日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

アスプルンドの建築 秘められていた北欧モダニズムの世界

2005-08-25 21:21:42 | 建築・風景

北欧の巨匠、建築家エーリック・グンナール・アスプルンドの作品集「E.G.アルプンドの建築」出版記念写真展が乃木坂の、ギャラリー「間」で開かれている。

8月22日の夜、出版を記念するパーティがギャラ間の中庭で行われた。何もお手伝いできなかったが、僕も発起人として名を連ねさせてもらったので参加した。アクアビットという40度もある、じゃがいもから作られるアスプルンドの生まれたスエーデンの蒸留酒が振舞われ、写真家吉村行雄さんの親しい友人の奏でる、民族楽器ニッケルハルパの素朴な演奏を聴きながら、吉村さんとアスプルンド論を書いた川島洋一さんを囲んで談笑するという、これぞ吉村ワールドといってもいい和やかで,豊かなパーティになった。
展覧会は、モノクロームで吉村さんがプリントした静かでありながらも人の気配が漂う、吉村さんとアスプルンドの共作といっていいような光と影を見事に捕らえた作品群。だが残念なことにこの展示は8月27日で終わってしまう。

パーティでは建築家の内藤廣さんが「竹中工務店は懐の深い、いい会社ですね!」と、毎年長期休暇をとって撮影に出かける吉村さんをサポートした会社を冷やかして、会場の笑いを誘っていたが、吉村さんは竹中の設計部長を務める、この世界では知られた優れた建築写真家なのだ。
僕とは, JIAの中に「建築家写真倶楽部」という部会を作ったときにお誘いしてから益々親しくなった。一言で言えば、人柄にほれたのだ。

<E.G.アルプンドの建築>
其れはともかく是非お伝えしたいのは、TOTO出版から上程された「E.G.アルプンドの建築」の素晴らしさである。帯には「秘められていた北欧モダニズムの世界」とある。
北欧の建築家というとすぐにA・アールトを思い浮かべるが、アスプルンドは、ミースやコルビジュエとほとんど違わない1885年生まれ、1898年生まれのアールトよりほぼ一回り先輩で、後に親交を深めたが、アールトがアスプルンドの門をたたいたこともあったという。

この本の写真は、モダニズム建築では数少ない世界遺産(勿論スエーデンのDOCOMOMO20選にも選定されている)にもなって大勢の人に知られた「森の礼拝堂/森の墓地」の、雪を抱いた樅の木の中に建つ礼拝堂でスタートする。二本のオーダーの上に、雪をかぶって三角に見える白い屋根の礼拝堂の奥に、ほんのりと赤い灯火の見えるその場の空気感まで感じられる、印象深い写真だ。

解説、アスプルンド論を書いた川島洋一さんは、福井工業大学建設工学科助教授を務める、気鋭の建築歴史の研究者。しかし冒頭に書いた「アスプルンド 生と建築」は、どことなく詩情に富んだ心温まる論考である。アスプルンドがそうさせるのか、川島さんの懐の深さなのか!
数々のエピソードを取り上げながら、北欧のモダニズムの世界に僕たちを引っ張り込む筆力に驚かされる.
一枚の小さな日本建築の写真が掲載されているが、建築の設計に専念し、書き記すことはなく視ればわかるといったアスプルンドの数少ない講演で「日本の建築を念頭においている」と述べたことに触れている。これも驚くことだ。

吉村さんの何度視ても建築家魂を触発される写真をめくりながら、アダムとイブ像のある「スカンディア・シネマ」や、斜光の入る(多分)円形窓のある「カール・ヨーハン学校」に限りなく引き込まれていく僕自身に驚いている。
僕のモダニズム論が揺れ動き始めてしまった。

驚くばかりでしょうがないなあ!とも思うが、ふと思い起こしたのは、1昨年吉村さんが企画して建築写真家倶楽部に呼びかけた「サマーハウス(夏の家)」に泊まるという、アスプルンドツアー。メンバーが二人も行ったのに僕は自分の写真の個展の準備もあっていけなかった。こうなると痛恨の出来事。サマーハウスに泊まれるのも、吉村さんとアスプルンドのご子息との深いお付き合いの賜物、撮りたいという強い思いもあるのだろうが、これ全て吉村さんの人柄のなせる業だとしか言いようがない。 

論より証拠。是非この本を手にとって見ていただきたい。勿論買ってください。4000円プラス税です。
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アナログ人間とブログ・匿名と署名のこと

2005-08-21 21:11:34 | 日々・音楽・BOOK
自他ともにアナログ人間と認じている僕が、ブログを始めたというので、驚いてメールをくれた友人がいる。確かに始めてみると戸惑うことが沢山ある。ブログには、どうやら暗黙のルールというかマナーがあるようだし、正しく`ブログの世界`といってもいいような拡がりのあることにも驚いている。DOCOMOMOに関するメッセージが若い人によって為されているのも嬉しい発見だ。

実は娘からトラックバックしてあげるといいよ!とやり方を書いたメールが来て、よしと思って友人のブログにトラックバックしたら、なぜか僕の思った文章とは違うのが行ってしまった。女房に「トラックバックのやり方を教えて」と頼んだら、ブログくらい自分でやりなさい!とぴしゃりといわれてしまった。女房は僕のHPを創ってくれているのだ。
仕方がないのでその友人に、いやあ申し訳ないと電話で謝ったら、なんともありがたいことに、更に詳しいやり方を書いたメールを送ってくれ、気にすることないよ、すぐに慣れるからといってくれた。

こういうつまらないことを書くのは、僕のブログはHPに併設(ブログのBOOK MARK 兼松設計を開いてみてください)させているので、言い方が良くないかも知れないが、僕の「面」は割れている。そしてそれを踏まえて主として建築のことを伝えて行きたいと思っているので、些少の粗相があるかもしれないけれどと、初めっから謝っておきたいのだ。しばらくはご寛容のほどを・・・・・

<匿名と署名>
ところでこうやって書いてきて、匿名で書くことと、署名入りで書くことの意味を考えてしまう。建築の保存の問題は微妙で、直接的な利害関係それも企業論理だけでなく、それに関わる建築の所有者、住民や地域性、法の仕組みが絡むし、立場や個人として論じるか、企業人或いは行政人として論じるかによっても見解の違いが生じるのではないかと思う。また微妙な言い方にするか、言い切るか、その場合も誰に伝えたいかによっても変わってしまう。

僕はすべからく「本音」で語り、投げかけたいとは思っているが、なかなかそうはいかない。公開し難い情報のある場合もあるし、それを伝えないと本質が見えないこともあるが、その見極めはとても大切で、多少の経験を積み重ねてきたのでその功罪は身にしみている。だから悩むのだけど・・・・
といって今の僕は匿名で書こうとは思わない。書くことに戸惑い、他人(ひと)から指摘されて成る程と思って考えが変わってしまうこともあるが(困ったことによくあるのだ!)、それでも建築に対する想いは変わらないから。
僕は匿名で書く意味がないとは思わない。本当に少ないブログでの体験だが、匿名だからといって、少なくとも建築や都市に関する論考は、僕の考え方とは違っていても概して真剣で考えさせられることが多い。同時に気楽に思い付きを言うことの面白さやその役割も解る。匿名だからこそ書けるし、言えることの大切さも感じている。

これから多分様々な視点から繰り返し書くことになると思うが、僕の興味の対象は「人間」そのものである。人間の不可思議さに対する好奇心に尽きる。僕は建築家だから当然のことながら建築が好きで好きでたまらないが、それも建築は人の軌跡を具現化しているからだと思っている。
設計した建築家だけでなく、工事に関わった大勢の職人やメーカーやその人々を支えた家族や企業の仕組み、建てることになった経緯やその時代や社会構造、技術、思惑、その全ては人の為せる術のようなものと思う。更に使う人・使った人の気持ちを考えることを検証することも大切だ。
そういうスタンスで、僕は建築を創っているのだが・・・

さてもう一つ、建築の存在を考えるときにとても大切だと考えていること、考えさせられていることを書いておきたい。日本統治時代に日本の建築家が建てた、韓国の一部で負の遺産と言われている建築の持っている重い課題だが、それも人の軌跡といえるのだと思う。難しい問題だが、建築が残っていないことにはそれも検証できなくなる。残っていることによって、韓国の人との本当の交流ができる。
そしてそれは創る事は何かという命題に繋がる。
そこから僕の建築に関する論考がスタートしている。

これをブログで伝えていくのがいいことか、HPのほうがいいのか、他のメディアでないとうまく伝えられないのかなど、試行錯誤をしながら様々な試みにトライしてみたい。
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原爆堂 白井晟一そしてイサム・ノグチ

2005-08-16 13:38:01 | 建築・風景
丸木美術館の存続が危ういと美術館が支援を求めている記事が、8月1日の朝日新聞で報道された。
この美術館は、丸木位里・赤松俊子夫妻の描いた「原爆の図」を展示する美術館である。

僕たち建築家、少なくとも僕の世代は、`原爆の図`というと即座に白井晟一による『原爆記念堂』(1954発表)計画を思い起こす。実現しないこの記念堂は、丸木夫妻の原爆の図を浄財を集めて収録し美術館として展示する意図を持ったものだったが、特に計画案と共に発表されたパースは目に焼きついた。更に翌55年、募金のために英文で書かれたパンフレットに記載されたTEMPULE ATOMIC CATASTOROPHSと描かれた鉛筆による精密なパースは、よりシンボル化され、僕の(僕たちの)建築感を揺さぶるものだった。
戦時中は体制に協賛し戦後一転して民主主義と平和を唱える建築家に疑念を持ち、敷地など具体条件のない中、難しい言い方だがアプリオリ(論理的に先立つ認識や概念)な可能性だけを追い詰めていく、結果としては造形的なピュリティが何より大切だという考えに至った白井晟一が顕したのが原爆堂だった。(※このあたりの論考については白井晟一研究Ⅱの白井磨氏のイロニーⅡ参照)

若き僕はこの白井晟一の投げかけた極めて根元的で哲学的な命題に、自分の生き方を突きつけられているような気がし、それがアプリオリと言いながらも、それを秘めた「親和銀行」などの一連の実作の建築として発表されていくのを畏怖の目で見ながら、だんだん白井晟一に傾倒していった。白井晟一が高村光太郎賞を受賞したことも其れに拍車をかけたように思う。

ところが時代はモダニズム全盛で、大学での「桂」を称え「日光」には価値観を見出さないという教育に大きな影響を受け、むしろそれに引っ張られて建築作業に関わるようになったのだ。モダニズムの課題にいやもおうもなく対峙している今の僕にとって、当時神格化した白井晟一という存在は、僕の軌跡やこれからの生き方を考える上で、抜き差し難いものを覚える。

NHK日曜美術館で取り上げた、イサム・ノグチの描いた、やはり実現しなかった広島のピースセンター(現呼称)の「原爆慰霊碑」は、国(イサム・ノグチの国籍問題)とは何かを問われる課題も秘めているが、この慰霊碑にも造形的なピュリティ問題が内在していて、原爆記念堂計画と共に目をそらすことができない。なぜか。僕の実家が長崎にあり、その瓦にケロイドの跡があることは、それらを超えて僕にとってはやはり忘れがたいのだ。

今年も8月15日を迎えた。そして秋が来る。
考えるにこの白井晟一による「原爆記念堂」計画は、過去のものでなく今の僕たちに突きつける課題を秘めているような気がする。
ともあれ「原爆の図」をなくしてはいけないし、若い世代に引き継いでいかなくてはいけない。暑い8月は様々な想いを秘めて過ぎていく。

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建築文化って!なんだ

2005-08-12 10:57:57 | 建築・風景
トラックバックしてくれたSKIYOSEさんとOYABINさんのコメントは、結構重い課題を提示している。一見素朴に「なぜ」と問うSさんは、全てを消費物としてしか考えないのでは文化の蓄積ができないと慨嘆している。

僕は最近建築は、どうあれ経済行為を抜きにして論考できないと思いはじめている、というよりは,それ抜きにして論陣を張ると馬鹿を見ると少々開き直っているが、それでも腹に据えかねることがある。

その格好の事例が、東京と大阪の中央郵便局。
この建築は郵政の建築を率いた吉田鉄郎の代表作だが、公社化がなされ、さらに民営化をめぐってついに衆議院解散にまでになった争点を内在している。
日本の文化人、良識を代表していると自認( していないか?)しているI・N氏が、不良資産である郵政施設を取り壊して高層化すべし、その筆頭が東京と大阪駅前に建つ二つの中央郵便局であると、とうとうと自慢げにTVで話しているのを見ると、がっかりする。

郵政の建築はクオーリティが高く、他の建築の創り方に大きな影響を与え、日本の建築文化を率いてきた。確かに中央郵便局として機能はなくなったが、丸の内と梅田の風景として欠かせない文化遺産なのに・・・

実はそれに関連して気になる発言があった。
新しく就任した三菱地所の社長が、個人としての見解だが、と断ってのことだが、「東京中央郵便局が再開発されれば東京駅前が一段落して、とてもいい形になると思う」とコメントしたと7月7日、建設通信で報道された。これはどうも確信犯的な発言のような気がする。
では歴史的に評価の高い八重洲ビルや、社運をかけて建てた三菱商事ビルなどを取り壊して(建築文化を)復元しようという「三菱一号館」復元の理論構築はどうなるのだろうか。所詮建築は経済行為、消費物だといっていることにはならないだろうか。建築文化とは?と問いかけたい。

Oさんトラックバックの、改修、改築する場合の、その建築を設計した設計者とのコンタクトの問題は、更に現実的な、切実な問題だと、新たな課題を突きつけられたような気がする。
八王子大学セミナーハウスはこれからどうなるのだろうと、正直不安になるが、Oさんが事例としてあげた旧NCRビル。
外周のダブルスキンや2Fの光をコントロールする縦ルーバーなど、竣工時に高く評価された仕掛け!は厳しい現法規の中で新しい技術を駆使して継承したことを評価してDOCOMOMO100選に選定した。
しかし指摘されているように、ホールの階段はなくなったし、見学をしたときに感嘆したVIP階の木で造られた味わいのあるパーティションも取り壊された。
この建築がどのような役割を持ち、何を継承すべきかをこの建築の設計者を交えて検証すべきだと思うが、残念ながらコンタクトがなされなかったという。
この建築はコンペによって吉村順三がやることになったが、提出前日の夜、吉村さんから塔屋の向きを変える、ということはエレベーターの向きを変える大きな設計変更指示がされ、図面変更だけでなく模型の作り変えも必死で徹夜でしたと、設計を担当した奥村さんから聞いたことがある。そのこだわりが名建築を生んだのだが、それを聞かずして手をいれられるものだろうか。

課題はこの改修を担当した事務所が、日本をリードしていくべき大手事務所で、建築家集団であるJIAでも大きな役割を担っていることだ。改修設計に当ってはクライアントとの間でさまざまなやり取りはあるものだが、建築家として先達に敬意を持つことの大切さをクライアントに伝え、其れを具現化するのも建築家の大きな役割ではないだろうか。

村野藤吾の旧千代田生命本社を目黒区役所にコンバージョンしたときに、担当したI事務所は微妙な階段手すりを、村野さんのご子息と相談してディテールを検討し見事に再生した。こういう事例もある。それを一つ一つ積み重ねていきたいものだ。

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あーあ!八王子セミナーハウス宿泊棟の一部が解体 建て替え

2005-08-09 11:17:53 | 建築・風景

友人の建築家鰺坂さんから、八王子大学セミナーハウス宿泊棟の一部が取り壊わされ、Dハウス工業によって鉄筋コンクリートで改築されるという知らせがあった。許可を得たので写真を掲載させてもらうが、第7ゾーンの近くだというこの写真にショックを受けた。こういう情報が入るたびに落ち込んでいては身が持たないと思うが、話を聞いていくうちにいつものことながらなんとかならないものかと腹が立ってきた。

野猿街道から少し入った緑の豊かな丘陵地に、複数の大学が共同で利用するための大学研修宿泊施設として、地形に対応した一連の建築が建っている。荒々しい打ち放しコンクリートの逆四角錘形(楔を大地に打ち込んだとよく言われる)の本館やピラミッド型のセミナーハウス、或いは開放的な講堂は良く知られているが、それらとともに、コンクリートのスラブに合板で組み立てられた宿泊棟が扇型にいくつものブロックに編成されて散在し、集落を構成している風景を見ると、設計者の吉阪隆正(U研究室)が、若き学生が集まって交流するための空間を、自然との調和の中に見出した建築思想を実感できる。

この体感は写真では得られない。
8年前この施設を使ってJIAの保存大会を行ったときに、宿泊した。僕は本館に泊まったが、多くの参加者がこの合板の宿舎に泊まった。
このときも既にかなり痛んでいて、手を入れていかなくては存続が難しいのではないかと思ったが、今回の計画はどうもU研との相談もされていないようだ。

この建築群は、DOCOMOMO20選(今は100選)に選定したが、これをどう捉えるか委員会でかなりの論議がなされたことを覚えている。いわゆるピュアなモダニズムのカテゴリーとしては捉えきれない、言い方を変えればはみ出してしまうのだが、日本の近代化を考えていく中で抜きさしならない建築であることは確かだ。
僕のHP,モダニズム建築のへ旅、長崎の海星高校に記載したように、まさしく「吉阪建築の素性は隠しようがない。不思議に満ちた、遊び心と優しさに溢れる建築」そのものなのに。
あーあ!とため息が出る。
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コンドルと銀河館

2005-08-04 13:28:22 | 建築・風景

ジョサイア・コンドルは、1877年(明治10年)政府の招聘を受けて来日した。なんと弱冠25歳。
ロンドン大学で建築と造形美術を学んだものの、設計の実績はなかった。
しかし彼は明治政府お雇い建築家の一人だといわれるように、数多くの建築を創るとともに、工部大学校(今の東京大学)造家学科教授として東京駅をつくった辰野金吾や、迎賓館・赤坂離宮(当初は東宮御所)の片山東熊などを育て、日本の近代化に大きな役割を果たした。

そのコンドルが設計した上野の東京帝室博物館の部材の一部を利用して建てられた建築が、レストラン「銀河館」として再生され、神奈川県湯河原の吉浜海岸(最寄り駅JR真鶴)小道地蔵堂のとなりに建っている。
この建築は、博物館解体の際、売りに出された材木を使って昭和元年に建てたという。改修を担った建築家藤木隆男さんによると、棟札がなくそれらの確証は得られなかったが、階段の親柱、中柱は「ジョサイア・コンドル図面集」の階段詳細と酷似、また建具枠や扉、金物なども当時の和洋折衷の保養所として精緻、多数改造・修理の痕跡が見られ、帝室博物館の建築部位の再利用と推定可能だという。

7月29日、熱海の委員会の後、鈴木博之先生や名古屋大の西澤さんなど数名で訪れた。首都大学の桐敷先生や思いがけず(お互いにどうしてここにいるの?)横浜国大の吉田鋼市先生も加わり、藤木さんに案内されながら内部を見学した。
サラセラニック様式の階段、といわれても良くわからないもののなんとも可愛らしく、思わず手で撫でたくなってしまうが、周囲の窓や扉ともうまく取り合っていていい感じだ。
この建築は木造の2階建て、こじんまりしているし外部は淡白、内部空間がこんなに豊かだとは一見しただけでは窺えない。そこがなんとも好ましいが、何より素晴らしいのは、この建築の検証が確立されるまで「モノとしての建築」をできるだけ保存しつつ、新しい活用の一新されたイメージを現出させる試みに徹した、という建築家藤木隆男さんのスタンスである。
つくりたがり屋の多い建築家の中にあって、其の見識に打たれる。

ワインをあけ、オーナー今田さんの心尽くしの料理を堪能しながら、話はコンドルからなぜか伊東忠太にとび、取りとめもなく建築談義に話が弾み、至福のひと時であった。

それにしても歴史学者には周知らしい帝室博物館が、コンドルが創った事には今の今まで気がつかず(というよりそういう建築が嘗てあったことを知らなかった)上野の博物館(其れを引き継いだ!)というとコンペで渡辺仁が帝冠様式で設計し、伊東忠太が屋根にそりをつけさせ、其のコンペには前川國男が落選を承知の上でモダニズム形態?で応募してモダニズム建築の歴史の上では画期的な出来事だと記録され、しかし其のコンペは、実はプランができていてファサードだけをデザインさせるという歴史をも内在するものだったというような様々なことを思いおこさせられる。
銀河館でそういう能書きを言い合いながら食事を楽しむのも一興かもしれない。其れが今回の仕事は「夢の追跡」だったと藤木さんの言う「夢」を僕たちも共有できる楽しさのような気がする。



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