日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

愛しきもの 島酒の「聞き酒」に絶妙な小樽のカットグラス

2012-11-24 13:46:34 | 愛しいもの

聞き酒をしてみて下さいと、沖縄の根路銘さんが送ってくれた島酒が6本ある。「10年貯蔵古酒海乃邦」「松藤」「くらクース」「忠孝」、宮古島のナポレオンと誇らしげなロゴのある「瑞光」「ender」だ。
それに読谷に居座ってしまった大学の後輩で文化人類学の研究者中田君が格別だと取り置いてくれた「復刻・暖流」、そして「父が愛飲していたので」と棟方志功の孫、石井頼子さんが送ってくれた石垣島の「黒真珠」が豪勢な一升瓶で。その8本が仏壇の下の棚にそろえて並べてある。

10ヶ月という日時が経ったので少量づつしか残っていないが、改めて飲み比べてみると一つ一つに微妙な味わいの違いがあって、そのいずれもがなんとも美味い。個性があるのだ。島酒、そのどれもに『琉球泡盛』と銘打ってある。沖縄の友人たちは泡盛を島酒と言い、沖縄で島酒にしようや!などと聴くと、その島酒という言い方に、万感の想いがこもっているような気がして僕はグッと来るのである。

その島酒をロックで飲むことが多いのだが、当たり前のことながらロックで聞き酒はできない。ということは島酒の本音を味わうためには、ストレートで飲むにしかず。しかし37度とか43度と言う強い酒をがぶがぶとは飲めない。妻君は相手にしてくれないので、一人でちびちびと、口の中でもごもごと独り言を言い言い、なんとなく頷きながらほんまに(何故か関西弁)愛しき島酒を味わっているのだ。

さて問題は聞き酒の器である。
気に入っている魚のいる金城次郎の小ぶりなぐい飲みがある。でも!器を味わうことになってしまって聞き酒にならないのだ。といって薩摩切子やHOYAのクリスタルガラスでも島酒との相性がよすぎて飲み比べるには不向き。そこでふと思いついて、今年の7月に訪札したときに小樽で手に入れた小ぶりの一見何の変哲も無いクリスタルガラスを手に取ってみた。そしてこれだと思ったものだ。指の触れるカット面の触感やずしりとした程よい重さが`本物だよ`という作者の心意気を受けとめることができる。

雪の無い琉球の酒を、北の国小樽のグラスでその味を聞き比べる。ロマンである!

子規の「墨汁一滴」を傍において

2012-11-17 22:29:31 | 日々・音楽・BOOK

「人が生きる」ということはこういうことなのだと、この正岡子規の「墨汁一滴」を手にしながら呻いてしまう。
俳号の「子規」は`啼いて血を吐く時鳥`と言われた時鳥(ホトトギス)のことで、明治21年喀血した21歳の子規は肺病名を号としたのだ。僕たちは墨汁一滴や「病床六尺」を手にするまでも無く、俳号によって子規の覚悟を想うことになる。

墨汁一滴は、子規が34歳で没した1年前の明治34年1月16日から7月2日まで、社員であった新聞「日本」に164回にわたって連載された。
ただの一行の場合もあるし、論考を突き詰めた長文の記述もある。エッセイと言えばエッセイだが、既に子規のさまざまな活動によって俳句の新しい世界が築かれていくことになった子規の、この連載の何処を切り取っても子規だと感じ取ることになり、121年を経た今なお、多くの人の心を打つことをどう書けばいいのだろう。

自らの二句を取り上げて`月並み調に非づや`と問い、弟子碧梧桐や古人など幾つもの例句を上げながら、芭蕉の一句にも時代を考えると気の毒だが今日より見れば「無論月並的の句なり」と書き記す。
また子規は短歌の人でもあり、`明星`に記載された落合直文の短歌には、繰り返し論評、つまり認め得ないと非難を繰り返すのだ。容認すると`うたの世界`がおかしくなるという想いが読み取れる。寝返りもできない苦しさを面々と述べたりするその何処に、何があるのかと、そして、それが生きることだと言わざるを得なくなる。

10月21日松山から帰京の折、ぶらぶらと空港内を歩いて立ち寄った本屋で、つい「子規百句」(創風社出版の文庫本)を買ってしまった。
子規の名とおおよその経歴は知っているが、知っているがために子規の句を、子規の病や松山から根岸に移住したこと、漱石や弟子でもある虚子や左千夫との交流の中でしか読み取れなくなることになる。それでいいのかという思いが無くもなかった。
しかしこの子規百句では、詳細な経歴が記載されていて改めて子規の一生を思うことになる。だが揚げ句(百句)の中ででも病との関わりによって読み解く例が多くてちょっとうっとうしくなっていたものの、大早直美氏がこう書いていることにほっとした。
「作品となった時点で俳句も作者から離れ独立して鑑賞されてよいと思うが」とあり「この句により子規の境遇を思わずにはいられない」とつなげる。揚げ句は、「柿食うも今年ばかりと思ひけり」。柿は子規の好物なのだ。
僕は俳句には疎いし時代背景にも詳しくは無いが、人の生きることを考えることが僕の生きることのような気がしていて、子規が僕から離れないのだ。

岩波文庫フェアのプレゼントがほしくて買った三冊は、「方丈記」「いきの構造」とこの「墨汁一滴」である。
そもそも文学作品は(と意気込むことでもないが)人の生きることを捉えるものだと思うが、この機会に古典を読もうと思ったのだ。
方丈記(本ブログ6月10日記載)はともかく、墨汁一滴も九鬼周蔵の「いきの構造」も既に古典と言っていいと思う。プレゼントのブックカバーは僕の好みではなかったが、同封されていた岩波文庫編集部編の「古典のすすめ」と言うエッセイ集がなんとも面白い(非売品です)。でもそれは置いといて、「いきの構造」は読みこなしきれないまま片付けていた本棚のどこかにしまいこんでしまったようで見つからない。「粋」と言う一言が一番気になっていたのに。

「雲かくれ九鬼周蔵のいきは何処」。 お粗末な戯れ句なり。

(写真 本文とは直接の関係がありませんが、光が気になる朝の新宿公園の一齣です)

東北を・・(8)近代建築文化を継承したまち・登米

2012-11-14 17:10:40 | 東北考

仙台藩は1601年(慶長5年)伊達政宗を藩主として誕生した。関が原の戦いの翌年である。
歴史を紐解くと、仙台藩の誕生に伴って登米は仙台藩に組み込まれることになったという。
今さらいうことでもないが、我は歴史に疎いなあ!となんとなくがっかりするのは、多分独眼竜伊達正宗のイメージが強くて、親しみを込めて伊達藩とも言われるというその伊達藩の登米と思い込んでいた節がある。仙台藩という言い方に馴染んでいない。
でもまあそんなことはさておいて、410年を経た現在の登米には、長い歴史の一時期を記憶した明治時代の建造物が幾つも残されている。

例えば近代化遺産、警察署庁舎が当時の警察資料館となっているし、重要文化財になった木造2階建ての大きな校舎「旧登米(とよま)高等尋常小学校」(明治21年・1886)は、当時の教育に関する資料展示がなされている教育資料館として魅力的な姿を僕たちに見せてくれる。

偶然というか縁(えにし)があるのだと思ったのは、東京に戻って事務所の机に置いてあった`建築東京10月号`(東京建築士会の機関誌)をめくったら、近代化遺産のカタチと題したこの小学校の、写真家増田彰久さんの写真と文が乗っていた。
設計は山添喜三郎という技師で、明治6年明治政府がウイーンで開催された万国博覧会に参加した時に日本館を建てた棟梁に大工として同行し、その後1年ほどヨーロッパにとどまって西洋館を学び、帰国して宮城県の技師になって手掛けたのがこの学校なのだと書いてある。
この建築には、つくった人の気負い(そこが面白いと思う)があるような気もしていたが、なるほどと得心した。調べたのはあの藤森照信さんとのこと、さすがにすごい建築探偵だと増田さんは添え書きをしている。

この旧小学校は、近々修復がなされると聞いたが、漆喰壁の一部が地震によって剥落したり、平屋部分が歪んでいたものの、大きな被害は無い様だ。
まち中に人気が少なくてちょっぴり気にはなったものの、登米は(この一角を宮城の明治村と観光パンフレットに記載してある)歴史を内在した落ち着いたまちだ。こういう土地柄が`森舞台`をつくらせたのだと納得し、岩手県境に近いこの地に近代建築文化が根付いていることに嬉しくなった。
昼食は、この地の名物「油麩」を煮込んだ油麩丼だ。油?を食べるのかと思ったが、意外とあっさりしていてなかなか旨い。我が妻君は、食べたことはないけどここの名物だということは知ってるよ!という。ここはやはり東北なのだ。

登米を訪れてなんとなくホッとするのは、当日森舞台を担当した女性や、警察資料館で好奇心が抑え切れなくて聞いた質問に、分からないことがあると、あちこちに問い合わせをしてくれた女性の笑顔に見られるように、これらの施設の管理に関わる人たちのゆったりとした暖かさである。それがごく当たり前の日常なのだ。
いま僕は、このひと時を思い起こしながら、この笑顔と暖かい志があれば、ここに未来があると言ってみたくなっている。


秋は来ぬ

2012-11-09 08:53:05 | 建築・風景

欅が芽を吹いて春の到来を感じ、茂ると春の盛りだと思う。欅の葉は落ちると白茶けたただの枯葉、でも都庁の前を通ってオフィスに行く街路の欅並木が色づくと秋なのだと実感する。いままさに、秋たけなわなのかもしれないと思う。
時折乗る朝のロマンスカーMSEの遮光カーテンはブラインド形式で、日差しをコントロールしながら外を見るのには好都合だ。
11月に入るとかなり下まで下ろさないと直射を遮れなくなる。外の景色を見るのが楽しみで乗るようなものなのに、日差しが低くなって外が見にくくなった。もう少し季節が進み日差しが弱くなると、下ろさなくてもよくなるのかもしれない。こんなことで季節の移り変わりを感じたりする。
いつの間にか蝉の声がなくなって小鳥のさえずりが聞こえてくる好きな秋なのに、季節が巡って寒くなるのだ!という実感だけがあるのは如何ともし難い。

東北を・・(7)創ること 地に馴染む隈研吾の森舞台

2012-11-03 23:28:38 | 東北考

岩手県との県境に近い宮城県登米市にある森舞台(伝統芸能伝承館)に行った。この地に伝わる薪能や神楽、とよま囃子(登米市の市内にある登米まちは、とめではなくて、とよままちという)などの伝統芸能を奉納する能舞台である。
この能舞台と見所などを設計した隈研吾はこう述べる。
「舞台と橋掛かりの前の白洲という場に、奥に拡がる森の闇に繋がるように黒い砂を敷きこんだ。そして資料館を左手の下につくり、段々になったその上に小さく砕いた黒い石を敷き、その段のエッジステンレスのバーで押さえ、黒石を水に見立てて水上の能舞台にした」。

水上能舞台の伝統様式を継承して能舞台の下には腰板を張らなかったという。覗き込むと舞台の床の音響のために置いた甕が見える。1996年に建ててから18年を経てこの能舞台は、舞台の奥に千住博が描いた老松と若竹鏡板とともにくすんだグレーに変色し、すっかりこの場の自然環境に馴染んでいる。栃木県の馬頭町にある広重美術館の変色した木々と同じ光景だ。

隈さんはこの建築で建築学会賞を得たが、舞台と広い回廊のシャープな庇のある見所との間の黒い砂には、二つの向かい合うものの間にある亀裂が建築を創るときの原型としてあって、ここでもそれを意識したという。言わんとすることは、この時を経てきた能舞台によって地に馴染むながらも、僕の中にもいつもある「風土」を建築と言う形にしていく時の言語として得心するのだ。

この「東北へ・・」のシリーズの冒頭に書いたが、ここを訪れたときに気仙沼の小学校の生徒たちが先生に引率されて訪ねてきていて、見所の縁側に座り込んでわいわいとはしゃぎながらお弁当を食べていた。
帰るときに資料館にいる僕たちをガラス越しに覗き込み、笑顔で手を振る。その楽しそうな姿になんともうれしくなったが、先生と管理をするおばさんに聞くと、この中には仮設住宅に住む子が居るのだと言う。一瞬言葉が出なかったが、バスが見えなくなっても、伸び上がって手を振り続けていたおばさんの姿に涙が出そうになった。

この建築は、地元の能楽など伝統芸能を継承していく人たちだけではなく、この地域とその周辺の人々の大きな支えになっているのだろう。
感じ取るものが沢山あり、思い立ったら出かけることだと改めて思ったものだ。

<追記>
友人mさんからのコメントに返信を書きながら感じていたのは、隈さんが、裏の森の闇とのつながりの中で水に見立てた黒い砂や石に浮かぶこの能舞台の魅力とその真髄は、夜に行われる薪能を見ないと味わえないないのではないかというおもいなのだが、さてそういう機会をつくることはできるものか!

東北を・・(6)小屋取港から見る「女川原子力発電所」

2012-11-01 13:21:28 | 東北考

女川町からひと山越える小屋取に向かった。坂道を登り始めた右手の傾斜地に、プレハブで建てた二棟の仮設住宅があった。住宅の見えない山間地で近くにコンビニなどの店舗もない。坂がきついので自転車も使えないだろうしバス停もない。周辺に人気が感じられないがどうやって生活しているのだろうと気になった。

豊かな山林の中を原発建設のために拡幅整備された曲がりくねった道路を走りながら、20年前にこの道を夜中に7時間も歩いて集落に取材に行ったという小岩さんの話を聞く。何をしているのだと、通りかかった村民にいぶしかられ、「まあ乗ってけや」と同乗させてもらい、仕方がないなあ!と自宅に泊めてもらったこともあったという。車を買う金がなかったのだ。
通ううちに村民の信頼を得ていったのだと思うが、その後意を決してスクーターを手に入れたという小岩さんの今の車は、中古の小ぶりの四駆である。

この道の下の沿岸沿いには、横浦や飯子浜という集落と漁港がある。しかし2011・3・11。これらの小さな集落はほぼ壊滅してしまったという。

小さな堤防があり、晴天の中で数隻の漁船が舫っている小屋取港のさざ波のたつ海の色が鮮やかだ。でもここで魚を釣ることはできない。気になっている対岸の逆光の中に見える女川原子力発電所は、何事もないような姿でひっそりとたたずんでいた。無論人気はない。
その東北電力女川原発。巨大地震と津波にもかかわらず安全に停止したと伝えられ、HPにもそのように記載されているが、5系統ある電源のうち4系統が落ち、翌月4月7日の余震でも4系統が落ちた。
安全停止したのではなく、かろうじて止まったと小岩さんも言う。

帰りの山林の中で奇妙だが心に残る光景を目にした。道路は樹林が伐り開かれて時折日差しが注がれる。その中を車の高さで「シロセキレイ」が右に左に舞ながら僕たちを誘導してくれるのだ。スクーターで走った小岩さんは何度かそういう体験をしていて、シロセキレイにはそういう習性があるようだという。
あれからひと月を経た。小鳥が嬉々として舞う様子がさらに鮮やかに、この一文を書いている僕の目の前に浮かび上がるのだ。