日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「風景は成長したのか」 小島一郎の津軽と木村伊兵衛

2011-04-29 21:09:16 | 写真

吉野桜が葉になり、たわわだった八重の桜花が朽ち果てようとしている。赤い椿が毒々しく感じる。濃密な春だが、今年の4月は震災の、ことに原発危機のためとはいえ奇妙だ。

青森の建築誌Ahaus(アーハウス)No.9に、「神代雄一郎(こうじろ ゆういちろう)の津軽十三」を書いてから9ヶ月を経た。この号のテーマは「風景は成長したか」。
柳田國男は、風景は成長する、と言ったという。環境が世代と共に改まっていかなかったら、それに包まれた人生はあれたままだ、と。だから風景は人間の力によって作られ、変化していく。風景は成長していく!
なすすべもなかった自然の猛威に、僕は改めて僕の原風景と重ね合わせて書いた「津軽十三」を考えている。風景は成長したのか?

津軽を撮った写真家がいた。小島一郎である。
昭和21年(1946年)、小島は敗残兵の一人として中国大陸から故郷の青森に帰ってきた。22歳だった。
その数年後写真を撮るようになった小島は津軽にとり憑かれる。
彼は書く(小島一郎写真集成・青森県立美術館刊より、一部組み換え)。「五所川原市を起点とし、猛烈な吹雪に吹き付けられながら、十里余りの道のりを休むまもなく歩き続けながら、私の手はすっかりこごえて、関節も曲がらなくなったことも度々だった。
『それらのなかで最も印象に残る土地は十三村である』。日本七港の一つに数えられるほど繁栄した十三は、どこを見回しても当時の面影の一遍すらもなくただ荒涼とした雪の浜辺に侘しい藁葺きの屋根の家が点々とするだけで、日本海から吹き寄せる強風の中で、やっとわが身を支えているような格好だった」。

この一節は高橋しげみ(青森県立美術館学芸員)が`情緒的`と指摘しているように、僕もそう思うのだが、名取洋之助に見出されて東京へ出、未来を夢見た(高橋氏は野心と指摘!)地域性豊かなこの写真家は、いわゆる不遇な写真家でなかったと書く。しかし、師名取の死もあり東京で神経をすり減らす。

1962年アサヒカメラの連続座談会で、小島の写真展「凍れる」は、伊奈信男、金丸重嶺、渡辺勉、そして木村伊兵衛という写真界の重鎮に酷評される。
ことに木村伊兵衛は、「主題は`凍れる`だが、しばれていないんだよ。もっと凍れる現実を使って、そこの人をルポルタージュしたものならいいけれどね・・船のへさきを撮ってみたり、黒く焼いたり、パターンにしたり、調子をとばしてみたり、へんに白くするためにおおい焼きをしたのがあまり効果的でなかったり、リアルなものをやろうと思っても、これがまた技術の不足で、リアルなものを感じさせなかったりね。ほとんどがとまどいをしていてバラバラだよ」。
酷評である。そして若き小島一郎の芽を摘んだ。

木村伊兵衛は小島一郎に嫉妬したのだと、僕は思う。撮れないものを若者が撮る。リアリズム写真運動が衰退していた時期だった。小島一郎はその2年後に心臓麻痺で急逝した。39歳と言う若さだった。
僕は木村伊兵衛の代表作「秋田」(ニコンサロンブックスー4)の頁をめくり、なにやら抑えきれない憤りを感じながらこの一文を書いている。

<「津軽十三」については、本ブログの2008年8月31日青森へ(1)と、9月13日の青森へ(2)をお読みください>

DOCOMOMO Japanリーフレットと鎌倉近美

2011-04-24 11:14:24 | 建築・風景

日本工業倶楽部会館の屋上から撮った東京中央郵便局の写真を使ったDOCOMOMO Japanのリーフレットがなくなり、新版をつくった。
記載している選定した建築は100から150になって構成を一新することになる。
表紙の写真は平家池に面して建つ鎌倉の「神奈川県立近代美術館」にした。
コルビュジエが設計し、弟子、前川國男、吉阪隆正、坂倉準三がサポートして建てた西洋美術館にする案もあって写真も撮ったが、この鎌倉近美はDOCOMOMO Japanとの縁が深い。やはり近美だと思った。

1999年だった。DOCOMOMO International(本部)からの要請があって、日本のモダニズム建築を世界に伝えるために20の建築を選定し、鎌倉近美で建築展を行った。その実行委員会のメンバーが中心となってDOCOMOMO Japanをつくったのだ。
選定したのだから広く社会に伝えたい!思い立って近美の学芸主任と相談して企画が具体化し、20選展の事務局長を務めた。Japanは2000年のブラジリアの総会で加盟承認される。その折世界各国家から持ち寄った20選のリストが本になって出版された。

東海大学のwebTOKAIに僕は、「只者ではない者たち:坂倉準三という建築家のいる鎌倉の近代美術館」と題するエッセイを書いた。坂倉建築研究所の最高顧問阪田誠造さんは、坂倉とそのOBにとってこの美術館は「一つの原点である」と述べていて、僕は坂倉の原点だと言うことは日本のモダニズムの原点だと言ってもいいだろうと書いた。

●Web TOKAI
http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/index.html

付け加えたいのはDOCOMOMO Japanにとっても近美は原点なのだが、僕が若き日同居したモダニズム建築の、僕にとっての原点にもなった。webTOKAIのエッセイを読んでいただくとわかっていただけるのだが、おなじ1999年に美術史の高階秀爾先生に代表になっていただいて「神奈川県立近代美術館100年の会」(愛称「近美100年の会」)をつくることにもなった。

webエッセイを読んでくれた奈良に住む建築家、坂倉OBの好川忠延さんが興味深いエピソードを寄せてくれた。
「坂倉さんは図面を書かない、プランニングをしないと良く言われ、そのとおりだが、吾々が描いた平面図を見せて打ち合わせをすると、窓の位置を少し左にとか、トイレの向きを横に置くなど細かいことを次々と指示されて直していくと、いつの間にやら坂倉風のプランになるという不思議なものでした。
西澤文隆(坂倉さん亡き後坂倉を率いた建築家)さんも同じことを言っていて、若かった私は、建築家たるものは全体のコンセプトを理路整然と述べるものだと思っていただけに、大変不思議な存在でした」。

その坂倉さんに突然いままでに見たこともない怒られ方をされたことがあるのだという。
好川さんの担当した「旧上野市庁舎(伊賀市役所)」の平面図を見せてプランニングの説明をし、議会を静かな空間とし、其れにふさわしい空間の大きさを準備して2階の中庭廻りの廊下は、中世ヨーロッパの修道院(私はモサアックをイメージしていた)の回廊をイメージしましたと述べると、持っていた赤鉛筆をへし折って叩きつけられた、というのだ。
何故怒られたか(好川さんは、烈火のごとく、と書く)理解できなかったが、鉛筆を投げ捨ててから言った「建築はファンクション(機能)を追求することから始めなくてはいけません」と言う言葉は今でも覚えていると言う。

上野市庁舎は鉛筆事件のあと何事もなく、ほぼ好川さんのプランで進み、坂倉さんは上野に一人で見えられて、現場に常駐している好川さんに一対一で相談に乗ってくれたことを、いつまでも忘れ得ない懐かしい想い出だと書かれている。
そういえば、OBのどなたから聞いたことがある。
近辺の名物、昔の木造だった事務所の窓から聞こえてくる、坂倉さんの大きな声!

「只者ではない者たち」。
建築家坂倉準三と、戦後間もない1951年、荒廃した日本の復興を願い、鎌倉に近美を建てさせた当時の神奈川県県知事、内山岩太郎を、僕は「只者ではない者たち」と書いた。

ふと思い出したのは、昨年の10月17日のDOCOMOMOセミナーの人たちと訪れた愛知県立芸術大学で、中京テレビの取材を受けて僕が述べたのは「吉村順三は只者ではない!来るたんびにそう思っちゃう」。
このキャンパスの計画をし一連の建築群を設計をした吉村順三。ああ溜息が出る!

新版「日本の原発地帯」から「日本の原発危険地帯」(鎌田慧著)へ

2011-04-17 14:11:03 | 生きること

やはり書いておこうと思う。
新版「日本の原発地帯」鎌田慧著(岩波書店同時代ライブラリー)を読んだ。しかしこの文庫は1996年11月に第1刷が発行されており、15年を経ている。原本は1982年(潮出版社)だと言うからほぼ30年程前になる。僕は、原発の近辺に行ったこともなく、その後の15年間と現状も知らない。書いていいのかとちょっと悩んだ。

だが、この文庫の最終章に反原発住民闘争がレポートされた東北電力新潟の「巻」は、計画が消滅しているし、このたびの大震災で事故を起こした福島第一の一号炉は、ルポした当時、放射能を含んだ冷却水漏れが発見されて運転停止中と記載されていて、71年に稼動してから平均稼働率は30パーセントしかなく現地では「被爆者製造炉」と言われていたとある。
これは読んでわかったことなのだが、そうでなくても今回の事故報道の東電や政府、関係機関のあやふやな様を見ていて、原発の実態が気になっていた。

ルポライター鎌田慧が原発をルポしていることは知っていたが、書店になく版元にもなく、図書館も貸し出し中で何人もの予約が入っていていつ手に入るかわらない。ブックオフだと思って数件まわってみたが原発関係だけがなかった。
そこへ「この度改めて読み返してみて愕然としました」とS教授からメールがきた。新版「日本の原発地帯」を読んだという。
思い余ってメールを入れた。そして貸して頂き読んだ。想定していたもののやはり愕然とする。
僕自身の思考の記録としてもここに書いておきたいと思った。

蒲田慧は1938年青森県弘前市に生まれ、早稲田大学を卒業したフリーのルポライターである。
原発に限らず、何よりも自身で現地を歩き、ルポした相手の名前や組織、現状を率直に書き記していることが貴重な記録となっている。「反骨―鈴木東民の生涯」(講談社文庫)で新田次郎賞、「六ヶ所村の記録」(岩波書店)で毎日出版文化賞を受賞しており、その業績は社会的評価を受けているのだ。

この著作は`原発の先進地の当惑`と題した「福井」からスタートしている。若狭湾に面した敦賀、美浜、大飯、高浜、敦賀は日本原子力発電だが、他は関西電力、久美浜が次の主要候補地点となっているが設置されなかった。その他本書でルポされたのは、愛媛の伊方、福島、柏崎、島根、下北(むつ・六ヶ所村)、`核の生ゴミ捨て場`と題された岡山県と鳥取県の県境にある山岳地人形峠など、そして巻である。
今回の事故は東京電力福島第一だが、関西電力、中国電力、四国電力などなど、どの原発も安全性についての大きな問題を抱えていることがわかってくる。

でも僕自身コントロールできないのだが、心のどこから底知れない怒りがじんわりと湧き上がってきて留まってしまうのは、過疎であったとしても先祖から受け継いできた土地とコミュニティを、彼ら!が嘘を並べ立てて分断させてきたことである。
故郷を失うこと、故郷のない僕は溜息が出てくるのだ。
事故を隠蔽して(でも伝わるものなのだ)安全を表号し地域の人々を雇用し、生活の安定と活性化を図るとされる。海に高温の排水をすることになって生態系が変わるので漁業権を放置させる。政治家と産業界の裏に膨大な金が動くが、当の住民が気がついたときにはただ同然の金で土地を手放してしまったことを悔やむことになるのだ。
故郷とは言えないのかもしれないが、小学生時代を過した過疎の村(天草下田村)の、僕の家族を支えてくれた人々の顔が浮かんでくる。

こういう記述がある。柏崎刈羽の人たちが科学技術長の担当官に、東京につくったらいいだろうにというと、東京は人口が多くて危険だと答えたと言う。(140ページ、後に紹介する日本の原発危険地帯では153頁)。
原発の寿命は60年とされるが、日本と同じ原発で40年以上稼動している例はなく、現実には40年では廃炉になるとみられるという。廃炉になったときにこの地域はどうなるのでしょうか? と伊方の町長に問うと「三年、五年向こうのことでさえむずかしい。二十年、三十年先のことは、あとの町長が考えます」。是非を越えて、既に人がコントロールできないのだ。

さて4月15日本屋(僕もしつっこいなあ!)に行って検索したら、この度の事故を受けて「日本の原発危険地帯」(鎌田慧著・青志社4月17日第1刷)が緊急発刊されていた。
蒲田さんは改題刊行あと書きにこう書く。「いままで感じることのなかった、奇妙な時間である。(中略)原発が事故を起こすのは予測されていた。が、どこかに救いを求めていた。」
2006年文庫本後書きにはこうある。「この本は私にとって愛着の深い本である。一人の人生がどのように変わったか、私がお会いした、原発に立ち向かいながら、無念のうちに他界したひとたちの冥福を祈りたい」。


UFOをつくったひと

2011-04-10 17:12:23 | 建築・風景

UFOに住む異星人は、時折僕のブログに登場する小西敏正(宇都宮大学名誉教授)さんと、キルト作家の春江夫人、そしてご子息である。僕たちを迎えてくれたご夫妻は、まずUFOの乗る大正末期に建てられ70年を経た仕舞た屋(シモタヤ)に驚いている僕たちを笑顔で迎え入れてくれた。同行したJIA(日本建築家協会)の保存問題委員会のメンバーもなにやらあっけに取られている。僕はまさしくカルチャーショックを受けていて呆然としていた。

玄関の格子のある引き違いの戸を開けると3尺の廊下があって、右側は台所など、左は二間続きの和室になっている。庭側の障子を開けると縁側(廊下)があり、ガラス戸越に庭が見える。中学時代から20年ほど住んだ叔父の会社の社宅がそんな風だった。小西さんは一昔前には、玄関を入ったすぐ左手に洋間があったんだけどと昔を振り返る。その時代の大きな家にあったぶ厚いカーテンの掛かった異空間・応接間なのだと思った。この大正時代の空間でスイスのミシンを使いこなしながら、味わい深い、そして時代を先取りする新鮮な「キルト作品」が生み出されるのかという驚きもある。

そこへUFOを乗せたのだ。
この2階を改造した6坪の部屋は、1988年の建築誌「ディテール96号」に「瓦屋根に舞い降りたUFO」として紹介されている。
設計して完成するまで1年と記されているが小西ご夫妻によると、考えてから出来上がるまでに15年掛かった、お金がなかったので一人で手づくりをしたから、でも流石に鉄骨でトラス梁を組んだときには建築会社に手伝ってもらったねえと、夫人を見返りながら懐かしげな顔をする。
其れをサポートした春江夫人の笑顔を見ると、やはり異星人か!と溜息が出る。

突然見学に現れた首都大学東京教授の深尾精一さんと互いオヤッと笑顔をかわした。深尾先生(突然先生!)は建築構法の研究者で東大時代の内田祥哉先生の門下生、小西さんとは研究者仲間なのだ。内田先生の秘書をされているのが東京工業大学平井聖先生のご息女ゆかさんで、僕はゆかさんから相談を受けて小笠原邸の保存をサポートしたときに僕と面識が出来た、と深尾さんは言う。言われるとそうだったのかと思うが、何だか親しいのだ。ゆかさんは明大のOG、まあ言ってみれば僕の後輩でもある。
その深尾さんが気になっていたUFOを見るいい機会だと現れたのだ。フーン!世の中は狭い。

小西さんは東京工業大学OBの建築構法の研究者なのだ。そしてJIA(日本建築家協会)の栃木代表を永く務め、学生や市民を巻き込んだ活動をして栃木の建築家を率いた。僕の2代後のJIAの保存問題委員会の委員長でもあった。そしてその研究と活動経験を生かして、各地の地震の調査や支援にも尽力してきた。僕とは長い付き合いだが怒った顔を見たことがない。すぐ顔に出て黙っていられなくなり、すぐ後悔して落ち込む僕とは違って大人だ。

ショックは続く。何故かと彼自身上手く説明できないようだが、ともかくこういう建築をつくってみようと思ったのだろう。若き日の研究の実践体験を試みたのだ。この異空間の居心地のよさ、開口のバランスや周辺自然との関わり方のスケール感が素晴らしい。唸りたくなるほど建築家の家なのだ。

エピソードがある。
戦前、ここに住む一家が東京が恐いと九州に転居するというので、小西さんの父親がここを買い取って住むことにした。そしてあの東京大空襲に見舞われなかった。移転した一家が九州で空爆に遭い東京に逃げてきたので一時2階を仮住まいとして提供したのだと言う。
今回の大震災直後のUFO体験は、様々なことを教えてくれる。
大正生まれの家屋が残っていたからUFOが舞い降りたなどと・・

瓦屋根に舞いおり居座ったUF0

2011-04-05 17:15:27 | 建築・風景

24年前の3月、東京中野の瓦屋根の家屋に,UFOが舞い下りた。大正末期に建てられたこの家屋の居心地がいいのか、このUFOと異星人はここに居座った。
とまあこうなるのだが、此処の住人は、異星人だと言われればなるほどと妙に納得させられるご夫妻。でもこのUFOは異星人の3人の子供が喜んで使った。居心地がいいのである。
さて窓にうっすらと見え隠れする男と女、彼らは異星人ではないけれど、何となく不思議人間に見えてしまうのが不思議。

春が来る その日差しの中で赤紙が貼れるか!

2011-04-03 10:18:34 | 建築・風景

桜がほころび、レンギョウも鮮やかな黄色に染まり始めた。
昨4月1日から小田急線のダイヤがほぼ正常に戻り、暖房がなくてもさほど寒くなくなった。春が来たのだ。自然は惨いが温かい空気と光も注いでくれる。
でも車内の電灯はつかないので、建物で覆われている駅のホームにはいると、車内が暗くなって読んでいた本の文字が見えなくなる。計画停電だとハッと思うが、照度の変化に目がついていかないことに驚く。太陽の明かりがあまりにも凄いのだ。

電車をプラットホームで待っていた。音もなく滑り込んできた車内が真っ暗で、ドアが開いたら闇の世界から来た亡霊が蠢いていた。一瞬遅れて明かりがつき現実が戻った。一旦眼に焼きついた事象はなかなか消えてくれない。あの津波のように・・・亡くなった方を悼んで瞑目はするが、その僕に何が出来るのだろう!

震災の直後から、行政からの委託によって建築家が傷んだ家屋などに赤、黄色、緑の紙を貼っている。危険度の判定作業だ。緑は問題がなく黄色は修繕して使い続けることは可能、赤は危険で修理もなかなかも難しいという専門家としての判断をするのだ。しかし!僕は赤紙が貼れない。

3月30日にJIA(建築家協会)に於いて第2回目の災害についての会合を行った。今回は建築学会関東支部建築歴史意匠委員会の主査の山崎さんや、家政大学の大橋さんなど建築史の研究者を招き、JIAと建築学会が連携して専門家として被災地の建築についての対処の検討をするものであった。
被災現地を考えると述べることに勇気がいるのだが、文化的な価値があるとしてリストアップ(データ化)されている建築の被災状況の調査の必要なことと、其れを何とか工夫して存続させる事の大切なことの確認や、データ化の課題について、そして各組織の役割についての意見交換でもあった。
心に留まったのが、調査した建築家が言う、まあ当然なのだがリスト化されてはいないが、傷んだ素晴らしい建築が沢山あることだ。価値がないとしてあっけなく壊されてしまう。
そうだと思いながら僕は「価値」とはナンだと自問していた。

第一回目の会合で小西宇都宮大学名誉教授の報告、能登地震のときの輪島に住む赤紙(赤紙?僕のオヤジが戦地に引っ張られたのも赤紙だった・僕は子供だったがその後の母の生き方が頭をよぎる)を貼られた居住者から、この住宅は価値がないのかもしれないが先祖から譲り受けて住んでいるので壊したくない、何とか住み続けたいので助けて欲しいといわれた。一緒に訪ねた地元の建築家と走り回って機械をさがしてきて傾いた家をなんとか垂直に戻したという報告をずっと考えていたのだ。建築ってそうなのだ。

何かやらなくてはいけない。そういう思いのある建築家は沢山いる。そして赤紙を貼る。必要な‘仕事`だとも思うが、家の中を見ないで瓦が落ちていたら赤紙を貼る。そんなことは僕には出来ない。赤紙に、大丈夫だから連絡をしてみてくれと名刺を貼って歩いた建築家がいるという報告もされた。瓦礫といって欲しくないという家をなくした人々の言葉を僕は自分に刻み付けたい。

大リーグがはじまり、西岡はエラーもしたがヒットが打てた。イチローはヒットを打ち盗塁もした。7回になって球場で皆で唄う二つの歌を聴いた。ここに日常がある。鎌田慧の原発に関する著作が本屋にも版元にも貸し出されていて図書館にもない。TVでシンディ・ローパの被災者を想う心の籠もった歌を聴いた。ああここにも人の生き方を問う日常があると思った。