日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

<素描 建築の人(4)> 建築家山本勝巳と画商にして文筆家・洲之内徹

2009-03-29 21:36:11 | 素描 建築の人

「私は東京美術学校(今の芸大)の建築科の入学試験を受けに松山から上京してきて、松山中学の先輩であり、私がうまく合格すれば美校の先輩になるはずの山本勝巳氏の、大久保百人町の下宿に入れてもらった」という一節に、ドキッとした。
山本勝巳氏は、密かに僕が建築の師と思っている建築家なのだ。書いたのは「洲之内徹」。
画商でもあり文筆家でもあり、美術評論家と言ってもいい`洲之内徹`が建築家を志したのは知ってはいた。しかし山本勝巳先生の後輩で知古だったとは思わなかった。

今年の仕事初めのとき、ふと僕の部屋の本棚を見たら箱に入った「気まぐれ美術館」(新潮社刊:昭和53年に発行されたが僕が持っているのは十一刷、平成六年・1994年刊)が目に付いた。まとめて読もうと思って15年ほど前に購入したのだ。
芸術新潮に連載されていたとき読み飛ばしていたこのエッセイ(という言い方よりやはり美術随想といった方がいいか)の頁をめくった途端のめり込んだ。15年歳とって僕は`洲之内徹`の真髄を読み取ることができるようになったのだ。一気に読み上げた。
どのページをめくっても、胸がざわざわとする感動に身が焦がれるのだが、山本先生が登場するのは「ある青春伝説」。
「閑々亭肖像」を描いた、洲之内が「鶴さん」と呼ぶ画家重松鶴之助へのオマージュで無論それにも魅せられるが、思いがけずエッセイに登場する若き日の山本勝巳先生の姿を垣間見て、一瞬にして47年前の先生の姿が浮かび上がった。

学生時代の昼間働いた叔父のつくった建築会社に、大学を出て正式に就職して初めて出た建築現場は、青山に建てた劇団民芸の稽古場。設計は信建築事務所。その代表が美校で岡田信一郎に学んだ山本勝巳先生だったのだ。
この現場での1年が、今の僕の建築に対する思いの原点になったような気がする。

稽古場建築の打ち合わせを仕切ったのは、民芸では事務方の片谷大陸代表だったが、実質的には重鎮の宇野重吉だった。宇野を初めとして、滝沢修、細川ちか子、清水将夫のいる新劇世界には好奇心を触発されたが、時折現場にこられた山本先生への宇野重吉の信頼と憧憬に、僕は初めて建築家の存在を認識したのだと思う。

施工図を担当して信事務所に行き、担当者との打ち合わせが終わると「兼松君」と呼ばれて僕は所長の机の前の椅子に腰掛けて山本先生の話を聞いた。机の上には製図の道具はなく、日本の社寺の写真集が積んであった。頁をめっくって見せていただいた岩船寺の蝉の金物を撮った土門拳の、建築を捉える視点を教えてくださり、うちの`学`(ご長男)がねえ、水野久美と一緒になるというんだけど可愛い子でねえと、学校を出たばかりの僕に嬉しそうに微笑む姿に、魅せられないはずはない。

なぜ僕に、と思うが現場事務所での些細な出来事を思い出すのだ。「君、こんな本を読んでるの?」と先生は僕の机を覗き込んだ。読みかけていたモンテーニュの「エセー(随想録)」があったのだ。はっきりとは覚えていないが、エセーへの想いを述べた生意気だった僕に好奇心を持ってくださったのかもしれないが、早稲田で村野藤吾と同級生だった僕の叔父の存在も大きかったのだと思う。
僕は穏やかで懐の深い山本勝巳像と建築家という存在を重ねて見る事になった。

この建築は、半割のレンガとコンクリートの打ち放し、それにタモの柾ベニヤを組み合わせた手で触れたくなるような材質感のある建築で、そのディテールは僕の頭の中に叩き込まれている。施工図を担当したのは大きいのだ。

昨年、山本勝巳先生の原図が、建築家平倉直子さんの仲介で、JIA・KITアーカイヴスに収録された。平倉さんのご主人が、先生の御次男で俳優の`圭`さんと親しいのが縁とのこと。平倉さんによるとその圭さんが言った。「僕は兼松さんをよく覚えていますよ」と。はて?僕はいつ圭さんに会ったのだろう!

長々と書いてきたが、肝心なことを書くのが遅くなってしまった。`洲之内 徹`の「ある青春伝説」になぜ建築家山本勝巳が登場したのか。

洲之内さんが「閑々亭肖像」を視て魅かれたのが下宿をしていた山本先生の部屋だったのだ。なぜ「閑々亭肖像」が山本先生の部屋にあったのか。山本さんと鶴さんのお兄さんが中学時代の同級生だったからだと書く。
洲之内さんは建築家にならず、山本先生とは疎遠になったが「閑々亭肖像」が忘れられず、氏の青春の象徴のような存在になっていた。
洲之内さんはその絵との対面を淡々と書く。『見たい絵は山本さんの手元にあると判って、翌日、私は浜田山の山本さんの家を訪ね、まる45年ぶりに「閑々亭肖像」と対面したのだった。』

45年前というのは昭和5年(1930年)。山本勝巳氏は25歳、僕の生まれる10年前の出来事だ。僕が学校を出て劇団民芸の稽古場の現場で会ったときの先生は57歳だったことになる。
今の僕より一回りも若かった。年月の計算をしていくと僕の無才ぶりに、人の器は歳では計れないと思ったりする。
1962年、東京オリンピックの2年前、青山通りが拡幅され世は建設ブームに沸いていた。そういう時代の、僕にとっては建築人生の節目になった一齣だ。

ちなみに劇団民芸の稽古場が竣工した後、僕は現場所長を担った内田春一さんという技術者に気に入られてふたたび現場員として引っ張られ、箱根強羅のやはり山本勝巳先生の作品、ホテル法華クラブの現場をやった。柱と梁をコンクリート打ち放しで構成して和を見据えた典型的な日本のモダニズム建築だった。先生は民芸稽古場の仕事のやり方を見て内田さんを信頼したのだ。
山本先生も洲之内さんも亡くなって久しいが、その劇団民芸の稽古場も、箱根のホテルも取り壊されて今はない。










祝福! 札幌建築デザイン専門学校3年制卒業の諸君へ・そしてWBC

2009-03-25 18:43:48 | 建築・風景

原監督のお前さんたちは強い侍になった、という一言が生まれ、無心になんてなれない、考えに考えたが、出たので(ヒットが)一つの壁を越えたとあのイチローが述べたWBC。
僕は工事をやっている工場増築工事の鉄骨原寸検査に行く途中の列車の中で、同行した所員と携帯電話テレビを見ながら興奮していた。座席に座っている乗客の大半が携帯電話に見入っている。こういう時代になったのだと驚きながらも、やはり嬉しさがこみ上げてくる。日本人だから。

彼らはプロだ。それも時代をつくり出す秀でた若者集団だが、彼らを生み出した大勢の野球を愛する人々の時を刻んできた歴史があってのことだ。
君たちがいて建築界がある。飛躍しているとは思わない。仕事というのはそういうものだと僕は考えている。厳しいが、だから喜びもあるのだ。勝ち負けはともかく。

僕は今、札幌建築デザイン専門学校の諸澤先生が送ってくれた「2008年度3年制卒業設計作品集」をめくりながら先程のWBCを思いだしてこの一文を書き始めている。同時にふと僕が若かりし時の学校を卒業し社会にでた時はどうだったのかと目を閉じて考え込んだりしている。
最終ページに2年次と3年次の設計課題講評時の、記念写真が掲載されている。
学生諸君が僕を囲んでいて、Vサインをしている女子学生がいたりして、やはりなんとなく面映い。若いということはいいものだと感慨も覚えるが、いつまでも若いはずの我が姿を見て、まいったなあと思ったりもしているのだ。本当だよ!

ここ数年秋になると北海道を訪れるのが楽しみになった。
釧路や旭川、稚内、それに小樽などを諸澤さんに案内してもらって建築を視るのも嬉しいが、何より若き君達との交流が楽しい。
2年次には札幌市内の街角を設定した設計課題の講評、3年次はDOCOMOMO選定建築を学生が選び、これからの時代に存続・継承する提案をするというユニークな設計課題である。

この課題設定が僕と諸澤さんとの交友の成果といってもいいかもしれない。そしてこの設定を受け入れるこの学校の懐の深さに驚いたりしている。本来なら指導の先生と共に共同講評というのが普通の仕組みだと思うのだが、僕の講評時間設定がほぼ半日にもなったし、いつの間にか僕一人で講評することにもなった。
時間をもらえると学生の作品の出来だけでなく、今の社会の様相や場所をどう捉えるか、3年次の課題ではこの建築を設計した著名建築家の問題意識について学生とやり取りができるとことになった。

若い校長先生が教室の隅にいて、僕と学生とのやり取りを興味深く聞いていたりする。ということで僕は、2年次の学生が1年経って建築への理解が深まり、CGなどを使った作品発表が見事に飛躍していて驚かされたりしている。同時に完成度の高いDOCOMOMO選定建築にトライさせられる学生の苦悩も感じ取れる。おいこれで大丈夫かと心配になったりもする、まとめきれない作品もあるが、それでもその学生独自の問題意識と感性に心が打たれたりするのだ。
どの作品を見ても、歳とった僕でも学ぶものがある。

手元に広げた君たちの作品集を見ながら感じていることがある。
学生は、若いといっても結構現実的だ。若いから現実的だとも言え、それは決して悪い事ではないが、講評時にしつこく述べたように、働くことは辛く厳しいので「癒される」空間や仕組みを考えることが大切だ、という問題意識には僕は組しないということだ。
僕は「癒される」と言う言葉自体が嫌いなのだ。癒される空間を(建築を)つくるのではなく、働く喜びや人が生きていく上で大切な`ものをつくる`感性を生み出す建築にトライして欲しいのだ。

その萌芽はある。今年は票が入らなかったそうだが、「せんだいメイディアテーク」で行われた卒業設計日本一決定戦にトライした、国京君の「活気と日常の狭間―グラデーション状の集合体」は建ててみたい建築だし、小田嶌君の「Activity~意識の中で」など、卒業設計としてこれでいいのかと思わせられるが、詩情があって心が魅かれる。きっと君はこの心根をいつまでも持ち続けるだろう。

設計の課題でもそうだが、卒業して世に出た社会や仕事場を君達はどう感じているのだろうか。厳しいがそれを新しい課題にトライする機会を得たと考えるのがいいとまで僕はいえないが、僕の若き日、そんなことまで考える余裕もなかった。よく生き延びてきたと思うことも多々ある。
でも貧しくてもテニスにトライしたり、高価な建築の本(例えばフランス語で書かれた読めもしないコルビュジエ全集など)を手に入れたり、写真にのめりこんだりするものだから、廻りからは余裕綽々と見られたりしたようだ。僕の現実を聞いたらきっと驚く。
そんな僕が君たちの前で話をすることになった。本当にいいのかと僕自身が驚いている。
設計課題を講評しながらそんなことを考えていたのだ。

一言付け加えておきたいのは、学生時代に培った友情の素晴らしさだ。何故か3年間同じ教室で同じことを学んだ。奇蹟みたいなものだ。頼りにしても良いと僕は断言できる。これは僕の経験則だ。そして恩師はさりげなくそういう君たちの行く末をいつまでも見ているだろう。

そのようなことが僕の諸君(ちょっとえらそうないい方だが)へのはなむけの言葉です。
いずれ極めて「直」な、諸澤先生を囲む会をやりましょうよ! <090325>

東京中央郵便局とソウル市庁舎~都市と映画の書割

2009-03-21 18:10:41 | 東京中央郵便局など(保存)

眼が覚め明洞のプレジデントホテルの窓から外を望むと、思いがけず眼の下にソウル市庁舎が見えた。3月14日の朝のことだ。
仮設塀に覆われて薄皮といいたくなる外壁が、内側に組まれた鉄骨に支えられて何とか建っている。中央のシンボリックな塔が残っているがその下部はシートに覆われていて状況確認はできない。聞いてはいたものの、広場に面した魅力的な庁舎に重機が入り、ほぼ全壊という様に愕然とした。瞬時に東京中央郵便局の一部解体の様が頭をよぎる。

DOCOMOMO Koreaの協力を得て、2泊3日で「韓国近代建築ツアー」を企画し、DOCOMOMO Japan26人のメンバー(未入会者もいる)によって韓国を訪れた。
ソウルを中心とした韓国建築の様は魅力的で、いつもの事ながら刺激的で感銘を受けた。同時に考えることも多い。

出発の前「中郵を重文にする会」の運営委員2名と、塩谷文部科学大臣、山内副大臣に重文指定への陳情を重ねた後文化庁に立ち寄り、外壁を主とした一部残した登録文化財では、この建築の価値を継承することにはならないと伝え、議員会館に立ち寄って国会の動きなどをきいた。
しかしその直後、鳩山邦夫総務大臣から登録文化財を受け入れる表明がなされ、政治の判断ではこうなるのだと懸念していた(予測していた)とはいえ、やはり気落ちした。

毎日新聞の記者から「東京中央郵便局」についてのヒヤリングを受け、「闘論」の相手は竹中平蔵氏になったとは聞いたものの、まだ氏の原稿がまとまっておらず、その様子によっては文面に多少手を入れるかもしれないとソウルでの僕の連絡先を聞かれて羽田から金浦へ向った。

出発前の十数日、中郵問題でのテレビや新聞の取材が殺到し時間調整に困惑した。気がかりなのは、日本橋の三菱倉庫も同じような検討がなされているがどう考えるかと東京新聞の記者が事務所に訪ねて来て詳細を知ったことだ。
都の特定街区制度を使って「歴史的建造物の`外観`を保存してランドマークとしての景観を維持し、町並み形成に寄与する」とされるその計画決定が4月にでも中央区でなされるというのだ。中郵とは共通項はあるものの、少し違う課題を突きつけられたような気がした。日本の都市は『今』、後世に対しての大きな課題に直面しているのだと震撼とする。

1年半前ソウルを訪れてDOCOMOMO Koreaの歴史学者に聞いたときには、この庁舎を残して背面を高層化するということだった。
この庁舎は登録文化財になっているが市長が変わり、取り壊しの検討がなされはじめた。驚いた文化財庁は文化財指定には時間が掛かるのでまず「仮指定」をしたという。詳しい経緯は聞き難かったが市は解体を強行した。国(文化財庁)と市の軋轢はネットを通じて知っていたがこの現状を眼で視ると、都市と建築の抱える複雑な課題とその難しさに考え込んでしまう。

この市庁舎は1925年から26年(大正14年―昭和元年)にかけて、岩井長三郎という日本人の建築家が設計した。
建築や都市を考えるのは「文化の問題だ」と僕は言い続け、それは間違っておらずそうあるべきだとは思うものの、中郵の様やソウル市庁舎の現状を視ると、そうばかりと言っていられなくなる。極めて政治的問題なのだ。日本での市民の想いが吹っ飛ぶ恐さにも思い至る。

文化庁は次長が国会で河村たかし議員の質問に答えて公表したように、重要文化財指定に向けて様々な働きかけをしてきたが、登録文化財を受け入れてしまった。
韓国の文化財庁は日本人が設計した社会的に難しいこの建築を仮指定に踏み込んだ。日本でも法的には指定に踏み込むことは可能だが、所有者と価値の共有することは大切だし必要条件だとは思うものの、これも一つの課題としてこれからの都市や建築を僕は考えたいと思う。

3月11日、日本建築学会は、「東京中央郵便局庁舎、大阪中央郵便局庁舎には、国指定の重要文化財の水準をはるかに越える価値がある」と会長の見解を表明した。

「重文の価値をはるかに超える」。
この見解表明は時を経たモダニズム建築によって構成されている都市の、それらの建築がなくなり、残ったとしてもおかしな形態で都市が形成されていくあり方に対する建築界からの危機感表明だと重く受け止めたい。併せて内部空間がなくては「建築」とは言わないことを改めて表明しなくてはいけないのだろうか!都市が映画の書割的であっていいはずがない。

僕は毎日新聞の「闘論・東京中央郵便局の再開発」を帰りの飛行機の中で読んだ。
3月15日(日)の朝刊だ。小泉内閣で郵政民営化担当相、総務相を歴任した、竹中平蔵氏のタイトルは「民間への不適切な介入」。僕のタイトルは「価値伝わらぬ部分保存」。

<写真 ソウル市庁舎 下段・解体作業中>

愛しきもの(7)白州正子の「美は匠にあり」と、わが家の仁王窯の皿

2009-03-08 22:59:57 | 沖縄考

白州正子の「美は匠にあり」(平凡社ライブラリー)に引きずり込まれた。
この文庫本は`芸術新潮``古美術`や`太陽`など、様々な雑誌に書かれたものから「美は匠にあり」というテーマに沿って抜粋・収録したもので、白州正子の真髄を垣間見ることができる。
ことに冒頭の1984年に書かれた「木は生きている」の「値段のことなど考えていたら物とはつき合えない。ただ好きだから買う」という一節には、ついつい頷いてしまう。
『それだけのことで、物からもらうものが無限にあることを考えれば、そして殺伐とした現代生活を豊かにしてくれることを思えば、どんな値段でも(自分に買える程度なら)決して高くはないのである』。

妻君が眼を剥きそうな一節だ。だが「自分に買える程度なら」とあるのでそれなら、と苦笑されそうだ。それとて白州正子と僕では、一桁や二桁の違いではあるまい。でも物は値段ではない、と思ってしまう魔力のあるコトバだ。値段なのかも知れないのだが、そうではないだろうと、天国にいる白州正子に恐る恐る聞いてみたい。

炉ぶちを買ったときのエピソードが添えられている。
『足元を見られて法外な値をつけられたが、武士に二言はない、と変なところで意地をはり、ほかのものを手放して、ようやく自分のものになった。最初のうちは、人みしりをしているように見えたが、二、三年経つと部屋の中におさまってくれた。今では昔からそこにいたような顔をしている』。

白州正子は、「物」は物を言わないが使い込んでいくと「美しくなって嬉しそうな顔をする」という。そうなのだが、これは結構恐いコトバだ。「嬉しそうな顔をする」。見なれたものが、あるとき突然物が嬉しそうな顔をすることが僕にもある。でも同時に「僕は果たしてこの`もの`に、お前は私にふさわしいオトコか!」と問いかけられているような気がすることもあるのだ。

物を見ておのれを知る。物でなくてもよくて、「出会った人を見ておのれを知る」でもいいのだが、「物」であることに味わいがあり、物に僕がふさわしくなければ持つことがなんだかもったいないし、物が可哀相だ。
物は人がつくる。だから「美は匠にあり」なのだが、自分が物を持つにふさわしくないなど少しも思わないところが白州正子だと思うし(お能は女には舞えないと悔しがることは別にして)とうていかなわないなあと溜息が出る所以でもある。

この文庫本には、黒田辰秋のつくる木工の漆についての詳細なレポートがあって、もしかしたら貴重な技術のアーカイヴスなのではないかと驚嘆させられた。黒田辰秋が、漆を学び発見し、試行錯誤しながら自分のものにし、しかし漆に及ばないと畏怖するさまを、白州正子は見事に捉えた。志野を発見した荒川豊蔵との親交や、こんなことを書いていいのかと驚いた辛辣な魯山人評などが記載されていて、興味が尽きない。

僕にも物とのふれあいがある。沖縄の金城次郎や大嶺實清の茶碗であったり、野田哲也の版画であったりするのだが、そのどれもが手に入れるとき、僕なりにお金と相談して逡巡したものだ。でも買った。値段はともかく白州正子調だ。この一文を書きながら手に取り、掛けてある版画に見入ると、まあそんな理屈はどうでもよくなり、ただただ感じ入り、慈しむだけだ。
これからも時折書き綴りたい「愛しきもの」。まあそんなことだ。

ここに掲載する写真の赤絵の皿は、二十数年前に沖縄壷屋の小橋川仁王窯で沢山買ったものの一枚である。ことあるごとに使いこなし,今ではわが家の一員、`愛しき皿`だ。沖縄に行きたいという娘は、仁王窯に連れてってという。自分の皿が欲しいという。自分のお金で手に入れた皿を!

時を刻んだ「東京中央郵便局」 マネーで時(焼き鳥ではないトキ)をはかることは出来ない

2009-03-05 11:45:36 | 建築・風景

2月26日の国会総務委員会で、河村たかし議員の質問に答えた鳩山邦夫文部科学大臣は、東京中央郵便局は文化庁が重要文化材に指定できる価値のあるものだと表明したことを受けて、「貴重なものだ、それを害することのないようにしなくてはいけない」と言明した。
そしてその夜の記者会見で大臣は「重要文化財の価値があるものをなくすのは、トキを焼き鳥にして食べるようなものだ」と指摘し「文化や歴史を大切にする国でなくてはならない」と述べる。そのエキセントリックな比喩がプレス関係者の心に響き、新聞、テレビで大きく報道されたことは周知のことと思う。生々しい言い方だが、言いえて妙とも言えそうだ。

この国会総務委員会でのやり取りは大変興味深い。
新聞ではほとんど報道されなかったが、河村議員は入札に疑惑があるので調査して欲しいとさらりと鳩山大臣に依頼した。そして質問に答えた文化庁の高塩氏は、一昨年(2007年)12月の決算行政監視委員会で、文化庁として東京中央郵便局庁舎は、『戦前の近代建築のすぐれた作品の一つであり、重要文化財の指定を検討するに足る価値を有している』と述べたことにふれた。
驚くべきことに文化庁は、その後総務省や日本郵政にこの庁舎の保存を図りながら再整備を行う提案をし、日本郵政が設置した「歴史検討委員会」の委員長(伊藤滋氏)にも申し入れをするなど働きかけをしてきたと踏み込んで答えた。建築文化を大切したいという思いに満ちていて、聞いた僕の心を打つ。

それに対して日本郵政は、棒読みのような口調で、建築団体等から保存要望があったことを重く受け、歴史検討委員会を設置し、委員会の提言や技術的な検討を踏まえて、「歴史的な景観の保存に努めている」と述べた。微妙な言い回しだが事実とは違う。
この委員会のおかしなところは、日本郵政の二人の役員が委員として参加していることだ。6名の外部に委嘱した委員の誰一人取り壊して良いと発言しておらず、結局各委員の見解を列記することで報告書が作成されたが、郵政二人のコメントは無い。
千代田区の景観審議会で検討委員の意向に従ったと述べた郵政担当者への不信が積もり、ある委員のところに説明に赴いた時に、意見を聞いたが決めたのは郵政だと明言している。しかしその後の説明ではまた同じことを繰り返している。読めば判ってしまうことなのに何故?と更に不信がつのる。検討委員に失礼だ。

河村議員は重要文化財どころか、(より緩やかな)登録文化財にさえ該当しないと言明した文化庁の発言を取り上げ、『あなたは文化財を壊すと言っているんだ』と指弾した。

この一部保存とレプリカの問題は建築界の大きな課題ではある。
なくなるよりは少しでも残った方がいい。レプリカであっても、消えて亡くなるよりもいい。そうだろうか。いや、そうではあるまい。ことにこの庁舎に関しては。

歴史検討委員会の資料に掲載された計画案をインタビュアーに見せると、皆一様に愕然とする。
発表されたパース(透視図)を見ると、ほぼ全部を残してその上にガラス張りの超高層を建てるのだと錯覚してしまうのだ。当初の新聞記事がそうだった。それが狙いかと余計なことを考えてしまう。
残すのは2スパン、つまり奥行きがほぼ10メートルあまり、前面は角から時計のところまで。残りは全て取り壊し、東京駅と線路側の外壁を今の外壁に摸して(レプリカ)てつくるというものだからだ。これでこの建築の歴史を継承すると述べているのだから。

東京の顔、日本の表玄関に偽者があっていいはずがない。建築は表だけ・ファサードだけではない。人がいて、人が使うための空間がなくては建築とは言わない。まして残したとはいえない。
河村議員の指摘はまったくそのとおりだ。そしてそれを受けた鳩山大臣の感性も素晴らしい。自信を持って信念を貫いて欲しい。

鳩山文科大臣の発言を受けて、なぜか僕に数社に及ぶTVや新聞社からの取材があった。
今設計をしている住宅の詳細のスケッチが煮詰まってきていてイメージが具体化し、つくる喜びにのめりこんでいて中断したくないが、この建築の魅力を大勢の人に伝えるいい機会だと思った。でも僕でいいのかとも思うのだが、観たよ`と連絡くださった方もいる。
時間が合わなくて僕は一つも見ていない(事務所にテレビがない)が、いつも気になるのは僕の思いを伝えられたか、ディレクターの質問にきちんと答えられたかということだ。でも取材を受けて学ぶことも多い。

まず問われるのはこの建築の価値だ。インタビュアー(ディレクター)はプロだが、建築のプロではない。
装飾のないモダニズム建築の魅力を市民に伝える試練の場を僕は得ているのだ。同時に時を刻んだ建築の課題や今の社会状況を様々な視点から見直すことにもなる。建築と経済は切り離せない。しかし「時」をマネーではかることはできない。考え込むが有難いチャンスを得た。
確かに考えさせられることもある。
時は過去のものだけではない。誠実にこれからの時を考えたい。都市はゆっくりと時間を掛けてつくらなくてはいけない。

大庇を解体し、新聞記者の問いかけには、主要部ではないので解体しても価値を損なうことはない(ある。勿論!)と述べ、調査のためだ(大庇解体がなぜ調査?)、そして不要な機材を運び出すためにやむを得ずとJIAへの説明会時の指摘に回答したその10日後、日本郵政の西川社長は解体が進んでいて、いまさら後戻りできないといわば開き直った公式表明する有様に、薄ら寒い危機感を覚えるのは僕だけだろうか?そして昨日の鳩山大臣の緊急現地視察に対して、調査のために一部を剥がしているだけだと述べる。

一つだけ言っておきたい。僕は(僕たちは)郵政民営化を問題にしているのではなく、この建築が好きで大切にしたいと思っているだけだということを。

<写真 中郵客溜りから観る東京駅 吉田鉄郎の辰野金吾への問いかけと、新しい時代を築く決意を読み取れないだろうか>