日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

堀口捨己博士の「草 庭」と出雲大社本殿(2) 僕の明大での受講

2016-03-09 17:22:31 | 素描 建築の人

堀口先生の肩書は「建築家」だが、「草 庭」を紐解いていくと、ついついサテ!と考えてしまう。外廊下が印象的な堀口先生の設計された白亜の駿河台校舎の教室ではあったが、建築家堀口捨己ではなく、建築史の研究者としての講義だったとの思いが強い。
ことに出雲大社論考は印象深く、22年前になる1994年の4月、JIA(日本建築家協会)の機関誌Bulletin4月号に記載した「60年+1秒だよ」というタイトル。このタイトルはお仲人をしていただいた板画家棟方志功先生との出会いにも触れて付けたものだが、「一年間出雲大社の講義だけ」と14行目に副題を付けたエッセイには、読み返しているとその時の堀口先生の姿が蘇ってくる。

「2部にはゼミがなかったし、絶対休めない材料実験の講座を取らなかったので、ほとんどの授業を堀口捨己先生の設計した白色で端正な外廊下のある新築の校舎で受けた。この校舎が建築との出会いの始まりだったかもしれない。堀口先生には日本建築史を教わった。とはいっても先生は1年間を出雲大社の講義だけをなさったのである」と書いている。

しかしいま考えると果たして出雲大社だけ?と?マークをつけたくなるが、「一抱えもある資料を毎回お持ちになって〝学説はこうなっているけど私はそうは思わない〝と淡々とご自分の研究成果を話された。私は先生の話をそれほど面白いとも思わず影響を受けたとも思わないが、30年たった今,天にも届く壮大な社と、気の遠くなるような雄大な木造の階段の姿が、先生のお顔と共に思い浮かぶのは何故なのだろう」と書き記している。

そして後に出雲大社本殿の近くを掘削調査がされて、野太い丸太柱が出土されたことがあり、僕は密かに堀口先生に瞑目したことも思い出した。そしてちょっとつじつまが合わないが、先生にはどこかの五重塔の矩計図を描く授業を受け、綿密な修正指導を受けたことなども浮かび上がってきた。

後に関東甲信越支部の理事などを担うことになったJIAの機関誌でのこのエッセイ、狩野芳一先生が僕たちの入学と同時に東大から明大に来られた、とあり、昨年30年目の同窓会をやった時に、〝あの君たちがねえ″と一人前になった僕たちを見てつくづく感慨を覚えられたようである、と記す。

文学の道に行くはずだった僕が故あって建築への道を歩むことになったことを想いながら、学んだ先生方への想いも湧いてきた。
東大から理科大へ行かれた設備の斎藤平蔵先生が講師として僕たちを指導して下さったが、このエッセイには、「今でも熱交換原理がわからない僕たちなのに、授業の後銀座の樽平という飲み屋によく連れて行って下さり、ある時銀座の大通りで立小便をした」などと記載してある。無論先生が連れションをしたかどうかは全く記憶にないと結ぶ。

<写真・全て解体された堀口先生の駿河台校舎の写真が手元にないので、観てきた堀口先生の代表作常滑陶芸研究所・2006年2月4日撮影を掲載する。>


堀口捨己の「草 庭」と出雲大社本殿(1)

2016-03-06 20:51:14 | 素描 建築の人

何時の頃からか僕の部屋の本棚の真ん中に「草 庭」と題した本が鎮座している。
その両隣には`建築は兵士ではない(鈴木博之)、`建築の七燈`(ジョン・ラスキン)、周辺に建築の存在への示唆を与えてくれた`レンブラントでダーツ遊びとは(ジョセフ・L・サックス),少数派建築論(宮内嘉久)、そして本棚に収まりきれなくなって`民俗知識論の課題・沖縄の知識人類学`という僕の問題意識を培った渡邊欣雄(現国学院大学教授)の著作と、JAZZを放つと副題のある洋泉社の`JAZZー´などが「草 庭」の上に横たわっている。そのいずれもが、堀口先生の草庭とは直接のリンクはしてはいないものの、僕の問題意識を共有しているのだ。

さてこの「草 庭」。奥付を見ると、1974年9月30日初版第4刷とあって、堀口捨己・1895年岐阜県生まれ、1918年に東大を卒業、現在明治大学講師、と記載されている。

僕の学んだ明治大学建築学科は、堀口先生(教授)が建築学科長となって主として東大からの教授連によって設立された。僕はその10期生(故あって僕は二部…夜間部)。入学したのは1958年だからこの奥付はつじつまが合わない。冒頭の「はしがき」には昭和22年8月と日時が記載されていて、そうだとすると1947年、堀口先生が52歳のときの著作だ。
 
冒頭に「再版に当たって」と題した著者の`再版について筑摩書房から話があったときは私には驚きであった、と言う堀口先生の率直な想いが記載されている。編輯委員会が行われた折、太田博太郎博士が出てきて下さったので、新しい資料が出てきたので一部を取り込みたいと述べたら、再版ではなく改訂版になってしまうとの指摘があって、そのまま復刻することにしたと述べている。奥付もそうなのかとわかったが、不思議な本だ。
ページをめくると、彼方此方に鉛筆による傍線が引いてあり、ところどころに文字の書き込みがある。ことに、「茶室の思想的背景とその構成」に多く、二重線を引いてあるものもある。また「信長茶会記」と「石州の茶と慈光院の茶室」の所々にも傍線が引いてあり、私事ではあるものの、30代半ばという若き僕自身の好奇心!がうかがえて興味深い。

其れはさておき、太田博士は、その論考の中で堀口先生の桂離宮論に関連して、「干からびた機能主義の其れではなく、建築を芸術とみる建築家の精神から出ている」と述べる。そして建物と茶の湯の研究と副題のある「草 庭」。五編の論考。そして僕は、先生が茶室の、茶の湯の研究者として、建築家として、どの考察にも綿密で膨大な「註」があり、あらゆる文献を考察して論考していることに言葉も出ない。

この一文を書き起こしながら、堀口先生が設計をされた駿河台の白亜の校舎の教室の最前席で、先生の講義を受講した五十数年前を改めて想い起こしている。

<この論考は、5月22日に明大駿河台校舎で行われる明大建築学科の同窓会「明建会」の5年毎に行う大会で、学生時代、堀口先生に学んだことなどを題材にして講話することを視野に入れて書きはじめたものである>

ロンドンのNagumoさんへ mさんと!

2014-12-29 23:15:21 | 素描 建築の人

足を骨折したmさんの快気祝いをやろうということになって、伊勢原の「竹中」に行った。Mさんに言わせれば、´中伊豆の幸´である。居心地のいいカウンターの隅に小さなコンロにふっくらとした椎茸が炭に焙られて僕たちを待っていた。この店の大将が中伊豆の出身で、そこの特産の食材を提供してくれたのだという。そして日本酒で乾杯・・・

僕の若き朋友mさんと札幌のmoroさんとは、ブログを介して出会い、人生の一部を共有する事になった。僕の世代の共通項、アナログ人間の僕にとっては不思議な縁である。

そしてふと豪雨が襲った九州、天草・下田の様子が気になって大丈夫か?と、建築誌に書いているエッセイなどを同封して小学生時代の同級生吉田君に手紙を出したら電話がきた。心配ないよ!と元気な声。同級生たちの様子を聞いた。床屋の末吉だけがやけに元気なんだよねと笑うその様にホッとしたが、電話は入院している病院の病室からだった。彼は幾つもの手術を繰り返していて、いわば満身創痍、でもくじけない。その彼を明るい奥さんが支えている。

そんなことが思わずmさんとの会話で取りざたされることになった。一回りちょっと若いのに、お互い、人生を語る歳になったということなのだ。

そしてやり取りの中で、思いがけない名前がmさんから出た。
ロンドンのマイケル・ポプキンス卿の元で設計している建築家Nagumoさんのことだ。
数年前のことになるが、鎌倉の近美(神奈川県立近代美術館)に数人の建築仲間と一緒に出かけ記念写真を撮った。
その後誰の案内だったか失念したが、坂倉のOB室伏次郎さんの設計した北鎌倉に近い丘陵地の下のほうに建てた興味深い住宅を表から見た後まちを歩き、駅前の飲み屋でみんなでわいわい建築談義をしながら一献傾けた。イギリスの建築界の様子を漏れ聞いたmさんには印象深い一日だったのだろう。

そのNagumoさんからAIR,MAILをもらった。Season's Greetings 2014/15である。
そこにこういう一文があった。「ブログは拝読しています」。

Nagumoさん。まずこのブログで近況報告をしました。まあなんとか元気にしてます。
さて次の来日の予定は?

<写真、12月22日に行われた愛知県立芸大の耐震改修の検討を行う部会(委員会)で名古屋に行った帰りの新幹線から撮った富士山>

鈴木博之先生を悼む

2014-02-08 17:05:48 | 素描 建築の人
2月3日、鈴木博之先生が亡くなられた。近親の方々で密葬された6日の夕刻、知人から訃報の電話を貰った。言葉がありません。僕よりお若いのに、抱えてきたいくつもの案件を支えて下さった。これからどうしようかとおもう。ただただご冥福をお祈りします。
親しい新聞記者からも電話があったが、問にうまく応えられなくて、こういうときに申し訳ないと気を使わせてしまった。

僕の住む海老名は猛吹雪になった。小田急線の間隔が空いている。明日からの沖縄行が気になる。鈴木先生とも相談していた5月に行うシンポジウムの、沖縄の建築家やサポートをしてくれる人たちとの下打ち合わせ、聖クララ教会でのコンサートへの参加、沖縄の地に根付いた建築家へのヒヤリング、陶芸家大嶺實清先生との面談もするのだが・・・

僕のこのブログの、この一文の上部に置いてあるメッセージ「お知らせ」のコメントをお読みいただけると幸いです。
2年前の鈴木先生とのやり取りです。

夢の中で・「建築家 走る」隈研吾

2013-02-26 12:24:38 | 素描 建築の人
夢はさて覚めては現(うつつ)幻の・・などというが、目覚めるころにはこれは夢だと思い、よしこれを書き留めておこうと夢の中で思ったりすることが時折ある。しかし、目覚めてみるとそこまでは覚えていても、はて?さっぱり様子が分からないことが多い。

実は昨夜NHK・BSで、何度も観た「プレティ・ウーマン」を改めて見て涙ぐみ、善意の人を描き出した映画っていいものだと改めて感じとって、それを書いておこうと思っていたのだが、変な夢をみたので忘れないうちにそれを書き留めておきたくなった。

場所はどこかの教室のようだった。15センチ角くらいの繊維の残るわら半紙のような紙が分厚く綴じられたもの木の机の上にあり、そこには太い鉛筆で絵(図面)のある課題が無数に書いてあって、それを短時間で解けというものだ。
僕の周りでは数多くの建築家たちが真剣に取り組んでいる。こんな具合だ。数枚の四角い紙を使って立体化した様々な造形を組み立てろ!
時間も無くなって呻吟し、まあいいやと思ったら場面が変わり、僕ともう一人(それがなぜか、どうも鈴木博之さんらしい・建築家ではないナ!)の二人だけがその課題を出した建築家に指名されて別の建物に連れて行かれた。この木造の建物は僕の夢によく出てくるものだ。

いつもは2階建ての2階のようで、横長の窓の連なりの、光が注ぐ中庭を挟んだ向かい側の建物が地震によって流れるように動いてゆき、場合によっては崩れかけるのだが、そこで夢が閉じる。しかし昨夜は向かいの建物は動いておらず、二人で単に新たな課題に取り組むことになるというようなものだった。
その課題を出す建築家がどうやら隈研吾さんらしいのだ。顔が現れないのが不思議だしなぜ隈さんだと解ったのかも分からないが夢だから仕方がない。そこで目が覚めて考える。沢山の課題も周りの建築家たちの姿も覚えていたのに全ては現(うつつ)幻の。これしか思い出せない。

さてと思う。昨日親しい文筆家、清野由美さんからメールが来た。
「聞き書きを担当した隈研吾さんの語りおろし本『建築家、走る』(新潮社)が上梓の運びとなりました」というものである。
取材中のエピソードも聞いていたし、このメールにも面白い一言が書かれていてそれが僕の頭の隅に残っていたのだろう。
さてそれにしても鈴木博之教授は?沖縄の建築家とのやり取りで昨日も名の出たお名前がどこかに在ったものか?でもすべては幻だ。

林昌二さんを偲んで

2011-12-04 11:24:00 | 素描 建築の人

11月30日、林昌二さんが亡くなられた。一報をもらいあわててJIAの事務局に電話した。第三代の会長をなさったのだ。(1990~1991)
この2月、DOCOMOMO Japan150選展の実行委員になっていただくお願いとご相談に静養先をお訪ねしたときのあの笑顔が蘇ってきて言葉が出ない。心よりご冥福をお祈りします。

林さんを慕う大勢の人の想いが寄せられていると思う。
歴史に残る数多くの建築作品もさることながら、多彩な建築活動をリードするとともに、陰でさまざまな方々をサポートされて来たお人柄があるからだ。JIAでもDOCOMOMOでも、あるいは神奈川県立近代美術館100年の会(近美100年の会)でも、僕の関わる数多くの活動をさりげなく支えてくださったのが林さんだった。

DOCOMOMO Japanは、2000年の春、鎌倉の近代美術館での20選展でスタートした。大手五社と準大手に声をかけて協賛のお願いをしてくださって事務局長の僕を支援してくださったのが林さんだった。

近美の会にもよくお出かけくださった。林さんがいるのといないのでは格式が違ってくる。
近美100年の会の会合を、見学会も兼ねてご自宅で開催させていただいたこともある。20人にもなってしまってご心配をおかけしたが,亡くなられた雅子夫人のお写真に一人一人がお花をささげることができた。夫人が亡くなった後自宅に招いたのは、あなたたちが初めてだったのだけどと、とても喜んでくださった。
僕たちは会合が終わってから、持参したお菓子や果物、飲み物を片付けて大掃除をし、ごみを全て袋に入れて持ち帰ったりした。若い参加者は、林さんの案内でご自宅を拝見できたことに大喜びだった。

あるとき、ご自宅に数名でお訪ねした時に、ふと今日は誕生日だとおっしゃったので、お祝いをしようと出かけた市谷の料理店では、僕たちがご馳走になってしまったことがある。翌年それではと思ってお祝いの会の相談をしたら、自宅でやってほしいということになって大変になった。
何しろ知る人ぞ知るグルメ、うなぎはこの店のものしか食べないということも解っていてメニューに四苦八苦、でも喜んでくださったこういう機会も得がたい。
林さんはココアにこだわっていてコーヒーはあまりおのみにならないということだったが、それではとコーヒーメーカーを持参して之だという豆をひいて入れてみた。一口お飲みになってうーん!とにこりとされた。さて?こういう機会をいただくのもたまにはいいものだと思ったものだ。

僕の関わったシンポジウムにはよく登場してくださった。
三信ビルの保存のためのシンポでは会場に来た下さったものの、お話いただく機会を作れなかったら、翌日お手紙を下さった。林さんらしい、ちょっと皮肉っぽい口調でこの建築の魅力と位置づけを見事に捉えている得がたいメッセージだった。林さんが「三信ビル」(残念ながら解体されてしまった)にシンパシーをお持ちなのが新鮮な驚きだった。

JIAの[建築家写真倶楽部]の設立は、Kさんと一緒に林さんに声をかけてスタートした。林さんと村井修さんを招いて鼎談を行ったこともある。林さんと親しくなった僕は、村井さんの信頼も得た。

書き出すときりがなくなってしまうが、一編だけ読んでいただきたいエッセイがある。

既に14年も前になったが、JIA設立10周年記念大会で、林昌二さんに`りんぼう先生`こと林望さんを招き、僕の司会によってお話をお聞きしたことがある。其の報告的なエッセイをJIAのブルティン(1998年1月15日号)の冒頭に記載してあるのでここに再収録してもいいのだが、このブログにリンクしている僕の(事務所の)ホームページWORKSⅡのNO.15 [建物には生きる権利がある―プロフェッショナルワークショップ「建築と文化の継承」]―に記載してあるので、是非クリックしていただきたい。
再読してみると、14年たったが林さんに対する想いが変わっていないことに納得した。

もうお会いできないが、一昨年のDOCOMOMOセミナーでお話いただいたときに、対談風になった録音が事務局にあるはずだ。それをもらってあの独特の滋味溢れた口調を味わいたいと思う。
処女作掛川市役所からスタートして、最後の作品、故ある掛川の新庁舎で終わる話である。

<写真、JIA10周年大会での鼎談>

闘わない建築家「槇文彦」 豊田講堂から代官山ヒルサイド・テラスそして未来へ

2009-05-06 12:21:44 | 素描 建築の人

心に深く留まっている「コトバ」がある。
「私は闘わない建築家なのです」。
今年の2月19日に行った「モダニズムの源流 豊田講堂からヒルサイドテラス そして未来へ」と題するDOCOMOMO×OZONセミナーでの建築家・槇文彦さんのコトバだ。

ハーバード大で学び、そのまま教鞭をとった槇さんのその時代(1960年・32歳の時)に建てた名古屋大学「豊田講堂」は、建築家槇文彦のデビュー作でもある。
9年後に建てた代官山ヒルサイド・テラス第一期から現在に至るその建築群は、その一つ一つが僕たちを触発させる魅力的な建築であると共に、建築家が都市をつくりうる事例として、建築界に大きな刺激を与えた。それはとりもなおさず1期と2期の建築群の背後に建っていて重要文化財として保存された「朝倉邸」を所有していた朝倉家との信頼関係、「朝倉不動産」とのコラボレートによって、時間をかけてつくり上げてきたプロジェクトでもある。

このプロジェクトでは、つくりながらの試行錯誤、つまり学び取りながらゆっくりと時間をかけてつくってきたと槇さんは言う。その根底には「闘わない」という氏の人生観が内在しているのだ。
興味深いのは、メタボリズムという1960年代の思潮を受け止めながら建てた、豊田講堂からヒルサイド・テラスへの流れ、そして現在つくり続けている建築には、槇さん自ら「私はモダニストです」と述べているモダニズムの源流が脈打っているのだ。

その主要テーマの一つは「群と個」。
2007年に見事に改修(メンテナンス)された豊田講堂とともに、代官山ヒルサイド・テラスを紐解く鍵でもあるこのテーマは、都市を考え、建つ建築に思いを馳せるときの僕の命題でもある。
槇さんの話に思わず身を乗り出した。会場に詰め掛けた人々も息を詰めて聴き入っている。

19世紀の新印象派に位置づけられる画家ジョルジュ・スーラーの代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の画像を映し、私の言い出したことではないのですけどね、と断りながら、ここにいる50人ほどの人物は群れてはいるけど勝手な方向を見ている、そしてほらこの犬だって、と目の前のセーヌ河とは関係ない方向を向いている犬を指す槇さんに、会場から笑い声が聞こえてきた。
会場が和やかな空気に包まれる。槇さんの指摘に、群と個はそういうものだと共感する笑みだ。

ワシントンの公園の一角で数名による音楽のグループが演奏の練習をしている傍で、階段に横たわって本を読んでいる大学生(少女)をポインターでさした。
ほらアメリカ人は公の場は自分の場だと思っている、とさり気なく「公」とはなにかを示唆したのだ。言外に、建てた建築はどのような建築であっても「公」の側面を持つことになると述べているのだ。
設計した青山通りに建つ「スパイラル」の階段に配置した椅子に腰掛けてじっと外を見る人を映した。公の場に個人のスペースをつくる試みをしたが、ここにはこうやって座る人がいつもいるのだと、実験によって捉え得た「群と個」の関係を僕たちに指し示した。こういう場が都市には必要なのだと暗示される。

僕はこのセミナーの司会をやりながら、感銘を受けていた。講演が終わり会場からの質問を受けながら、槇さんとの対談形式で会話する僕の声も上ずった。話の組み立て方も見事だが、さり気なく実験を試みながら建築のあり方を模索するその姿。実験とは言うものの、当たり前のように存在する椅子。謙虚、というコトバがよぎる。僕たちはすぐれた人間の真髄に触れ得たのだ。

僕は最後に槇さんの著作「記憶の形承」をとりあげた。
`都市と建築の間で`と副題のあるこの著作は、1960年代から90年代の初頭にかけての様々な雑誌に掲載された槇さんの、都市と建築を中心とした論考を集成したものである。この著書は1992年に筑摩書房から刊行されたが、僕が愛読しているのは1997年に`ちくま文庫`から発刊された上・下刊の第一刷である。

槇さんは「嬉しい紹介をしてくれましたね」と、どうなるかわからないが、その後書いたものを集成して刊行する企画がなされていると微笑された。その笑顔がまた素敵だ。

実は僕は槇さんが恐い。林昌二さんも恐い。阪田誠造さんも菊竹清訓さんも恐いが、1928年生まれ、82歳になる建築家は恐いが実は何方もとても優しい。昨年は林昌二さんを招いて新旧の掛川市庁舎を中心にして対談形式で林さんの毒話!をうかがったが、なんとも暖かい心に包まれた。
セミナーを担当する大川三雄日大教授、田所辰之助日大短期大学部准教授とともに槇事務所に伺った時に、兼松さんに会えてよかった、テーマと進め方の確認ができてと微笑まれ、出口まで見送ってくださったことが、僕の宝物のように思い出される。

前川國男は闘った。丹下健三も黒川紀章も。闘いはモダニストの宿命のような気もするが、「私は闘わない建築家なのです」と槇さんが述べたのは、対談に入ったときだったかもしれない。僕がモダニズムの源流に触れたときだった。
「闘わない建築家」。
槇さんとその建築を考えるとき、そこにその回答が潜んでいるような気がする。僕の心の奥深く息づきはじめた大切なコトバだ。

<写真 名古屋大学豊田講堂>

<素描 建築の人(4)> 建築家山本勝巳と画商にして文筆家・洲之内徹

2009-03-29 21:36:11 | 素描 建築の人

「私は東京美術学校(今の芸大)の建築科の入学試験を受けに松山から上京してきて、松山中学の先輩であり、私がうまく合格すれば美校の先輩になるはずの山本勝巳氏の、大久保百人町の下宿に入れてもらった」という一節に、ドキッとした。
山本勝巳氏は、密かに僕が建築の師と思っている建築家なのだ。書いたのは「洲之内徹」。
画商でもあり文筆家でもあり、美術評論家と言ってもいい`洲之内徹`が建築家を志したのは知ってはいた。しかし山本勝巳先生の後輩で知古だったとは思わなかった。

今年の仕事初めのとき、ふと僕の部屋の本棚を見たら箱に入った「気まぐれ美術館」(新潮社刊:昭和53年に発行されたが僕が持っているのは十一刷、平成六年・1994年刊)が目に付いた。まとめて読もうと思って15年ほど前に購入したのだ。
芸術新潮に連載されていたとき読み飛ばしていたこのエッセイ(という言い方よりやはり美術随想といった方がいいか)の頁をめくった途端のめり込んだ。15年歳とって僕は`洲之内徹`の真髄を読み取ることができるようになったのだ。一気に読み上げた。
どのページをめくっても、胸がざわざわとする感動に身が焦がれるのだが、山本先生が登場するのは「ある青春伝説」。
「閑々亭肖像」を描いた、洲之内が「鶴さん」と呼ぶ画家重松鶴之助へのオマージュで無論それにも魅せられるが、思いがけずエッセイに登場する若き日の山本勝巳先生の姿を垣間見て、一瞬にして47年前の先生の姿が浮かび上がった。

学生時代の昼間働いた叔父のつくった建築会社に、大学を出て正式に就職して初めて出た建築現場は、青山に建てた劇団民芸の稽古場。設計は信建築事務所。その代表が美校で岡田信一郎に学んだ山本勝巳先生だったのだ。
この現場での1年が、今の僕の建築に対する思いの原点になったような気がする。

稽古場建築の打ち合わせを仕切ったのは、民芸では事務方の片谷大陸代表だったが、実質的には重鎮の宇野重吉だった。宇野を初めとして、滝沢修、細川ちか子、清水将夫のいる新劇世界には好奇心を触発されたが、時折現場にこられた山本先生への宇野重吉の信頼と憧憬に、僕は初めて建築家の存在を認識したのだと思う。

施工図を担当して信事務所に行き、担当者との打ち合わせが終わると「兼松君」と呼ばれて僕は所長の机の前の椅子に腰掛けて山本先生の話を聞いた。机の上には製図の道具はなく、日本の社寺の写真集が積んであった。頁をめっくって見せていただいた岩船寺の蝉の金物を撮った土門拳の、建築を捉える視点を教えてくださり、うちの`学`(ご長男)がねえ、水野久美と一緒になるというんだけど可愛い子でねえと、学校を出たばかりの僕に嬉しそうに微笑む姿に、魅せられないはずはない。

なぜ僕に、と思うが現場事務所での些細な出来事を思い出すのだ。「君、こんな本を読んでるの?」と先生は僕の机を覗き込んだ。読みかけていたモンテーニュの「エセー(随想録)」があったのだ。はっきりとは覚えていないが、エセーへの想いを述べた生意気だった僕に好奇心を持ってくださったのかもしれないが、早稲田で村野藤吾と同級生だった僕の叔父の存在も大きかったのだと思う。
僕は穏やかで懐の深い山本勝巳像と建築家という存在を重ねて見る事になった。

この建築は、半割のレンガとコンクリートの打ち放し、それにタモの柾ベニヤを組み合わせた手で触れたくなるような材質感のある建築で、そのディテールは僕の頭の中に叩き込まれている。施工図を担当したのは大きいのだ。

昨年、山本勝巳先生の原図が、建築家平倉直子さんの仲介で、JIA・KITアーカイヴスに収録された。平倉さんのご主人が、先生の御次男で俳優の`圭`さんと親しいのが縁とのこと。平倉さんによるとその圭さんが言った。「僕は兼松さんをよく覚えていますよ」と。はて?僕はいつ圭さんに会ったのだろう!

長々と書いてきたが、肝心なことを書くのが遅くなってしまった。`洲之内 徹`の「ある青春伝説」になぜ建築家山本勝巳が登場したのか。

洲之内さんが「閑々亭肖像」を視て魅かれたのが下宿をしていた山本先生の部屋だったのだ。なぜ「閑々亭肖像」が山本先生の部屋にあったのか。山本さんと鶴さんのお兄さんが中学時代の同級生だったからだと書く。
洲之内さんは建築家にならず、山本先生とは疎遠になったが「閑々亭肖像」が忘れられず、氏の青春の象徴のような存在になっていた。
洲之内さんはその絵との対面を淡々と書く。『見たい絵は山本さんの手元にあると判って、翌日、私は浜田山の山本さんの家を訪ね、まる45年ぶりに「閑々亭肖像」と対面したのだった。』

45年前というのは昭和5年(1930年)。山本勝巳氏は25歳、僕の生まれる10年前の出来事だ。僕が学校を出て劇団民芸の稽古場の現場で会ったときの先生は57歳だったことになる。
今の僕より一回りも若かった。年月の計算をしていくと僕の無才ぶりに、人の器は歳では計れないと思ったりする。
1962年、東京オリンピックの2年前、青山通りが拡幅され世は建設ブームに沸いていた。そういう時代の、僕にとっては建築人生の節目になった一齣だ。

ちなみに劇団民芸の稽古場が竣工した後、僕は現場所長を担った内田春一さんという技術者に気に入られてふたたび現場員として引っ張られ、箱根強羅のやはり山本勝巳先生の作品、ホテル法華クラブの現場をやった。柱と梁をコンクリート打ち放しで構成して和を見据えた典型的な日本のモダニズム建築だった。先生は民芸稽古場の仕事のやり方を見て内田さんを信頼したのだ。
山本先生も洲之内さんも亡くなって久しいが、その劇団民芸の稽古場も、箱根のホテルも取り壊されて今はない。










素描 建築の人(2) 金澤良春という建築家 Ⅱ

2006-06-18 10:59:00 | 素描 建築の人

金澤さんは法政大学で大江宏先生に学び1972年に卒業後、坂倉建築研究所大阪事務所に入所、そこで運命的に建築家西澤文隆さんに出会う。金澤さんによると、休日になると社寺や桂離宮、修学院離宮などの建築と庭の実測に西澤さんのお供をし、仕事が終わった後深夜まで西澤さんと共に図面化する日々を過ごしたという。

西澤さんは1967年52歳のときに実測を開始し、坂倉準三が亡くなった1969年坂倉建築研究所の代表に就任したものの、翌年には過労で倒れ三年後復帰すると同時に桂や修学院、それに新たに京都御所などの実測を再開、それが命をかけた仕事(仕事としかいいようがない)になるのだ。自分自身の建築のあり方を探るためにはじめた実測が、ライフワークになっていく。ライフワークと言えるのは命を懸けたもの、そうしたものなのだろうか。とても厳しい。

僕は大阪にいる坂倉のOB好川さんから西澤さんの実測図カレンダーを送ってもらっていたので、鉛筆のやわらかいタッチや、実測図自体が作品になっている様子はよく知っていた。何より展覧会で原図も見たし、西澤さんの著作も読みこなしたとはいえないものの、その本自体が作品のような気がして手元に置き、時折めくっては収録されている実測図に見入ったりした。しかし実はコートハウスなどの作品に眼が向いていたのだけど。

しかし金澤さんの話を聞いていて、西澤さんは建築を創るために実測を始めたことに思い当たり、文字通り建築に命を懸けたのだと実感する。金澤さんは幸か不幸か、それは幸には違いないのだがそれを引き継いだ。引き継がざるを得なかったのが人との出会いなのかもしれない。

西澤さんは自分の気に入らない坪庭は実測図面に描き入れない。そこが白い空白になっているのだ。僕も建築家とはそうしたものだと共感したのだが、金澤さんは更に西澤さんの描く建築や庭の断面図の背後に描きこまれた樹林、修景や建築が、カメラで撮るようなパースペクティブ、つまり小さく書かれていることにそれでいいのかと考え込んだ。

建築家は意識しようとしまいとランドスケープの中で建築を創っている。だから西澤さんは人の眼に見えるように描く。西澤さん自身それでいいのかと迷っていたそうだが、いかにも建築家らしいと共感しながらも、本来実測図のあり方はそうではないのではないかと金澤さんは考える。
設計図と同じ書き方、つまり同縮尺で背景を描くことに彼はトライしてみて、やはりそうあるべきだと思ったのだが、西澤さんが何故こういう仕事に命を懸けたかを次第に金澤自身のものにもしていったのだ。
建築がランドスケープの中でしか存在しないことを、大昔の先達が知っていたことに西澤さんが震撼とし、そして彼も引きずり込まれた。

更に西澤さんが早世したためにやりたくてできなかったこと、村落全体を平面と断面で鉛筆による図面で捉える、つまり実測し、居住者や地域の人々と会話し、図面化に彼はトライし始めた。
見せてもらったのは、山梨県の山に囲まれた小菅村の実測図。空から見たような平面も面白いがなにより断面図が凄い。図面を見ていると村の歴史までが感じ取れるのだ。
僕は今母校の大学院で聴講しながら文化人類学に取り組み、風水研究にトライしているが、小菅村における風水の有様も垣間見えてくる。

宮脇壇さんや原広司さんの行ったデザインサーベイは、街道沿いの建築が主体だが、金澤さんはそれでは環境つまりランドスケープが捉えられないと思う。その村落、街全体を掴まえなくてはいけない。そこが彼の素晴らしいところだと思うのだが、そうでなくてはそこに建っている建築や町並みを理解できないではないかと考えるのだ。それがデザインサーベイだと彼はいいたいのだ。

金澤さんとの話に僕ものめりこんでしまった。彼の西澤図面にも勝るとも劣らない、気の遠くなるような綿密に描きこまれた実測原図を見ていると、人には役割があると僕は確信せざるを得なかった。ね!面白いでしょうと笑いを促し、こんなことやっていてどうやって喰っていこうかとぼやく彼との出会いは楽しいくもあり辛くもある。
建築家である彼は創ること、つまり設計することを超えてランドスケープを実測して図面化することに命をかけ始めてしまった。

とまあ理屈はそうなのだが、モダニズムを考えていくうちに、僕は学生時代教わった神代雄一郎先生が、金澤さんのもう一人の恩師大江宏にぞっこんだったことを思い出した。金澤さんとの大江先生や、神代先生とその周辺にいた建築家との交流の思い出話にも花が咲き、そこに僕が学生時代に学んだ堀口捨巳先生や修験道が登場し、宮脇さんの調査した村落デザインサーベイ図面のアーカイブ問題でも話が弾んだ。

こんな話もした。金澤さんは西澤さんに人生を動かされたが、実は西澤さんも金澤さんに大きな影響を受けている。西洋美術館の設計を考えるために鎌倉に近代美術館を訪れたコルビュジエが、坂倉準三のつくった中庭を見てしばし佇んだ、つまり弟子の創った建築に触発されたと言われていることと同じではないかと思う。

彼が帰った後、何故突然僕の事務所に来たのだろう、何故4時間も話し込んでしまったのだろうと考え込んでしまった。その後時折電話を貰う。その都度話が弾むのだ。僕も金澤さんと出会ってしまった、と言ってみたくなっている。

<JIAミニトーク>
さてその金澤さんは、7月12日JIA館一階小ホールで行われる「西澤文隆実測図面集」についてのJIAミニトークに登場する。楽しく刺激的なトークになるに違いない。

「日本の建築と庭・西澤文隆実測図面集」(中央公論美術出版刊・52,500円)


素描 建築の人(1) のめり込む金澤良春、ただただ凄い実測図

2006-06-17 17:20:54 | 素描 建築の人

僕が仲良くなる人間は皆変だと愛妻が言う。その筆頭は「あんた」自身だと言いたい様だ。
僕はこの言葉を誇りに思う。だって林昌二さんだって坂田誠造さん鈴木博之さん内田青蔵さん篠田義男さん大澤秀雄さん松隈洋さんだって、それに東海大の助教授になった渡邊研司さんも年齢を越えての仲良しだし、僕の周りにいる人は皆単に親しいという言葉を超えて仲の良い人だといえるからだ。
松波秀子さんという素敵な女性建築歴史の研究者だっている。工学院大学の初田教授は、若き日建築家を志したそうで、何処かで許しあえる共通認識が生まれた。建築写真を撮る清水襄さん飯田鉄さん中川道夫さんもいる。建築東京でユニークな写文を連載している下村純一さんとも、本音で言い合える仲だ。

それに何より、一緒になってから三十数年たつ我が愛妻は、色々と言いながらも僕を認めているようだ。と書いてみて本当かな!とちょっと気にならないでもないのだが、変だというのは、つまり世の規範では捉えきれない「変に面白い人達」だと言っていると僕は勝手に解釈している。娘はといえば、そんな僕たちの会話を聞いていて、なんとなくにやりと含み笑いをしているような気がするのだ。そこがね、僕が我が娘の好きなところなのだ。

さてこのブログに時折、その変だという友人達を書いてみようと思う。
「素描 建築の人」なんておかしなタイトルにしたのは、建築家だけでなく、建築に志を持つ様々なジャンルの人との交流も考え書いてみたいからだ。書きたい人は「人」つまり建築人ではなくやはり「家」と言いたいのだが、ジャンルがまたがると共通語がない。それに、とは言え僕の勝手な思い込みでしか描けない、つまり「素描」としかいえないとも思うからだ。

< 金澤良春という建築家 Ⅰ >
リード文に書いた仲良しの建築家とはいえないかもしれないが、金澤良春さんは筋金入りの変な建築家だ。言い換えればなんとも不思議な素晴らしい建築家だ。

松下電工汐留ミュージアムで行われた「西澤文隆建築と庭実測図展」を覗いたとき、偶然にも金澤さんがギャラリートークを始めるときで、大勢の人の背後で何事かと聞き始めたのだが、次第に引き込まれていつの間にか僕は展示されている原図に張り付いていて、いつの間にか質問などしていた。
そしてトークの後西澤さんの図面だけでなく、彼の描いたチベットの寺院の展示実測原図を見ながら話し込み、すっかり意気投合した。それが彼との出会いで、わずか1年半前のことなのだ。
でもなんとしたことか、どんどん仲良くなっていく。

僕の事務所を訪ねてくれた金澤さんは、西澤文隆没後20年を記念して出版される重い豪華本「日本の建築と庭・西澤文隆実測図面集」を置き、これから行商するんですよと笑う。そして、彼がトライし始めた抱えきれないほど大きな実測原図を筒から出して、打ち合わせテーブルに広げ始めた。見せたいという思いに溢れていて圧倒される。そこが変なんだけどその原図が凄いのだ。
<この項6/18に続く>