日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

今そこにある危機 フェイスフル・スパイ(2007年小学館刊)

2013-05-26 11:50:10 | 日々・音楽・BOOK
ジョン・ウエルズはアルカイダに潜入したCIAの工作員である。
「フェイスフル・スパイ」の中でのジョン・ウエルズとオマー・ハドリという国際テロ組織の幹部とのやり取りを読んでいるうちに、イスラム原理主義者の怨念や実態、2001年の9・11の既に12年を経たミノル・ヤマザキの設計した2棟の超高層・世界貿易センタービルのショッキングな崩壊の様が思い浮かんできた。

さらにその年に東大本郷キャンパスで行われた建築学会の大会で、建築家林昌二さんのこの出来事に触れた建築講演を聴いたことなども想い起こした。林さんが、僕に向かって受けなかったなあ!と、苦笑、慨嘆したのが心にあるのだ。世代の変わり目を微妙に感じ取った一言だった。あの林昌二さんでも・・と。

林さんの話のテーマはミノル・ヤマサキの建築の在り方自体を引いてのあの事件だったと思うが、はっきりとは憶えていない。しかしご存命だったらボストンの事件や3.11についても、おそらく今の世代の有識者(最近よく言われる専門家!)では思いもよらない広い視野での独自の視点による辛口論評をお聞きできるのだが、と思ってしまうのだ。

この超高層崩壊の様相は、休日だったのでテレビに張り付き、現場中継(リアルタイム)の画面をリ見ていたのに、僕の中では多くの人が死んだあの現実がフィクションのような奇妙なイメージとしていまだに巣くっている。

「フェイスフル・スパイ」は、ニューヨークタイムス紙の記者アレックス・ベレンスンが2006年に書いた処女作で、翌2007年度のNWA新人賞を得たスパイ・スリラーである。

読みながら心がざわつき、読み終って考えるのは、これはフィクションではなくノンフィクションなのではないかという奇態な感慨だ。小説だから事件が起こる。そしてこの生々しいテロリスト設定は現実とは表裏一体、言うまでもなく頭に浮ぶのは、あのボストンマラソン時の爆発事件・テロである。小説「フェイスフル・スパイ」があの爆弾テロを、予測していたということになるのだ。
この小説は文庫化されている。長編で読み砕くのは大変だが、一読をお勧めしたい。これがいまの現実社会の一側面なのだろうとちょっと怖くなる。

房総半島巡りを書きたいのに、つい読んだ本のことになってしまう。ふと思いついてフェイスフル・スパイを読み、ハードボイルド文体が懐かしくなってきた。この小説は、いわゆるハードボイルドではなく、僕の好みともちょっぴり異なるのだが・・

そのときを・一句から

2013-05-19 11:58:45 | 文化考
「初凪の浦曲ひねもす富士晴るる」

この一句は、杉竹会句集 第二集に、10人の同人と共に収録された本郷雨邨の「秋日和」と題する54句の冒頭句である。
斗眠生の`あとがき`には、口絵は今回も津田青楓先生を煩わし、とあり、編集その他は雨邨(うそん)氏の労に負うところが多いと記す。その本郷雨邨は、僕の伯父である。

箱に入った渋い濃紺による装丁のこの句集は、本棚を整理している岡崎にいる妹が送ってくれた。青楓の牡丹を描いた口絵をめくると現れた「杉竹会同人近影」に見入る。一人が立ち、縁側に座る風格のある年配の方々の中に懐かしい伯父の姿があった。一瞬にして60年前の一光景が頭に浮んだ。

中学2年生(1954年)のときに、祖父が亡くなり天草の下田村から、実家のある長崎経由で母や弟と妹たちと柏に引き揚げてきたときに、東京杉並区の阿佐ヶ谷にあった母の姉の連れ合い、伯父の家に立ち寄ったときのことだ。
何かほしいものがないかと問われて、本がほしいと答え、それではと従兄弟が本屋に連れて行ってくれた。買ってもらった下村湖人の「次郎物語」と山本有三の「路傍の石」を伯父に見せると、伯父武雄の顔がほほう!と一瞬緩んだ。その時の笑顔や独特の声と言い回し、佐渡から出てきて大手の設備会社に勤めた後関連した会社を創設した男にある文化人としての雰囲気が、田舎っぺだった僕のどこかに住み着いたような気もする。
その日、従兄弟が映画にも連れて行ってくれた。ビング・クロスビイとダニイ・ケイが主演したミュージカル「ホワイト・クリスマス」だった。

その伯父も、その連れ合いだった母の姉も、僕の母も弟も、この本を贈ってくれた妹の旦那もいない。本屋に連れて行ってくれた従兄弟は隠居の身、母と僕を父が眠っているフィリピンのモンタルバンに連れて行ってくれたのは30年ほど前のことになる。
ほぼ60年経ったあの一瞬が思い起こされる不思議を考える。
「初凪」は元旦のなぎ、浦曲は「うらわ」とよみ、海辺が曲がって入り込んだところ、「ひねもす」は終日の意である。

ところで新年迎えた一句からの最後の54句目
「邂逅の友も老いたり年の暮れ」。
己の歳を思う。

「見上げた空の色」での宇江佐真理の生きること

2013-05-11 15:35:51 | 日々・音楽・BOOK
愛読している「髪結い伊三次」シリーズを書いている宇江佐真理は僕より9歳も若い函館人。この4月に発刊されたエッセイ集「見上げた空の色」(文芸春秋刊)を読み始めて、一瞬、何だ!ただのオバチャンじゃないかと思ったものだ。

「もの書き業は17年にもなるのに(2012年記述)人生で一番大事なものは小説を書くことだとは思っていない。それではお前の一番大事なものは何かと問われたら、日常生活と応える」。答えると書かないで応えるという文字を使うところに、含みを感じるが、宇江佐の愛する日常生活とは、
朝起きて、簡単な食事を摂り、三日に一度は部屋に掃除機をかけ、一週間に一度はトイレの掃除をして毎日洗濯をする。そして「小説の執筆は日常生活の付帯状況に過ぎない」とぶっきる。

建設業をやっている(大工さんというコトバもどこかにあった)夫に仕事も来ないなどと不景気のことしか書かない故郷函館は、それでも住めば都と思いを託す。だが、保存要望書を持って教育長や市議会議長と談判した函館の大切な建築、弥生小学校などには目も向けない。

ところがそういうそっけない記述を読み進めているうちに、五十三歳で死去した妹の壮絶な人生へ「棺に納められた妹は血の涙を流していた」とウッとつまって言葉が出ない一言を記す。そして淡々と、人は五十を過ぎたら無闇にがんばるべきでないと思う、と述べる。
五十歳、遥かに昔のこと、ふと体力の衰えを感じる己のことよりも、吾が娘の五十歳までの年月を考えるとドキッとし、僕の胸のどこかが喚き出す。

さらに「墓守娘の本音」と題したエッセイでは、八十三歳になる元気な母に、元気であるがためにいつまでも何時までも親の権利を主張してやまないと書き、生んでくれた人で育てた人だから大事にしなくてはいけないと思うが、「だが、もういやだ」、断じて実家の墓守はしない,母が亡くなって私がまだ生きていたら、実家の仏壇を処分して、敢えて親不孝の汚名を被る。それが春の私の覚悟だ、とする。
やはり宇江佐真理は己の人生に開き直っているのだ。だから僕の前に「髪結い伊三次」がいるのだ。

このエッセイ集からの引用になるが、どうしても書いておきたい「うた」がある。
「はるかなるおもい」の項の最後の一行。朝日歌壇に掲載された、須郷 柏(宮城県)氏のうた。

夫呼べば夫の声する娘を呼べば娘の声する閖上(ゆりあげ)の海。

建築ジャーナル誌に連載をしている「建築家模様」に登場していただいた建築家針生承一さんの設計をした火葬場のあるのが閖上なのだ。

<房総巡りを書き続けたいのですが、上記借用した本を図書館に返さなくてはいけないのでお先に記載しました>

街並みぶら歩き、房総半島ぶら巡り(1)

2013-05-06 20:46:09 | 建築・風景
千葉県柏市に二十数年間住んだことがあり、安房勝山や青堀で仕事もし、マイケル・グレイヴスが設計をした御宿町役場を建築家仲間で見に行ったこともある。さらにJIAの保存の大会で佐原のまちを歩き、今井兼次が設計して建築学会賞を得た大多喜町役場での、同じく保存問題JIA大会に参加したのに、房総半島が千葉県民としての同郷だという意識が起きなかった。

柏は、常磐線で上野と繋がっていて常に東京が身近にあったからだ。
この連休、前半は事務所に出たりして、山梨に建てる民家(商家)の移築的な新築の矩計図のスケッチに取り組んだりしたが、その柏も中学や高校の同級生がいるとはいえ様変わりが激しく、僕の「まち」とは言えなくなっている。

だからということでもないが、連休の後半、妻君とどっかへ行こうかということになったときに、ふと大多喜が思い浮かんだ。ある由縁があり、コンペによって増築された町役場を観ておきたかった。歴史的建造物(町屋)が建ち並ぶ大多喜の街並みは、山梨の仕事の確認もできるし、妻君も娘もこういう街のぶら歩きは嫌いではない。
そして海が好きな娘の行ってみたいという九十九里浜と銚子・犬吠崎、潮来と佐原に行くことにした。妻君と娘がやり取りして佐原に宿をとった。

写真は、小野川の「水郷佐原十二橋舟めぐり」の一枚である。オバチャンがぼそぼそと、でも楽しげにこの伝建街並みの様子を案内してくれる。
利根川から分岐しているこの小野川の上流は、3.11で護岸の石垣が柳と共に崩れ、さらに川底が隆起してまだ浚渫に手がつけられなくて遊覧船は引き返す。住宅群も傷んだとのことで、数件で修復がなされていた。新しい杉板の南京下見で外壁を全て取り替えた家屋もある。

大多喜もそうだったが、佐原でも確信することになった、瓦屋根、下見板や漆喰などが使われた家屋は、日本のこの街並みにしっくりと馴染み、新建材で建てられた住宅群は、見るも無残、駄目なのだ。
そして大正ロマン、或いは戦前に建てられた旧銀行などの洋風建築が、何故かこの木造伝統建築群としっくりと似合っている。あちらこちらで何度も見てきた伝統建築群の中の違和感が払拭されている。僕の価値観が揺らいだのか!
本物の建築というコトバがふと口を吐(つ)いて出た。(この項続く・続けてみたい)



5月3日

2013-05-03 14:09:10 | 文化考
快晴の5月3日だ。
憲法記念日。毎年巡り来るこの日は想い起こしたように憲法論議がなされる。しかし今年のこの日を巡っての政界では、改正論議が公然と行われていて、違和感、危機感を覚える。
僕は「護憲」「脱原発」そして沖縄、辺野古への軍事空港設置は許せず、普天間返せだ。
脱原発、人がコントロールできないものを人がつくるべきではない。簡単な論理だ。七十数年の己の帰し越し方を振り返ると、自然との共生なしには生きるすべを見出せないと感じるのだ。
鎌倉の世界遺産不登録が勧告されて複雑な思いがあるが、このことに関しては今後の自治体の対応を見極めてからコメントしたい。僕は鎌倉の自然との共生が大好きだ。建築家だから建築と自然とのと、書き加えておきたい。