今年も川田伸紘さん(東京都建築士事務所協会に所属している建築家)から相談を受けて、新宿西口のイベントコーナでシンポジウムを行うことになった。10月1日(土)am10:00―12:30の2時間半である。一ヶ月しかないのにまだタイトルが決まっていないが、僕のイメージにあるのは「私の出会った建築・原風景」というものだ。司会を僕がやる。
パネリストは四人と考えているが、川田さんは東京藝大の名誉教授になられた建築家黒川哲郎さんと相談をし、僕は東京女子大の森一郎哲学科の教授に打診した。
レーモンドの設計した東寮と旧体育館の、森先生と連携をとりながら挑んだ解体問題が頭にあるのだが、昨秋の9月18日、先生から依頼を受け、早稲田大学で行われたハイデガーフォーラムで隈研吾さんの発表(講演)の司会をやって、哲学者の問題意識に感じるものがあったからでもある。
このフォーラムでは、隈研吾さんの発表(講演)の後、会場からの質問の橋渡しをしながら建築論を交わした。隈さんのタイトルは「橋のような建築」。
場と建築の関係性、つまり入るという行為の孔、出て認識する塔の関係性に場が浮かび上がるという論旨でキーワードは「粒」。木と石は粒である。そこにコンクリートへの疑念があるのだ。ハイデガーの「建てること、住むこと、考えること」をテーマにしたフォーラムに相応しい内容である。
コンクリートへの感性は少し異なるが、ウチとソトは日頃感じている僕の建築感にも関わるテーマで興味を持った。事前に隈さんが送ってくれた論旨を読み、僕でも司会が出来るかもしれないと思う!
二日間にわたって行われたこのフォーラムは、各日5セクションに分かれていて、5人の発表者がそれぞれ30分ほど発表し、会場とのやり取りを50分間行うという仕組みである。隈さんは、自作の写真をスクリーンに映しながらテーマに沿って建築論を展開し、満席の会場を魅了した。会場からの質問も活発で、切り回した僕もすっかり楽しんだ、
哲学者ハイデガーの論考は難解だ。とはいえ付け焼刃的に図書館から「哲学者の語る建築」(中央公論美術出版社)を借りてきて読んではみた。さてさて正しく難しくて読みこなしたとは到底いえない。しかし収録してあるヘルダーリンの1951年の講演「詩人のように人間は住まう」に眼を通すと、哲学者ってこういう風に思考を進めていくのだということはおぼろげながら理解できた。
ここにこの一文を書いておこうと思ったのは、和辻哲郎の「風土」を読み進めているからである。
今トライしている9月23日から開催する「2011UIA TOKYO DOCOMOMO Japan150選展」で地域別に展示することにしたときに浮かんで来たのが『風土』。テーマを「風土とモダンムーブネント建築」としたのだ。
和辻哲郎はその序言でハイデガーに触れる。「彼は人間の存在をただ人の存在として捉えた。(中略)・・ハイデガーにおいて充分具体的に現れてこない歴史性も、かくてその真相を露呈する。とともに、その歴史性が風土性と相即せるものであることも明らかになるのである」。
僕の150選展のテーマに即応する。
理屈っぽくなったが、こんなことを隈さんや森先生とやってきて、隈さんには7月26日に高崎で行ったシンポジウム「群馬音楽センターとDOCOMOMO20選」で話をしてもらうことに繋がった。(このシンポについてはいづれ書き記したい)。今度は森先生にお話をしていただく。楽しみだ。
<写真:文面との脈絡がないが、地階倉庫にDOCOMOMO100選展パネルを預かってもらっている僕の設計したビル>