日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「トリスを飲んでハワイへ行こう」  人間へ!男へ・・

2010-05-26 11:49:42 | 日々・音楽・BOOK

高校時代だったか大学に入っていたのかはっきり覚えていないのだが、「トリスを飲んでハワイへ行こう」というコピー(コマーシャルの文言)が一世を風靡した。新聞広告にはコピーとともに柳原良平の船と目玉をクリットさせた船長(或いはアンクルトムだったか?)のイラストが描かれていて、若き僕たちは遠いハワイに夢馳せたものだ。まだアメリカへの渡航が難しい時代でもあったからだろう。

そのころ僕はこのコピーをもじって、ラーメン食ってハワイ行こう、などと馬鹿を言って同級生たちを笑わせたりした。自分の金でラーメンを食うのも一大事件だったのだ。
となると高校を卒業した後、僕が部長やった文学部や新聞部のOBたちと共謀して「葛の会」という同学年生による同人会のような組織をつくった頃、其の編集会議だったのか。僕たちは年に1回ガリ版刷りの「葛」という同人誌を発行した。ガリ版をきり、冊子を作ってくれるプロがいた時代だった。

モンテーニュのエセー的なアイロニーっぽい文を書いた奴もいたし、理屈っぽいジャーナリズム論を寄せたのもいてそれなりに多士済々だった。僕はひ弱な綿々たるエッセイを書いたりし、しかも兼松由紀夫なんていうペンネームを使ったりして今振り返ると冷や汗が出る。三島由紀夫に魅かれていたのだ。

メンバーは同学年の半数150人ほどにもなった。僕は会長という名で取りまとめ役をやり、事務局長は早稲田大学に在籍して、後にキャノンに勤め、オランダで活躍し僕の結婚式で司会をしてくれた坂寄だった。字が上手かった彼はその間に一回、ガリをきり「葛の会」新聞をつくった。今でも5年に一回開くぼくたちの学年同窓会の名称は「葛の会」である。要の事務局は地元柏の商店街を活性化させている松丸に頼ることになった。
僕の学校は千葉県立「東葛飾高校」略称「東葛」だから「葛」だ。

「コピー」という言葉自体が新鮮だったが、文学部の3年ほど後輩の女の子が博報堂に入社し、毎日なんでもいいからコピーを10編提出させられる、それが仕事のようなものです、といわれて驚嘆したこともある。「コピー」というコトバ自体が格好いいと思ったものだ。
そしてトリスはその時代の僕たちにピッ足しだった。角から上はサントリーになって格好よかったが高かったし、黒いまろやかな瓶のオールドは夢だった。
何年かたって安いサントリーレッド(赤)が出たときは大騒ぎをしたものだ。其のころの僕たちは、まだ日本酒に目が向いていなかった。

今僕がアイレイのボウモア12年とか、ラフロイア10年、あるいはニッカの余市10年なんてのを飲んで平気で能書きを言っているのが夢のようだ。
でもボウモアがうまいと書いたりすると、西銀座にあった大きなトリスバー(とは言わなかったナ!なんていう名称だったのか思い出せない。円形のカウンターがいくつかあって、バーテンがカチャかチャとシェーカーを振っていた)で隣に腰掛けて酔っ払った可愛い女の子にしなだれかかられ、どうしようか、どうしようかとあせったことを、そして乾杯しながら一緒に飲んでいたのが、トリスのハイボールだったことが不意に浮かんでくるのだ。
女の子は沖縄から来た大学生だった。

このコピーは、山口瞳もいたが開高健がつくったのかもしれない。当時はサントリーがまだ「壽屋」で、開高健が編集・発行人をやっていた小さな冊子「洋酒天国」が大人気、ブレークした其の時代だ。開高健にはいくつもの名作コピーがある。
心を打つその屈指、

「人間」らしくやりたいナ
トリスを飲んで「人間」らしくやりたいナ
「人間」なんだからナ

は忘れ得ない。

開高健が亡くなったのが1989年12月、58歳だった。20年を経た。
僕だったらこう書くかも知れない

「男」らしくやりたいナ
ボウモアを飲んで「男」らしくやりたいナ
「男」なんだからナ

開高健が亡くなった歳をはるかに越したのに、僕はまだ「人間」に至らないと、ボウモアを飲んで酩酊するのだ。

桜花 金子兜太と遠藤周作を想いながら

2010-05-21 16:47:09 | 添景・点々
5月なのに「初夏の候」とか`夏日`、更に今朝のテレビの天気予報では`熱中症`に気をつけるようにと云われたりするようになった。
三寒四温という言葉は冬季に使われるようだが、今年はそんな優雅な言葉が思いつかないほどの気温の変動が激しかった。体調は持ちこたえたもののここに来て喉をやられ、もう一週間になるのに声が出ない。電話先の知人が僕の声を聞き、一瞬息を飲む様が感じ取れ憂鬱だ。
初夏かあ!と思いながら欅並木を見ると、新緑の様はとっくに消え失せてタフな濃緑に覆われている。マンションの庭に立っている八重桜にも花の面影がない。いつの間に!とふと思った。心の隅に奇妙にとどまっている桜花があるからだ。

小田急線座間駅のプラットホーム沿いに、太い幹の桜の樹が並木のように連なって立っている。この見事な桜花が満開になると薄気味悪くなる。薄白くて僕が感じるのは「陰惨」という文字なのだ。今年もそうだった。吉野桜はピンク色で華やかだが、大島桜は白色なのだという。とするとこの桜は大島なのだろうか。

NHKテレビで俳句の番組を見ていたら、俳人金子兜太が桜を詠んだ句の講評で辛辣な一言を述べた。詠んだ女性はそれでも金子兜太が真剣に受け止めてくれたとニコニコとしていたが、兜太(とうた)は、私は「桜が嫌いなのだ」とつぶやき、しまったと思ったのか「立派な花だとは思いますけどね」とあわてて付け加えた。
場の空気は兜太らしいと一瞬精気に満ちたような気がした。兜太は桜に死の影を見ているのに違いない。
其の夜、奇しくも深夜番組で金子兜太の特集番組を見た。海軍主計中尉として壊滅したトラック島で参戦し、捕虜を体験した俳人の一面を知った。
朝日の紙面でも講評を受け持つが、ぶっきらぼうにも読める其の一言は味わいが深い。90歳を超えても闘う俳人として存在する俳人の胸の底には、散ってから葉を出す桜の叫びが宿っているに違いない。

遠藤周作夫人に「代々木公園の桜吹雪」というエッセイがある。
二人で代々木公園を散策して、左右に分かれるとき、周作が右側の小径を辿りだしたとき、一段と桜吹雪が激しくなり、見送っている夫人の前で周作の姿はすっぽりと桜の膜の中に消えていった。「主人が死んじゃうとは、つまりこういうことなのだ」という思いに涙がとどまらなかったとある。
夕暮れになって帰宅してからも其の悲しみを一人で持ちこたえることが出来ず、主人に其の話をしてしまったと書かれている。周作はじっと聞いていたが、やがて「一茶の句に ━死に支度いたせいたせと桜かな━ という句があるんだ。辞世に詠んだ句の一つだ」とつぶやくように述べたという。

桜は好きではないが「嫌いでもない」。でも座間の桜の薄気味悪さ、
古希になり、夏日になってから僕はこんなことを考えている。

<「代々木公園の桜吹雪」04年版ベストエッセイ集(文春文庫)より>

愛媛県鬼北町庁舎を使い続ける・シンポジウムで伝えたこと

2010-05-16 21:19:18 | 建築・風景

四国を車で走ると、見え隠れする山の連なりが関東近辺とずい分違う。小さな山が重なり合っていて島が点在する瀬戸内海を走っているようだ。
そして山を背にして建っている集落の屋根が、黒い瓦で覆われていて家屋にも手入れがなされているのを眼にすると、この国(四国)は豊かなのだと感じるのだ。

4月25日(2010年)、これから行われるシンポジウムを前にして鬼北町庁舎を見学しながら、副町長にそんなことを話した。
「いや私が子供だったこの庁舎が建った52年前は、この周辺の茅葺の屋根は手入れが出来なくて朽ち果てそうだったし、皆貧しかった。今と同じように町村合併をして行政を担うことになった町長は、しっかりした庁舎を建てることによって、まちの人たちに新しい時代を迎えることを伝え、自分のまちに誇りを持ち豊かな生活を目指す目標を築いたのだと聞かされた。私も今になってそうだったのだろうと思う」という。

シンポジウムのパネリストとして、地元出身の中川軌太郎(のりたろう)が代表を務めていたA・レーモンドの設計した「この庁舎を使い続ける意義」を述べたときに、この見学時のエピソードを披露した。

僕のタイトルは「建築と風土・原風景の中の建築」。サブタイトルは「使い続けるための仕組みを考える」。

曲田愛媛大学教授の司会によって行われたこのシンポジウムは、PP(パワーポイント)をスクリーンに映し、冒頭に話した僕のタイトルがそのままテーマとして使われることになった。
昨年の8月にここを訪れ、打ち放しコンクリートを多用したこの庁舎が、しっかりとこの地に馴染んでいることに驚き、時を経てこの建築が多くの人々の中に原風景として存在していると感じたのだ。そして今回の見学時に地元の方から、小学生のときこの庁舎を観に行く遠足があり、皆でスケッチをしたことがある。それが忘れられないといわれた。

土地柄や人の気質つまり風土と建築は切り離せないが、「モダニズム建築と風土」をどう捉えるべきか、これは一つの命題だと思う。でもこのシンポジウムに出掛けて確信した。このモダニズム建築が原風景となって人の生き方の中に息づいている。それは建てた人に熱い想いがあり、それを受け止めた建築家がいるからだ。
初めてこの地を訪れ、一緒に見学した曲田教授も僕のテーマを受け止めてくれたようだ。だからタイトルとして使った。

シンポの最後に会場の町長からご挨拶をいただいた後、曲田教授が壇上の僕のところに歩み寄り、そっと一言オーセンティシティに触れて欲しいとささやいた。
それを受けて僕が述べたのは、この庁舎を建てた時の施政者・町長の想いと町の人々の記憶を引き継ぐこと、つまり過去があって現在(いま)がある。現在があるから未来がある。そこに込められてきた想い(経緯)を次代に引き継ぐ、それが現在に生きる僕たちの役目だ。
それを実現するためには、この建築の持つオーセンティシティ「原初性・由緒ある正しさ」を検証するシステムが必要だと述べた。それがつまりサブタイトルの「使い続けるための仕組みを考える」ことなのだ。
さらに藤岡教授が、会場からの質問に答えて「個人的には登録文化財としての価値があると考える」と述べたことを受けて、この建築の価値、つまりその存在の大切なことを町民にわかってもらうためにも、「登録する」ことをこのシステムの中で考えて欲しいとつ付け加えた。

シンポジウムを取材してくれた愛媛新聞の高橋記者は僕たちの発言について簡明にこう書いた。
「東京工業大の藤岡洋保教授については「窓や柱など必須の要素だけを組み合わせシンプルにまとめられており`近代建築の原則に沿っており、極めて貴重`と評価した。
関西大学西澤英和准教授は、庁舎の耐震構造を解説。`大きな基礎を地中に埋めたり階段に筋交いの効果を持たせたりしていることを挙げ、`構造、機能,意匠を総合的に考え設計されており、外観に影響を与えずに耐震工事が出来ると述べた」。
「今後の保存活用や耐震化に向けては、近代建築の保存活用に取り組む国際組織DOCOMOMO兼松幹事長が`有識者組織を立ち上げて欲しい`と述べた」。

このシンポでは、藤岡教授は庁舎の全体像と建築家レーモンドと設計を担当した中川軌太郎を明快に紹介し、西澤教授の丸出し関西弁による庁舎の構造構成の解説、そしてゆったりと柔らかい曲田教授のパネリストの論旨を引き出す語り口は、僕たちのこの建築に対する想いを会場に詰め掛けた人の心に届け得たのではないかと思う。

鬼北町町長や職員の方々も、ぼくたちのメッセージを真摯に受け止めてくれたようだ。


益子の陶器市`へ   ・親しき友あり!

2010-05-05 11:45:33 | 日々・音楽・BOOK

「時間通りに出掛けるなんて珍しいね!」との妻君の一言に、娘も僕も思わず時計を見た。朝の5時ぴったりだ。明るいね!と表を見た娘が笑みを浮かべる。快晴、いいことがありそうな・・

昨夜益子の陶芸家後藤茂夫さんに電話した。奥さんが出てひとしきり話が弾んで旦那に代わった。「もう30分早く出てください」。僕は5時半に海老名の我が家を出ると言ったのだ。

10年くらい前になるが、ゴールデン・ウイークに開かれる陶器市を初めて訪れた。益子に入ってから渋滞なんてものじゃあない、にっちもさっちも行かなくなり、電話して田んぼの畦道のような裏道を案内してもらってやっよこさ陶房にたどり着いた苦い思い出がある。今後絶対陶器市には行かない!ときめ、金科玉条のように護ってきた。
それが今年は行きたいね、と誰からともなく言い出した。そうしたらやけに楽しみになったのだ。

登り窯の前にレンガを組み立てつくった塩窯に火を入れている。修復した窯の中を乾かすために薪を燃やしているのだ。後藤さんの塩、これは電気窯やガス窯とはいかず薪で焼く。塩をぶち撒くので窯が傷むのだ。そして器のあがりをみて2度、3度と焼くこともある。
この一文を書いている目の前に新作の合子(ごうす)がある。3度窯に入れたという黒に近い深い紺に塩のぶつぶちがある半円を組み合わせた陶箱だ。妻君が惚れた。

益子焼協同組合の庭に、後藤さんの息子「竜太」君がテントを張って作品を並べている。益子には四百数十人の陶芸家が窯を築いて仕事をしており、その大半が陶器市のときは共販センターの庭や道端にテントを張って作品を並べて販売しているのだ。10年前には無かった賑やかな光景だ。
後藤さんはテントでは恥ずかしくてね、とてもとてもというが、今の若者はなんとも思っていないと呆れながらもそのバイタリティに感じるものもあるようだ。このテントでの展示と販売は、地元益子の陶器店だけではなく全国各地の店や卸業者にとって、益子の陶器の状況を把握しそれを陶器愛好家に伝えるツールとして大きな役割を果たしているようでもある。時代が変わりつつあるのだ。

車を庭に置かせてもらって新緑で一杯の裏山をまたいで畑の畦道を歩いた。駐車場が呆れるほど沢山できたのでさほど車は混んではいないが、街は人で埋まっている。お祭りだ。

若き竜太君のテントには、クロスでカバーをした台(テーブル)の後に杉板を組んだ棚が設えられていて並ぶ作品(作品と言いたくなる)も厳選されており、さっぱりと垢抜けしていてひときわ目立つ。その感性が僕は好きだ。値段は高くはないが安くもない。アウトレット的な陶器市では異色だ。師匠島岡達三に見込まれて可愛がられた片鱗がうかがえる。
白い刷毛目が味わい深い。竜太君は神経を研ぎ澄ます刷く瞬間に惹かれるという。若き作家が誕生したのだ。

「道具屋」を覗き、閑静な浜田庄司の木々の中に点在する参考館をゆっくりと廻った。本物という二文字が頭を掠める。この敷地と建物を維持していくのは大変だなあと思いながら。作陶場の囲炉裏に火が入っていた。
その後お目当ての一つ「古道具おおのや」へ。オヤジは相変わらず元気だ。

後藤さんのギャラリーに戻って奥さんの心づくしの、僕たちが出掛けた後掘ってきて炊き込んでくれた竹の子のご飯、山椒の葉を散らし、うどを味噌で喰う。自然に囲まれた益子の生活を感じ取りながら、あけすけな陶芸談義にふけった。火の温度が5度違うと異なってしまう作品の味わい、薪でのそのコントロールの難しさと面白さ。
おそらく終生の友となるコーヒー茶碗を持ち帰った。

益子に親しき友(家族)あり!

旅行かば(2)一瞬+15分 カーンのキンベル美術館とライトのマリン郡庁舎

2010-05-01 13:46:17 | 建築・風景

こんな書き出しのエッセイを書いたことがある。
「`インテリジェントビル`の概念がアメリカから導入されて以来、たまたまオフィスビルの設計の多い私にとっては、NTT、電気メーカによるセミナー、見学、展示会、又建設省(懐かしい!)後援によるAEC技術展等と知識を吸収するのに急で、頭の中がこんがらがっていた。
そして、それらに関する本を読みあさると、PBXやLANとかいったものの他に、アトリウムに代表される`エルゴノミクス`コンセプトによるオフィスビルがアメリカには幾つも建てられており、ポストモダンもどうやら単に流行りばかりではなさそうだということになって、羽田を飛び立ったのは11月だった。」

11月というのは昭和61年(1986年)。
ツアー名は「ポストモダンとインテリジェントビル視察」。ツアーコンダクターは後に朋友となる大成建設の設計部にいた本田さんである。僕が建築を観るために海外に行くことになる初めての旅だった。
「9日間で、シカゴ、ニューヨーク、ヒューストン、ダラス、サンフランシスコのオフィスビルを中心に建築をみて歩くというハードなスケジュールで、とうとうキンベル美術館に行ったときは、バスの中でハンバーガーの昼食、最後のサンフランシスコでは昼飯抜きになってしまった」とある。

同行した新横浜の、現在は一階に郵便局の入っている臼井ビルのオーナーや、当時10階建てになるオフィスビルのスケッチをしていた建築のオーナーつまりクライアントは、バスが留まる度にいっせいに駆け出す僕たちをみて呆れていたが、なんだか建築家って凄いな、とも思ったようだ。24年前のことなのに,今でも会うと酒の肴にされて苦笑されられる。

でもこの二つのオフィスビルは僕の代表作になったし、この建築旅は僕の建築観に大きな影響を与えることになった。
フィリップ・ジョンソンのトランスコタワー(ヒューストン・使い始められていたが最上階の一部が工事中で天井の梁がむき出しになっているのを見たりして面白かった)やシーザ・ペリの「フォーリーフタワー」、そして良きに付け悪しきに付けシカゴのヤーンの「イリノイ州立センター」にも刺激を受け、建築が時代や社会を率いていくのだと感慨を覚えたものだ。

でも見学予定に無かったルイス・カーンの「キンベル美術館」とF・L・ライトの「マリン郡庁舎」を訪ね得たことは僕の建築人生を決定したようなものだと今になって思う。

ダラス空港から15分ほど走ったときに、本田さんがふと漏らした。「方向が反対だけど30分ほどフォートワースの方に戻るとキンベルがある」。
車内は大騒ぎになった。ついでにと途中にあるウォーターガーデン(ジョンソン)を見た。そしてキンベル美術館。書いていると空間体験をしたその時の喜びが浮かび挙がってくる。まあ、写真を見てください。

入り口にいたガードマンがニコニコしながら僕に聞いた。「Where come from?」「Japan!」。そうかそうか、といった感じで`どうだ、いいだろう`と手をぐるっと場内にまわす。写真も撮っていいよ、と眼を細めた。建築の様は言うまでも無いが、この建築だからこのガードマンの誇りと喜びがあり、訪れることの出来たぼくたちの嬉しさはガードマンの喜びでもあるのだ。
この一瞬が僕のキンベルだ。

ミースの「イリノイ工科大学」では製図室で模型作りにトライしている学生とカタコトのやりとりをした。モダニズムの典型、番外だ。
ヒューストンではライス大学のシーザ・ペリ設計のへリングホールと、スターリングの増築した建築学部との競作、更にジョンソンの「リ・パブリックバンク」、銀行なのに現金を扱う以外のところの撮影許可も得るなど、自然の豊かなアメリカのキャンパスと銀行とはいえ「建築」の役割を認識している様子に感銘を受けた。
しかし少々うんざりもしていた。
80年代の建築思潮、最先端のポストモダンを観るツアーなのに、その「ポストモダン」に!何だか変だ!

最後の都市サンフランシスコでF・L・ライトの、画廊になっていた「旧モリス商会」を訪ねて感じ入った僕は本田さんに言った。「ゴールデンブリッジを渡ったすぐ向こう側にマリン郡庁舎があるじゃない!」。

そして観た。F・L・ライトの「マリン郡庁舎」を。
見学時間はなんと15分。いい仕事をしている建築家のアトリエを訪ねる時間が迫っているのだ。
バスを飛び出した僕たちはあっという間に散った。僕は階段を駆け上がった。狭い吹き抜けを囲んでいる廊下にトップライトからの光が降り注いでいる。

僕の建築人生は、一瞬+15分。格好よさそうな、いや馬鹿みたいと言われそうな!