「私は東京美術学校(今の芸大)の建築科の入学試験を受けに松山から上京してきて、松山中学の先輩であり、私がうまく合格すれば美校の先輩になるはずの山本勝巳氏の、大久保百人町の下宿に入れてもらった」という一節に、ドキッとした。
山本勝巳氏は、密かに僕が建築の師と思っている建築家なのだ。書いたのは「洲之内徹」。
画商でもあり文筆家でもあり、美術評論家と言ってもいい`洲之内徹`が建築家を志したのは知ってはいた。しかし山本勝巳先生の後輩で知古だったとは思わなかった。
今年の仕事初めのとき、ふと僕の部屋の本棚を見たら箱に入った「気まぐれ美術館」(新潮社刊:昭和53年に発行されたが僕が持っているのは十一刷、平成六年・1994年刊)が目に付いた。まとめて読もうと思って15年ほど前に購入したのだ。
芸術新潮に連載されていたとき読み飛ばしていたこのエッセイ(という言い方よりやはり美術随想といった方がいいか)の頁をめくった途端のめり込んだ。15年歳とって僕は`洲之内徹`の真髄を読み取ることができるようになったのだ。一気に読み上げた。
どのページをめくっても、胸がざわざわとする感動に身が焦がれるのだが、山本先生が登場するのは「ある青春伝説」。
「閑々亭肖像」を描いた、洲之内が「鶴さん」と呼ぶ画家重松鶴之助へのオマージュで無論それにも魅せられるが、思いがけずエッセイに登場する若き日の山本勝巳先生の姿を垣間見て、一瞬にして47年前の先生の姿が浮かび上がった。
学生時代の昼間働いた叔父のつくった建築会社に、大学を出て正式に就職して初めて出た建築現場は、青山に建てた劇団民芸の稽古場。設計は信建築事務所。その代表が美校で岡田信一郎に学んだ山本勝巳先生だったのだ。
この現場での1年が、今の僕の建築に対する思いの原点になったような気がする。
稽古場建築の打ち合わせを仕切ったのは、民芸では事務方の片谷大陸代表だったが、実質的には重鎮の宇野重吉だった。宇野を初めとして、滝沢修、細川ちか子、清水将夫のいる新劇世界には好奇心を触発されたが、時折現場にこられた山本先生への宇野重吉の信頼と憧憬に、僕は初めて建築家の存在を認識したのだと思う。
施工図を担当して信事務所に行き、担当者との打ち合わせが終わると「兼松君」と呼ばれて僕は所長の机の前の椅子に腰掛けて山本先生の話を聞いた。机の上には製図の道具はなく、日本の社寺の写真集が積んであった。頁をめっくって見せていただいた岩船寺の蝉の金物を撮った土門拳の、建築を捉える視点を教えてくださり、うちの`学`(ご長男)がねえ、水野久美と一緒になるというんだけど可愛い子でねえと、学校を出たばかりの僕に嬉しそうに微笑む姿に、魅せられないはずはない。
なぜ僕に、と思うが現場事務所での些細な出来事を思い出すのだ。「君、こんな本を読んでるの?」と先生は僕の机を覗き込んだ。読みかけていたモンテーニュの「エセー(随想録)」があったのだ。はっきりとは覚えていないが、エセーへの想いを述べた生意気だった僕に好奇心を持ってくださったのかもしれないが、早稲田で村野藤吾と同級生だった僕の叔父の存在も大きかったのだと思う。
僕は穏やかで懐の深い山本勝巳像と建築家という存在を重ねて見る事になった。
この建築は、半割のレンガとコンクリートの打ち放し、それにタモの柾ベニヤを組み合わせた手で触れたくなるような材質感のある建築で、そのディテールは僕の頭の中に叩き込まれている。施工図を担当したのは大きいのだ。
昨年、山本勝巳先生の原図が、建築家平倉直子さんの仲介で、JIA・KITアーカイヴスに収録された。平倉さんのご主人が、先生の御次男で俳優の`圭`さんと親しいのが縁とのこと。平倉さんによるとその圭さんが言った。「僕は兼松さんをよく覚えていますよ」と。はて?僕はいつ圭さんに会ったのだろう!
長々と書いてきたが、肝心なことを書くのが遅くなってしまった。`洲之内 徹`の「ある青春伝説」になぜ建築家山本勝巳が登場したのか。
洲之内さんが「閑々亭肖像」を視て魅かれたのが下宿をしていた山本先生の部屋だったのだ。なぜ「閑々亭肖像」が山本先生の部屋にあったのか。山本さんと鶴さんのお兄さんが中学時代の同級生だったからだと書く。
洲之内さんは建築家にならず、山本先生とは疎遠になったが「閑々亭肖像」が忘れられず、氏の青春の象徴のような存在になっていた。
洲之内さんはその絵との対面を淡々と書く。『見たい絵は山本さんの手元にあると判って、翌日、私は浜田山の山本さんの家を訪ね、まる45年ぶりに「閑々亭肖像」と対面したのだった。』
45年前というのは昭和5年(1930年)。山本勝巳氏は25歳、僕の生まれる10年前の出来事だ。僕が学校を出て劇団民芸の稽古場の現場で会ったときの先生は57歳だったことになる。
今の僕より一回りも若かった。年月の計算をしていくと僕の無才ぶりに、人の器は歳では計れないと思ったりする。
1962年、東京オリンピックの2年前、青山通りが拡幅され世は建設ブームに沸いていた。そういう時代の、僕にとっては建築人生の節目になった一齣だ。
ちなみに劇団民芸の稽古場が竣工した後、僕は現場所長を担った内田春一さんという技術者に気に入られてふたたび現場員として引っ張られ、箱根強羅のやはり山本勝巳先生の作品、ホテル法華クラブの現場をやった。柱と梁をコンクリート打ち放しで構成して和を見据えた典型的な日本のモダニズム建築だった。先生は民芸稽古場の仕事のやり方を見て内田さんを信頼したのだ。
山本先生も洲之内さんも亡くなって久しいが、その劇団民芸の稽古場も、箱根のホテルも取り壊されて今はない。