日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

年の瀬に 川瀬巴水を見ながらの大林宣彦の一言

2013-12-31 21:05:28 | 建築・風景
気がついたらあと数時間で年が変わる。
山下達郎の`クリスマスイヴ`が繰り返しラジオから聴こえてきて、この歌は達郎終生の名作だと呟いてその都度ボリュームを上げたりしたが、同時に「ああ今年も!過ぎ去るのだ」と妙に心もとないような気がした。
事務所の近くにある熊野神社の境内では、まちの鳶衆が門松をつくっている。この歌が流れなくなったら、新宿の沢山のオフィスビルの入り口に設置されるのだ。そして新年を迎える。こういう例年の慣わしに妙に心打たれる。

年末の25日、愛知県立芸術大学の「建築環境評価専門部会」の委員会が開かれることになって、委員長を務める水津准教授から電話を貰った。
国の指針もあって県ではこのキャンパスの建築群の耐震改修だけを先行することになった。提案されたその素案が気になるので、東京から出かける僕の時間に合わせ事前会議をやりたいという相談だった。そして急遽20日に、委員の一人谷口名古屋大名誉教授の研究室に僕の前任西沢泰彦准教授やJSCAの宿里勝信委員も含めて十数名の関係者が集って意見交換をし詳細の検討を行った。

僕は水津さんを誘って、待ち合わせた槇文彦の耐震増改修をした豊田講堂の様子を一緒に見たあと、何度か訪れて気になっている近くにある南山大学に赴いて耐震改修の実態を確認してから会議に臨んだ。
委員会で僕がまず述べたのは、改修理念を明確に表示すること、つまり重要文化財、或いは登録文化財を目指した仕様にすることである。

ところで、NHKの日曜美術館で、川瀬巴水の版画展を見ながらの大林宣彦の一言に心が騒いだ。
大林宣彦は自身の事を映画監督とは言わずに「映画作家」なのだとこだわって話題作を次々とつくってきた兵(つわもの)である。その大林は、巴水の晩年の作の前で、巴水のこの作品もそうだが、大林が70歳を越えてつくるものは「僕の遺言だ!」というのだ。2歳年上の大林の口調は穏やかで、柔らかい笑みを浮かべたその風貌があっての一言だったのでなおさら身に浸みた。

こう言っては実もふたもなくなるが、写真とエッセイによる二つの建築誌での連載や、上記の委員会で述べる僕の論考にもその想いがなくもない。

過ぎ行く2013年、政界も財界も奇妙で得心できないこの年末、聴いているのはKEITH JARRETT TRIOのミュンヘンでのライブ(1986年)、僕の好きなNYのビレッジ・バンガードのライブ録音ではないが、この年の瀬を豊かにしてくれる観客の拍手と掛け声が嬉しい。

年越し蕎麦は、京都に近い茨木市にいる従兄弟の博ちゃんが送ってくれた松葉屋の鰊蕎麦である。妻君と娘の呼び声が聞こえてきた。できたよ!

さて、鎌倉の神奈川県立近代美術館に関してのシンポについての報告を書き綴ろうと考えていたが事務所が片付かなくなって28日も出かけたりしているうちに、この時間になってしまった。
それはいずれということに・・・いいお正月をお迎え下さい。

李 禹煥と鎌倉近美

2013-12-16 00:16:05 | 建築・風景

昨12月14日(土)、鎌倉の商工会議所ホールにおいて「坂倉準三と神奈川県立近代美術館」と題したシンポジウムを聴講した。主催したのは、「人間のための建築―建築資料に見る坂倉準三―」と題した建築展を東京の湯島で開催している文化庁・国立近現代建築資料館である。
この会場は長崎市公会堂や、旧古川市民会館(現大崎市民会館)を設計した、早稲田大学教授を担った武基雄で、長崎市公会堂での「さるく&トーク」をほぼ一月前に行ってきた僕にとっては感慨深いものがあった。

パネリストは、文化勲章を得た高階修爾(僕が事務局長を担う「近美100年の会(略称)」の会長)、水沢勉(神奈川県立近代美術館館長)、坂倉建築研究所を率いた阪田誠造、それに李 禹煥(リーウーハン)、<休憩後の二部では松隈洋京都工繊大教授が加わった>という興味深いメンバーで、進行役は「鹿児島大学」木方教授と共に今回の企画を担った同大学のこの春教授になった鰺坂徹である。

この鎌倉近美(「鎌近(カマキン)」と李さんが述べ、李さんの論述の後、パネリストみんながカマキンと言うことになったのがなにやら微笑ましい)の現状についての報告があったが(次項で報告したい)、ここで個展を行ったことのある李 禹煥さんの率直な講話に、思わず涙が出そうになるほどの感銘を受けた。

この美術館は一階の開かれた空間と、微妙に繋がっている閉じた部分、平家池の上を渡っていく別館、2階が2箇所に分かれていて、使いにくいよ!難しいよ!と美術家(作家)の中ではよく言われるが、池に面したピロティの絶妙な空間に触発されて今まで得られなかった作品(彫刻)を生み出すことができたというものだった。

休憩時間に僕は、水沢館長に、本館のピロティと池を望む新館の床面に、陶器とその破片を敷き詰めた瀬戸の陶芸家「小川待子」展が忘れられないと述べ、これもこの美術館でなくては生み出せない作品だったとの共感を得た。

松山城からの夕景

2013-12-08 20:46:51 | 添景・点々
鬼北町町役場の保存改修の委員会に出席するために、何度も松山市を訪れているのに、松山城に赴いたことがなかった。
いい形で保存改修ができることになったことをいずれ報告できると思うが、12月1日(日)の朝からからのその報告を受け論議するための会議と、午後からのまちの人への説明会に出席するために前日の午後でかけ、松山城のを望む一番町にある全日空ホテルに泊まることになった。
チェックインして部屋のベッドに寝転んでいたが、ふと松山城にいってみようと思い立った。行き(昇り)はケーブルカーに乗って、帰りはリフトにぶら下がって帰城。木造の城の様も興味深かったが、そこで視た夕陽の光景が眼に焼きついた。