日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

東大で何が起きているか!

2005-10-29 11:49:41 | 建築・風景

登録文化財が、安田講堂を第一号として数棟の東大本郷キャンパスの建築でスタートしたことは良く知られているが、まさしく本郷キャンパスは近代建築の宝庫と言ってもいい。
明治の初期、建築学科の前身、造形学科の教師だったコンドルによって東京大学計画が立案され、それを背景として次々と校舎が創られていった。しかし大正12年(1924)に起きた関東大震災で焼却し、現在のキャンパスの骨格は、後に東大総長をも務め、建築学科を率いた内田祥三博士による全体計画と、博士の設計したゴシック的な建築群によって構成されている。
構内の道路や広場、緑地が適切に計画され、時にはドライエリアを造って建物を半階ほど土中にもぐらせて建築の高さの調和をとり、70年を経た現在スクラッチタイルによる外壁と育った樹木とがうまく溶け込み、古さを感じさせない此処にしかない風景を形作っている。

僕はこのキャンパスが好きだ。
シンポジウム等の打ち合わせのため建築学科を訪ねたりするときには、時間があればぶらぶらと散策する。時折このキャンパスの面白さを味わうために、建築家や親しいグループに声をかけ、見学ツアーを組み、歩いたりもする。

このキャンパスは、第二次世界大戦の影響もほとんど受けず、50年代からの高度成長期の施設の需要に応えるために、丹下健三や大谷幸夫などが広場や道路に増築する試みがなされた。内田博士の設計した施設群との調和を取るために、軸線を守りながらモダニズム全盛の中様々な工夫がなされて、左程違和感のないキャンパスが継承されていった。特に中心部に建てられた建築は、打ち放しのコンクリートによる造形やタイルの色彩や質感と、内田博士の建築との調和に苦心惨憺した有様も感じられ、今見るとその工夫が偲ばれ何処か微笑ましくさえ思えてくる。時との戦いは大変だ。

10月15日JIA建築家写真倶楽部の面々と、この本郷キャンパスを歩き撮影をした。この企画を担当し、事前に調査をした建築家Aさんの思惑はなかなか興味深い。
農学部正門の右手に嘗て東大教授だった建築家香山壽夫によって建てられた弥生講堂の前で集合、スクラッチタイルの建築との対比を見た後、本郷地区の正門を入る。コンドル像に敬意を評した後、工学部一号館、2号館あたりを散策しながら医学部を抜け、弥生門の前に建つ立原道造記念館を覗くというコースである。
 
工学部一号館は、内田祥三の建築に後に弥生講堂を設計した香山壽夫が1996年に増改修し、その卓越した造形感覚によって日の字型の光庭を製図室にしたり、北側の増築によって外壁をそのまま内部として見せるなど、魅力的な空間構成を構築した。この新旧を対峙させる手法は話題となり、歴史的建築の再生手法の成功例として多くの建築家の支持を受けることになる。僕も此処に来るたびに心が騒ぎ、この撮影会でも参加した日大建築写真研究会の学生にこの空間の魅力のポイントなど能書きを言ったものだが、しかし・・・・

<東大で何が起きているか!>
8号館に来ておやおやと思った。耐震補強改修にかこつけて創られたモノトーンの鋼製ファサード。やりたかったんじゃないの!というのが僕たちの感想。
そして工学部2号館に来て愕然とした。
この再生?を担当した建築家は「東京大学キャンパス案内」(東京大学出版会発行)でこう言っている。
『2号館は震災前に設計された数少ない校舎の一つで、震災後の震災後の一時期、大学本部が置かれるなど、大学の重要な記憶をとどめるとともに、キャンパスの顔ともいうべき大講堂前広場を八十年にわたって守り続けてきた。内田祥三自身にとっても、構内で始めて手がけたこの作品が震災の被害を受けなかったため、その後の復興計画を任されることになった記念すべき建築である』
2号館は内田の原点である、と言うこの建築家が保存再生をし、『足下の歴史的環境を守りながら(中略)新旧のデザインがそれぞれの場で交錯し、応答を重ねるようデザインし、無造作な改変を受けていた部分を徹底的に裸形に戻し、明るく清透な旧状を回復した』と述べている。
 
僕は建築を擬人化して苦しんでいるとか、喜んでいるとは言いたくないが、2号館(上記写真参照)を見てついつい押し潰されそうで、もがきながらも諦念せざるを得ず、粛然と建っているといいたくなった。設計者は高層の墨絵のようなモノクロームの建築を創ることによって地面(培ってきた広場)を確保して時空に開かれた場をつくった、という。だがこの手法で「内田建築を保存再生した」と言いきれるのだろうか。内田祥三が残した広場・道、そして欠かせない建築と風景。時に敬意を払うということと、創る難しさをここでも感じる。

ところで赤門と正門の間に建つ四角いカーテンウォール・ガラス多用の法学政治学系教育棟の「時への敬意」は!どこへ行ったのたのだろうか?言い方はよくないが現在(いま)の手法でただ建っているだけだ。この建築がシャープで存在感があるだけに気になってきた。こういう風に創りたかったのだろうが・・・或いは誰かが創らせたのだろうが・・・

大谷幸夫の呻吟した建築家魂は何処へいってしまったのか!

樹木をうまく取り込んでいて僕の好きな弥生講堂でさえ、同行した学生は違和感があるという。いまの建築にしか興味のなかった若い学生の言うことに、実は僕は驚いた。Aさんが僕たちに見せたかったのはこれだったのか!
つくづく思うのだが、評価を得た香山壽夫が設計した一連の建築が、東大本郷キャンパスを培ってきた『時の箍(たが)』を、はずしてしまったとは言えないか。2号館はさらに何をやってもいいという、何か歴史に対する免罪符(手法の前例として)を与えてしまうことにならないか。

時は思わぬ功罪をなす。踏みとどまって時間と建築の関わりを真摯に考えてみたいと、東大OBでもない僕でも、ついつい余計なことを言いたくなる。でもまあ現代では、東大キャンパスとはいえども、日本の都市の縮図であることには違いない、ということになるのか・・・・

レプリカ・時の持つ意味 

2005-10-22 08:07:24 | 建築・風景

「保存の現在(いま)を本音で語る」
今レプリカなどの問題を立場を超えて本音で論議しておかないと、社会がおかしくなるのではないかと多少の危機感を持って「保存の現在(いま)を本音で語る」
<副題・レプリカを題材として>というタイトルで、東大本郷キャンパス工学部1号館階段教室に於いて、パネルディスカッション形式の研究会を行った。(2005年10月15日)
主催はJIA(日本建築家協会)保存問題委員会。主旨説明・小西敏正(宇都宮大学教授 JIA保存問題委員会前委員長)パネリスト・鈴木博之(東京大学大学院教授・問題提起共)、隈研吾(建築家 慶応義塾大学教授)、松隈洋(京都工業繊維大学助教授)、篠田義男(建築家 JIA保存問題委員会)それにコーディネーター・司会 兼松紘一郎(建築家 DOCOMOMO Japan)というメンバー構成である。

レプリカ問題を取り上げて公開の場で討論するのは、おそらく日本の建築界では初めてのことで、建築歴史学者、建築家、行政、NPOやゼネコンなどの建築関係者、朝日、日経新聞,建築ジャーナル誌などのプレス関係者、それに多数の市民が参加する中で熱心な論議が行われた。
後半に会場からの意見・質問などももらい、拍手が出ることもあってそれなりの成果もあったといえるかもしれないが、やはりレプリカ問題は難しく、当初考えていた`何らかの方向性まで見出す`というところまでには至らなかった。
いずれ仕掛け人の一人としてこの問題を改めて整理しないといけないが、下記「レプリカ・時の持つ意味」は当日配布した資料に記載した僕の論考である。
論議が進む中で、多少の考え方がかわったところもあって修正したい箇所(例えば設計者の思惑・問題意識。設計者は自分の痕跡を消したいという。良く解るのだが・・・)もあるが、あえてそのまま記載する。
<なお写真は当日の会場。内田祥三博士の設計した建築に、香山壽夫氏が改修した興味深い建築>


「レプリカ・時の持つ意味」
数年前のことになるが、JIAの大会で愛媛県内子町に行ったことがある。伝建になった街並みを、その保存再生に尽力した当時は内子町の職員だったOさんに案内していただきながら歩いた。ある漆喰で造られた蔵の前で、これは空き地になっていたのだが、正確な資料がないまま、多分こういう蔵が建っていたのだろうと想定の基にこれを建てた。ところが数年たつと、いかにも昔から存在してきたような錯覚を起こさせることになり、しかも古い本物の建物より先に傷んできてしまった。ますます本物のように見える。どうも自分は歴史を捏造したのではないかと、Oさんは呻吟している。
 
僕は其の時の有様を忘れ得ない。このひとつの事例から、様々な課題が浮かび上がる。
・それでは資料や図面があったとして(蔵では図面はないかもしれない が)そ  れ に基づき復元したら、それは本物といえるか。→レプリカは歴史を捏造する ことにはならないか。
・歴史を捏造することは、悪か。本物でないことを表示すれば、それは善となる  か。
・そういう問題を内在していても、レプリカを造ることは、都市や社会にとって必 要なことか。
つまりその痕跡がなくなることと、レプリカであっても「そこにこのようなもの」があったということを実感できることは必要か。そのほうが新しいもので練り固めてしまう都市より、僕たちはより豊かな人生をおくることができるか。

こういう問題意識を喚起する事例は沢山ある。
今回の研究会の案内に事例として取り上げた、東京銀行協会、横浜の日本大通の建築群、新橋駅舎、東京駅、旧京都第一勧銀、三菱一号館、それに萬来舎は、全てその課題に該当する。勿論微妙な(実はそれが問題なのだが)違いがある。
 
例えば萬来舎は場所も違うし正確な復元でもない。通常では保存したとはいえない事例なのだが、もしかしたら時を経ると、かつて在ったところにこのような物が建っていたと錯覚されることが起こるかもしれない。そのとき慶応義塾や設計者はしてやったりと思うか。いや少なくとも設計者の問題意識はそうではなく、かつて建っていた形を取り込んでかつてない造形を試みたというに違いなく、それは同じ建築家の僕には痛いほど良くわかる。しかし「時」は残酷で、そういう人間の思惑を超えてしまうことが起こるということもわかるのだ。
 
日本大通の建築群は、いわゆる本物の復元(本物のレプリカという言い方があるのか?)と、様式建築を模したそれらしきファサードを造ることによって、助成金を交付する仕組みがあり、その是非の問題を内在する。
 
東京銀行協会は、復元の悪例として取りざたされることが多いが、果たしてそうか。当時の社会状況の中で、あそこまで持ち込んだ設計者や関係者の努力があって、日本工業倶楽部会館や明治生命館につながり、丸の内の景色を創ってきた。納得できないことも多々あるのだが、と断っておきたいが・・・
 ところで反面教師という言い方もあって、あの部分を時折僕もそう言ってきたが、このごろ少し考え方が変わった。東京銀行協会のあのやり方を見て誰も本物とは思わないだろう。ということは歴史の捏造にはならない。レプリカを本物らしく創る危険を回避しているではないか。
 
しかし!と考えてしまう。ああいう建築に取り囲まれたら、僕たちは非日常的なディズニーランドで生活していることにはならないか。生活するうえでの大切な、ゆったりとした安心感は得られない。では本物とは何か。ごちゃごちゃしていて悪しき都市の例といわれる有楽町駅前や新宿の飲み屋街。なにやらバナキュラーっぽくて人の心をくすぐる本物のにおいに満ちている。

さて建築家はどうすればいいのか!    

日曜日の朝 ビル・エバンスのタッチ

2005-10-16 12:27:56 | 日々・音楽・BOOK
日曜日の朝はビル・エバンスのマイ・フーリッシュ・ハートで始まる。
耽美的といってもいいピアノのつぶやきと共に、スコット・ラファロのベースが半音遅れて爪弾くように支え、ポウル・モチアンのブラシがシンバルを微かにたたくと、カーテンを開いた窓から朝の斜光がさっと部屋に注ぎ込む。
薬缶に水を入れてコンロにかけ、白いナショナルのCARIOCA-MILL52Mに豆をいれてスイッチを押す。
今朝の豆は友人の送ってくれるブルマンNO1。ガーっと豆を挽く音が始まると、ぼさぼさ頭の女房が‘もう起きたの`とぶつぶつ言いながら隣の部屋から出てくる。その頃曲はアルバムタイトルの軽やかなワルツ・フォー・デビイになりすぐにデトアー・アヘッドに変わってゆく。
コーヒーの香りが漂いだす。

このアルバムは、1961年6月25日ニューヨークのビレッジ・バンガードで録音された。耽美的と書いたが何処かにかげりのあるエバンスのピアノを、心で支え奔放なプレイを展開した最高のパートナーであったラファロをこのセッションの10日後、自動車事故で失った事を考えると、何度繰り返して聴いてもこのトリオへの思いは尽きない。
同じライブの残りを収録したサンデイ・アット・ザ・ビレッジ・バンガードもあわせて聴いたりするが、僕にとってはこれは夜、ライトをスタンドだけにし、スコットランドのFINDELATER`Sなどをストレートで傾けながら聴くのが最高。お客のざわめきなどが伝わってきて、ついつい人生など考えてしまう。

とまあ格好よく書いてきたが、つい先日の日曜日、久しぶりに「ワルツ・フォー・デビイ」をかけた。日曜日が始まったと、心がほのぼのとしてきた。女房は相変わらずの格好で部屋から出てきて久しぶりだね!とのたまわった。そういえばずいぶんこの感じを味わわなかった。なぜかと考えると大リーグのせいだ。イチローが好きな僕は、起きるとすぐにBSのスイッチを入れてしまう。これもまたなんともアメリカなのだ。
球がミットに治まる音や、バットの空を切るが聞こえてきそうな緊迫感もいいが、ヤンキーススタジアムのグランドキーパーのパフォーマンスも楽しい。セイフィコ・フィールドのグランドキーパーのダンスも大好き。ここでは汽車の汽笛の音が聞こえてきたり、雨が落ち始めると大きな車輪がゆったりと動き出して屋根が移動してくる。新しく作った球場なのにそのなんとなくノスタルジックな様子もいい。

秋の夜はゆっくりと過ぎてゆく。
FINDELATER`S12年のふくよかな甘い香りをちびちびと味わいながら、こんなたわいのないことを書いていると、深夜1時を回った。アルバムはアローンに代わり、3曲目のミッドナイト・ムードになった。そうそうミッドナイト・ムードなのよ!ちょっと人恋しくなったりする。気がつくと曲はネバー・レット・ミー・ゴーにかわっている。面々と続く呟き。それにしてもビル・エバンスのソロのタッチはたまらない。
今夜もまた夜更かしか!

旅・人のいる場所 沢木耕太郎の場合

2005-10-12 12:38:44 | 日々・音楽・BOOK

建築家は旅をした。
吉阪隆正も吉田鉄郎も吉田五十八も大江宏も安藤忠雄も。そして自分を見つけた。
誰でも旅をする。でも若き日、放浪に近い旅のできる人は少ない。志もあるかもしれないが環境もある。僕の身近にも建築を視たくて事務所をやめ、シベリヤ鉄道に乗って3ヶ月ヨーロッパを歩いたO君という男がいる。何処か浮世離れをした髯男で熱くシェナの街を語っていたが、今はまじめに結婚して一見普通の叔父さんになった。

放浪の旅にあこがれていたのに僕はとうとうそういう旅ができなかった。だから建築家として名を残せない!とも思わないが、「人生こそが旅、それも放浪の旅だ」と感じることもある年になった。勿論それは年とは関係ないかもしれないし、今からでも遅くないかもしれないが現実はそういうものでもないだろう。
人生は放浪の旅と感じる人間は、たぶん計画性に価値を見出さない人生観の持ち主のような気がする。
ふとそう思ったのは、沢木耕太郎のエッセイ集「一号線を北上せよ」を読んだからだ。
誰にも「北上」したいと思う「一号線がある」というイントロから始まる50歳を越えた沢木の旅は、折にふれて彼の言葉の端々に出てくるのだが、いわば出たとこ勝負。旅が仕事といううらやましいような辛そうな彼の旅論に共感するのだ。

JIAトークで沢木耕太郎の話を聞いたことがある。
チェ・ゲバラだったかカストロだったかはっきり覚えてないが、そのインタビューにまつわるエピソードを中心にした興味深い話だったと思う。
質問の時間になって僕は、会場に来る前彼がその頃彗星のように現れた将棋の羽生善治に会ってきたことから話をスタートさせたので、タイムリーな羽生についての沢木感と、写真家藤原新也の旅論との違いについて問いただしたいという気持ちになっていた。
僕はその頃藤原新也の「全東洋街道」にぞっこんになっており、沢木の「深夜特急」を読みつくしていたものの、どこか物足りないものも感じていたからだ。

しかしちょっとためらってしまったのは、何の関係もないのだが、その数ヶ月前のトークで、デザイナー田中一光に、ところで一光というお名前は本名ですか?と質問し、そうですが!と怪訝な顔をされ、いいお名前ですね、と馬鹿みたいな返事をしてそのまま言葉に窮してしまった情けない体験をしていたからだ。
田中一光はJIAのロゴをデザインし、それは記念碑的な作品だと思うのだが、それから数年後訃報に接したとき、何か一光氏に対して申し訳ないような気持ちになったことを覚えている。
ためらっているうちに沢木のトークは終わってしまった。

沢木耕太郎は僕より若いがそれでも僕と同じだけ年を取ったはずだ。でも変わらず好奇心に満ち満ちているし、「象が飛んだ」というタイトルの、ボクサー・フォアマンとフォリフィールドの戦いのレポートは、人の生き方を超えてエスプリに富んだポエジーなっていて心を離さない。時を経て今僕は沢木をわかりかけている。
さらにこういう見方も彼はする。
壇一雄と壇ヨソ子の軌跡をたどってサンタクルスの町に来た沢木は、はなしに出てきた場所がすぐ見つかるというのだ。そろそろ行こうか、と当てのないままきた町で。
「その時、サンタクルスにさほど変化しない部分があることに気がついた。なんといっても通り過ぎる住人が他の町では見かけない穏やかな表情をしている」

そうなのだ。僕の感じている人のいる場所としての町を、彼は旅の中で見つけてくれたのだ。



マイアーキテクト(巨匠ルイス・カーン)

2005-10-08 10:03:01 | 建築・風景

六本木GAGAの試写室で,映画「マイアーキテクト」を観た。
室内が暗くなり、靄のなかに池を背にしたダッカのバングラディッシュ国会議事堂がぼんやりと現れると、30名あまりの建築家の吐息で、試写室の空気が揺れ動いたような気がした。後で気がつくのだが、このドキュメンタリーは靄のダッカで始まりクリアなダッカで終わる。それがカーンの生き方を模索した制作者息子ナサニエル・カーンの見つけ出したものだったのだ。

ルイス・カーンが1974年3月インドからの帰りのニューヨーク、ペンシルヴェニア駅で倒れ、パスポートの住所が消されていたために身元がわからず、3日間死体安置所に収容され、世界の建築界を震撼とさせたことはよく知られている。73歳だった。
地元フィラデルフィアで人種差別により仕事が実現できなかったユダヤ人のカーンが、芸術家としての完全主義を貫く苦闘の中で三つの家族を持ち、住所を記せなかった人生が明かされていく。二人目の愛人の息子として生まれたナサニエル・カーンは、11歳の時の父の死や、父の存在も受け入れられなかった。しかし父の創った建築と向き合い、父と関係した施政者、多くの建築家、タクシーの運転手、それに親族などのインタビューをしていくうちに、父ルイス・カーンの生き様を探り当てていく。カーンを受け入れない建築家や市民もいるし、思わず涙ぐみだしそうになる、タクシーの運転手もいる。

評論家スカーリーは映像の中で、カーンの建築に入ると、作品の中にある神と語っているようだと述べている。納得できる言い方だ。
興味深いのは親交のあったフィリップ・ジョンソンが、芸術肌で仕事に恵まれないカーンを尊敬の目で見ながら、顧客に恵まれる自分がやや甘く、代表作ガラスの家をカーンが訪れたらどう思うかというナサニエルの質問に対して、認めてくれないだろう、なぜならこれは四角い箱だからと自嘲気味に語る率直さに驚かされる。カーンを辿っていくうちに、建築家像が浮かび上がってくるのだ。
またフィラデルフィアの都市計画者が、カーンを罵倒する様子も編まなく映像化されており、父の生き様はそれはまたサニエル自身の生き様でもあることに気がついていく。
バングラディッシュ国会議事堂をサポートした地元の建築家が、カーンの息子が訪ねてきたことに驚き、息子がいたのかと思わず涙ぐんでナサニエルを抱きしめ、この建築の映像放映が10分程度だと聴くと、この素晴らしい建築を10分では捉えられないと嘆く有様に、僕は思わずほろりとしてしまった。息子ナサニエルはそこで何を見出したのか?(書きたいが書かない!)

ルイス・カーンはミースやコルビュジエと共に、モダンムーブメント(モダニズム建築)の代表的な建築家といわれるが、凛とした空気感を漂わせるその建築はカーンにしかないものだと思う。僕が好きなキンベル美術館は、光を見事に導き入れたコンクリートとトラバーチンによる温かみのある建築だ。訪れたのは19年前も前になるが、いつまでも忘れ得ないその空間は、やはり凛とした空気に満ちていたと思う。巨匠といいたくなるあの風貌のように・・・

このドキュメンタリーは、シカゴ映画祭最優秀ドキュメンタリー賞など、数多くの受賞を得ているが、2006年1月一般公開とのことである。


「ダブルプレー」 R・B・パーカーの描く男

2005-10-01 18:03:30 | 日々・音楽・BOOK
 
ボストンにスーザン・シルヴァマンという素敵な精神科医を恋人に持つ、スペンサーというタフな探偵のいることはご存知のことと思う。
ボストンでは彼を知らない者はいない。どの店で何を食い、何を着て何を履いているかも知れ渡っていて大人気だ。相棒といってもいい、スキンヘッドのマイケル・ジョーダンをクールにしたようなホークの存在も思い浮かべて欲しい。我がジェームズ・ボンドはシェイクしないドライマティニが大の好物だったが、スペンサーは極めてアメリカ人的で、ビールをよく飲む。
 
 ところでジョセフ・バークという第2次世界大戦で戦い、負傷して除隊した後ボクサーになった白人のボディガードは知っているだろうか。ジャッキー・ロビンソンは、1947年黒人として初の大リーグ入りをし、人種差別と戦いながら野球殿堂入りをし、歴史を変えた名選手だが、バークはあらゆる迫害から彼を守るためにそのボディガードを勤めた。

 無論スペンサーもバークも、作家ロバート・B・パーカーが生み出した、いかにもアメリカ的な素敵な`ガイ`だが、ジャッキー・ロビンソンが、ドジャースと契約を交わしたのは、1947年4月、日本で言う昭和22年、戦後2年目のことだった。当時はニグロリーグが行われており、スターだったロビンソンが大リーグ入りをすることは、ニグロリーグが衰退することになり、またロビンソンの存在は、白人の大リーガーにとってもそのポジションを奪われることを意味し、両方から指弾されるという厳しい状況になることは明白だった。
 しかし彼は、自分の存在がいずれ人種差別をほぐしていくことになることを心に秘めて、トライしたのだ。事実今抜群に面白い大リーグは、ジャッキー・ロビンソンが、いなかったら少し様相が変わっていたかもしれない。
 
 この小説「ダブルプレー」(早川書房)は、スペンサーシリーズがちょっとマンネリっぽくなって寂しくなったところで発表されたのだが、実在のロビンソンと架空のバーグの、お互いの尊厳をベースにした友情と共に、定番ながらローレンという危うい魅力に満ちた女の存在もあるし、何よりあの時代のアメリカの裏社会が見事に描き出だされていることが僕にはこたえられず、ロバート・B・パーカーの新境地を見るようで嬉しい。
 そしてこのジャッキー・ロビンソンについての記述を読んでいて感銘を受けるのは、かれが戦う男だったことだ。戦わなくては男ではない!と思っている僕は、こういう言い方をするとちょっと照れるが参ってしまうのだ。では何のために戦うのか!言うまでもなく自分のプライドのため。そこが泣かせるのだが、何に対してと問われると、ウーム・・・とちょっと考える。 

 さて、一言加えれば、ここに描かれた物語に内在しているのは、スポーツの世界の素晴らしさだと言ってもいい。
 あらゆる迫害に耐えてグランドに出たロビンソンが新人賞を得たとき、新人賞を主催している権威ある<スポーティング・ニュース>紙の選考理由にそれを見る。当時の社会状況を考えると、アメリカの懐の深さも感じとれる。下記池井優氏の解説から収録させていただく。
 『今回の選考に当り、ジャッキー・ルーズベルト・ロビンソンが他の新人以上の障害に出くわしたこと、さらには一人前の大リーガーとして認めてもらうためこれまで苦労しなければならなかったことを本紙はまったく考慮に入れなかった。(中略)ロビンソンは大リーグにおける一人の新人選手として扱われ、打撃、走塁、守備、そしてチームへの貢献度を基準にして新人王に推されたのである』