日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ディック・フランシスの「矜持」とスロー・ライフ

2011-03-25 19:26:23 | 日々・音楽・BOOK

「スロー・ライフ」というコトバがある。
「計画停電」なる仕組みによって電車が70%程度の間引き運転になり、どういうダイヤ構成になっているのかわからない。朝の1時間10分、新宿まで立つ勇気はない。では、目が覚めたら布団の中でゆっくりと新聞を読んで、時間をずらして各駅停車で座ってのんびり本でも読もうか。スロー・ライフ、おしゃれだ!と思った。
思ったのだが、はてスロー・ライフなんて言葉があったのかと疑念がわいた。のんびり生きる?そうなのだろうか。膝に置いているリュクサック(暖房なし、寒いので小さなホッカイロをジーパンのポケットに入れ、リュックを棚に載せないで抱え込んでいるのだ)から電子辞書なるものを取り出す。スローライフがない!

スロー→のろい、緩慢、トロイ、それは困る。複数辞書を繰る。スロー地震→低周波地震。はて?スロー・スリップ→緩慢な地殻変動。地表では揺れや移動は感じられないが規模は大きく、東海地震が想定されている震源域では、5年間に6センチの地殻変動がなされてマグニチュード7.1のエネルギーが放出された。今回は9だった!

でもスロー・アンド・ステディが出てきた→ゆっくり確実に。なかなか好い。スローフード。ファーストフードのチェーン店の蔓延に危機感を覚え、伝統や家庭の味を大切にして食文化を見直そうというライフスタイル。関連して出てきた。「スロー・ライフ」だ。スローという言葉を生活全般に適用したライフスタイルで、健康や環境問題に関心を持つ人を中心に流行した、とある。「ロハス」というアメリカで2000年ころから導入された市場戦略用語とリンクしているという。

`のんびりと各停で本でも読む`なんてものではなさそうだ。
自然を受け止めトライする、アクティブという文字が浮かんだ。
そうなのだが、各停で本を読んだ。
昨年の2月に亡くなったディック・フランシスと次男の物理学者フェリックス・フランシスの共作による「矜持」である。

ディック・フランシスの競馬シリーズは、新刊が出るたびに小躍りして全て読んだ。44冊だ。(長編は43冊)。残念ながらこれが最後、でも解説する池上冬樹によると、彼も微かな望みを持ちながら本編のある人物が「頂点に立ったまま退きたい」といい「この手綱は次の世代へ譲るつもりです」という一言に、なにか競馬シリーズの今後について語っているような気がするのだが、どうだろうか、という。
さて、それがいいのかどうかは難解(いいのかなあ?)だが、本編の主人公英国陸軍近衛歩兵大尉、アフガンで片足を爆破されたトム・フォーサイスは、なんとも軍人だ。職業軍人として冷徹なプロ意識が冴えわたっている、と冬樹氏は書くし僕もそう思った。

その母が調教師、それがまた冷徹なプロなのだ。読みながら僕は、メリル・ストリーブと重ね合わせていた。あの鋭さと矜持。中身は書かない。早川書房のこの本は、今年の1月15日に発行されたばかりでこれから読む人の楽しみを妨げたくない。我がスローライフで読む本は、とんでもなくアクティブに人生にトライしていて僕を離さない。各停で読みふけり、一睡もできなかった。
でも感じたのだが、各停だって電車のスピードはしっかりしている。すべての駅に止まるだけだ。苦をアクティブに生きる。歳との戦いとはいえ・・・僕の一言は言い訳っぽいのが難点だ!

一週間 大震災の復興を考える・カレーライスの味と浦霞

2011-03-20 12:39:36 | 建築・風景

震災の起きた翌朝、暖房のない電車で震えながらに帰宅してから土、日の2日間、そして聞いたことのなかったコトバ東電の「計画停電」によって電車が不通になった月曜日と火曜日との計4日間、自宅で依頼されていた原稿などを書いた。日頃からあなたは集中力がないね!と妻君に言われていてその都度そうだねえ!と頷くのだが、何かをやりだすと他の何かが気になって、何時もどうしたものかと思ってしまう。とはいえこの4日間は流石にTVに集中してしまい原稿が遅々として進まなかった。

一週間経ったが、家屋が押し流されていく津波の画像がこびりついていて、この事実に触れるのは不謹慎のそしりは免れないかもしれないが、鉄筋コンクリートの建物の屋上に乗っている大きな船の様を見ると、この災害は夢ではないのだと、そして舟の重さに建物が必死に耐えているなどと思ってしまう。

昨日身一つではあっても避難できた人々が一村ごとまち役場機能と共に仮移動した埼玉アーリーナに着いた。原発のある福島県双葉まちの人たちだ。一週間経つと又別の場所に移らなくてはいけないのだと聞くと言葉が詰まるが、風土を一にした人々が一緒にいれば心強く、復興のあり方の相談もしやすいだろう。「こんなに美味しいカレーライスを!」と涙汲む女性を見ていてついもらい泣きしてしまった。
別の画面では取材した記者に対して言葉に詰まった男性が、涙をグットこらえながら笑って皆で酒でも飲みたいと述べる。
酒! 先程僕が買ってきた日本酒は宮城県塩甕市の「浦霞」。純米酒人間の僕だが何だか申し訳なくて本醸造にした。浦霞は大好きで時々「禅」を飲んだりするのだが、本醸造であっても旨いというのを知っているのだ。醸造蔵の壁の一部が落ちたり、津波の被害があったが社員の無事が確認でき、お見舞いのお礼と共に復興を目指すとHPに記載された。

僕の原稿の一つは、多分もう二度と出来ない保存活動の記録と報告「東京中央郵便局庁舎の顛末」。歴史は主観性を交えて書いてはならぬ、と塩野七生はいうが、僕は主観的に書くとあえて書き記した。昨日入稿できたのはwebTOKAIの、DOCOMOMOメンバーによって書き綴る`日本のモダニズム建築を訪ねる`というシリーズ第2話の、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に建つ「神奈川県立近代美術館 」である。

書きながら考えていたのは、鎌倉の「近美」は内山岩太郎という当時の神奈川県知事が、終戦6年後の1951年、戦争で疲弊したまちと人々の心の拠りどころをつくろうとして、つまり復興を願って建てたのだということである。設計した坂倉準三は、師ル・コルビュジエの建築思想「人間の幸福のために建築を創る」を受け継いで僕たちの心を震わせるこの美術館をつくったのだ。

一昨日の夜、親しい建築家、篠田義男さんや小西敏正宇都宮大学名誉教授にJIAに呼び出された。二人はJIA本部の「災害対策委員会」の委員として今回の震災対応に取り組んでいる。集まったのは8人、意見を交わしながら震災災害救援実務作業には関われないかもしれないが、復興に際しての建築文化を継承することに関して、僕でも出来ることがあると思った。
この状況の中でも、急がなくてはいけないことがある。

昨夜のTVで、原発に放水作業を行った消防隊員隊長の記者会見を聞いていて胸が迫った。見えない敵放射能は怖い。
さてっと、もう一本の原稿がある。参考資料としての事例報告資料収集と整理に手間取って、この2日間でまとめなくてはいけない。愛媛県鬼北町庁舎の再生委員会の報告書である。建築文化継承のための報告書だともいえる。


東日本大震災の中で:神奈川県海老名の自宅から

2011-03-13 14:29:32 | 建築・風景
昨土曜日の朝海老名の自宅に戻り、時折起こる余震を感じて(揺れるたびに小さいが建物のどこからか軋む音がする)いつまでも体が揺れているような気がしながら、津波に押し流されて街がなくなっていく凄まじい様を、テレビの映像で繰り返し見た。言葉がなく、溜息をつく間もなく自然災害の恐さを実感した。

JIAには災害対策委員会が設置されている。緊急委員会として指揮系列を決めたようだ。少し若く頼りになる親しい建築家も委員として事務局に行き、関東各地にいる委員とは通信審議をしながら緊急対策を探っているようだ。何より現地対策本部を設置したJIA東北(仙台の)現地の様子が気になる。この僕に何が出来るかとも思うが、結局支援実務活動は何もできないとしても、JIAの活動に対してささやかであってもせめてもの義援金寄付をすることにする。

一昨日の地震の直後、市谷の会社にいる娘から大丈夫かと電話が入った。今になって思うと、そのときはまだ電話が通じたのだ。携帯電話が通じない。電話はともかく緊急時に携帯が通じないのは、何のための携帯なのかと思う。
4時から丸の内で欠かせない会議があって、3時には事務所を出ようと思って書類などの確認をしていた。そのあと関連の会合を東京駅駅舎工事事務所の会議室を借りて6時から行う。そこへ大きな揺れが来た。

たまたま事務所に来ていた妻君が、慌てて入り口の扉を開けた。書類ファイルや本が棚から降ってきたが、僕は妻君が使っているPCがグラグラ揺れているのを抑えながら一瞬パニックになった。自転車に乗って近くを走っていた元所員が事務所に飛び込んできた。地面の揺れに走らせるのが危ないという。

交通機関が全て不通になったので、丸の内には行けない。かたずけが何とかなって、明日からの栃木県大谷で一泊二日で行うJIA保存大会が気になってJIAへ電話したが通じない。思いついてメールをしてみた。届いているような気がする。
夜になり、一緒に会議に出席することになっていた鈴木博之教授からメールが入った。地下鉄が動かないので(会議はあきらめて)青山から自宅まで途中で食事をしたものの5時間歩いた。5時間も歩ける、元気なのだとちょっとほっとする。

その僕は11時近くになっても小田急線開通の報がなく自宅に帰れないので新中野の娘のところに歩いて行くことにした。娘は市谷から2時間半青梅街道を歩いたという。人が一杯で追い越せなくて!夜の青梅街道が人が一杯というのは異常だといっている。そして妻君より僕の足を心配している。
若い女性所員の帰宅が心配なので、皆で事務所に篭城するというメールが建築の友人たちから入った。タイトルは、「皆様大丈夫ですか?」

気象庁からマグニチュードを8.8から9に修正、断層が3回に渡って破壊した、3日以内ににマグニチュード7(震度6程度)以上の余震の起こる可能性が70%あると発表された。中国やドイツなど各国からの支援活動が始まった。なんだか涙が出てくる。
春の日差しに溢れている日曜日、岡崎にいる妹から仙台に長期出張していた長男が横浜に戻っていて安心した、そして深川の昨年末没した弟の連れ合いから電話が入り妻君がでた。身体の揺れが止まらないような気がするという妻君は、横浜の姉に電話した。札幌の友人からもメールがきた。

<追記>今朝14日、東電の輪番停電(計画停電)の影響により、小田急線が不通になって事務所に行けない。都心に通う大勢の方も困惑しているだろう。昨日のテレビや今朝の新聞でも停電の報はあったものの、交通機関不通の情報提供がなされなかった。明日からもどうなるかわからないという。情報を得られない被災地の方々からの訴えと不安のほんの一端に触れた思いだが、緊急事態ではあるとはいえ、やはりこんなことでいいのかと不安を覚える。ここ海老名、このコメントを書きながら微かな余震を感じている。

四国の建築 松山から今治へ・316号線沿いの村

2011-03-11 11:54:02 | 建築・風景

昨週末、小さなレンタカー(マツダのデミオ・小回りが利いてなかなかいい!)で、松山から石手寺、奥道後を経由して今治に向かった。日差しに春の気配を感じるが空気が冷たい。石手川沿いに山並みを分け入るように連なる317号線沿いの集落には、数日前に降った雪がうっすらと残っている。
走る車も少なくてのんびりと車を走らせながら、道幅の広い個所があると車を留めて、山麓に小ぶりな石を積み込んで段々畑にし、へばりつくように建っている瓦屋根の木造家屋のさまを見たりした。
小学校時代を過ごした天草の粗末な我が家もこんな感じで建っていたが、段々は切りっぱなしで石なんて積んでなかったなあとちらっとそんなことが頭をよぎる。
石垣の風情がとてもいいのだ。石を積んでこの地を大切にして慈しむように農作物を育てる人たちがいる。でも人の姿がない。
昨秋、建築家丹下健三の故郷今治に行ったのだが、もう一度市庁舎やその周辺に建つ丹下健三のつくった建築を見ておきたいと思った。市民会館建て替えの話があって気になっているのだ。

四国の建築 四国鉄道文化館と十河信二記念館

2011-03-06 16:03:58 | 建築・風景

愛媛県宇和郡の、レーモンド事務所が設計した鬼北町庁舎の存続を検討する「鬼北町庁舎再生検討委員会」が3月3日に結審し、まちが新たに諮問する次年度の委員会(詳細は未定)に引き継がれることになった。僕が委員として関わったこの委員会の経緯は興味深く、広く伝えることは大切だと思うので、公開できる時期がきたら報告したいと思っている。

四国の風景は多彩でそこに建つ建築にも好奇心が刺激され、委員会に出席する毎に時間をとってみて歩いた。この機会にその幾つかを紹介してみようと思う。

JR予讃線の伊予西条駅に隣接して(構内だそうだ)、木造による「四国鉄道文化館」と「十河信二記念館」が建っている。
設計したのは、鬼北町庁舎の再生検討委員会の事務局(この委員会は建築学会四国支部に委嘱された)を担った砥部町に在住する建築家・和田耕一さんである。和田さんは八幡浜市の日土小学校の保存再生の実施設計を行った現在では、四国を代表する建築家の一人だと僕は考えている。

この二つの建築は`第六回木の建築賞`を受賞していてその存在は知っていた。
竣工したのは、2007年、0系新幹線とDF501ディーゼル機関車を展示する大きな空間を、地元に産出する杉の丸太を大胆にアーチ状に曲げて骨格を造り、その外側の外壁部には柱の中にガラスをはめ込んで均一な採光と、更にその外側にこの木の構造を支える柱とブレース(筋交い)による端正なフレームを林立させた。
パンフレットに掲載された写真を見ると、日が落ちると電灯に照らされた内部空間が浮かび上がってきて幻想的な風景が現れるという。ちなみに`四国照明賞`(照明学会)を受賞している。

僕が気になっていたのは、四国鉄道文化館の手前(駅寄り)に建つ十河信二記念館のガルバリウム鋼板縦ハゼ葺きの屋根が、文化館とは異なっていてほとんどフラットで、外壁が同じく土佐漆喰ヨロイ塗りとはいえ大壁風で、文化館とは意匠が異なっていてその調和だった。
そして今回も建築は観なくてはわからないということになった。このデザインはいい。

二つの建築の南面は予讃線の線路に面しているが、広場をはさんで、昭和初期の木造建築が建っている。観光交流センターとして使われているがシンプルな切妻屋根の建物、この建築をどう捉えるか、というのが和田さんの一つの課題だった様な気がする。そして現代の木造にトライした。単なる切り妻にはしなかったのだ。
和田さんによると、太い丸太を曲げたのは構造の相談をした増田一眞さんからの示唆によるのだという。ちょっと無理っぽいが創ったという実感があるだろう。呻吟しそして創った建築家の喜びが伝わってくる。

文化館にはNゲージの鉄道模型がある。案内してくれた人が動かしてくれた。子供たちは大喜びだろう。ちなみに第四代総裁として国鉄を率い、新幹線計画を実現した十河信二氏は、西条市第二代市長を勤めた地元の誇る偉人である。

さて一言、パンフレットにも展示室にも設計した建築家の名がない。施工者の名もあったほうがいい。
建築を観るたびに思うのだが、これは建築界の課題だ。