日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

北海道紀行09-(3) 「遥かなる絆」と ふと思う小樽の「プレスカフェ」

2009-12-31 19:12:16 | 建築・風景

あと5時間経つと年が変わり2010年になる。部屋が何とか片付き年内に初稿を送ることになっていた原稿に手を加えようとPCを起動した。しかし過ぎた1年が頭を駆け巡って手につかない。更に昨日から再放送しているNHKのドラマ「遥かなる絆」(原作城戸久枝)を改めて見ていて涙が止まらない。

城戸久枝さんの祖父は子供とは生き別れになったが日本に帰り、満州孤児となった父との中国人の育ての母との人生は、到底コトバには尽くし難いが、僕は戦死した父を想いながら僕たち子供を育ててくれた母の姿をいつの間にか思い浮かべていた。中国の舞台の一つは牡丹江で日本の舞台は愛媛県八幡浜、日土小学校のあるまちだ。久枝さんの父、孫王福(中国名)が生まれた八幡浜に戻ったのは1970年、大阪万博の年だったという時代も感慨深い。王福(城戸幹)は25歳、僕は30歳になっていたその時代なのだ。

生きることは、沢山の人の死に立ち向かい、人の絆に気がついて、そこに場所があり其れが掛け替えの無いものだと知ることと、世代が変わることに気がつくことだ。

なんとも驚くことに2月になると僕は古希を迎える。書いておきたいことが幾つもあるが歳が先に行ってしまって追いつかない。
ふと今年の11月の小樽のプレスカフェの写真を載せておこうと思った。
そこに往けばいつものプレスカフェがある。其れがいいとなんとなくノスタルジックに感じるからだ。ターマスがいてアサジ店長がいて何を話すのでもないが、ボソボソと何かを語った。今年はオムレツにして、ちょっと苦味のあるイタリアンを飲み、デザートにクレームブリュレ。

海老名(神奈川県)は穏やかな晴天続き、小樽はさらさらした雪に埋もれているのだろうか。


まち歩きの達人と三軒茶屋から下北沢へ

2009-12-27 12:56:23 | 日々・音楽・BOOK

まち歩きの達人がいる。と思ったのは三軒茶キャロットタワーの一角にある世田谷線の改札口から下北沢に向って歩き始めて1時間ほどたった頃、ふと見上げた先に日差しに輝いているキャロットタワーを見たときだ。歩けば2分のところを1時間をかけて徘徊する。
達人Mさんはそんなルートを僕たちに楽しませた。

改札口を出てすぐ妖しげな路地に入り込んだ。一瞬昔の三業地かと錯覚しそうな大正ロマンっぽい意匠の店構えと看板を掲げたBAR、スナックや居酒屋が軒を連ねる。
写真好きの6人(+K太君2歳はバギーに座ってキョロキョロと目を向ける)が夢中になってシャッターを押し始めた。と映画のポスターが目に入った。「さそり」や「チェイサー」の粒子の粗いモノクロ写真を組み合わせたポスターに写真心が浮きたったのだ。無くなったのがもう一昔になってしまった銀座の`並木座`によく名画を見に行ったものだ。ここ三軒茶にくれば見損なった映画に出会えるかもしれない。
懸けるのは多分ちょっと捻った映画で、我が若き日の胸の鼓動を感じた。衝撃を受けた`尼僧ヨアンナ`。石の塀に擦り付けた血とヨアンナのあの眼、こんなところでノスタルジーを味わうのもなかなかいい。

発端は(というほどのものでもないが)三菱地所設計のOさんから、まちを歩いて忘年会をやらないかとメールが来たことによる。数点の彼の歩いてみたい場所に、僕にちょっぴり気を使って厚木や下北(下北沢)の名があった。即座に下北(しもきた)にしようと返信した。小田急線の高架・地下化工事が進んでいて、完成すると路地を壊して大通りをつくるとされている。撮っておきたいと思っていたのだが、わが家から小田急一本で行けるので楽しようとも思ったのだ。
すると数日たってMさんから、三軒茶屋から下北に歩くことにしたとメールが来た。エエーツ!三軒茶屋?と思ったら、奥さんと一緒にロケハンをしたという。流石!だ。Oさんからは当日世田谷線始発駅から三軒茶屋に向うと喜び勇んだメールが来た。両膝の調子がちょっと気になるが仕方が無い!

下北に着いたのは陽が翳りはじめた頃になった。何度か歩いたまち、小田急線と井の頭線が交差する駅をとりまく沢山の飲食店などとともに、画廊、古書店、劇場などの文化施設を内在し、その周辺に住宅や教会などが配された奥深いまち、土曜日の午後、大勢の家族連れや大人で溢れている様子に驚いた。
冬至に近い師走。4時半には暗くなった。人が変わった。気がついたら「若者のまち」になっていた。

開店を待ってあちこち覘いて吟味した居酒屋に落ち着いた。まちとカメラ談義に花が咲く。
ツアイスの25ミリをつけたOさんのM8をMさんがいじくりまわした。僕はRUMIX GF1にズミクロン90ミリをつけて顔のクローズアップを撮る。笑いがはじける。花が咲くとはこういうものかと嬉しくなった。

メンバーはこうだ。これが建築家だ!と言いたい建築家O、年末、ローマに旅している銀行員から証券会社に移行した達人Mとその夫人、雑誌の編集者で写真家尾仲浩二の弟子Kとその子息K太、Yさんの妻になり女に磨きのかかった照明設計者Y、それに僕だ。

四国建築旅余話(2) 出会い! 鳴門の張力 高知駅と新百合ヶ丘駅 

2009-12-23 21:58:18 | 建築・風景

四国を訪ねたのは7月31日から8月3日、盛夏だった。それから4ヵ月半が過ぎて師走。あと9日で新年だ。
枯葉が舞い寒い。季節はちゃんと巡るのだとふと思ったりする。札幌の上遠野事務所の梅村さんから雪で庭が真っ白になり、コルテン鋼でつくられた上遠野邸が地上から浮かび上がっているように見えるとメールが来た。

今年の四国の建築旅も最終回にしたい。
幾つか心に留まったことを書いておこう。

(1)写真を掲載した(四国建築旅7で)坂出人口土地にある小さな祠(神社)。長く住み地の人の心を捉えた団地だから生み出されたのだと感慨深い。塩田作業者の住む集落だったこの地に、地の神を祀る神社があったのかもしれないが、この人口土地はここに住む人の故郷になったのだ。

(2)センターコア形式で弥次郎兵衛式に中央の二本の柱から跳ねだした梁の先端を支えていると見た鳴門市庁舎のH鋼柱が、コメントをくれた工法の研究者toshiさんが、もしプルーべの解析した張力(支えているのではなく引っ張っている)を担っているのだとしたら、建てられた時代を考察すると大変興味深いと述べたことが気になっていた。僕の読んだ設計者増田友也御自身も参加した座談会や、研究者のこの庁舎につについての記述では構造解析に触れた例を目にしていない。
親しい工法の研究者、宇都宮大学の名誉教授になった小西敏正さんと飲んだときに問いかけたら、先端のH鋼柱に張力を担わせると構造が安定するんですよとこともなげに図示してくれた。
もしかしたら僕と藤本さんはその貴重な日本の先駆的な事例を眼にしたのかもしれない。

(3)陽が落ち明かりのついた「高知駅」を見た。この駅舎は内藤廣の設計による。集成材と鉄を組み合わせた見ようによっては無骨な梁を大胆に使って円形の屋根を作り、打ち放しコンクリートの柱で支える構成は、牧野富太郎記念館のコンセプトに通じる。
2008年度の鉄道建築協会賞や高知のランドマークを形成したと日本鉄道賞のランドマークデザイン賞などを取った。僕の親友篠田義男さんの設計した「小田急線新百合ヶ丘駅舎」が鉄道協会賞を同時受賞(佳作)した。

新百合のプラットホームに円の組み合わせによる文様が掘り込まれているが、彼はそれを八王子の方向に向う多摩線の発車地にちなんで八王子の絹の道をイメージして繭を描いたのだという。それを設計者の特権として楽しんだのだろうが、受賞の原点は、コンコースの光の呼び込みや駅舎の自然の空気の対流を考察した空間構成である。
駅舎も建築作品で建築家の思いがこもっているのだ。

今夏の旅で四国が身近になった。旅の帰りに立ち寄った砥部市の建築家和田さんから電話があった。鬼北町(旧広見町) 役場を訪ねたという。
思い立って出かけると友人ができる。終生の。人と出会うのが旅だ。
四国、四つの国はそれぞれ気質も違うし建築感も違うのだといわれた。
土佐の先輩、親分肌のいごっそうが身近にいるのでなるほどとは思ったが、駆け足では四国が掴めない。でもそういわれると好奇心が刺激されるのだ。さて・・・

写真家 江成常夫の「昭和という時代」

2009-12-16 10:53:35 | 写真

写真家江成常夫の「レンズに写った昭和」(集英社新書・2005年刊)を読み終えたが、あまりにも重いテーマを積み重ねた取材による一つ一つの事例が胸にせまり言葉が出ない。しかしそれだけに大勢の人に一度はこの新書に眼を通して欲しいといいたくなった。

この著作を手に取ったのは、置き場所に困った写真誌`朝日カメラ`を整理しようと思って2007年10月号のページをめくり、ふと彼の撮影ノートを目にしたあとインタビュー記事を読んだことによる。2年前にも読んだはずなのに今回は堪(こたえ)た。
ファッショナブルなアート志向の写真がもてはやされる現在に危機を感じ、記録を本道とする写真はいつの時代であっても、ほかの表現分野以上に時代と社会に正面と向いあう役割があると江成は言う。

日本人戦争花嫁や、中国の置き去りにされた戦争孤児、これは国の施策の開拓村の破綻だ。被爆した広島の人、沖縄の声をルポして撮り得て言える言葉「日本の戦後史は、モノを至上価値として、人間のありようを追及してこなかった時代ですね」。そして「千万単位の人命を犠牲にした昭和の戦争と正面から向き合った写真家はいない」。さらに慨嘆的にあえて言うのは「自分の国のやった過ちにきっちりと目を向けずして、よその国に出かけていった戦争の写真を撮ることは何事かとさえ感じる」とまで言い切る。その江成の問題意識と覚悟が僕の心を打つ。

写真家ではない僕でさえ感じるのだが、ル・ポルタージュという写真表現とそれを記述していくレポートは、現在に無く、いまジャーナリズムに求められているのはその地道な活動なのではないか。時間の積み重ねと、我が国が封印してきたものを人の生活に密着して取材する根気の要る作業が無くてはそれが成立しないのだと。

新書は「はじめに」の、現代史に置ける`負の昭和`を満州事変にはじまる「昭和の15年戦争」と言うコトバから、史上類の無い原爆投下が決定づけた日本の敗戦は、世界史にとってもエポックメーキングな出来事に当たる、というフレーズから始まる。江成常夫のレンズを通して視た「昭和」とは、「`負の昭和`に翻弄されてきた多くの人々の苦難の人生」なのだ。

昭和11年(1936年)に神奈川で生まれ、毎日新聞社カメラマンを経てフリーとなった経歴を読むと、それがスタッフ時代にためていた問題意識を突き詰めたいという、江成のフォトジャーナリスト精神によるのだとわかってくる。

僕はオフィスに行く電車の中で「レンズに写った昭和」を読みながら、何度も深い息をついた。平易な書き方、文体で書かれているので原爆で二人の子供を失った様が目の前に浮かび上がり、一人生き残った父親Tさんのその事実を引きずって生きなくてはいけなかった(負の昭和を生きた一人の男の)その後の人生を思った。

2000年に悪性腫瘍に襲われた江成は、闘病の後遣り残したという戦地の島々の残滓を撮り続けている。2009年(今年)朝日カメラの12月号に発表された取材地は`ラバウル`だった。
木村伊兵衛賞を取り紫綬褒章を得た著名写真家の「一人の写真家に過ぎない自分が歴史や国家を問えるかという疑問が脳裏から去ったことが無い」という言葉が重い。



四国建築旅余話(1) 蘇ったキングセイコーと日土小学校・そして弥生小学校

2009-12-10 12:25:47 | 建築・風景

キングセイコーが直った。届いてからもう2ヵ月半にもなる。松山の時計工房勇進堂六代目川口宏さんから丁寧な手紙とともに送られてきた。
時折しまってあるチェストから取り出し、ゆっくりとネジを一杯に巻く。ゆっくりと巻いてくださいと川口さんが言うからだ。そして腕につけいそいそと出かける。電車の中で腕をめくりそっと新しくしてくれたガラスを撫でたりする。

この腕時計は、1967年(昭和42年)2月に製造された。裏蓋に刻印されているシリアルナンバー(製造番号)で製造年が解るのだ。そして裏蓋の内側に、S、2.48と書き込みがあり、平成2年か2002年、或いは昭和48年の2月に修理したようですと川口さんが言う。僕は修繕したことを覚えていないが、僕のこの時計への思い込みも川口さんはしっかりと受け止めてくれた。
職人としての時計への慈しみと、そこにはつくったセイコーの技術者への感謝の気持ちも感じ取れる。

この時計は32歳ですけど人間で言うと80歳を超えた老人ですと書いてある。大切に使って欲しいという思いに充ちているのだ。
ベルトにつけるKSと刻み込んだ尾錠も探してくれた。金色を探したがどうしても見つからなくて申し訳ないと書き添えてある。時計が金縁なのだ。さらにベルトは黒の鰐皮がいいが高いので刻印したものでもいいし、それでなくても黒がいいですとある。僕の時計なのにと川口さんの気持ちが僕の心を動かす。

電話した。使わないときでもネジを巻いておいた方がいいですか?いや巻かないでくださいと少し甲高い声で答えてくれた。
このブログが縁で勇進堂を紹介してくれたtakahiroさんからは、六代目の心意気ですとコメントが寄せられた。息子さんが跡を継ぐと知らされている。ところが手紙の名前の後に56歳とある。ぼくより一回り以上お若いのだ。こういう職人がいる。日本はいい国だとつくづく思う。

箱の中に、授業の始まった日土小学校の様子をルポした愛媛新聞の記事が同封してあった。

日経アーキテクチュアの10月26日号の`有名建築その後`でもルポされているが、子供たちのうれしそうな顔が印象深い。愛媛新聞の写真では子供たちの後に、女子(おなご)先生の笑顔が輝いている。
増築棟は、既存棟と違和感がないよう配慮しながら愛媛の材料を駆使してオープンクラスにトライし、設計した建築家武智さんの建築となった。この教室で子供たちが生き生きと勉強をしていると報道されている。

この学校の保存・活用は大きな話題になり、全国から見学希望者が引きもきらず、市長の肝煎りで今年も押し詰まった12月27日に見学会を計画した。この建築の保存・活用は、僕も関わって取り壊して建て替えることが決まっていた六本木の国際文化会館の保存改修活用事例とともに、現在の日本の建築界の成果だと思う。しかし考えることもある。

日土小学校の生徒は少子化が進み六十数名で、数名減ると複式学級になりかねない。一時その数倍の生徒がいたのだ。でも増築をすることになった。これからのこの地域の教育環境を見据えているのだとは思うものの!
考え込むのは、関東大震災の後建てられた明石小学校などの東京の魅力的な復興小学校3校が取り壊して建て替えることになったからだ。この学校群も教室が足りないのだという。都心回帰で子供が少し増えているというが、さてどうなのだろうか。
終戦直後の僕の小学生時代と比較しても意味がないが、ともかく6学年で6教室と講堂しかなかった。それでもこんな僕だが、今の僕がいる。

明石小は阪神大震災の後耐震診断をやって安全だといわれている。それにしても何故取り壊して建て替えるのだろうか。どうしても新しい教室が必要なら工夫して教室や必要な部屋を増やせばいい。

函館では教育長にDOCOMOMOからの「函館市立弥生小学校」の保存・活用要望書を渡して意見交換した。
この小学校は明治に創設されてから125年経ち、函館大火の後、鉄筋コンクリート造になってからも71年を経た。この学校の校長として3年間子供たちを育てた教育長は、新築してもこの学校の理念は継承すると力説された。僕はこの校舎が無くなったら培ってきた理念(この校舎で学んだ記憶とともに)も無くなりますよと述べた。

ここで学んだことを誇りに思い、人生の糧にしている人が沢山いる。そして校舎であってもこの場所を築いてきた景観をも失う。
小学校統廃合など複雑な経緯があるが、施設課長に案内していただいて市立弥生小学校の内部を見学させてもらって改めて感じた。こんな素敵な校舎を壊してしまうの?

<写真 函館市立弥生小学校>

四国建築旅(12)  レーモンドの設計した旧広見町(現・鬼北町)役場の存続問題

2009-12-04 10:40:05 | 建築・風景

今回の旅は、保存・改修された日土小学校の見学、シンポジウムに参加することとともに、チェコに生まれ日本のモダニズム建築を率いたアメリカ人の建築家、アントニン・レーモンドの設計した旧広見町(現・鬼北町)役場を見るのも、大切な目的だった。
この役場が気になるから日土を訪れたともいえる。

名を知られた建築家は、日本の(今や世界の!)各地に隈なく建築を建ててきた。隈なく建てたから知られていくのだが、地方都市にあっての建築の様に影響を与え、良きにつけ悪しきにつけまちの様相を変えていく。それが建築家という存在を世に送り出した近代化というものかもしれない。
しかしこの旧広見町役場が、この地で生まれ育った建築家の手によって(担当して)つくられたということを、この地の人々に受け止めて欲しいと、この地に所縁(ゆかり)の無い僕は強く願う。

町村合併によって鬼北町役場と名称が変わったこの庁舎は、地元(広見町・旧三島町小松)に生まれた建築家、レーモンド事務所の社長を務めた中川軌太郎(なかがわのりたろう)が設計を担当して、昭和33年(1958年・)12月に完成した、鉄筋コンクリート造による3階建ての建築である。
優れたモダニズム建築が世に湧き出て若かった僕の心を震わせた時代だ。

そうであってもおおよそ50年を経た現在(いま)どこでも同じことがおこるのだが、建築の老朽化と機能が時代の要請に合わなくなったと取りざたされ、建築の建てられた経緯を省みないまま建て替え論議がなされる。
僕がこの建築の存在を知ったのは、設計者軌太郎のご子息のレーモンド事務所総務部長中川氏から電話があり、資料を送ってもらったからだ。中川氏からの相談は、町村合併による町長選挙でこの庁舎を使い続けたいと述べた町長が当選したものの、様々な問題が起きているというものだった。

八幡浜のJAZZ BAR「ロン」でコルトレーンを聴いた翌日、土佐清水に行く前に宇和島のホテルから鬼北町に向った。スケジュールの都合で日曜日になり、さすがにこの日に鍵を開けて内部を見せていただけないかと事前に町にお願いし難く、外からだけでも見ておこうと思ったのだ。
ところがこの建築に何か不思議な縁があるのかもしれないと思うようなことがおきた。

庁舎の外を歩きながら考える。なんだかしっくりと来る。
外壁の打ち放しコンクリートの柱が真壁のように表現されており、日本家屋の多いこの地に馴染むように考えているからだ。南側に回ると、各階の窓の上部にコンクリートの大きな庇取り付けられており、日差しをコントロールしていると藤本さんが感心した。

二人で通用口に設置されている部屋をのぞくと人がいた。日直だ。この庁舎問題の担当をされているという。名刺を差し出しお願いすると庁内の見学や点灯も撮影の許可も得た。
この庁舎は中央に階段がありその周囲を廊下がとりまいているセンターコア形式である。設計者の意図は明快だ。無駄は省くが人と人、つまり町民と役場の職員との交流を見据えている。
議場の屋根はシェルになっており、壁にはガラスブロックが埋め込まれている魅力的な空間だ。建築家は自分がやりたいことをやろうとしてやった。

お礼を述べこの建築の面白さやレーモンドの話をしていたら、松山の設計事務所に委託した分厚い耐震診断書と耐震計画書を見て欲しいと言われた。
耐震壁が沢山入って使いにくくなると困惑しているのだ。使い続けようという目的が明快でないまま耐震改修構造計画をやるとそうなる、これからスタートするのだと述べた。
木造であっても耐震改修をして新しい魅力を発見した日土小学校や、コンペによって耐震改修も含めて保存・活用されることになった千葉県大多喜町の今井謙次の設計した町役場の事例を話した。そして是非ヒヤリングするよう薦めた。

帰京してから中川さんに報告し、日土小保存に関わった愛媛の建築家に状況を伝えた。
鬼北町役場には、僕も委員として関わって建築学会が策定した「既存建築物の保存・活用ガイドライン」や日土小学校などの資料を同封し、50年前にこの庁舎が建った経緯と、レーモンドと地元の建築家中川軌太郎の存在をまず町民に伝えていただきたいと書き記した。