団を創立し、初代指揮者を勤めた音楽家でもあったからだ。履歴を改めて紐解くと何故音楽にと不思議感が増す。戦後の荒廃期、仕事がなかったとはいえ音楽に!
だからではない。僕が敬愛する上遠野徹氏が田上義也の志しを継いでJIA北海道支部を創設し、常に田上の言葉をかりて「正しい道を歩め、列を乱すな!」と後輩を叱咤激励してきたことを知っているからである。

ところが坂牛邸(1927)をみて、これはいい、成る程と思ったものだ。
レーモンドもライトの影響から脱するのに呻吟したというが、田上義也もライトからの脱却に意を決し、過酷な北国の建築のあり方にトライすることによって自己の確立を意識したという。この坂牛邸はその前身、ライトを慈しむ思いに満ちていて微笑ましく、それはそれでいいのだ。しかも非凡な空間、どこかに本物という感じがする。

1899年(明治32年)に栃木県の那須野原開拓地で生まれた田上義也は、昼間は青山学院中等科に通い、夜は早稲田工手学校で建築を学んだ。卒業後逓信大臣官房営繕係で現場での実務経験を積んでいた田上は、1919年、帝国ホテルを設計のためにレーモンドを伴って来日したF・L・ライトの帝国ホテル事務所への入所。20歳だった。ホテル竣工後の1923年田上は北海道に渡る。

柳澤さんに案内され、鈴木先生と共に明治村ライト館を見て僕が感じたのは、緻密な装飾群、例えば照明ボックスや柱や壁面、そして屋根の水の流れをコントロールしてその様を見せる銅版によるBOX形の瓦棒など、でも何より吹き抜けがあったり天井の低い回廊など、空間構成の多彩さと巡り歩く僕たちを楽しませるバランスの素晴らしさだ。でもこんなことは改めて言うまでもないだろう。

僕がふと知りたくなったのは、このホテルを設計し監理をした事務所の組織体制と各自の役割、例えばライトは何処まで図面を描いてどうスタッフに指示をしたのか、ライトは解雇されて帰国するが、あの詳細な装飾群の図面はどのように描かれて、現場では誰が担当をして、施工した技術者や職人の協力を得てこの建築をつくり上げたのか、その事務所の雰囲気やライトとのやり取りを知りたい。遠藤新がチーフとして取りまとめたのは知っている。1年で退所しているレーモンドは何を担ったのか。田上義也はそのレーモンド夫妻に添って武蔵野や鎌倉に出掛け、日本の建築の空間構成や美について学んだという。
田上はここで何を担当したのだろうか!

<写真 左:旧坂牛邸(小樽) 右:明治村ライト館>

新年を迎えて考えたこと

2011-01-03 15:13:28 | 日々・音楽・BOOK

新しい年を迎えたが、新年を喜んで安閑としてはいられないような気がしている。
無論、つい先日(12月22日と23日)行ってきたばかりの山陰米子市が大雪に見舞われて、親しくなったMさん(暮れから大阪の実家行きだそうで助かったなどと言っている・笑!)やW先生、美味しい鯖寿司をプレゼントしてくださったIさんたちがどうしているだろうかと気になっているからだけではない。「米子市公会堂」のシンポジウムを企画した方々との懇親会で出会ったある地域史、建築史の研究者が「日本は本当に大丈夫かと気になって仕方がない」と述べたことが気になっているのだ。氏が懸念を持つのは、地方都市の抱える問題に直面しているからなのかもしれない。

僕たち建築家は、いや建築の保存問題に関わった建築関係者とは(お互いに内に同じ怒りがこもってはいるものの)表立って政界のあり方について、面と向かって論じたことがない。それぞれの立場を思いやるからだ。
一緒に関わる政治家とはその案件についての共通認識があるから頼りにするのであって、その政治家の全てに信頼を置いているのではない。その共通認識といったって裏のあるのは承知、でもピュアな政治家がいることもわかってはいる。その笑顔を思いお越しふっと和む思いもするのだけど。
多くの政治家は、一人一人は魅力的な人間であっても、政治家という立場になるとおかしなことになるのは何故なのか!
さて、僕たち自身の問題意識と立場やその置かれた状況もバラバラだ。でもどこかに建築が好きで建築の存在が大切だというどうしようもない想いをもつ人としか一緒に活動したくないような気もしている。それではいけないのだと分かってはいるのだけど!

政治家、困った存在だ。首相の沖縄訪問には心底がっかりした。何の期待もしていなかったとはいうものの、沖縄の人々の想いをどう受け止めようかとの一遍の思索もなく、多彩な地方都市の抱える課題に思いを寄せず、文化の破壊と人の「生きる」ということを金に換えるという政治家の実態を僕たちに見せつけた。そのおかしさが解らない人々によって仕切られる日本。中国の台頭があって北朝鮮があってその対応の難しい時代、新春早々こんなことを言いたくないが、米子の研究者の不安は僕の不安でもある。

年末の慌しい時(12月30日)にフジテレビで放映された「私たちの時代」には、涙が出てきて困ったが(妻君にはしょうがない人ねえと笑われた)様々なことを考えさせられた。石川県奥能登の過疎化によって廃校になる女子ソフトボールの強豪門前高校の4年間を追ったドキュメンタリーである。
大学を卒業して赴任し、独身を貫いて37年間に渡って指導した室谷妙子監督の、「こんな良い学校を廃校にするなんて!」と思わず呟く一言に言葉もない。
しかしそれと共に「この難しい社会に向わなくてはいけない私たちはどうしていいのかわからない」と卒業式で卒業生を代表して述べた女子高校生の不安に共感しながら、率直に述べるその姿を見てこの学校の教育方針の素晴らしさに好感を持った。涙をこらえながらそう述べるその底に、この社会に立ち向かおうとする決意が読み取れるからだ。日本にはいい学校がある。

そしてソフトボールに青春をかける子供たち。
能登地震があって生活の難しさを実感し、事実は奇(喜)なり、インター杯県代表をきめる昨年負けたライバル校との戦いで奇跡が起こった。そしてこの戦いが最後になって定年退職する皺を刻んだ室谷先生の子どもたちを見やる顔と、学校を去っていくその後姿にこの日本もまだ大丈夫だとほっとする思いも湧いた。このドキュメンタリーに共感する大勢の人がいるかぎり。

箱根駅伝をTVで見るのが新春のわが家の恒例。Wが勝ち、母校明治は最後に東海大にやられて5位。しかし古豪から強豪になったとのアナウンサーの言葉に嬉しき共感。昨日のラグビーで大敗、早稲田は強い。何故だ?

<写真 米子行きの飛行機から見た富士山>