日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

釈然としない「東京中央郵便局」高層化決定のプレスリリース

2008-06-29 14:58:37 | 東京中央郵便局など(保存)

6月25日、日本郵政株式会社によって、「東京中央郵便局」の敷地について、再整備(つまり庁舎を高層化)に着手するとプレスリリースが行われた。スケジュール表によると、7月4日に官報記載による入札公告、25日には入札申請書を締め切り、10月ころには工事業者を決めるとされている。
この日の夕方、外出先から帰宅途中の電車に南芝浦工大教授からプレスリリースがなされたと携帯電話が入った。やはりね、と苦笑した。国会終了後の国会議員の反論のしにくい時期を狙って発表するのではないかと気にはしていたのだ。超党派の国会議員によってこの庁舎を「重要文化財」にして保存・活用し次世代に継承したいという活動がなされているからだ。

南さんの電話の直後に、テレビ朝日のスーパーモーニングから電話取材を受けた。
送ってもらったプレスリリースの資料、特にパース(完成予想図・絵!)を観てどう思うかというものだ。東京駅広場に面する下部には現在の庁舎の姿が描かれ、その背後にガラスのカーテンウオールの超高層が聳える図面だ。資料には「東京駅前広場からの景観に配慮して、できる限り保存・再現する」と書いてある。しかし平面図や配置図がなく、どの部分をどうするのかわからない。情報操作の意図が伺える。
新聞各紙の多少のスタンスの違いはあるが、翌26日の朝刊経済欄にこの件について報道された。カラーによるパースを大きく乗せた東京新聞の記事のタイトルは`名建築 外観残った`と言うものだ。やはり・・・

僕が電話取材で述べたのは、丸の内にあって瘡蓋(かさぶた)保存などと揶揄される銀行協会や、前面の、大よそ半分を残し半分をレプリカとして再現させた手法の評価は微妙ではあるものの、魅力的な内部空間を残し得た日本工業倶楽部会館などの試行をしてきて、明治生命館を全面保存し、東京駅を復元までして残すことになった経緯を学ばなくてはいけない。でもその軌跡を元に戻してしまう今回のこういうやり方はすべきではないということだ。思わず口に出たのは次世代に対しても、世界に向けてもなんとも恥ずかしいという一言だった。

スーパーモーニングのコメンテーター石丸弁護士の発言も困ったものだ。
この建築は既に「私物」(民営化されたので公共のものではない)だから残せ云々を言うべきではないと繰り返し言う。
土地も建築も郵便局(株)の所有になったが、株はまだ国が所有しているし、後に民営化の体制が整っても、郵貯は完全に民営になるものの、全国の郵便局と郵便事業に関しては国が30パーセントの株を持って運営して行くとされている。つまり国家事業なのだ。だから官報公告がなされる。事実確認のうえで発言して欲しい。

しかしもっと大切なことは、例え民間の建築であっても、都市を(都市景観を)構成して行く建築は建った直後から社会的な存在になり、その時代や社会や僕たちの生活に大きな影響を与えていく公的な存在になるということだ。だから僕たちは『残すこと』と『つくる』ことに呻吟している。
スーパーモーニングのコメンテーターに、価値観を共有する白石真澄関西大学教授のいることが心強い。

この25日のプレスリリースには釈然としないことが幾つもある。
(1)6月13日、衆議院議員会館議員会議室において、状況確認の国会議員の質問に答えて、日本郵政(株)執行役・清水弘之不動産企画部長同席の中で、郵政からはこの建築が重要文化財の価値があり保存要請がなされていることは承知しており、全て残すことも含めて検討中で「まだ何も決まっていない」と報告された。
更に郵政が委嘱した「歴史検討委員会」委員でもあり「東京中央郵便局を重要文化財にする会」の運営委員でもある鈴木博之教授から、民営化されたというがもともとこの建築は公共建築で国民のものだ、検討結果を公開して世に問い、それを受けて決めるべきだと述べると、「そのようにする」と郵政サイドは明言した。
日本郵政が、国会議員や僕たちの前で述べたことと、12日後の今回の発表をどう考えればいいのだろうか?嘘をついた、とは言いたくないのだが!

(2)大手町・丸の内・有楽町地区(大・丸・有といわれる)には、特例容積率適用地区及び指定規準が制定されている。この地域の許容容積率は1300パーセントだが、「歴史的建造物の保存・復元・文化的環境の維持・向上」を図ることによって、1,5倍或いは500%を加えた以内のいわばボーナスが加算されることができるとされている。今回の発表では1825%になり詳細はわからないものの公開空地など容積非算入制度を使って最大限の計画がなされているようだ。明治生命館や東京駅のように重要文化財ではなく、一部保存で。
リリースでの「再現」と言う微妙な言い回しはどういうことなのか。再現とはレプリカをつくるということではないのか。これを受けて容積をかさ上げをしようとしている東京都の判断も困ったものだ。

(3)環境アセスメントの実施も必要だし、千代田区の「景観条例(都条例の上位互換)」の対象物件に該当し、計画通知前に「建築審査会」に諮る必要がある。それらの手続きがなされないまま(なされているとは聞いていない)入札公告がなされ、7月25日までに入札申請書の提出をさせるというのだがそれで良いのだろうか。次期国会の前に既成事実をつくってしまおうという思惑が見え隠れすると言いたくなる。

書いていくと国家事業を担う日本郵政のスタンスがどうもすっきりせず、嫌な感じになってきて困る。ふと偽装と言う言葉が頭の隅をよぎるのだ。それも国民に対する・・・
「歴史検討委員会」では一部保存・再現を容認したのだろうか。有識者の意見を踏まえて決めたとプレスリリースされているし、郵政は歴史検討委員会の意見によって決めると言い続けてきたのだけど。

明日(6月30日)6時より建築学会大ホールに於いて、シンポジウム「日本における近代建築の原点―吉田鉄郎の作品を通して」を開催し、設計した「吉田鉄郎」の実像を浮かび上がらせ、吉田鉄郎の目指した日本における近代建築の原点と「東京中央郵便局」について論議を行う。<恐縮ですが、このブログにリンクしている僕のHPのイベント情報をご覧ください>

<写真 「建築家・吉田鉄郎の手紙」(鹿島出版会)」より>

「東京中央郵便局」を保存するための、超党派国会議員による、容積移転法改正検討と重要文化財指定

2008-06-22 21:45:01 | 東京中央郵便局など(保存)

「東京中央郵便局庁舎」を保存するための、超党派国会議員による活動が急ピッチで行われている。長くなるが中郵の保存にとって大きな支えになるこの国会議員の活動を報告しておきたい。

昨2007年6月6日、「東京中央郵便局を国指定重要文化財とし、首都東京の顔として将来世代の為に、永く保存・活用を進める国会議員の会」が第1回勉強会を開催してスタートした。
この日の勉強会には、鈴木博之東大教授と僕が講師を務め、中郵の歴史的な位置付けや設計した吉田鉄郎についての解説を鈴木教授が行い、僕からは日本建築家協会(JIA)、日本建築学会、DOCOMOMO Japanからの要望書提出などの保存活動経緯を説明した。
民営化のずっと前、既に9年も前のことになる1999年(平成11年)、当時JIAの保存問題委員会委員長だった僕は、時の郵政大臣野田聖子氏(提出直前に八代英太氏に変わり、名前を変更をした)や文化庁長官林英樹氏に、この庁舎を重要文化財、或いは登録文化財として指定或いは登録して欲しいと要望書を提出しているからだ。当時から、郵政で建て替えの検討がなされていると言う風説のようなものが流れていて、委員会では危機感をもったのだ。

超党派国会議員の会の名称は長くて覚えにくいが、この建築の位置付けや価値を明快に伝え、日本の文化の行く末を担う国会議員の想いが籠もっているいい名称だと思う。
発起人(国会議員への呼びかけ人)には、森山真弓氏、河村健夫氏など元大臣を含む21人(その直後22人になった)の議員の名があり、自民党の平沢勝栄議員と、民主党の河村たかし議員が事務局を勤めている。賛同者は60人を越えている。

いままでに5回行われた勉強会で、講師として招かれた文化庁文化財部(建造物担当)参事官からは、この建築は「重要文化財」としての価値を有するとの表明があり、東京都都市整備局の担当官からは、大手町、丸の内、有楽町地域(いわゆる大丸有)の特定街区制度は、「価値ある建築を存続させるために容積率割り増し」を制定としたものと説明があった。
市街地の都市景観形成のためには時を経た建築の存在が欠かせないという認識だ。いずれの会にも郵政株式会社の担当部長が同席した。

この経緯を踏まえ、2007年12月13日の国会の委員会で、増田総務大臣、郵政株式会社の西川善文社長などが出席する中で、文化庁の次長が「重要文化財として指定を検討する価値を有している」との見解を述べ、公文書として記録され公開された。

2008年5月27日(火)午後3時より、第6回の会合が衆議院第1議員会館会議室で行われた。
重要文化財としての価値があると認知された建築を壊すのは犯罪だと国会の委員会において河村たかし議員は述べていて共感するが、僕は経済という視点からも何ができるかと考えてみるのも必要だと思っていた。

この日の会合は、国家議員の要請を受けて衆議院法制局が検討した容積(空中権)移転に関する法改正提言の検討である。
特定街区内の容積割り増しは、重要文化財の例えば明治生命館のように同一敷地内、或いは東京駅の場合のように復元に向けて法改正を行って隣接地への移転は可能となっていて、東京駅の場合は空中権の売却益で改修・復元工事費を捻出している。ところが街区内であっても遠隔地へ飛ばす場合にはこの割り増しは適用されない。法の趣旨からいっても関係法を改正するのは整合性があると国会議員との会合で僕も述べた。しかし同席した国交省の住宅局、都市・地域整備局の課長からは異論が出た。

この制度は高さの限度を決めたもので容積割り増しが法の趣旨ではない。割り増しを制度化することによって更に容積が増え、都市景観が損なわれると言うのだ。僕はそれはおかしな論理だと反論した。大丸有の地区では、これから数十年間は中央郵便局を除いて重要文化財になる建築が無い。全て再開発されたからだ。先達が培ってきた歴史的建築に対する敬意と、過去と現在と将来をつないでいく建築と人の記憶に対する都市感が違う。なぜなのだろうか。
法制局と国交省サイドの調整を行うことにはなったが、平沢議員からは重文指定に向けての活動にも積極的に目を向けようと意向が伝えられた。前例がないとは言え、法律上指定については所有者の同意がなくても可能なのだ。

引き続いて6月11日、首相問責決議案などや会期終了前の慌しい中、衆議院第1議員会館、議員会議室において、日本郵政(株)、郵便局(株)への緊急要請会(第7回勉強会)が行われた。
国会議員からの質問に対して出席した日本郵政(株)の担当部長からは「文化財としての価値は認識しており、それを踏まえて検討中でまだ最終判断はなされていない」と回答された。
同席した鈴木博之東大教授からは、ご自身が委員である「歴史検討委員会」の答申内容が委員にも伝えられておらず、「本来ならその回答を公表して広く建築界や市民に意見を問い、その意見を受けて検討するべきではないか」との考えが述べられた。郵政の部長から持ち帰って検討するとの回答を得た。
伊藤滋氏を委員長とした歴史検討委員会は非公開とされているが、文化庁が述べたこの庁舎が重文に値することは広く伝えられているし、もともとこの建築は公共建築、つまり広く市民のものだったからだ。

西川善文日本郵政(株)社長と川茂夫郵便局(株)会長に提出された国会議員の「要請書」を記載しておく。土地と建物は郵便局株式会社の所有になっている。

『私たちは、歴史を後世に伝え、都市の心象風景を守るために、歴史的検地区の保存を目指す超党派の衆・参両議院の会です。
貴社の所有される建築物には、その後の近代建築の規範となった名建築が数多く、なかでも東京中央郵便局と大阪中央郵便局は、昭和初期を今に伝える歴史的名建築と言われています。また、東京中央郵便局は、丸の内の東京駅舎とあいまって、東京を訪れる人に、在りし日の東京の姿を語りかけてくるシンボルでもあります。
昨年12月13日の衆議院決算行政監視委員会では、文化庁は「戦前の我が国の近代建築のすぐれた作品の一つと考えておりまして、国の重要文化財として指定を検討する価値を有しているものと認識」と答弁しています。
日本を文化立国とする観点から、こうした貴重な文化財を、必要な改修のみで保存・活用しながら後世に受け継ぐことが、強く望まれます。
もちろん、重要文化財の所有者に、財産上の特別の負担を強いることのなきよう、重要文化財の特例として、しかるべき手当てを行うような議員立法も検討中です。
なにとぞ、歴史的名建築を後世に伝えるため、この素晴らしい郵便局庁舎の保存・活用にご理解賜り、文化財保護法27条の規定による国の重要文化財の指定を受けるのに必要な、貴社の同意を賜りますよう、お願い申し上げます』

意見交換の後、平沢勝栄氏は、積極的に国会議員に声を掛け、この趣旨の賛同者を増やして署名をもらうことにすると言明された。

建築の専門家と市民によってつくった「東京中央郵便局を重要文化財にする会」では、3月31日、千代田区に陳情書を提出した。
これを受けて区議会議員による総務委員会では、行政担当官同席のもとで懇談会(ヒヤリング)を開催してくださった。
僕は事務局長の多児さんと共に出席し、PPを使ってこの庁舎の歴史的な位置付けや建築の魅力を伝えた。議員の方々は、その前週放映されたテレビ朝日のスーパーモーニングで、僕が中郵を前にして述べた番組の録画を見た後懇談会に臨んでくれたとのこと。6月30日の朝、総務委員会で行う東京中央郵便局の見学会に数名が同行する。

「幻のピアニスト レオン・フライシャーを聴いた」のだ!

2008-06-14 19:05:24 | 日々・音楽・BOOK

「レオン・フライシャーを知っている?」と電話が掛かってきた。さーて!
電話の主はジャーナリストの椎木輝實さんだ。「幻の巨匠(ピアニスト)と言われるのだけど、やっと日本に来てくれることになってね」。聴きに来ないかと言う。

レオン・フライシャーは1928年サンフランシスコに生まれ、9歳からシュナーベル(ああ、なんとも懐かしいピアニストだ。音の悪いLPでしか聴いたことがないのだが)に師事し24歳の54年、ベルギーのエリザベート王妃国際コンクールで優勝し、世界を舞台に活躍するようになった。
ところが65年、突然右手の二本の指が動かなくなり表舞台から消える。30年を経た95年疾患から回復してクリーヴランド管とのコンサートで復活する。既に67歳になっていた。幻の巨匠と言われる由縁だ。
椎木さんの講釈を聞いているうちに何だかレオン・フライシャーを知っているような気がしてきた。いや、でも知らない。

僕が聴いてみたいと思ったのは、チェロの堤剛たちとの共演だというからだ。ブラームスのピアノ五重奏曲はちょっと苦手だが、久しぶりに堤剛を聴いてみたい。サントリーホールから招待券を送らせるよという。
椎木さんとは六本木国際文化会館の保存を一緒にやり、年の上では(失礼)大先輩だけど仲良しになったのだ。音楽に造詣が深くサントリーホールの企画にも携わったことがある。館長の堤剛氏とも親しいわけだ。

翌朝僕がお礼の電話をする前に椎木さんから電話をもらってしまった。いたの?という。休憩時間に僕は一階のロビーでコヒーを飲みながらキョロキョロと見渡し、椎木さんは2階で大勢の人と挨拶を交わしながら来てるのかなあと探したのだと言う。いやね、終わってから楽屋に誘おうと思ってね。

昨夜のレオン・フライシャーの演奏をどう聴けばいいのですかね?と疑問符をつけて電話先で首を傾けると、まあ80歳になったし全盛期を過ぎてるのでね、心配したけど元気でよかった。楽屋でも機嫌がよくって話が弾んだのだという。僕を皆に紹介したかった!とのこと。残念なことをした。
堤さんはともかくヴァイオリンの竹澤恭子さんに会いたかった。演奏を聴いてぞっこんになったのだ。アグレッシブなその姿にも。竹澤さんはとてもいいよと椎木さんも言う。

今回の公演はサントリーホールの企画によってレオン・フライシャーを招いたもので、共演したのはヴァイオリンの竹澤恭子、ヴィオラの豊嶋泰嗣、チェロの堤剛を中心としたサントリーフェスティバル・ソロイスツだ。
そのブラームスと、最初のバッハの「フーガの技法」には、大阪フィルの首席コンサートマスターの長原幸太が加わるが、その長原が第二ヴァイオリンを担うと言う素晴らしいメンバー構成だ。

「フーガの技法」(第1曲/第19曲)には驚いた。僕がCDでよく聴くハンガリーのケラー弦楽四重奏団の演奏、これも独特の価値観で奏した名演だとライナーノーツには書いてあるが、異なる曲を聴いているようだった。
僕は音楽理論にはまったくの門外漢だが、様々なフーガにヴァイオリンやヴィオラやチェロが応答していくスリルのある対位法を実感したといいたくなった。弦がよく響く。電話先で感嘆したと言うと、サントリーホールはね、弦の音がいいのよと椎木さんはのたまう。だから感じるのだ。

二曲目のベートーベンのセレナーデニ長調op34(トリオだ)も楽しかった。明るく伸びやかで、第5楽章のシンコペーションの繰り出す躍動感に体が動き出した。楽章の合間に大勢の人からの拍手が沸いたりしたが、マナーを言う以前に素晴らしい演奏に引きずりこまれて思わず手が動いてしまったと言いたい。
いずれの曲も、弦奏者の自由奔放な演奏にはしびれた。そして僕の苦手なブラームス感が変わりそうな気がする。面白い。聴きこんでみよう。広大なブラームスの世界が開けそうな気がする。
演奏を楽しんでいるフライシャーの、よくやるなあというように時折竹澤恭子を見やる眼差しをみると、フライシャー何ものぞとのけぞりながらひく共演者のこの勢いを引き出したのはフライシャーかもしれないと思った。

<2008年5月15日サントリーホール 大ホールにて>

「天草・長崎紀行」(1)天草の幸

2008-06-09 19:29:31 | 日々・音楽・BOOK

天草・下田(熊本県)の吉田和正君からクール宅急便が届いた。ドキドキしながら開く。南天の小枝の下に封筒が入っている。
「お久し振りです。早いもので下田に来られてから1年がたちました。あっという間ですね。今年も美味しい雲丹、タイ、イサキの干物が出来上がりました。食べてみて下さい」

文字は女文字。奥さんが書いてくれたのだ。瞬時に和正君と奥さん顔が浮かんだ。
冷凍した開いた半干しの鯛とイサキ、切干大根、粉にした青海苔、かわがむかれて淡い黄緑色の冷凍された蕗のようなもの、それに雲丹(ウニ)。
和正君が釣ってきた魚だ。釣れたらまた送るよといっていた魚。夫婦でつくってくれた切干。雲丹のビンには、隣町苓北の天草水産高校時代の和正君の友人がやっている店のシールがはってある。1年経ったのだ。電話した。

奥さんが出てすぐに和正君に替わった。元気そうだ。和正君は小学生時代の同級生、34人だったクラスメイト、12人だった男子の中で今では一番仲のいい友達になった。
声を聞くのは久し振りだが余計な挨拶はしない。蕗のようなもの?「つわ」だよという。そうだ。つわぶき(石蕗)だ。僕住んでいた家の周りにも、まだ水道が無く坂道を下ってバケツで飲み水を汲みにいったせせらぎの周辺にも生えていた。

いま僕の住んでいる関東ではほとんど見ることが無い。辞書を引いたらフキに似ているが別属で、暖地の海辺に自生すると書いてある。粟の入ったご飯や乾燥芋・僕たちがコッパといっていた輪切りにした乾燥芋をふかして練って団子にした主食と共に、食卓には欠かせないおかずだった。香りが蘇る。

昨年の5月19日から4日間、思い立って昭和21年の暮れからの6年間と中学二年生の数ヶ月を過した天草と父の実家、長崎を訪れた。
長崎には法事やDOCOMOMOで選定した建築の撮影などで何度も足を運んでいるが、天草は何十年ぶりだっただろう。
夜7人の同級生と3年生のときの数ヶ月の担任をして下さった若松先生が来てくださった。先生はほんの数ヶ月だったのに僕のことをよく覚えているという。
勿論、酒を飲みながらの思い出話はいつまでも尽きなかったが、明るい話ばかりではない。

小学生時代には全校生徒が200人ちょっとで小さな村だと思っていたが、今ではなんと三十数名、複式学級で3クラスしか組めなくなった。
天草で唯一つ温泉の出る村だった下田北には今でも5月に温泉祭が行われるが、村祭りはなくなった。境内で相撲を取り、もらったお小遣いを兄弟で出し合って包丁を買って母にプレゼントした祭り。
ペーロン(沖縄で言うハーリーだ)といっていた部落対抗の船の競争もなくなった。漕ぎ手がいないのだという。
僕の同級生には旅館の息子や娘が4人もいたが、いまあるのは一軒だけだ。3軒はやっていけなくなって手放してしまったと言う。Tさんもその一人だ。
長女だったTさんは結婚して妹に女将の座を譲ったのだと僕は思っていた。何年もかかってね、やっと下田に顔を出せるようになったのはつい3年前だという。還暦をとっくに過ぎてね・・・
淡々と語る穏やかなTさんの顔を見ていると、酒が胸の中にも染み渡ってくる。

それでも、下田は天草町になり今では天草市だ。
火力発電所のできた苓北を除いて、上島と下島のある天草全土が、広大な一つの市になった。隣村だった高浜がこの地域の中心になり、下田村役場のあった下田北には行政を担う支所もなくなった。
中学校もなくなって子供はスクールバスに乗って高浜に行かなくてはいけない。そのバスの運転手を同級生の野口君が定年までやっていたそうだ。子供たちの人気者だったそうだ。そうだろう、そうだろうと納得する。その野口君は何年間も腰を痛めていて心なしか元気がない。

今度の旅は、天草も長崎も考えることが沢山あって整理が出来ず、なかなかこのブログに書き始めることができなかった。でも和正君の心尽くしの天草の幸を味わうと、みなの顔が浮かび上がってきて矢も立ってもいられなくなった。友達はいいものだ。書き綴ってみよう。

去年聞き損なってずっと気になっていることを聞いた。下田には医者はいるの?
僕の小学生時代、お医者さんは週に一回だけ船に乗ってやってきた。幸い僕の家族は元気で、しょっちゅう足におできができていたが医者に行ったことがない。でもそんなことはありえず、今考えると母はずい分心配し苦労しただろうと思うのだが、子供ってノーテンキなものだ。

「いるんだよ!」と和正君は言う。
「赤ひげ」みたいな人でね、糖尿を患って足を切断したけど想いがあって過疎の地へと志願してくれた。高齢者医療がね、下田もね、みな年を取ってきて大変なんだよ。

愛しきもの(4)  後藤茂夫の茶碗「ふる里」

2008-06-01 10:48:52 | 愛しいもの

益子の陶芸家「後藤茂夫」さんとのお付き合いもずい分長くなり、いつの間にか僕の好きなもの、壷や食事に使う器などが沢山集まった。その一つ一つに想い出があり僕にとってのエピソードがある。
戸棚を開けて海花皮(かいらぎ)の湯飲みを取り出すと、中野にあった小料理屋の女将の笑顔を思い出す。
あるとき、鯖の刺身があんまり美味くて食べてしまうのがもったいなくなり、一切れ残して後で食べたら味が変わってしまった。女将は後藤さんを案内して飲んだときのお土産の海花皮茶碗が気に入り、それから沢山使ってくれるようになったのだ。
塩を使って焼いた濃いブルーのカップでビールを飲むと、益子の工房や街並み、それに笑顔の奥様やはじめて会ったときの小さかった子供たちのはにかんだ顔が浮かんでくる。

トンボが留まるよ!と言うので、小学生だった後藤さんの長女を車に乗せてコスモス畑に行った。彼女が小さな指をそっと突き出したら、本当にトンボが指に留まったのには驚いた。
小さくてはにかみやだった長男の竜太君が手捻りした怪獣が工房の棚に置いてあったりした。その彼は人間国宝島岡達三の弟子になり、来春には銀座の「たくみ」で個展をやるといっている。島岡さんは残念なことに亡くなったが、どのようなもの(作品)が展示されるのかと楽しみだ。
足を開いて、イエーツとやっていた末っ子のおてんば娘が、しおらしいお嬢様になったのにも驚いた。
工房の庭には幾つもの陶土がストックされている。竜太君から気に入った陶土や釉薬があったのでおかせてくれと言われたと後藤さんもうれしそうだ。

大らかだが、流れ落ちる釉薬が大胆な後藤さんの茶碗がある。伊藤延男先生に銘をつけて頂いた。先生の想いのこもった「ふる里」だ。

先生は日本イコモスの重鎮として、法隆寺と姫路城の世界遺産会議・奈良ドキュメントにおいて日本を代表して木造による日本建築のオーセンティシティについて論じて、世界の建築感を変えた人だ。
三渓園の一畳代目`金毛窟`でお茶をご一緒したことが2度もある。
お薄になって亭主小林紘子さんが小窓の架け戸をはずすと茶室の空気と光が変わり、その移ろいゆくさまをも味わった。小雨の日のほの暗い茶室にシュンシュンと鳴る松風。いずれも夢の一時だった。
この茶碗でお茶を味わうたびに、ああいい茶碗だとうれしくなる。