日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

隈研吾の「橋のような建築」と 東京女子大森一郎教授と共にシンポを!

2011-08-28 21:40:12 | 建築・風景

今年も川田伸紘さん(東京都建築士事務所協会に所属している建築家)から相談を受けて、新宿西口のイベントコーナでシンポジウムを行うことになった。10月1日(土)am10:00―12:30の2時間半である。一ヶ月しかないのにまだタイトルが決まっていないが、僕のイメージにあるのは「私の出会った建築・原風景」というものだ。司会を僕がやる。

パネリストは四人と考えているが、川田さんは東京藝大の名誉教授になられた建築家黒川哲郎さんと相談をし、僕は東京女子大の森一郎哲学科の教授に打診した。
レーモンドの設計した東寮と旧体育館の、森先生と連携をとりながら挑んだ解体問題が頭にあるのだが、昨秋の9月18日、先生から依頼を受け、早稲田大学で行われたハイデガーフォーラムで隈研吾さんの発表(講演)の司会をやって、哲学者の問題意識に感じるものがあったからでもある。

このフォーラムでは、隈研吾さんの発表(講演)の後、会場からの質問の橋渡しをしながら建築論を交わした。隈さんのタイトルは「橋のような建築」。
場と建築の関係性、つまり入るという行為の孔、出て認識する塔の関係性に場が浮かび上がるという論旨でキーワードは「粒」。木と石は粒である。そこにコンクリートへの疑念があるのだ。ハイデガーの「建てること、住むこと、考えること」をテーマにしたフォーラムに相応しい内容である。
コンクリートへの感性は少し異なるが、ウチとソトは日頃感じている僕の建築感にも関わるテーマで興味を持った。事前に隈さんが送ってくれた論旨を読み、僕でも司会が出来るかもしれないと思う!

二日間にわたって行われたこのフォーラムは、各日5セクションに分かれていて、5人の発表者がそれぞれ30分ほど発表し、会場とのやり取りを50分間行うという仕組みである。隈さんは、自作の写真をスクリーンに映しながらテーマに沿って建築論を展開し、満席の会場を魅了した。会場からの質問も活発で、切り回した僕もすっかり楽しんだ、

哲学者ハイデガーの論考は難解だ。とはいえ付け焼刃的に図書館から「哲学者の語る建築」(中央公論美術出版社)を借りてきて読んではみた。さてさて正しく難しくて読みこなしたとは到底いえない。しかし収録してあるヘルダーリンの1951年の講演「詩人のように人間は住まう」に眼を通すと、哲学者ってこういう風に思考を進めていくのだということはおぼろげながら理解できた。

ここにこの一文を書いておこうと思ったのは、和辻哲郎の「風土」を読み進めているからである。
今トライしている9月23日から開催する「2011UIA TOKYO DOCOMOMO Japan150選展」で地域別に展示することにしたときに浮かんで来たのが『風土』。テーマを「風土とモダンムーブネント建築」としたのだ。
和辻哲郎はその序言でハイデガーに触れる。「彼は人間の存在をただ人の存在として捉えた。(中略)・・ハイデガーにおいて充分具体的に現れてこない歴史性も、かくてその真相を露呈する。とともに、その歴史性が風土性と相即せるものであることも明らかになるのである」。
僕の150選展のテーマに即応する。

理屈っぽくなったが、こんなことを隈さんや森先生とやってきて、隈さんには7月26日に高崎で行ったシンポジウム「群馬音楽センターとDOCOMOMO20選」で話をしてもらうことに繋がった。(このシンポについてはいづれ書き記したい)。今度は森先生にお話をしていただく。楽しみだ。

<写真:文面との脈絡がないが、地階倉庫にDOCOMOMO100選展パネルを預かってもらっている僕の設計したビル>


記憶を留めておく 戦中派の夏の終わりに

2011-08-21 22:58:05 | 生きること

走り書きになっても、記憶として書き留めておきたいことがある。
NHKの朝ドラをチラッと見ていたら、終戦になった途端教師の態度が変わり、小学生が戸惑う様が映し出された。よく聞く話だがふと思ったのは、僕は戦後教育の「第一期生」だと言うことである。
昭和21年(1946年)4月、疎開先の千葉県柏小学校に入学した。そのあとすぐに、実家長崎の勝山小学校へ、そして天草の下田北小学校に転校したのが12月2日、下田国民学校だった。
一学年一クラスの小さな学校だが、先生も優しくて大人への不信感は生まれようもなかった。
よそ者なのに、近所の人たちにも母を含めて支えられていたし・・・・

熊本から赴任して東京を目指していた先生に可愛がられ、恐らく現在(いま)の僕のベースがここで築かれた。と同時に同級生の全ての子が同じように可愛がられたとも思っていた。
あるとき衝撃を受けることになる。`あの小学生時代の辛さを生涯思い出したくもない`と一番の仲良しになったY君から言われたのだ。意味もなくいつも先生にいじめられた。

そのY君は心臓を病み、熊本の大学病院の手術室台で心筋梗塞を起こし、取り囲んでいた先生たちの手で緊急手術によって一命を取り留めたのだという。手術をした先生が驚嘆した。一瞬遅れていたらと。奇跡だった。

今年の正月、年賀状が来ないので電話をしたら使われていないとのメッセージが流れてきてあせった。慌てて同級生のN君に電話をする。
Y君は店の電話をやめて自宅一本にしたじゃないという。そうだったなあと思いながら奥様のお悔やみを述べる。孫が六人、娘の家がすぐ下にあってその間に墓があるので、毎日花を取り替えて手を合わせている。昼と夜の食事は娘の「うち」で一緒にとのことだ。自分は幸せモノだとうるっときている様子が聞こえてきた。

Y君に叱られた。喪中の葉書を寄こしたではないかと!そうだった、弟を知っている人には出したのだった。
小学生時代の同級生は男が12人、女は22人、大学まで行ったのは多分僕を含めて二人。Y君は天草の水産学校に行ったが、N君は中学を卒業した後、山の中腹に住んで親父の跡をついで農業に邁進した。

「団塊の世代」という言い方がある。僕の数年後に生まれた世代だ。「戦中派」という言い方もある。「焼け野原」に繋がる言い方だ。ローリングロウを歌った作家野坂昭如や、夏の闇の開高健の世代。
中途半端な俺だ!と語したことがある。何言ってんだ俺たちは「戦中派」だと決め付けられた。
戦中派?どうもなじまないが、大人の変節を見なくて済んだ一欠けらの世代でもある。ふっと思うのは、終戦前に教師であった人間の苦悩だ。

TVで写真家江成常夫の「霊魂を撮る眼」を見ながら書き進めている夏の終わりの一人の男の呟きか?

<写真 天草下田:2007年5月撮影>

2011年8月15日

2011-08-16 00:45:29 | 生きること

終戦後66年を経て、今年も8月15日が巡ってきた。
例年と違うのは3.11が起きて離れた地に生息している僕でも心が定まらぬことと、昨年末、弟を癌で亡くして8月15日を語りあう仲間が一人欠けたことだ。語り合うと言っても66年間何をして来たのでもなく、ただ心の中で語り合って来たのだと居なくなって気がついた。ふと思い立っても、あの声を二度と聞くことはできないのだと。
12日、明大生田校舎建築学科の製図室にDOCOMOMO100選展のパネルを搬入して、一日かかって状態の確認をした。
翌13日、情けないことに疲労困憊して起き上がれず眠りこけてしまったが、夜になって気になっていた「最後の絆」(フジTV)を見始めたら眼が離せなくなった。沖縄を舞台にした兄弟の実話に人は皆、戦争と言う物語を背負っているのだと眼が霞む。

明け方ふと眼が開いた。カラスや雀、そのほか沢山の鳥のさえずりが聴こえる。このさえずりは6時頃になると機と(はたと)聞こえなくなるのだ。そしてしばらくすると、子供たちの声がどこからともなく聴こえてくる。でも今朝はシーンとしている。思い立って玄関に新聞を取り入った。休刊日なのを失念していた。この終戦の日に休刊するプレス界に怒りを覚える。8月15日を忘れるなと言うジャーナリズムに終戦の日の朝から危うさを感じる。

父は終戦の2ヶ月前、6月17日フィリピンのルソン島、モンタルバンで戦死した。僕は5歳、弟は3歳で妹は1歳だった。僕は8月15日のことを覚えていないが、育児日誌を基に4年前にここに連載した「生きること」(14)を開いてみた。

終戦の日。母はこう書く。
『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったりしたが、今日で終戦である。なんだか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』柏は疎開先だ。

そして昭和21年の元旦。
『元気でおみかんやお餅を沢山食べて、お正月を迎へました。
昭和二十一年一月一日。悲しい日。長崎からお父ちゃま戦死の電報が来た日。
どうかまちがいであります様に。
紘一郎、かあいそうに、かあいそうにお父様のない子になってしまった。』

ところで今日はお盆でもあった。
夏休みの娘は一人旅。昼になって蕎麦でも食いにいこうかと妻君を誘う。旨い蕎麦屋の名前がいくつか挙がったが御殿場の「砂場」を思い出した。そうだお墓まいりをして「砂場」へ行こう。お墓はフジ霊園である。

墓石の前で父と母を思い、「健やかに」と念じたが、亡くなった二人に健やかとは変だと苦笑、妻君の母親は、迎え火、送り火をやっていた。もしかしたら父とは母ここには居なくてウチ(家)にきているのかと、まあいいじゃない、志は届くよといい加減な僕たちだ。

「砂場」は、そうだなあ!旨いのは無論だが店の感じがいいのだ。僕たちの感性に合う。
張り込んで、妻君は天婦羅蕎麦、僕は鴨だ。

帰ってから「人間の条件」(1)を見る。若き日、読み込んだ五味川純平の人生を懸けた著作の映画化だ。懐かしい俳優のシビアな演技に言葉もなく見入る。
TVを点けっぱなしにしていたら、沖縄の娘・黒木メイサがスペインでフラメンコにトライしはじめた。いい女だ。
教師に驚く。心で踊れと言う。そして最後に泣かせることをいう。君は凄い。練習させた僕は踊っていたよ!

(写真 砂場の暖簾)

モダンムーブメントと風土、そして書生っぽいという一言に!

2011-08-11 15:18:16 | 建築・風景

思わずニヤリとしたのは、鈴木博之教授から来たメールだ。
「署名文だから主観的であってもいいし、書生っぽい文章が魅力的」とある。「主観的というのは津山のことですけどね」と追記がある。ああ!あのことかとちょっと意外だったが、鈴木先生も少々こだわっていたのかと妙に納得してしまう。
岡山県津山市の「津山文化センター」を見てきて興奮し、DOCOMOMOの選定会議で撮ってきた写真を皆に見せながらこの建築の魅力を力説したのだった。どうですか?と問いかけると、いい建築ですよね!とやや苦笑気味に(と今になって思う)発言されたのだ。

署名文とあるのは、UIA2011 TOKYO大会の関連行事として行う「DOCOMOMO Japan150選展」のキュレータとしての趣旨文「風土とモダンムーブメント建築」と題した一文で、事例として、札幌の`上遠野自邸`や`京都会館`と共に取り上げた津山城址と呼応した津山文化センターを指しているのだ。

なるほど、鋭いと思ったのは「書生っぽいと」言う一言だ。この6文字で僕の全てが言い当てられている。いくつになっても書生っぽい。どうしようもないと思うことのある僕だが、「良きに連れ悪しきにつれ!と一言添えてみたい。

この150選展では海外から来日する建築家に、日本のモダンムーブメントをわかりやすく紹介するために地域別構成を提案した。地域性でということにした途端「風土」という言葉が浮かび上がった。同時に,DOCOMOMOの「MOMO」、モダニズムではなく「モダンムーブメント」という言い方を試みることにした。展覧会の実行委員会WGの会議で意見が飛び交う。中堅の建築史の研究者は厳しい。

なんだか付け焼刃的だが和辻哲郎の「風土」を読み始める。
この著作は戦前のものなのだがなかなか興味深い。そして鈴木秀夫の「風土の構造」を書店に注文した。

日本を十二、三か所に分けた地域を、風土を見つめながら「リード文」を書き始める。これを参照しながら数編をWGメンバーにも書いてもらうのだ。
北海道、四国、沖縄と書いてきて、その地と深い関係を持つ建築家や人類学の研究者にどうか?と問う。そして、そうか!と学ぶことが多いのだ。
まあわれながら「書生っぽい」と思う残暑、いや酷暑の中の一齣ではある。


言い知れぬ感銘を受けた小樽の北海製罐工場

2011-08-01 20:24:25 | 建築・風景

プレスカフェの前の小樽運河の向かい側に、鉄筋コンクリートによる柱と梁の間にスチールサッシュの組み込まれた「北海製罐小樽工場」が建っている。
外壁改修工事のために足場がかかってシートで覆われているが(2011.7.6現在)、この工場は1931年(昭和6年)に建てられ、1990年に小樽市の「都市景観賞」を受賞した文化財でもあるのだ。なんせ80年を経て現役で稼働しているということがすごい。

プレスカフェのターマスからも、何となくノスタルジックになるんだよね!と聞いていたのだが、工場の入り口にある1911年製の振り子のついたタイムレコーダーと連動して、朝8時と正午、4時半に屋上にある赤いサイレンから始業、終業を知らせる「ポー」というサイレンが鳴り、その音が小樽の名物になっているのだと聞くと、妙に`ほろり`とさせられるのだ。

昨年moroさんに、来年は工場を見学したいね!と話をしていたら、大学院研究生だという肩書で見学許可を得てくれた。建物目いっぱいに機械が稼働していてスペースも少ないし、企業秘のところもあってなかなか見学は難しいようだ。

工場の裏側に、事務棟があってそれもまた1931年に建った建物、入り口の扉(これぞドアでなく扉だ)の太い真鍮の押し棒と、鋲を打って縁取りされた下部にはめ込まれた真鍮版が拭き込まれ、鏡のように周辺が映しこまれている様を見て度肝を抜かれた。

案内をしてくださる業務係りの方に、応接室に通される。工場内の建築部分といっても、柱と梁しかないのにと怪訝な面持ちだが、まずこの事務棟の鉄のサッシュや古色のある階段に惹かれている様に、案内してくれる方の好奇心が湧いてくるのが伺えて、僕たちが面白くなってくる。
建物もそうだけど、製缶のシステムや、稼働する機械の様にも興味があるのだと言った。

実際どんな工場に行っても好奇心が刺激される。たとえばタイル工場とか石の加工工場とか、空調機の製作工場、キュービクル(ビルに設置する変電施設)の検査など、かつて現役バリバリの時は、よく出かけたものだ。どこに行っても物をつくる面白さがある。工場内がピチピチしているのだ。

一枚の印刷された平板から、次々と立体化されてつくりだされる缶詰の缶に魅了される。面白がっているmoroさんと僕に、案内人も笑顔になる。驚いたのは、創業時のネームが打たれた機械が現役として稼働していることだ。溜息が出てきた。

6階建のこの工場は、機械の関係で上階に行くほど階高が高くなるという不思議な構成になっている。当時は東洋一の製缶工場といわれたというが、敷地内に三つの工場があって、今でも日本の缶詰製缶工場としての大きなシェアを占めているという。
事務所棟の側面に、開かずの扉がある。かつて天皇陛下が視察に来られ、この扉から応接室にお入りになったのだという。工場の入り口の脇に「昭和11年昭和10月9日、行幸記念碑」と刻まれた石碑が誇らしげに建っている。右書きだ。

ターマスに行ってきたよと言ったら、心底うらやましそうな顔をされた。それもまた嬉し!外壁が淡いピンクになりそうと言ったらピンクになるのかと困ったような顔になった。
この本工場に1967年に増築された印刷工場が連なっていて、小樽港につながる小樽運河を挟んで第三倉庫がある。建築家の僕たちの心が騒がせられる倉庫は、なんと本工場の3年前に建てられて、これも小樽市景観賞を得た文化財なのだ。

いただいたパンフレットにはこう書かれている。
「北海製罐工場は、大正10年(1921年)の創業以来、小樽の街と共に歩み、育まれてきました。小樽工場は北海製罐の原点です」

工場と倉庫という建物が、企業の誇りであり、小樽の歴史を刻んでいることに、この一文を書きながら僕は言い知れぬ感銘を受けている。

<写真 左 第三倉庫 右 事務所棟入り口の扉>