日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

2枚の気にいったポスター:ロバート・デニーロだったのだが

2009-06-30 10:13:53 | 写真

色気のあるいい男っているのだ。新宿西口広場の柱に貼られた数枚のロバート・デニーロの顔。スバル・レガシーのポスターだ。しわや皮膚の毛穴までが克明に撮られているが、その質感がえもいわれぬ初老に近くなった『壮年』男の味わいを醸し出している。
もう一枚は、一昨年訪ねたSeoulの地下鉄に乗る駅の壁に貼られていた若い女性のクローズアップの写真、化粧品のポスターだった。美しい。僕には縁のない若い美人だ。と書くと、不服そうな顔をする若い「こ」(女)が・・いるかなあ!

ポスターには賞味期限があってうっかりすると貼り替わってしまってなくなってしまう。Seoulのこの素敵な写真は即座に撮影したが、ロバート・デニーロのポスターは撮り損なってコトバでしか紹介できないのが残念だ。<ポスターとはいえ肖像権があるかもしれない!>
俳優と言う、いわば自由人だからこの風情が得られるのか、こういういい男だから俳優になれるのか、まあそんなことはどうでもいいのだが、僕はこういう男の情感が好きなのだ。

憧れってあってもいいんじゃない!
僕の好きだったポール・ニューマンや、NATO秘密情報員ジョン・ドレイク、いや奇妙だったプリズナー№6の渋いパトリック・マッグーハンが昨年亡くなり、全くタイプの違うデニーロに心が動いたって・・
でも不思議なのは、TVコマーシャルではレガシーを運転する小さなデニーロの姿は映し出されたものの、クローズアップが無い。損したんじゃないの?レガシーフアンを獲得できなかった、とかで・・

二つのポスターを並べて掲載したかったのだが、デニーロがいないので仕方が無い。仁川(インチョン)の旧いレンガ造建築の窓から表にいる僕を誘う妖しげな女のポスターを並べてみた。
韓国の女って油断できないのだ。

整体「優美堂」のあるまち  :海老名

2009-06-26 11:26:40 | 添景・点々

海老名市河原口郵便局の先の角を曲がると、厚木倉庫ビルという何の変哲も無い小ぶりなコンクリート造の建物が現れる。階段をえっちらと上がり右に数歩、そこに整体「優美堂」がある。
主(あるじ)が一人、ほかには誰もいない。治療台もカイロで使ううつ伏せになったときに息できるように口のところに切れ目のある一台だけだ。

言われると当たり前のような気がしたが、ちょっと驚いた。主が云う。頭皮と骨(骸骨だ!)の間にも筋肉があるし筋がある。僕の頭は硬くてピシッと骨を守っている。頭を守っているとはいうが、つまり筋肉が張って硬くなっているのだ。「うーん」と唸ると、柔らかくてね、ふにゃふにゃの人もいるんですよ、と主が僕に気を使う。血が上って降りなくなるんですよといわれると、そうかあ、人様々だけど柔らかくなくてよかったなあと思う。

僕は身体が硬くて、カイロにいってもマッサージにいってもいつもびっくりされる。釧路のホテルのマッサージのおばちゃんにも驚かれた。雪が凍っていて転んだというと大丈夫かと本気で心配された。
いつも「仕事が仕事ですからねえ」と気を使われるが、仕事といってもねえ、ノーテンキなあなたが、と妻君に笑われそうだ。でも凝るのは妻君も同じ。優美堂が気に入り「あんたも行ってみたら」と云ったのはその妻君なのだ。

初めて会ったのに、主と話が弾む。いつものことだ。いやそうではない。感性が合ったのだ。
病院,こんなこともあった。
海老名の病院で、まず左眼の白内障の手術したときは、左目が驚くほどクリアになって右目で見る景色が赤いものだから左目で見ると「景色が」(それを僕は「世の中が」と言ったりした)ブルーぽく感じ、その面白さをJIAの機関誌に書いてコピーを持っていったら、手術をしてくれた名医(両眼の近視、老眼、乱視が見事に補正され、裸眼でも1,0~1,2.眼鏡がまたうまく合って、最後のほうは当てづっ方が当たったりして1,5~2.0まで見えてしまう)に苦笑された。

「ばね指(弾発指)」が左の薬指に発生し、話し込んだ東海大病院の女性医者とぞっこんになって嬉しくなったら、容赦なく掌に痛い注射を打たれた。
法事で妻君の兄貴に`ばね指`の自慢したら、注射は3回までで、それが駄目なら手術するのだと逆に自慢?された。僕より歳の若い兄貴にそんなの当たり前で特別なことではないとさらりとかわされたのだ。負けた!彼は経験者でなんと手術をしたのだってサ。

主は少林寺拳法にのめりこんだ。脱サラした。神経を使い常に身体が凝っていた。海老名に工場のある大手メーカーのコンピューターをつくる技術者だった。整体は、主の少林寺拳法の体験を活かしたのだ。
静かなバックグラウンドミュージックに、マイルスの吹くバラードが流れた。JAZZだと喜ぶと、学生時代ギターを弾きコンボを組んでバイトをやっていたのだと主がJAZZを語った。

「これどう?聴いてみない?」と2回目のとき僕が持っていったCDは、「Tenderness」。ピアニスト木住野佳子の溜息が出るバラードだ。ダニー・ボーイ。
何だ、という「奴」は聞いてご覧、ホントニ溜息が出るヨ!
でも僕がぞっこんになったのは実は3曲目の「フィール・ライク・メイキング・ラブ」。大人のラブソングである。

「主」が整体を志したのは、ありえないことだが、自由人と体育会系が合体したからだ。
妻君がちょっと驚いた。「ウン、優美堂は俺にピッたしだ」、には当然だと言う顔をしたのだけど、初めてなのに人生論を交わすとは!驚いたと言うよりは、まあいつものことだと呆れ顔だッたのかもしれない。

今日は日曜日、いい歳になった僕は自分の身体を労わる。
僕の住むまちにこんな「優美堂」がある。



愛しきもの(9) お多福の「乙御前」が重要文化財になった

2009-06-18 23:09:15 | 愛しいもの
             
文化庁文化財部が監修して第一法規から発行されている「月刊文化財」を、数年前から購読している。主に歴史的建造物の動向や、その価値判断や基準を学ぼうと思ったのだが、建造物の特集号はともかく、積読(つんどく)的とか読み飛ばしっぱなしという有様で、じゃまっけだねえと妻君から言われっぱなし。でも登録文化財特集号など、貴重な資料として役立ってもいる。
そうでなくても親しい建築史研究者のモダニズム建築の価値判断や、面識のある文化庁建造物担当者の報告など読み、門外漢とはいえ埋蔵文化財や織物論考などをついばむと、文化庁とはなんぞやという好奇心が刺激されて、結構楽しいのだ。

今月号(平成21年6月号・このところ平成といわれるとピンとこなくて困ってしまうこともあるのだが、文化庁は平成表記だ)は、美術工芸品の「新指定文化財」特集で、通常ならパラパラとめくって積読になってしまうのに、思わず精読してしまった。

一つは「与謝蕪村筆」の南画『紙本墨画淡彩夜色楼台図』が国宝に指定されたことだ。
この一幅には、京都という民家の密集した「都会」の雪の降る夜の景観が描かれている。江戸末期の街の様を「都会」と捉えたコトバに惹かれる。
筆勢は大胆で暗い夜空と山並みの麓に埋め尽くされている民家の屋根には雪が積もって明るい。

文化庁の評価は、「蕪村(1716-83)」の優れた詩人としての創造性と絵画における独自の創造性とが渾然一体となった稀有な作品だ」とべた褒めだ。べた褒めだから国宝になったのだが、この水墨画は、よく覚えてはいないのだが,NHKの日曜美術館や、芸術新潮などで観たことがあるのではないかと思う。目にした途端、これかあ!と思ったのだから。
評価としての「都会の風景」という一節を眼にした途端、そこに住む人々の生活まで思い浮かんできて溜息が出てくるのだ。

二つ目は、建造物担当田中禎彦さんの書いた、文化財を記録するという欄の「建築彩色を記録する」だ。模写の手順や機械を使った記録、光ファイバーの斜光ライトでは影ができて絵様が判然とするとあるし、オルソ画像という3Dレーザースキャナーという最新機器を使った手法が紹介される。田中さんとは知らぬ仲でもないので、こういうことに関わっているのだと感じ入った。

そして何より僕の好奇心が刺激されたのが、本阿弥光悦(1558-1637)作の赤楽茶碗「乙御前」が重要文化財になったことだ。この茶碗は、お茶を嗜む人だけでなく、陶器に関心があり、それだけでなく我が人生に日本文化考察が巣食っている人にとっては欠かせない茶碗なのだ。
思わず手に触れて撫でてみたくなる(下記「茶道具の世界」の記述)丸みを持った茶碗が、三井文庫が所有している黒楽の「雨雲」が重要文化財になっているのに、何故重文ではないのだろうとづっと気になっていたが、個人蔵とあるので、様々な思惑があるのだろうとも思っていた。もっとも光悦には「不二山」という国宝になった白楽茶碗がある。

銘の「乙御前」とは`お多福`のことだそうだ。
「伏せて高台を見れば小さな円盤状の高台よりもその周りが高く盛り上がり、まさに鼻が低いお多福の趣となっている」とある。なんともはや!この記述が公文書なのが楽しい。
しかし十五代楽吉左衛門が編集した「茶道具の世界」`楽茶碗`(淡交社刊)には、これほど豊かな表現にみちた茶碗は、他にはあるだろうか・・底部から突き上げるようにめり込んだ高台・・おしりの可愛らしさ、愛らしさ、そして力強さ、とあり、光悦茶碗中、随一の優作とある。

さてこの茶碗を見る機会はあるだろうか。それはいずれにと楽しみにしておくが、僕にもふっくらと胴のふくらんだ大好きな茶碗がある。
まだ銘はない。大嶺實清作の沖縄のざらっとした土の感触がえもいわれぬダイナミックな茶碗だ。乙御前がお多福なら、僕の茶碗は男茶碗だ。
さて僕は、これから静岡の名物`追分羊かん`をお菓子にして、この茶碗でお茶をいただくことにしよう。

<写真 大嶺實清作・愛しき茶碗>


東京女子大旧体育館に響きわたった ビートルズの「アクロス・ザ・ユニヴァース」

2009-06-14 10:43:25 | 建築・風景

ジョン・レノンの爪弾くギターの音を聞いた途端、東京女子大旧体育館のあの空間が浮かびあがり、ジョンが唄いはじめると、僕たちの前で慈しむようにギターを弾き唄う英文科のホープ中野学而講師の姿が瞼に現れた。曲は「アクロス・ザ・ユニヴァース」。
心にじんわりとしみ込んで来るいい唄だ。
東女(トンジョ)旧体で、中野学而がギターを弾きながら唄たったザ・ビートルズのアルバム「LET IT BE」の3曲目に収録されたこの曲が、僕の生活の一部に、おそらく生涯留まることになった。

2009年5月20日(水)の午後、(2009年と記録しておきたいのだ)旧体育館で学生が主催した「体育館=社交館」復活イベントで、永井路子さんや鳥山明子さんと共に、レーモンドの設計したこの体育館への想いを語り合ったあと、森一郎哲学科教授から最後にもう一言如何ですかと言われ、面々と熱い想いを語り継いだものの、コトバの限界を感じていた。
中野講師が、いきなりギターを弾き始めたとき、ああこれだと思った。唄が響く。旧体がコンサートホールになったが、理屈なんてどうでもいい、ビートルズだ。かつてプロを目指したという中野学而が、あっけなく僕のコトバを飛び越えた。

最近あまり聞かなくなったが、ひところ「ビートルズ世代」という言い方があった。60年安保世代、というのもあったし、安田講堂世代もあった。60年安保は僕の少し前の人々の「焼け跡派」のもののような気がしたし、安田講堂・大学紛争は、団塊の世代。僕の歳を通り越した。ビートルズ世代は、その団塊の世代と結びついたような気がしていた。
「俺はねえ、プレスリィ世代でもなくてペレス・プラド世代かなあ」なんて云ったこともある。
ペレス・プラド、今の若者は知らないだろう。でもどの言い方も僕にはしっくりこなかった。

年代が錯綜しているが、高校生時代に、芥川賞を取って時代を震撼とさせた慎太郎の「太陽の季節」が映画になり、文学部の部長だった僕は、部員を引き連れて観に行った。映画を観にいったのではなく芥川賞を観にいったつもりが北原三枝にぞっこんになった。でも三枝の相棒裕次郎は演歌っぽくて馴染まず、ジョン・バイエスに向かい、PPMになった。なぜかボブ・ディランには目が向かなかった。そして30歳になってJAZZなのだ。ゲイリィ・ピーコックを、笠井紀美子を銀座のジャンクで聴く。
それがこの歳になってビートルズだ。僕はなぜか一呼吸遅れる。いやビートルズだという事になるとなんと半世紀、はるかに乗り遅れた世代になるがそんなことはどうでもいい、ぐっと来てしまうのは仕方が無い。

「LET IT BE」はビートルズの最後のアルバムで、ライブ仕立ての「Get Back」録音をベースに、他のセッションを組み込み、ストリングスやコーラスをオーバーダビングしてつくられた。完成度が低いなどと言われるが、いやいやそんなことはない。なんとも魅力的なアルバムである。生々しい。

聴き馴染んだ「レット・イット・ビー」。それに「トウ・オブ・アス」、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」そして「ゲット・バック」。どの曲を聴いても時代を超えている。そしてなぜかどの曲もメロディをなぞれるほど知っている。そして、今なぜか「アクロス・ザ・ユニヴァース」に出会ったのだ。

アルバムのライナーノートをめくっていて愕然とした。こういうところが僕が一呼吸遅れる、言い方を替えると`トロイ`ということだ。
ジョン・レノンがリバプールで生まれたのはなんと1940年、僕と同い年ではないか。そしてビートルズがレコードレビューしたのが1962年。僕が大学を出た年だ。ああ、なんてことだ。ちょっと大げさだけど僕はビートルズ世代なのだ。それがなぜ?1966年の日本武道館における日本公演は事件ともいえるのだが、僕は箱根の強羅でホテルの建設現場に没頭(?)していた。

それはともかくビートルズを聴く度に、東女の旧体の室内空間や、そこで舞う艶やかな若者たちの姿、花が活けられた水鉢が目の前に現れ、数多くのOGの方々や先生方の顔、暖炉を前にして近藤富枝さんと談笑する学生たち、チャーミングなジャーナリスト藤原房子さんの姿、それにどこかで気持ちが通じた事務長のにこやかな顔が浮かぶだろう。保存要望書を持っていったのに!
記者会見でご一緒した平野健一郎先生の穏やかな声が重なって聞こえてくるかもしれない。

中野学而講師がコーディネートして何度かビートルズを中心としたコンサートがこの旧体で行われたそうだが、僕が聴いたのはただの一回、それも一曲。
あの時、思わずアンコールと叫びそうになったが、「アクロス・ザ・ユニヴァース」一曲なのにこれからの僕の人生に「ビートルズ」という思索対象が現れたのはなぜだろう。
東京女子大旧体育館が響き、僕に与えてくれたのは「無限かつ永遠の愛は、何億もの太陽のように、私のまわりに光り輝き宇宙の果てえと、私を誘う、『Across the universe』」。









消えない澱・旅先で! ´ゆず´の「この空を見ていますか」

2009-06-06 12:36:41 | 日々・音楽・BOOK

岩沢厚治と組んだ音楽グループ`ゆず`の北川悠仁が、アフリカ難民キャンパスを訪れた。TV局の企画なのだろうが、ペアではなく一人で訪ねたのだから、問題意識を持って出かけたのだと思う。NHK・BS2をみながら、そこで生まれた唄にうたれた。「この空を見ていますか」。(5月30日、pm9:00-)

民俗闘争が起きていて、家の前で父が刺殺されたソマリアからの難民少女の「わからない」と口ごもる姿と、「夫を殺した国には帰らない」というこのこ(娘)の母親が言うそのコトバに、北川と同じように僕も声も出ない。ヒヤリングしていた北川に男が穏やかな口調で言った。お金を出す気持ちは無いのかと。
北川は無言で車に向う。そしてジープの前で肩を落としてしのび泣く。彼の人柄が伝わってくるシーンだ。

僕はこのTVの画面を見ながら、心からいつまでも消え去らない、二つの些細な出来事を思いだしていた。
パリ。モンマルトルのレストランに、花を買ってくれと少年が来た。僕は首を振り、写真を撮らせろとカメラを構えた。少年が手を出した。撮らせるから金を出せというのだ。僕は瞬間的にそっぽを向いてしまった。20年以上にもなる一瞬の出来事だった。

DOCOMOMOの総会に出るために訪れたイスタンブールのシナゴークの建つ街角で、目の悪い少女の手を引いた母親らしい女性に手を出された。お金を恵んで欲しいというのだ。そこでも僕はそっぽを向いてしまった。
後に、イスラムの人々は人が共存するために、些細なお金でも手渡してそういう人々を支えるのだと聞いた。手を出す少年の辛さと、手を出して断られても恨みを言わない女性の変わらない表情が、今の僕には辛い。消えない澱(おり)というものがある。
北川には唄がある。

北川から唄が生まれ、ゆずが唄う。「同じほし(地球)のどこかで『この空を見ていますか』。ふるさとの唄が聞こえます。ありがとうと君に届けたい・・・」

<パリを訪れたときの写真をめくると、あのときの少年の顔が浮かぶ>



キラリの「白い鯛焼き」君

2009-06-02 23:52:23 | 日々・音楽・BOOK

「白い鯛やき」を食べた。
JR中野駅北口のすぐ傍にある「煌梨(キラリ)の白いタイヤキ」中野店の名物鯛焼きだ。探し出したのは僕ではなくて、僕の娘。買ったのも娘、お土産にと持ってきたのだ。

「白い鯛焼き」。初めて見た。
白だけでなく、抹茶色もあり、あんこも小豆の粒あんや漉しあん、それに白あんもある。
白い衣(かわ)に小豆色のあんこが微かに透けて見えていたりしていて、いかにもうまそうだ。早く食べてみたい。どれにする、というから、甘さが滲み出ている小豆あんにした。

かぶりつくと、もちもち感一杯、普通の鯛焼きとはべつものだ。餡子の味もさっぱりしていてなかなかうまい。
次は白い衣に白いあんの、それこそ「白い鯛焼き」を食べる、と僕は宣言した。

『閑話休題』。というほどのことではないが、娘が会社の朝礼で「白いタイヤキ」君を披露したら`ざわめき`が起こり、有志による中野グルメ探索ツアーをやることになったのだそうな!