日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

桜花が咲いた

2010-03-27 18:03:56 | 添景・点々

ひとしきり桜談義になった。海老名でも桜が花開いたからだ。二分咲きといったところか。
整体・優美堂の主が来週の水曜日の午後、清水寺公園で恒例の花見をやるのだという。
「へーエ」と相槌を打つ僕は、背中の筋を押されていてうッとこもってしまうので一生懸命声を出さなくてはいけない。ウイークデェイの午後だと年配の人たちと?と問うと、定年になって62歳になった元同僚とか、一杯やってさっと帰ってしまう45歳の主婦とかと・・・春が来たのだと思った。

天気が試行錯誤していて昨日は冷たい雨、今日は快晴になったが風は冷たい。
僕は先週の土曜日に大和の骨董市で買った継ぎ接ぎだらけの木綿の古着をカーディガン風に着込んで出かけた。胸に大きな綻びがあり、妻君はみっともないから表には着ていかないでというが、その妻君は娘と待ち合わせて浅草の河童橋に行っているのだ。
数日前、強い風になってこれが`春一番`春が来たのかとかと思ったら、TVでのコメントもないまま暴風になって、工事現場の足場が倒れたりした。

札幌の友人がブログで面白いメッセージを書いた。公園の雪の中の歩く二本溝のスキーのコースがなくなり、自分の「冬が終わった」。
春が来たとは書いていない。今日のTVや新聞のウエザーリポートの札幌欄には雪だるまが書かれている。雪が解けると青々とした芝生が現れるのだろう。すると春が来たということになるのだろうか。
あるいは!

建築と写真のポストモダン(Ⅰ) ジェンクスの「ポストモダニズムの建築言語」

2010-03-25 10:55:15 | 建築・風景

学生の好奇心が欠如していると大学の教師陣の嘆きを良く聞くが、それでも初めて建築に触れ、指導者の建築論考に刺激を受け、その後の建築人生に影響を若者が与えられるのはいつの時代であっても変わらないと思う。
僕の学んだ1950年代の末から60年代はモダニズム建築の全盛時代で、日本の伝統を伝える桂離宮は素晴らしく、それは現在(いま)に言う木造モダニズム、装飾に充ちたいわばキッチュな日光東照宮の建築はよろしくないとの講義を受けた。困ったことにそれが長い間僕の建築感の底に巣食い、漂っていた。

一回り以上も若いが親しい友人MOROさんはまだ純な学生時代、ポストモダンに夢中になっていた教授などの指導者の熱意にはまり込んだのだろう。無論受け入れられる感性あってのことなのだが、今でもその時代に建てられたいわゆるポストモダンといわれる建築にふれると胸が騒ぐようだ。

モダニズムにはDOCOMOMOやモダニズムだと騒ぐ僕がいるのでうらやましい、でもあっという間にその時代が消え去り、自身が影響を受けたポストモダンには援護者がいなくてかわいそうだなどとMOROさんは言う。実感だろうが、そういう彼のコトバの端々に`なげきっぽい`想いがあるのが興味深い。青春時代を抹殺されたような想いにも捉われるにからに違いない。指導者たるもの自身の及ぼした言動を振り返ってみてくださいな!ということもあって、ポストモダンを時代が変わった今、考えてみたいとづっと思っていた。

チャールズ・ジェンクスというアメリカの歴史学者がいて、「ポストモダニズムの建築言語」という著作を著した。
日本ではa+u(アーキテクチュア アンド アーバン)誌が竹山実の訳によって1978年10月臨時増刊号を発行したが、この本がポストモダン思潮の骨子となったといっても良いだろう。ジャンル分けされた進化の系統図が書かれていてこの建築思潮が理解しやすい。写真やスケッチも豊富で、僕たちの良く知っている日本の建築もこの流れの要として多数収録されている。

どの建築の通史も大方戦前で終わってしまうものだが、この著作を戦後も含めた世界の近現代建築通史というという見方をしても面白いかもしれない。
古書店に行ってもなかなか手に入れにくいが、ポストモダンに興味を持つ人の必読書だ。そしてなんてまあ!とうれしくなるのは、「ジェームス・ボンドとティファニー製のケース」と題して、円形水ベッドの上で戯れているショーン・コネリーが登場したりすることだ。コメントは`ショーン・コネリーの薄笑いは、この種のことにほぼ満ち足りてしまったことを暗示している`という諧謔に満ちたものだ。

ところで写真家ホンマタカシの「楽しい写真」(平凡社2009年6月刊)を読んでいたら、写真のモダニズムとポストモダンの相関関係があっけないくらい明快に語られていた。
この著作の副題は「よい子のための写真教室」。これを読む俺はよい子かよ!と憮然としたものだ。しかも論客でもある彼は1962年生まれ、なんと僕が大学を卒業した年ではないか。時経て子に教わるということか。
その彼の論考は、やはり、僕と同世代で現職の中平卓馬、森山大道や荒木経惟に多少の気使いもあるようで彼らを論じるときには、心なしか矛先が鈍くなるようにも思えるのだが、今僕が語りたいのは、モダニズムとポストモダンである。

ホンマタカシも触れているが、僕も引いた「広辞苑」にはこう書かれている。
「ポスト」それ以後、その次の意。―モダン。「建築にはじまり芸術一般やファッション・思想の領域で、近代主義を超えようとする傾向。脱近代」。

ではその「近代主義」とはなにか?と更に広辞苑を紐解いた。封建制に反対して近代的自我の確立など近代化を追及する立場→モダニズム、とある。成る程と納得するところもあるが、その「近代主義を超えようとする」ということはどういうことなのか、と際限がなくなる。(この項続く)

棟方志功のいる光景(3)濱田益水の写業に望讃を盡す

2010-03-21 11:42:53 | 写真

棟方志功が「絶大な写業という大世界の中にあった瞬時、絶対の私に一期一会がここに再貌され」「大原總一郎氏のいわゆる`ホントウノムナカタ`が濱田益水の写業によって生就されつくされた」と言う驚くべきメッセージを巻頭に書いた 『写真 棟方志功』(講談社刊1972年9月30日)をみている。

写真集のタイトルはそっけないし、奥付のどこにも講談社写真部に所属していた写真家濱田益水の名前が無いが、ハードカバーの表紙をめくると、志功の眼や眼鏡をさり気なくレイアウトした倭絵に、筆で「濱田益水作 棟方志功の業貌」と書かれた中表紙が現れる。
出版社に所属し、社業として撮影に取り組んだが、それをはるかに越えた益水氏に対する志功の心使いが見て取れる。

板画を生み出す志功の息を呑むような詳細な連続写真「版下」「彫る」、「摺る」、「彩色」、そして「署名・捺印」。カラーで現れる作品は「加寿良穂の柵」。
文化勲章を受章し、皇居に向う日の朝の自宅、勲章を胸にした皇居での晴れがましい姿、自宅に戻って嬉しそうなチヤ夫人に勲章をかける姿や家族や友人に囲まれた志功御夫妻。園遊会で昭和天皇、皇后と談笑している志功と撮られた廻りの人たちの笑顔をみると、あの青森弁のほとばしり出る志功の口調とそれを支えるチヤ夫人の声が聞こえてくる。

僕が建てた鎌倉の自宅の居間でお茶を飲む志功の持っている茶碗は、ぼくも好きだった黒高麗だ。
この写真集の面白いのは、昭和47年5月19日、朝起床するところから風呂に入った後、STEINWAY & SONSの鍵にちょっと触れ、眠りにつく志功の一日を追いかけていることだ。ご夫妻の姿は若き日の僕がふれたそのままだが、写真家にサービスしているようにも思え、いまみるとちょっとわずらわしい。日常の姿は、そっとしまっておきたいような気もするのだ。

この写真集の撮り方はその時代の正統派ドキユメントの手法だといえるが、現在(いま)にして思う、いやむしろ膨らんでいく棟方志功の不思議さをこの捉え方では解明できないのだと思った。とはいえ後に板画美術館を建てた庭の芝生に紐を張って範囲をきめ、その日の雑草を丹念に取るチヤ夫人の姿が写し撮られていて、数十年前が一編に蘇っても来るのだ。そういう集積が志功なのか?いやそうでもあるまい。

「ねぶた」祭りの志功がいる。跳ねる志功もいるが、ねぶたから離れて立ち尽くす後姿が撮られられている。
松本清帳と裏表に収録してあるレコードで「ねぶた」を語る志功の声が写真を見ていると聞こえてくる。祭りが終わると冬になるというその寂寞をとつとつと述べるが、その北の国の祭りの後の少しずつ消えていくざわめきや鐘の音が途切れ、かすかに吹いて来る冬の風の気配を感じるのだ。厳しい自然と人が生きていく上で欠かせないのが祭り(祀り)なのだ。
この頂いたレコードでの志功の呟きが、いつの間にか僕が自然と人とのかかわりを考えるときの原点になっていることを思う。

この写真集はインド訪問で終わる。
何となくぷっつんと閉じる不思議な構成だ。お金を出してあげるから一緒にインドに往かないかとチヤ夫人が誘ってくださったことを想う。1972年だったから38年も前の、往けなかった無念さもあって多分生涯忘れ得ない一言になった。

未完の夢 僕のアンビルト「蓼科の家」

2010-03-13 13:57:12 | 建築・風景

建築家は誰しも、心残りなアンビルト建築(建たなかった建築)をもっている。
コンペ落選案もあるし、社会状況の急変やクライアントの意向によって中止になったり、例えば姉歯事件によって法体制が変わり、建てにくくなって中断せざるを得なくなったのもある。

また建築や都市思潮を表明するためにアンビルト(建てない)を前提として描いた提案があった。丹下健三の東京計画1960、菊竹清訓の塔状都市や海上都市、黒川紀章の農村都市計画。これらの多くは1960年前後から70年代、時代が動きメタボリズム運動が登場した時代だ。
世界の建築界を動かしたあの`ル・コルビジュエ`にもソビエトパレス(1931年)のコンペ落選案があり、建築展を開催したときに好奇心を刺激された企画者が、CGでその建築案を画像化させて評判になった。

都庁のコンペに参加した建築家磯崎新は、DOCOMOMO100選展のシンポジウムで、アンビルトこそ、つまりその提案こそその建築家の真髄を捉えることができる、建っている建築を選定するだけではなく、アンビルト建築に目を向けなくては社会に建築の存在を伝える意味がないと、磯崎流の刺激的な言葉を吐いた。都庁コンペ時に磯崎の師、丹下健三を意識してコンペ要綱に反した低層案をだした磯崎らしい言い方だ。それも建築界の軌跡だし、確かにその時代の一面を現している。

建てようとした僕の「蓼科の家」は、一建築家である僕の建築家人生の一齣でしかないのだが、現在(いま)では到底通えなくなっただろうと思い、建てなくてよかったと思う半面、その図面を見ると建ててみたかったとも思うのである。

時代は例のバブル期の末期だった。別荘ブーム的な世相があり蓼科に別荘を持っている仲のいい建築家からは、蓼科は冬だ、あの凍てつくような寒さ、地面が凍ってカチカチになる冬を味わうのは得もいえない面白さだと云われて夢を見た。
所員を車に載せて高低測量に行った。下草を掻き分けながらレベルを採り、テープを引っ張りながら多少の高低のある唐松林の中にどう建築を配置するかと思いを膨らませるのは楽しかった。

計画案に暗室があるのは写真にこだわっていたからだ。アナログの時代、モノクロで人を撮っていた。ささやかなギャラリーを設けたのは僕の写真だけではなく、親しい写真家の作品展示もしたかったのだ。
この建築は、多分僕たち家族だけで使うのではなく、妻君の兄弟の家族や自然が好きな沢山の友人たちが楽しんで使うだろうと思った。小さかった娘を自然に触れさせたい。そしてこれからの時代は、ネット社会になって東京にいなくてもPCをここにおいて仕事のやり取りが出来ることになるという風説(今にして思えば)があって、それも新しい時代のあり方だと思った。

ところが時を経てもそうはならなかった。人と人との面と向かうコミュニケーシュンなくては、人間社会での信頼関係が築けないということがわかった。建築をつくる行為は正しくそうなのだ。
今では僕自身信じられないが、バブル期にはこなしきれないくらい仕事があり、スタッフが欲しいと思ってもきてくれる若者がいなかった。この蓼科の家は、仕事に追われ建てる気持ちの余裕がなくなり、資金的にも厳しくなって期を逸した。そして僕もいつの間にか歳を取った。

まあそんなことだが、「蓼科の家」だけでなく応募して落ちた僕の幾つかのコンペ案を見ると、現地を見に行った様子やそのときの呻吟して、だけど想いを馳せてスケッチした様が思い浮かぶ。アンビルト「蓼科の家」からは若かった僕の建築感が読みとれて楽しいものだ。実験住宅でもあった。
頭にあったのは、二川幸夫さんの「GA HAOUSES」6号に掲載されているF・O・GEHRYの自邸だった。現在のGEHRYの活躍には驚くが、その萌芽がこの自邸から読みとれる。壁下地の貫を現したまま意匠にしたり、曲面は無いものの木材による複雑な空間構成を実験的に試み、金網を張り巡らしたりしている。
僕は建築家だから、その内部空間や材料の質感が読みとれ、GEHRYの自邸からも、蓼科の家からも、人の交わす声、風の響きが聞こえてくるのだ。

蓼科の家でも自邸だから出来る様々な試みをしようと思っていた。歳を取り、時代が変わっても僕の夢見る建築空間は変わらないのだと図面を見て改めておもう。
このGA  HAOUSES6号はオフィスではなく7号の「C・MOORE」の特集号と共に僕の家の書棚に収まっている。この2冊と「シーランチ」が僕の建築観を揺るがしたのだが、ページをめくるとモダニズム建築の空間構成に魅かれる僕自身、いまでも思わずニヤリとしたくなるのだ。

未完の夢。未完だからこそ見える夢があるのだ。

風を形にする 武蔵美・I視覚伝達デザイン学科卒業選抜展

2010-03-08 11:05:21 | 文化考

四ッ谷駅前慶応義塾大学病院の裏に、クラシックなブラケットが取り付けてあり、偽石をでこぼこと貼った不思議な建築がある。The Artcomplex Center of Tokyo。
ここでいいのかと思いながら地階へ下りる階段の壁は打ち放しコンクリート。受付にいる女子学生たちが笑顔で迎えてくれた。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科の卒業選抜展が行われている。僕は寺山祐策教授に会いたくて出かけたのだ。

寺山さんは、紙や印刷技術の原点を探り、グラッフィクの状況を確認するために昨年、半年以上をかけてエジプトやヨーロッパのミュージアムや研究機関を廻った。会うのは1年振り。学生の振る舞いは何気ないが、教授を信頼している雰囲気が感じ取れてなかなかいい。

寺山さんとは、鎌倉の神奈川県立近代美術館で行った20選展でカタログや案内チラシのデザインをしていただいてからのお付き合いなのでほぼ10年になった。
DOCOMOMO選定プレートのデザインや100選展でもご一緒し、建築学会の委員会で策定した「建造物の持続的活用に向けたガイドライン」のパンフレット作成では、僕の撮った写真を使い「こういう遣いかたもあるのだ」と感心してしまう見事なデザイン構成をしてもらった。なんだか廃墟群のようだね!とニヤリとさせられるコメントを寄せた委員もいるが。 

ウォーホルやマチス、ピカソの作品とグラフィック、関連して日本とヨーロッパやアメリカのデザイナーのスタンスの違いなど話しは尽き無いのだが、展示作品についての学生の問題意識や取り組み方を聞きながら案内していただくうちに、展示作品の面白さに引きずり込まれた。

漫画が多くていかにも今風だと思ったが、その作画と組み立て方はプロはだし、コスプレーヤーを撮ってきた学生が、スタジオに数名を呼んで撮影し「コスプレ」は、模倣という攻撃も、強い意志もない現代を象徴している現象だと感じ、時代の記録として切り取ったとコメントしている。MUSABIには写真学科は無いが、この学科から長島友里枝などという時代を刺激させる写真家を輩出しているのだ。セルフヌードの発表と共に、人とものをつくる人間の生き様を自分と取り巻く周囲を題材にして問題提起し続けている写真家だ。

と一つ一つを取り上げるときりがなくなるが、書いておきたいのは、「美しい壁・白の中の豊かな色層」と「風に向けての造形」と題した作品である。「壁」は、自室の白い壁が1日の時間や季節によって変わる光の色相を、1年間綿密に水彩でカードに描き取り、その淡い変化は自分の精神をも映していると述べるにいたる作品だ。学生が思い立ち作業をしながら多分何故このような無意味なことをやっているのだと自問してきたこの作業を支えた指導者(新島教授)のスタンスに感銘する。

「風に向けての造形」では、風によってしなる木々の枝や葉の揺らぎの軌跡に興味を持ち、その風を形にしようとトライした。見えない風を形にしたいと言う発想に魅かれる。この学生は寺山研だ。
枝や葉のしなりの軌跡を記録してそれを表現するのに紙を使って立体として造形しそれを写真に撮って展示した。その表現方法は必ずしも成功したとは思えないのだが、それは僕の受容力の問題か?などとも考えさせられた。とはいえその発想とそれを形にさせた寺山さんに共鳴する。

彼らは院生ではなく学部生だということにも驚いた。MUSABIの底力を感じる。ここで学びトライしたことを彼らはこれからの生き方の糧に出来るだろう。

再度一回り見直している僕の視線の先に、モノレール`ゆりかもめ`の車窓から撮った動画を組み合わせて都市の姿の魅力を提示し、その面白さゆえに都市が仮構だという側面を暴き出したともいえる「視覚の乗り換え」というタイトルの映像に見入っている寺山さんの姿があった。

<この作品展をこの分野に関心を持つ人だけでなく、建築学科の学生や、多くの建築関係者に見て欲しいと思う。14日(日)まで開催している。>

ロバート・B・パーカーとディック・フランシスのいること

2010-03-04 12:50:18 | 日々・音楽・BOOK

大男の探偵と出会ったのは1970年代、何と僕はまだ30代だった。彼は僕にこんな自己紹介をした。「名はスペンサーだ。サーの綴りは、詩人と同じようにSだ。ボストンの電話帳に載ってるよ。<タフ>という見出しの項にな」

そのスペンサーにも、相棒の黒人ホークや刑事クワーク、そして何よりも残念なのは精神科医スーザン・シルヴァマンにももう会えなくなったことだ。生みの親ロバート・B・パーカーがこの1月18日に亡くなった。でもディック・フランシスがまだいるから良いと思った。

ところがD・フランシスが、カリブ海英領ケイマン島の自宅で、老衰のために死去したと2月14日家族が明かし新聞で報道された。89歳だった。ため息が出る。
D・フランシスはR・B・パーカーより一回り(12才)も年上で、執筆の協力者だった妻を亡くした後筆を折っていた。近年次男フェリックスの協力を得て共著という形で2本が書かれ、つい最近も出版された42作目の長編「拮抗」を読んだばかりだ。英国エリザベス王皇太后(クイーンマザー)の専属騎手として走った世界最高峰の障害レース、グランドナショナルで勝利目前、ゴール前で落馬した悲運のジョッキーだったとして知られているが、リーディングジョッキーをも得た名騎手だった。

騎手引退後、競馬の世界を題材として描いた「男の姿」に僕はのめりこんだ。登場する主人公の底にある品位のある高邁なプライド、優しさとぶれない男の強さを学んだ。それがイギリス人なのだと思ったりした。そしてなんともまあいつも登場する素敵な女性との出会いとハッピーエンド。僕もその女性たちに憧れたのだ。
理屈はどうあれ毎年の新作を心待ちにしていた。

一方登場する主人公たちが同じで、文体も組み立て方も違い、彼らは何年たっても歳を取らないが、そのスペンサーのカッコイイ生き方を味わった。僕が一言スペンサー流で呟きでもすれば、気障でカッコワルイオトコと思われるのがおちの一言にしびれ続けた。
「彼とおれは、同じ寒い国の一部なんだ。きみは違う。きみは温かさの源だ。ホークにはそれがない。おれがホークと違うのは、きみがいるためだ」
妻君に試しに一言同じことを言ってみたい!あんたどうかしたの?僕を覗き込む妻君の心配そうな顔が目にちらつく。

「命あるかぎり」私が言った。
「もっと長いかもしれないわ」スーザンが言った。

そう、二人はいなくなったが今この一文を書いている僕の周りには数冊の二人の著作が積んである。だから即座に、スペンサーにもスーザンにもホークにも会える。そして作者D・フランシス自身が好きになって4回も登場させたしたシッド・ハレーを呼び出すことも出来るのだ。スーザンが言うように。いつでもいつまでも!(2/28)


さてふと思い立って今朝の電車の中で、D・フランシスの19作目「反射」(初版発行1972年)のページをめくった。主人公になる騎手フィリップ・ノアの落馬から物語が始まる。微かに読んだことがあるなあと感じたものの(競馬シリーズは全て読んでいる)、読み進めるうちにそんことはどこかに吹っ飛んで引きずり込まれた。D・フランシスは亡くなったが僕の目の前に蘇ったのだ。