日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

鎌倉の、神奈川県立近代美術館存続改修に向けて

2014-02-23 14:55:21 | 建築・風景

鎌近と愛称される「神奈川県立近代美術館 鎌倉」の存続に向けて、耐震、改修のための事前調査費用1581万7千円を、県と鶴岡八幡宮(750万円の負担)でほぼ折半する事になったと、2月19日の神奈川新聞で報道された。

改めてここに書くことでもないが、この美術館は、ル・コルビュジエのもとで学んだ建築家坂倉準三の代表的な建築として世界に知られており、DOCOMOMO Japanでは日本を代表する建築として本館(1951年)を1999年に20選として選定、その後新館(1966年)を追選定し、本館と新館を一連の建築として選定した旨公表している。

鶴岡八幡宮と県との借地契約では、返還時には更地にして返すとなされているが、建築界をはじめとする様々な分野からこの建築を存続して欲しいとの要望がなされており、八幡宮も県もその意を受けてその仕組みの検討がなされてきた。
僕自身、多くの方々のサポートを得て高階修爾氏を代表とした「近美100年の会(略称)」をつくって宮司さんに何度かお会いしたし、前知事や現知事の側近の方や、DOCOMOMOのメンバーとともに県の担当部署の方にも会って継続して欲しい想いを伝えてきた。
この地の埋蔵文化財関係者の意向も聞いていて複雑な思いもなくはないものの、それを与した存続に向けての検討が具体化されてきたとの報道に感じるものが多々ある。

神奈川新聞の記事にホッとしたのは実感だが、ちょっと気になるのは掲載された写真が本館のみであることだ。更に翌日の朝日新聞記事では、「鎌倉館の建物は」として、1951年に完成、と記されていて、敢えて本館のみ、と受け留められる報道がなされたことだ。
これを書いた記者や、本文の担当部署の責任者はどう考えたのか、担当する県の生涯学習課等に確認がなされたのかを問いたい。

新館は、坂倉準三がお元気なときの建築で、僕は担当した室伏次郎から所内コンペをやった経緯などを聞いているし、同時にこの大きなガラスを組み込んで、本館のピロティとの融合性を望んだ当時の館長土方定一の思いも聞いている。

このブログ(2013・12・16を参照下さい)でも記したシンポジウムでの李 禹煥(リーウーハン)氏の本館のこの地の風土を想起されるピロティに触発されて喚起創造した作品のことと同時に、本館のピロティと池を望む新館の床面に陶板を敷き詰めて作品を展示した湯河原に工房を持つ陶芸家「小川待子」展(呼吸する気泡・2002年)が忘れられないと嘗て述べた。これもこの新館でなくては生み出せない作品だったと改めて思う。
更に敢えて言えば、新館に付属して建てられた収納庫・学芸員室も、八幡宮の森との絶妙な関連性を保ちながら存在していることにもここで触れておきたい。

沖縄:聖クララ教会のコンサート:大雪

2014-02-17 14:15:18 | 沖縄考

2回に渡った大雪(吹雪)に翻弄された。

9日(日)からの沖縄行きが欠航となったが、朝のネットを見ていたら二つの便に空席があると表示されたので、1時間半をかけても羽田に行ってみることにした。この夜のJAZZクラブ「寓話」での、津嘉山さんのドラミングを聴きたかったのと、いつも同伴される奥様との会話も楽しみだからだ。
空港で受付カウンターまでたどり着くのに2時間立ち並んだが、200人程の待機者があってすげなくOUT。それでも翌朝の第2便を予約してくれて、空割希望と書き添えてくれた。

沖縄も寒く、着ていったダウンのコートにマフラーが離せない。
そして帰京した翌日14日と15日の大雪、JIAの諏訪地方で行う「保存問題長野大会」(保存問題委員会主催)もあえなくダウン。実行委員長丸山幸弘に電話をしたら雪が60センチも積もって身動きができないとのことで、1年かけて準備してきたことが霧散する自然界の戯れに、不条理というコトバが頭をかすめる。

長時間歩くことに躊躇する昨今だが、晴天になった昨日、車に積もった雪を落とすためにバケツと塵取りを持って行った駐車場には、数名の人が雪かきをやっている。結局3時間も腰をかがめて雪運びをする羽目になった。
息は切らしたがまあ俺もまだ大丈夫だと奇妙に得心、一夜明けた今、事務所でこの一文をしたためている。腰が痛いしバケツを持った右手の親指が腫れあがってしまった。とは言え、常日頃、両手のばね指に悩まされているのに、まあ俺もまだ大丈夫だとなんとなく自信が湧いてくる。

今年の沖縄行きは(沖縄紀行と言いたくなるが)東大名誉教授の原広司に学び、平和祈念資料館を設計、「沖縄少年会館(久茂地公民館)」の保存に尽力した建築家福村俊治へのヒヤリング、聖クララ教会でのコンサートに参加、5月に行う予定の「那覇市民会館」存続に向けてのシンポジウムの下相談、そしてそこにも関わってもらいたい陶芸家大嶺實清を根路銘さんと一緒に訪ねて、持参した三つの茶碗の箱書きをしてもらう。そして、ある意味(後日書き記したい)「生きること」への薫陶を得ることになった。

聖クララ教会のコンサートは、建築士会島尻支部の主催で今年で第8回。僕は3回目。今年は子供を連れた家族などで聖堂がいっぱいとなり、床に膝を抱えて座り込む人が出る盛況となった。
日本を代表するモダニズム建築の一つとしてDOCOMOMOで選定したことなどを紹介してほしいと、このコンサートを企画実現させてきた建築家根路銘さんに頼まれ、また今年も!と言われるのではないかと思ったものの、僕の口から自然に出てきたのはやはり鈴木博之DOCOMOMO前代表の訃報報告だった。

演奏の後半は、沖縄のこの地で行われる与那原綱引き歌を、コンサートのリーダー、バイオリニストの海勢頭愛の父、豊の編曲による沖縄音階に集まった聴衆の息使いが変わるのを感じ、豊氏の作曲した「遥かなる南の海」に、沖縄に来たのだと胸が熱くなった。

終演後、何度も会っている女性の建築ジャーナリストと立ち話。問われたのはやはり鈴木博之教授のことだった。5月のシンポ構成がまとまらなかったのは代わる人がいないからだと言いかけて、ふと思った。そして肩に手を置いて「代わる人っていないのだよ!あなたもそうだよ!」 <文中敬称略>

鈴木博之先生を悼む

2014-02-08 17:05:48 | 素描 建築の人
2月3日、鈴木博之先生が亡くなられた。近親の方々で密葬された6日の夕刻、知人から訃報の電話を貰った。言葉がありません。僕よりお若いのに、抱えてきたいくつもの案件を支えて下さった。これからどうしようかとおもう。ただただご冥福をお祈りします。
親しい新聞記者からも電話があったが、問にうまく応えられなくて、こういうときに申し訳ないと気を使わせてしまった。

僕の住む海老名は猛吹雪になった。小田急線の間隔が空いている。明日からの沖縄行が気になる。鈴木先生とも相談していた5月に行うシンポジウムの、沖縄の建築家やサポートをしてくれる人たちとの下打ち合わせ、聖クララ教会でのコンサートへの参加、沖縄の地に根付いた建築家へのヒヤリング、陶芸家大嶺實清先生との面談もするのだが・・・

僕のこのブログの、この一文の上部に置いてあるメッセージ「お知らせ」のコメントをお読みいただけると幸いです。
2年前の鈴木先生とのやり取りです。

塩野七生の「真夏の夜のジャズ」

2014-02-01 14:38:55 | 日々・音楽・BOOK
二つの建築誌に、写真とエッセイによる連載をしているからだとも言えないが、エッセイを読むことに僕はとっ捉まえられている。
無論、妻君が図書館から借りてくる宇佐江真理の「髪結い伊佐地捕り物余話」などの小説にものめりこみ、昨秋出版された12弾「名もなき日々を」には思わず涙ぐんだりしたが、僕の本棚には、吉行淳之介や開高健、沢木耕太郎など三氏の文庫本がひっそりと並んでいて、何度でも読んでくれと僕に呼びかけてくる。
そこに、イタリアの歴史と関わる人を主題として論考する「塩野七生」の本が加わりそうだ。と改めて思ったのは、18年前に出版され2年後に文庫化(新潮文庫)された塩野七生『人びとのかたち』を読み進めていて唸っているからだ。

このエッセイは見た『映画』を題材にして、人を、つまりはご自身を描いているのである。エッセイを書くということはそういうことだ。
つい最近会った僕のエッセイを読んだ建築家からもズバリ指摘された。だから(多分)人は文章・エッセイを書くのだろう。

ところで著作に、「あとがき」とか「解説」があれば、また「はじめに」という一文が添えられていればさっと眼を通してから本文に入るのが僕の流儀だが、この川本三郎の書いた「人びとのかたち」の解説を読み始めたら、「真夏の夜のジャズ」を塩野七生は映画館で12回も見たと書いてある。
この一節で僕の想いは遥か五十数年前になる若き日の僕と、ヨットハーバーの光景や波を切って大西洋を走るヨットの姿と共に、それを支えるような「ジミー・ジェフリー・スリー」の軽やかなスイングジャズの音が響き渡ってくるのだ。

僕のジャズは、中学3年か高校生になったばかりの時のラジオから流れてきたジャック・ティーガーデンによるデキシーに始まるが、僕の書棚の下部にチコ・ハミルトンのLPがあるのも、この真夏の夜のジャズでの演奏を聴いたからかもしれない。セロニアス・モンクはもしかしたら、スタンスは違うとはいえ、後年銀座のライブハウス「ジャンク」ではまった菊池雅章に繋がったのかもしれない。この映画は僕のJAZZの原風景なのだ。
塩野の描くアームストロングやジョージ・シアリング、ダイナ・ワシントンそして静かに黒人霊歌を歌うマヘリヤ・ジャクソン!ああ、あの時代の!

「あの時代のアメリカは幸福だった」と塩野は回顧する。
「酔うのに、ジャズとジンジャーエールとタバコだけで十分だった。麻薬もヴェトナムもエイズもまだなかった。ケネディが大統領に就任したのは1961年・・・ヴェトナム戦争が始まったのは1963年だっただろうか・・・・」
そしてこのエッセイをこう締めくくる。「(ドレス姿の観客の)イミテーション・ジュエリーのチカチカしていた時代のアメリカが、今の私には限りなくなつかしい・・・」

僕は今年の5月に、JAZZに触れ始めて今の僕を培った高校時代の同窓会を行う。僕より少し歳が上だがお茶目な塩野の慨嘆に胸が熱くなる。このエッセイを書いたのは1996年、僕が56歳のとき、そのときの僕は何を考えていたのかと18年前を思いやるのだ・・・

ところでこのブログを書いている僕の聴いている曲は、JAZZではなく、リヒテルの弾くバッハの平均律クラビヤ曲集第1巻である。何故かこの論考にふさわしいのだ。

ところで、塩野のこの一文のタイトルは「失われた時を求めて」である。