日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

黒川さんの手 新国立美術館の開館

2007-01-28 14:11:14 | 建築・風景

新国立美術館が1月21日に開館した。
前日20日の夕方内覧会に出席した。波打つ透明なファサードから漏れてくる光がきれいだ。昼間の光で見るのとは趣の違う魅力がある。
一階アトリウムで行われたレセプションは人で溢れ、乾杯のワインは手にしたもののおつまみのテーブルに近づけない。このアトリウム(ロビー)がこんなに人で埋まるのはそうあることではないだろう。今朝のNHK日曜美術館によると、3000名の参加があったという。面白いと思ってカメラマンやテレビのクルーが覗き込んでいる2階に上がってみた。

このアトリウムはうねるカーテンウオールによって奥深い複雑な様相を見せる。逆三角円柱のコンクリート(コーンと言う。なるほど)の塊が,人の渦の中に屹立しているのは異様な迫力がある。現在の都市の姿を内部に取り込んだようだ。日本設計と組んでコンペを勝ち取った建築家黒川紀章さんの自信作だ。このアトリウムは黒川さんの今の都市感の集大成かも知れない。

新美術館の建った六本木のこの地には旧陸軍歩兵第三聯隊、及び近衛歩兵第七聯隊の兵舎が建っていた。2・26事件の舞台になったことでも知られている。1962年(昭和37年)からは東京大学生産技術研究所として使われていて、建築史家で今では建築家にもなった藤森照信教授の研究室もここに在った。
取り壊しのとき保存運動が起こり、その建物の一部が保存された。僕もJIAサイドで関わり苦労した。黒川さんは本物を残せたと胸を張るが、余りにも小さいので建っていた建物の全貌を想像することもできない。しかし新美術館側をカーテンウオールで覆って対応させた様子をみると、これも新しい保存の一つの手法には違いないのではないかと考えさせられる。ガラスからもれてくる光が互いのガラスに反映されて美しく、面白い効果を上げている。

開館記念として「20世紀美術探検」メディア芸術を考察する「日本の表現力」という企画展とともに「黒川紀章展」が開催されている。無論僕のお目当ては「黒川紀章展」だ。
サブタイトルは「機械の時代から生命の時代へ」。

この美術館は収蔵庫を持っていない。美術館の役割は、企画展や公募展と言う美術作品の展示とともに美術品を収蔵し,保存検証しながら社会に公開していくという大きな使命を持っている。そういう視点で見ると展示しかしないというのは、ストックの無い今の時代を象徴しているようだ。上野の都美術館での日展や二科展のぎしぎしと詰め込んだ展示を観ていると、広いスペースで見てみたいものだと思ったことがある。この美術館はそういう美術界や市民の期待に応えようと建てられた。

ところで公募展の審査の様相を聞くと、極めて短時間(十数秒?一年かけたものが!)で機械的に作品審査がされる。搬入、審査、保管、展示、そして搬出を滞りなく流すために機能的に計画した。黒川さんはこの美術館を世界でも類のない巨大展示機械だと言う。そこに周囲の樹木の成長によって森になるアトリウムを組み、命を吹き込むのだろう。

「黒川紀章展」は黒川さんの建築家としての50年の軌跡を伝えながら、主要作品を中心にして比較的新しい作品群で構成されている。70歳を超えてもおとろえない意気軒昂な気概を感じ取れる。存続に腐心している「中銀カプセルタワー」のメッセージにもそれがうかがえる。戦う黒川紀章だ。

会場の入り口に、羽織袴の黒川さんが椅子に腰掛けている。ジャーナリストや大勢の人に取り囲まれている。僕を見つけると微笑んで手を伸ばしてくれた。握手した黒川さんの手は思いがけず柔らかく暖かかった。


全日本卓球選手権

2007-01-21 23:21:05 | 日々・音楽・BOOK

高校生の水谷準が、今まで全日本で負けたことのない吉田海偉に勝ってチャンピオンになった。水谷準を知らなかったのでテレビを見ていてびっくりした。
優勝したコメントがいい。勝てる自信があったという。心強いではないか。いやいや日本の卓球も前途が開けたような気がする。
女子は平野早矢香が、僕がにわかフアンになった藤井寛子に勝った。全日本チャンピオン3回目だがまだ21歳。

藤井寛子を好きになったのは、昨日東京体育館に行き、金沢咲希と組んだダブルスで、前年優勝した田勢、塩崎組を破って優勝した試合を見たからだ。
僕は中国から日本に来て日本の女子卓球を率いた金沢フアン(といってもなかなか素敵な女性だなと思ったのからなのだが)だったのだが、コンビネーションの良い田勢、塩崎組もなかなか格好良いものだなんて卓球フアンに叱られそうなことを思いながら見ていて、大柄でふっくらしていながらスタイルの良い藤井にぞっこんになった。

僕が会場に行ったときには、その藤井が既にシングルスで福原愛を破っていた。「愛」の試合を見れないとまあなんとなく予測していたものの残念だったが、吉田海偉と井関晴光の試合に眼が釘付けになった。
若い吉田が井関を破ったのだが、僕の隣に座っていたほぼ僕と同世代の男性がやっぱり吉田だなあ!と慨嘆したように、やはり吉田と同じく中国から来た井関も年になったのだと思ってしまう。僕より一世代以上若いのに既に年だと思われてしまう。その26才の吉田が決勝で負けた。
考えてみると僕も結構、スター志向のミーハーなのだ。といっても情けないことに多少時代錯誤している。

卓球界もジャーナリストの眼も次代を担う若手に向いている。若手がスターなのだ。
例えば今朝の新聞を見ると、母校明大の後輩32歳になる田崎俊雄がシングルスで勝ち抜きベスト4になったものの一言も触れてくれない。見出しは「高校生同時に4強」のみ。
あの小さい体で全身使って打ち込む田崎の、卓球にかける思いを、ちらちらと戦う様を見ていて感じるところもあったのだが。田崎が気になり水谷準に眼が行かなかった。

全日本卓球選手権を見たのは実に(ほぼ)二十年ぶりのことだ。中野に住んでいたときに小さくて可愛かった娘(今でも可愛い。親馬鹿といわれそうだけど。可愛さが違うのだ・・ヨ!)を連れて東京都体育館に行ったことがあった。誰が勝ったのか覚えていないし、今の槇文彦さんの設計による体育館ではなかったような気がする。

昨日見に行ったのは、前日日本青年会館でJIAの新年を祝う集会があってJR千駄ヶ谷の駅を降りたら、目の前の東京都体育館で大会が行われていて無性にあの雰囲気を味わいたくなったからだ。入場料が1000円だったが、土曜日になったので2000円になっている。卓球協会もちゃっかりしている。
僕の座った席の前の一団は、ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)のメンバー、中学生だ。13歳でベスト4になった石川佳純はそのメンバーだし、優勝した平野はそのシニアメンバーである。JSCの連中は節度を持って先輩の平野を応援している。教育がしっかりしていると妙に感心する。
テレビではわからない、こういう雰囲気を味わいたいのだ。

高校時代の一時、卓球に夢中になったことがあった。荻村の時代だった。
高校3年のときクラス対抗球技祭で、僕がキャプテンをやったクラスが優勝したこと位が僕の実績だが、決勝戦で卓球部員のいる1年生を破ったのだ。といっても卓球台を取り囲んで後輩を無言で恫喝したので,段違いに強い後輩もビビッてミスを連発したということだったのだが。とはいえテニスだけでなく卓球にも僕は眼がない。多少の時代錯誤はあるものの。

ところで試合を見ながら気になることがあった。体育館の貴賓席が中央にあって、天井に組み込まれている照明もスピーカーもセンターに合わせて設置してあるが、試合を行う12個あるブースの中央と合っていない。試合を見ながら何故かと見回したがよくわからない。どうして体育館の中央とフロアにシンメトリーに設定したブースの中心が違うのか。何だか気になりだした。

昭和のロマンとモダニズムを秘めた「愛される三信ビル」

2007-01-19 12:48:28 | 建築・風景

嬉しいことがある。
三信ビルのシンポジウムの会場に来てくださった建築家林昌二さんから、お手紙を頂いたのだ。このビルはぴかぴかに輝いている、日本が最も輝いていた昭和ひと桁時代を語り継ぐこの建築を残したいと励まして下さった。
ご了解を頂いたので、後段に記載させていただく。

三信ビルの存続を願って1月16日にシンポジウムを行った。タイトルは「三信ビルの存続に向けて」。
コーディネートを担い司会をした僕の問題意識は副題にある。
『残し活用しながら新しい都市を創る』。
このビルの魅力を探るだけでなく、移り変わっていく、つまり人の手で創られていく都市の中で、時を刻んできた建築の存在する意義とそれが存続していくことの大切さを問いたいと思ったのだ。これは基調講演をしてくださった初田亨工学院大学教授や、若い世代のパネリストの問題意識でもある。

130名を越える人で溢れた建築家会館(JIA)は熱気に満ち、コメンテータとして祖父横河民輔や、設計を担当した松井貴太郎について自分の想い出を振り返りながら、この建築へのご自身の想いと、新しい技術に腐心した松井貴太郎の建築にかける情念を述べた建築家横河健さんが、冒頭で驚いたと率直に述べたように、参加者は女性がほぼ三分の一、そして建築家や歴史学者だけでなく過半数が一般市民だった。写真家の中川道夫さんもきてくれたし、このビルに触発されて作曲しピアノを弾いた音楽家Aricoさんもいる。休憩時間に静かで心に沁みるピアノの音をCDで会場に流して聴いてもらった。

このシンポジウムはJIA(日本建築家協会)関東甲信越支部が,建築学会関東支部の共催を得て行ったのだが、JIAのシンポジウムとしても異例なことだ。
パネリストの東大総合文化研究科の博士課程に在籍している鈴木貴宇(たかね)さんが累々と述べたように、大勢の市民がこの三信ビルを『愛している』証だと思う。

東京日比谷の歓楽街の中心地に建つこのビルは、横河工務所の設計により1929年(昭和4年)の暮れに竣工し、その後に建てられた有楽座や東京宝塚劇場の作り方に影響を与え、七十数年にわたって大勢の人々を虜にしてきた。
当時流行った三層構成のファサード(立面)や室内の細部や外観に彫刻を刻みこみながら、階段やエレベータによるコアを作り、一階と二階を利用して店舗を入れるいわゆるアーケードつくるという、新しい時代を見据えたプラン。この大正文化を髣髴とさせる昭和初期のロマンとモダニズムの予兆を感じさせる時代の証人でもある。

所有者の三井不動産は老朽化の為に解体するとHPで公表した。
パネリストJIA保存問題委員会副委員長の金山眞人さんは、保存要望書を持って三井の担当者と面談したが、老朽化としか回答を得なかったと述べた。僕は別ルートで四方を道路で囲まれていて免震化も難しいと三井では考えていると聞いていたが、昨年11月の日刊建設工業新聞に道路の向かい側に建つ日比谷三井ビルも含めて一帯を再開発すると記載されたのを見て、これなら残せる可能性があると思った。

様々な方と相談し、コーディネーターを引き受けたのはその記事があったからだ。これを書いた記者は、三井日比谷ビルに入居していた銀行が移転すると聞いて、もしやと思って取材を始めたという。こういう記者の感性があってシンポジウム開催につながったともいえるのだ。
若い都市研究者の川西嵩行さんは、様々な都市制度などを紹介しながら一つの例として日比谷三井ビルを高層化して三信ビルを残すプランを紹介した。残せるかもしれないと聞いて、会場の特に女性の目が輝き始める。その視線に僕は少々うろたえた。

僕もこのビルは得も言われず好きだ。DOCOMOMO Koreaの代表が来日されたときも見てほしいと思って案内したし、何度も訪れて食事をしたり、ノックス・フォトという写真機材の店を覗いたこともある。
しかし司会をやりながら少し居心地が悪くなった。45分も時間延長するほど盛り上がったが実は終わってからなぜかすっきりしない。

その一つは同じ横河工務所の建てた四十数年しか経たない三井日比谷ビルを高層化するという考え方だ。新しいものを壊して古いものを残す。もう一つは結局この考え方は経済優先を容認することになるのではないかという疚しさを感じるからでもある。創る建築家の解き得ない命題だとも思う。まとめを述べた内田青蔵教授がどの建築にも残す意味があるという言葉の一端にも込められた思いだ。そして何故市民がこの建築に魅かれるのか、僕も同じようにこの界隈に来ると何故胸が騒ぐのか、僕達が現在(いま)創っている建築はどうなのだろう。

翌日の夜林昌二さんから電話を頂いた。僕の最も尊敬する建築家である。手紙を下さるという。千路な思いで眠れなくなった。しかし頂いた手紙を読み、この建築に対する想いと素晴らしさだけを訴え続ければいいのだと心に記した。

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兼松紘一郎様            
林昌二
昨日の三信ビルシンポジウムは大変興味あるものでした。有難うございました。
時間が限られていたので敢えて発言しませんでしたが、求められたら言いたかったことを、念のためお届けしておきます。

あのビルは1928年生まれの私にとっては、親しい同級生のように感じられます。ビルの老朽化がいわれているようですが、私は老朽化しても、ビルはぴかぴかに輝いて、まだまだ働きざかりです!

三信ビルは昭和ひとけた時代、日本が最も元気だった時代をよく伝える建物であると思います。戦後の日本は仮にお金があってもその使い方を知らない、こころ貧しい社会になってしまったようで辛いのですが、それに較べると、昭和ひと桁は日本が力一杯伸びて元気だった、珍しい時代だったと思います。それは昭和初期から始まって、せいぜい10年間でしたが。昭和15年に紀元2600年を祝うつもりだった日本は、肝心の時が至る頃には、戦争に疲れてもう何も出来なくなっていたのですから。昭和ひと桁の10年間は、大正時代に育った自由な人たちが闊歩していたことでも貴重です。建築は時代の子と言っても、そういう雰囲気を表している建築は、もはや多くはありません。

三信ビルは日本が最も輝いていた時代を語り継ぐ、実に貴重な造産だと思うのです。
過去を蔑ろにするものは、将来を失います。現在の日本は、貧しいわけではないし、三信ビルは老朽化しているどころではなく、働きざかりです。それを殺そうとはどういう了見なのか、理解できません。あと半世紀もすれば、あれは残しておきたかったと残念がるに違いない建築です。

お元気で、ますますのご活躍を□


壊れた街はつくりなおせるか

2007-01-14 11:52:30 | 東京中央郵便局など(保存)

今朝の(1月12日)朝日新聞の「天声人語」を、そうなんだ、これは僕の言いたいことだと思いながら読み始めた。しかし読み終わってこれは困る、こう言ってはいけない、ことにジャーナリストがこういう認識だと`街が駄目になる`と一言言わずにいられなくなった。
今朝の天声人語のテーマはブッシュ大統領のイラク戦争感だ。

24歳だった息子をイラク戦争で失ったシンディ・シーハンさんが、ニューヨークの集会で述べる。「もう二度と息子の声を聞くことはないのです・・・イラクに大量破壊兵器はなかった・・・何のために息子たちは死ななければならなかったのでしょう」そして天声人語氏はいう。「・・国際社会の多様な声に耳を貸そうとせず、単独行動に傾いて先制攻撃をかけたことが、そもそもの過ちではなかったか」と。そうだと僕も思う。
そしてこう続いていく。「破壊による混沌から秩序をつくり出すことはできず、日々おびただしい命が失われつづけている」『壊れた街ならば、つくりなおすのも不可能ではない。しかし、壊された命をつくりなおすことは誰にもできない』

ふと僕は出たばかりの「東京人」(都市出版)2月号での鈴木博之教授、松波秀子さんと行った座談会(鼎談)を思い起こした。「だから建築保存はムズカシイ」というこの鼎談は、僕の「懐かしい本を持ってきました。先生が1980年にだされた『建築は兵士ではない』(鹿島出版会)です」という一言から始まる。
「兵士と同じく建築も補充すればいいものではない。建築保存でだけでなく人間のあり方にまで警鐘を鳴らす本で・・・」と書かれているが、校正のとき直そうかどうしようかと迷った。微妙に言い回しが違ってしまっている。
若き日の鈴木さんは勢い良く、兵士は「死んでもすぐに補充されて、戦線には異常なしとされてしまう・・・」と書いた。『建築は兵士ではない』。つまり建築は補充ができないと言いたいのだ。天声人語とは正反対の言い方である。しかし僕はあえて直さなかった。

人の命の大切なことはもとより承知の上でアイロニー(皮肉)を込めて述べたのであろうし、だから僕は`人間のあり方にまで警鐘を鳴らす`と言ったのだが、『兵士と同じく建築も補充すればいいものではない』としておいたほうが言いたい趣旨を伝えやすいと思ったからだ。

僕は天声人語を読んできて、天声人語氏の言う『壊れた街ならば、つくりなおすのも不可能ではない』という言い方をしてはいけないと確信した。

街は建築によって構成される。建築は単に箱ではなく建築主の思惑、設計者の思いや技術、施工者・技術者や職人の技、それらを培う社会(経済状況も含めた)や時代の様相、土地の条件やその環境などに満ち満ちている。そして更に建築が介在した時間、時の経緯によって培われてきた人の生活、更に記憶がある。それを文化(かけがえのない)というのではないだろうか。

僕はテレビで砲弾によって苦もなく壊されるイラクの街を見るたびに心が痛んだ。何十年、何百年とかけてつくりあげてきた人々の想いがなくなる。
かつてJIAの理事のとき,JIA会員を中心にして人の命と同じく街を破壊することはあってはいけないと呼びかけ、多くの人々の賛同を得てその方々の名前とともにバイリンガルで記して当時の外務大臣川口順子氏に声明を渡したことがある。そしてJIAのHPにも記載してもらった。

戦争は決して引き起すべきではない。人の命は何物にも変えがたい。同時に「壊れた街ならば、つくりなおすのも不可能ではない」と決して書いてはいけない。建築は、街は、人の命と同じく、壊してしまったらつくり直すことはできないのだ。時は再現できない。

旅 トルコ(5) バスターミナル

2007-01-11 18:52:46 | 旅 トルコ

アンカラからバスでカッパドギア・ギヨルメ村へ行くことにした。
アンカラ工科大学での鈴木博之教授の行ったプロポーザルの翌日、大会を抜け出していく了解を得て、ギヨルメ村の洞窟を掘って作ったホテル「ケルベック・ブディック」を藤本さんが予約していた。
バスで行くと5時間もかかる。一泊しか出来ないので10時間という時間がもったいない。タクシーのほうが良いのではないだろうか。途中に面白そうな街があったら探検も出来る。カッパドギアツアーもありそうだ。何しろ世界遺産なのだから。でもお金の心配もあるので、アンカラに行ってからホテルで相談して決めようということになっていた。それなのに頼りにしていた藤本さんがいない。

どうやってフロントに切り出したのか覚えていない。しどろもどろの英語で明日行きたいというとバスだと言う。いやタクシーでは?と聞くとフロントの女性が驚いた。タクシーで行く奴なんていないようだ。いくらか掛かるのかと聞くとどうもアバウト600百ドルといったような気がした。エーと驚いてバスはときいたら?23YTL、2000円ちょっとではないか。思わずバスバスと叫んだ。ニヤリと笑った女性はすぐに電話をして時間を聞き、番号を書いたメモをくれた。乗ってみてわかったのだが一日に何本もギヨルメ行きの定期バスがある。予約をしてくれたのだ。それも窓際を。

翌朝、明日戻ってくるのでとホテルに荷物を預け、カメラと軽いバックを持ってタクシーでバスターミナルに向かう。
帰ってきてから鈴木教授に話したら、よく一人で行けたネとちょっとオーヴァーだ!と思うくらい驚いた。何しろアンカラのバスターミナルは、空港より遥かに大きくバス会社毎にブースがあり、それが大げさに言うと無数にあるし、案内看板はトルコ語なのだから。でもなぜかわかるのだ。何処に行けば良いのかと。ちょっと戸惑ったがメモに書かれた番号はブースと予約の番号だった。僕の乗るバスはNEVSEHIR・SEYAHATバス会社だ。旅感が少し戻ってきた。
それでも受け取ったチケットをバスの案内人に見せながら、何度もこのバスでよいのかと念を押した。

時間があったのでバスターミナルをうろつきながら写真を撮っていたら数名のガードマンに取り囲まれた。写真は駄目だと言う。アイシー!とうなずくと彼らもにこやかにうなずき返す。顔を隠しているイスラムの女性が沢山いるからだろうか。でもぎすぎすしていないのがうれしい。だんだん僕はトルコフアンになっていく。



賛歌 Hymns Spheres

2007-01-08 18:58:11 | 日々・音楽・BOOK

キース・ジャレットが1976年の9月に、西ドイツのベネディクト修道院で収録したオルガン演奏には意表を付かれた。
前年の1月、ケルンのオペラ劇場でのライブ録音を繰り返し聴き、最初のフレーズの美しさと、展開していってふと人が生きていくことを慈しむようにうなずきながらリズムに乗って導き出していくピアノの「音」に、その都度こみ上げてくるものがあるのだが、それをオルガンでどう表現していくのか、ジャズのリズムをどのように刻むのかと興味津津だった。


心を研ぎ澄ませCDプレイヤーのスイッチを押す(針を落とすと言いたい)。
どこか遠くのほうから、聴き取れないような単音が響いてくる。そして次第に様々な音(ね)が綾なすように紡ぎだされていくのだ。
キース自身が自分が生み出していく200年以上前に作られた18世紀のバロックオルガンの音に耳を澄ませ、黙しながら遥か遠くに想いを馳せる姿が僕には見えてくる。音に満ちて共鳴する会堂の姿も。
ジャズではない。
ジャズではないがキースの音楽なのだ。キースの心の、自然や人智を包括しその先を見つけ出そうとする響きだ。僕は人の生きることや永久の別れを思いながらキースの見ようとした世界に想いをよせる。
この演奏は40分21秒後ぷつっと終わる。

生きること(20) 二通のはがき

2007-01-05 11:13:35 | 生きること

この「生きること」を一旦閉じようと思って仏壇の引き出しを改めてみたら、二通のはがきが出てきた。一通は母が書いた宛先のない出さなかったはがきで、もう一通は真ん中から半分にちぎれてぼろぼろになっているはがき。このはがきにも宛先が書かれていないが、馬橋の住所と父の名がブルーのスタンプによるゴム印で押してある。
文字はたった三行の黒インクによる万年筆の走り書きである。

『南方派遣軍□□で○月○日
 ○○港出発予定
 元気で暮せ 子供頼む』

□はちぎれたところで読み取りにくいが「所属」と書かれているようだ。○○は書けなかったのだと思うが、知らされていなかったのかもしれない。父は一言でも気持ちを伝えたかったのだ。
投函していないのに此処にあるのは、誰かに託したのだろう。ということは母の手に渡してくださった方がどこかにいるのだ。でも何故自宅の住所と父の名のスタンプが押してあるのだろう。
この後戦地からのはがきも届いたが、何故このはがきだけが二つにちぎれぼろぼろになって、他の19通のはがきとは別のところにしまわれていたのだろう。もしかしたら母はこのはがきを肌身離さず持っていったのかもしれない。「元気で暮らせ、子供頼む」母はこれを守った。

『今お電話を仕様としたのですが、一寸も出ないのでまた端書を出します。又お芋お願いしたいのですが。今ご飯むし一ふかしでとうとうなくなりました。お願いします。入りましたらお電話下さい。』
その後に僕の従兄弟の5人の名前が書いてあって、『昨晩はみんな帰ってきている夢を見ていました。阿佐ヶ谷も又にぎやかになってよかったなーと思っていたら、空襲になってびっくりしてしまいました』

この葉書は父が出征した後、多分母の姉、頼りにしていた阿佐ヶ谷の僕の伯母に出そうとしたのだろう。ここに出てくる名前は伯母の子供たち、僕にとっては従兄弟だ。今だからわかるのだが、僕の従兄弟たちは日中戦争で中国にいたり、北海道の大学へ行ったりしていた。戦争の末期他の人たちも阿佐ヶ谷を離れていたのだろうか。時が経った。現在元気なのは一人だけだ。
母は切羽詰ってこのはがきを書いたけど出せなかったのかもしれない。
でもなぜ母はこの出さなかったはがきをとっておいたのだろう。

「吾子の生い立ち」にはこういうことは書かれていない。僕は父からの出発直前のはがきよりこちらの‘芋‘を送ってほしいという`はがき`を読むのが辛い。「また」とも書いてある。何度も無心したのだろうか。出さなかった、或いは出せなかった母。書いた後電話が通じたのかもしれないが、父のいなくなった生活を思う。