日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

勢ぞろいしたお雛様

2008-02-26 10:25:36 | 添景・点々

我が家の居間に、お雛様が勢ぞろいした。
愛妻と娘が今年は全部出してみようといって飾りつけたのだ。
内裏雛が6体に、2センチ各の小さな箱に入った3段雛、おまけとして、三春人形の踊っている女性をじっと見詰めているお大臣。これは面白がって娘がむかいあわせた。その様がなんともおかしく、思わず僕の頬が緩む。横に菱餅を置いた。

中心に飾ったのは、その娘が生まれたときの祝いとして手に入れた華やかな内裏様。私達が主役だと堂々としている。
右横には、愛妻が母親の形見としてもらった小振りの内裏様を並べた。主役も脇役も意に介さず、飄々と座っている。箱には大正2年と日付が書かれている。初節句のときだ。被り物はなくなっているし、髪もちょっとほつれているがなんとも品のいいお坊ちゃまとお嬢ちゃま。箱から取り出して並べた娘が思わず「可愛い!」と見入った。大正時代ってそうだったのか!いい時代のいい内裏様だ。

2対の三春のでこ人形がある。大きいのと小さいのをならべてみた。幸せそうだ。
京都の嵐山のお店での小さなお姫様は、まだ僕が一人身のときに買ったものだ。それに愛妻が旦那(といっても若君だけど)を買い足した。じゃあこの旦那は僕か。困った。太り気味だ。

相良人形には、`七代さがらたかし`と銘が書いてある。ちょっとお年を召しているようだけど、そのせいか泰然とお座りましている。
この土人形は、かつて、米澤藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)が財政建て直し、今で言う町おこしの秘策としてつくらせたものだ。それをこの七代相良隆が昭和42年に復興させたのだという。
僕はこの人形を買った覚えがないので、亡き母が、弟に連れられて山形へ旅したときに手に入れたのだろう。お雛様の一つ一つに何かが秘められている。

雪洞に灯をいれて見比べた。どの内裏様も微笑んでじっと前を見ている。屈託がなく幸せそうだ。そういう屈託のなさは妙に生々しく、まるで生きてるような気がしてきた。

07北海道の旅(2)PRESS CAFEの夜はふけていく

2008-02-21 10:14:27 | 日々・音楽・BOOK

黒いバックに白文字が現れる。
『 隣の塀が倒れたんだって! 』
画面が変わって
『 へ  へえ~ 』
そして
『なめておりました。台風を。』ふわっと`ターマス`という紅い印が押される。
画面が進んで、倒れた板塀の写真が現れ『平成十六年九月八日台風18号プレス・カフェに上陸。』

見ていて思わず笑いがこみ上げてきた。
このよく知られている一口落語で笑わせるのは凄い。HPのcolumn(コラム・月寒編)の一文。これがターマスこと、PRESS CAFÉ`のマスター稲葉さんだ。
小樽の運河沿いの倉庫に手を入れたPRESS・CAFÉを訪ねるのも北海道の旅の楽しみだ。いやこの日を待ち望んでいたのだと、うっすらと雪が積もり始めた前庭に車を止め、石の外壁を見ると実感する。

薪を積んである通路を通って店に入り、ターマスと目をかわし、なんとなくうなずいて頬を緩ませる。「にやっと」という感じか。アサジさん(店長なのだ)のえも言われぬ笑顔もいい。写真をご覧あれ。

このPRESS・CAFÉは、月寒の店を閉じて2006年の6月に開業した。まだ1年半しか経っていないのに、僕を案内してくれるMOROさんは常連だ。それも並の常連ではない。そしてヒストリックカーを扱っているターマスと意気投合し、あの紅い奴「Lotus Europa Sr2」を手に入れた。

さーてと、僕はホットワインを頼む。ホットワインというのがあるのだ。MOROさんは好きだというマンデリンだ。
なんとなくたわいない雑談が始まる。昨日TVの取材があってマスターがしゃべったという。そして放映された画像を見たというアサジさんがうっとりした目つきで言う小声。「マスターは格好よかった!」溜息が出そうな口調だ。そうだろう。なんともね。僕は`開高健`の書いたエッセイの一節を思い浮かべた。
「どの味が幼稚で、どの味が高貴であるかは人さまざまだからお好きにやってよろしいのだけど、私に言わせれば`甘い`のが幼稚で、`ホロにがい`のが優雅なのである」「雨が過ぎた後の深い森に漂う苔の匂いであり、辛酸をなめた男のふとした微笑である」。

ホットワインでちょっとうっとりとし、苦味の濃いというイタリアンコーヒーにしてベークドチーズを口にする。このKAFEの名物手づくりケーキは、アサジさんがつくるのだ。この前来た時こんなに美味いものがあるのかと驚いたそのガトーショコラを、MOROさんが食べている。
お客さんが来ると、ターマスがコーヒーを入れ、ライスカレーの用意をしたりする。アサジさんも忙しそうだが、手があくと聴くともなしに僕達の会話に耳を澄ます。
3人で、MGやトライアンフを語りながら、晩秋の夜が静かにふけていく。


07年北海道の旅(1) 刺激を受けた若者の提案

2008-02-11 22:59:42 | 建築・風景

『この数年、私は札幌建築デザイン専門学校の教師に招かれて、設計課題の講評を行っている。今年(2007/11/22)の3年生の課題は、学生各自にDOCOMOMO選定建築を選ばせた保存再生提案だ。
資料を図書館やインターネットなど様々なルートによって収集し、図面を描き起し、3D(コンピューターグラフィック)で表現してプレゼンテーションする。
DOCOMOMOに選定された建築は完成度が高く、手を入れるのはなかなか難しい。実地見学もできず、資料によって状況判断しての提案になるが、講師の私が思わずうなるような、刺激的な提案もあった。

例えば、大高正人さんの代表作「坂出市人工都市」。大きな模型まで造り、空に開かれた(大天窓)ボックス住居を構築して路地構成をする。新鮮だ。
「土浦邸」は託児所。前庭を地階にして庭に配慮して光を取り込む。実現できそうだ。これも模型まで造ってのめりこんだ学生のパワーに圧倒された。
難しい課題で皆難儀していたが、学生とのやり取りで、建築の面白さが互いに実感できた』

この一文は、僕の書いた1月に発行されたDOCOMOMO Japan会報からの再録である。
昨年の11月の北海道の旅は、毛綱毅嚝の建築と厚岸(あっけし)の北大臨海試験場を観るために釧路に行き、毛綱毅嚝の処女作「反住器」を訪ねて、毅嚝の母はるさんに、DOCOMOMO選定プレートをお渡しするのも目的だった。
でも本来の目的は、札幌建築デザイン専門学校の2年生と3年生の設計課題の講評をし、学生たちと建築談義をすることにある。学生は緊張するようだが、冒頭に書いたように、僕のほうも刺激を受けるのが楽しみなのだ。

3年生の提案には、坂出市人工都市や土浦邸だけではなく、「通り抜ける家」と題したHさんの、清家清の設計した「森博士の家」の改修提案も魅力的だ。
居間の北側の窓を床までに大きくし、裏の庭を楽しむ。僕の講評は、日本の社寺には北に庭をつくり、刈り込まれた庭木の葉の表を楽しむ工夫をすることがある。この提案はやってみたい。この住宅の魅力が大きくなりそうだ、というものだった。学生を指導しているMOROさんに電話をしたときに、清家さんのより、こっちのほうが楽しそうだね!と言ったりした。

「出雲大社庁の舎」のI君の提案は、参道の中心に移設し、下を掘ってスロープで通り抜けるようにして神が内在するこの舎を仰ぎ見て本殿に向かうというものだ。僕にはこういう発想が出てこない。ただの思いつきではないところがいい。建築に敬意を払っている。

挙げていくと限(きり)がないが、「白の家」の地下に、反転した「黒の部屋」を作るD・I君。やってみてどうだ!と言ってみたいではないか。K君の「上小沢邸」の水庭。N・Iさんの「長沢浄水場」提案は、完成度が高い。
この学校の素晴らしいところは、講評の終わった後に、レポートを提出させることだ。

菊竹さんの「スカイハウス」は、菊竹さんの考えた下に子供部屋をぶら下げるのではなく、上に部屋を積み重ねる、僕には思い浮かばない提案だったが、レポートでこの住宅を選んだI君はこう書く。僕との審議応答も踏まえ「自分の提案は安易であると痛感した」この提案は失敗したが「新たに提案したいのは中庭である」と前を向く。

講評したものの気になっていたのは、思わず「それをやると「聴竹居」ではなくなっちゃうよ」と言ってしまった一言だ。あの繊細なディテールの一つでも亡くすと、さてどうなるか。Y君は、保育所にしたいと提案した。このことを、管理をサポートしている竹中工務店の友人松隈章さんに伝えると,なるほどそういう見方もあるかとふと考えこんだ。この建築は借りていた人が退去し、手を入れて公開していくことを検討しているからだ。
ちなみに「INAX REPORT」(INAXが発行している冊子)の今月号(No173)は、聴竹居を設計した藤井厚ニの特集。松隈章さんの論文も興味深いが、「聴竹居」とともに、知られていない「村山龍平邸」などが、相原功氏の見事な写真で紹介されているのも見逃せない。この号には内藤廣さんが林昌二さんにインタビューしている記事も必読だと思う。

Y君は書く。「今後、聴竹居の保存がどの方向に進むかわからないが、聴竹居に盛り込まれている考え方や技術が、現在の建築に活かされて欲しいと思う」。Y君がこの春社会に出て、きっと彼のこのメッセージを自分自身で受け止めて仕事をしてくれるだろう。そうあって欲しい。

学生の発表には、書いてきたように新鮮な魅力に充ちてはいたが、技術の裏付には乏しく思いつきに留まってしまったものも多い。仕方がないことではあるが、先人の軌跡を紐解くことによって彼らが得たものは多いようだと思った。それは発表時にも感じたし、レーポートを読んで確信した。

今回の課題は、決して絵空事ではなく、生身の建築の保存問題に直結していることだと、学生とともに僕自身も改めて受け止めている。

<写真 講評の後学生に囲まれて(MORO先生の許可を得たので掲載する)>

JIAの新年会で「200年住宅」とは!

2008-02-06 17:47:55 | 建築・風景

1月19日、恒例のJIA関東甲信越支部の新年会に参加した。
ワインやビールをかざして、会員と大勢の賛助会員、つまりJIAのサポータとが談笑する。支部長による新春の挨拶の後、来賓や現会長のメッセージが述べられたが、前半は歴代会長4人による新春放談。進行役は芦原太郎さんだ。

早稲田で教鞭を取った6代目会長穂積信夫さんのメッセージに、ついほろりとした。少人数で収入が少なくても建築が好きで、いい建築・いい住宅をつくることが、少しでも町をよくするのではないかと頑張っている建築家がいる。その人たちの想いがJIAの原点ではないかというのだ。
いいなあと思う。僕は穂積さんのようなこういう言い方に弱い。JIAにもまだこういう視点で僕たちの組織(JIA)を語る建築家がいる。大きな声を上げていなくても、建築を心から愛している建築家がいるのだ。

しかし、ほかの元会長連は、穂積さんの想いには触れずに、自分が会長時代の、国交省や他会などとの制度改革などに取り組んだ話に終始し、僕をがっかりさせた。どこぞの政治家の話を聞いているようだ。
この10年、JIAをとりまく環境は益々厳しくなり、歴代会長の努力なくしてはJIAの存在はもっと酷いものになってしまったかもしれない。でも僕が聞きたかったのは、彼らの建築に対する思いだ。JIAを率いた建築家の建築論だ。都市論でもいい。新春放談だからだ。

何せJIAのトップは、国交省が『美しい国』と一言漏らすと、得たりやおうと、JIAの指針は「美しい国つくり」だといい始める。しかも安倍首相も言っているとの付言つきだった。
僕は「そうではない、`美しい`という言葉は恐いのだと」言い続けてきた。例えば昨年の2月に東大本郷キャンパスで行った保存大会のシンポジウムで、「美しい」という言葉と「安全」の為にというお題目で、路地がなくなり道路が拡幅され、時を経てきた建築や街並みがなくなっていくことを指摘し、僕の言い方も多少抽象的だが、「美しい」ではなく、僕たちが目指すのは生活観に満ちた「生き生きとした町」だと述べた。

安倍首相が失脚して「美しい国つくり」と言えるJIAのトップがいなくなった。美しい国の建築をどう考えているのか、それでもいい、だからこそ、本音で言ってきたのなら「美しい国」(僕には美しい国のイメージが湧いてこない。感性失調症か!)それを言わずして放談とはいえない。
ところが挨拶で「200年住宅」といい出した人がいた。唖然とする。福田首相が言った根拠のない論旨、つまり法制改変による`建築つくり`の、言ってみれば「ものつくり」現場を知らない国交省の失態と、それを推し進めた政界の失態糊塗の思惑にのるとは節操がない。

『200年とはどれだけの長さだろうか。言うまでもないが200年前は江戸時代だ』と言ったのは東海大学の教授だった建築家吉田研介だ。朝日新聞の投書欄「声」で氏は、まさか冗談だろうと思っていたら、国交省も動いているし、税も優遇することを考えていると知り、『冗談ではない、やめなさい』といいたくなったと書く。

建築を経済の道具だと考えている財界の思惑が、「200年住宅」の裏にチラチラと見えてくる。いま政界を揺るがせている「道路特定財源」問題と同じ構図だ。何せ社会状況が変わっているのに、二十数年前に線引きがされた「計画道路」の見直しがなされないおかしな状況を、誰も口にしない。

今月(2月)16日、17日とJIAの保存大会を行う新潟新発田市にある、レーモンドの代表作「新発田カトッリク教会」が接する道路(道と言いたい)が拡幅されることになり、2年前に大騒ぎになった。教会堂が培ってきた景観が壊れる。
何せ人も車もほとんど通らないのんびりとした田舎道を広げるというのだ。計画道路だからつくることにした、という行政の言い方も歯切れが悪い。車の迂回路になるとも思えないが、車がたくさん通るようになったら、困るのは住民ではないのだろうか。でもそれに建築家が触れるのはオフレコだという。

戦後10年、朝鮮戦争特需を受けて始まった戦後復興・高度成長期に建てた建築が次々に建て替えられる。200年?いやまだやっと50年だけど・・・
吉田氏は言う。『そんなことに口を出すくらいなら、まだ十分建物として使えるのに、どんどん壊している状況にストップをかける法律でも作ったらどうか』と。

そうだそうだと拍手を送りたい。
政府は、住宅密集地を取り壊して高層化すると宣言し、既に法改訂している。「200年住宅」はどこに建て、どうやって200年建ち続けるのだ。

<写真 新発田カトリック教会>

韓国建築便り(7)見事にコンバージョンされた遊仙島公園

2008-02-01 11:52:49 | 韓国建築への旅

SEOULを北へ向かう漢江の中に、島が浮かんでいる。遊仙島(Seonyudo)だ。かつては浄水場だった。その遺構を生かして公園にした。

SEOULの中心街から金浦空港へ向かって漢江沿いに走ると、一体なんだろうと思わせるダイナミックな半円形の橋が現れる。遊仙島へ渡る橋だ。
そこへ上るスロープは、まるで山田守が設計した東海大学湘南校舎に設置されているような、半円形になっている踊り場のあるコンクリートでつくられている。このスロープは浄水場があったときの遺構だが現役だ。
階段も在るが、このスロープをゆっくりと歩くと、高さが変わっていく廻りの景色が楽しめてなかなか乙なものだ。上りあがると「遊仙橋」と漢字で掛かれた案内板が、ハングルと英語併記で欄干に設置されている。

「遊仙橋」と「遊仙島」そして「遊仙島公園」。SEOULの人々の命を掌る(つかさどる)水瓶にふさわしいネーミングだと思った。架け直された橋にはウッドデッキが敷かれており、大勢の人々が楽しそうに渡っている。
まず僕たちが出会うのは、改造された円形の水槽だ。半面は円形劇場のような階段状の勾配になっており、下りると公衆便所がある。思わず手で触ってみたくなる割り肌のレンガで外壁が造られ、この公園は「只者ではない」と、建築家の僕は早、心が躍りだす。

上からこの情景が見えるようにウッドデッキと鉄骨、ワイヤーロープの手すりでつくられた通路(橋)が掛かっており、このデザイン構成は、この公園全体のモチーフになっている。通路に沿って水路があったり、水路から落ちる水が滑らかな帯状になる仕掛けもされたりしていて、思わず見とれてしまう。
10月なのに既に紅葉が始まっていて、潅木の中の風化したコンクリートの遺構を巡る散策は、とても気持ちがいい。コンクリートも風化していくと味わいが出てくるのだ。

そして現れるのが、やはり肌割りレンガによる管理棟と展示館だ。そのレンガの外壁の前の樹木は白樺だ。そして敷地の高低を支える塀は、錆びを生かしたコルテン鋼。釘で引っかいたり、白墨で書かれたハートマークの落書きも、ここではなんとも微笑ましい。
このコルテン鋼の錆びの質感と色は、韓国の人々の感性に合うのか、BOOK CITYに設置された彫刻や、町の店舗の外壁にも、無造作に使われたりしている。レンガの肌との風合い、僕も好きだ。
公園の仕組みと建築のコラボレーション。楽しんでつくっているなあ。だから楽しい。

展示館には、この浄水場の歴史資料や、遺構を生かしてつくった公園の紹介と共に、この建築を設計したときのスケッチや断面図なども展示され、このプロジェクトへの関係者の誇りや、市民にその経緯を伝えたいという想いが伺え嬉しくなる。
帰りはウッドデッキ通路を下りて,遺構の中を歩いた。密生した木々の中をL字型にくぐらせる路地の仕掛けがあったりして、仲のいいカップルが楽しんでいる。それを見る僕たちも、ふっと気持ちが暖かくなってきた。
この公園は、ソウル大学環境大学院ソン・ジョンサン教授によってつくられ、SEOUL市民愛賞を得た。建築の設計はイオンSLDである。