日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

良寛様謹書 いい年になりますように!

2008-12-31 18:01:17 | 日々・音楽・BOOK

ノートPCのコードをコンセントに差そうと引き寄せたら、コーヒーをひっくり返してしまった。慌てて雑巾を取りに云ってテーブルを拭いた。PCのスイッチを入れた。起動しない。PCにもコーヒーがひっかかったのだ。
中郵のことなど今年は嫌なことが沢山あっったが、これで年を越すのかと憂鬱になった。妻君が綿棒をもって飛んできた。入らないところはほぐして楊枝にまいて拭いた。でも駄目だ。うんともすんとも云わない。
でも空は見事な快晴、風もさほど冷たくなくのんびりしたいい大晦日だ。台所では我が家に来た娘と妻君が`おせち`をつくっている。時折笑い声が聞こえてくる。ホッとして心が和む。

東京中郵の保存活動を一緒にやっている多児さんから電話をもらった。ひとしきりどうしようもない郵政に怒りとボヤキを言って慰めあいながら、年明けを語り合う。
来春3月に行くDOCOMOMO Koreaとの連携で行う「韓国近代建築ツアー」に誘い、金壽根さんの設計した空間工房で行うミニシンポでパネリストとして話をして欲しいと相談した。多分僕とKoreaのユン先生(DOCOMOMO Koreaの代表)の二人で進行役をやるのでと口説く。

CDをリヒテルの弾くバッハの平均率クラヴィア曲集から、平良重信の三味線を弾きながら唄う宮古島の古謡に変えた。昨年行った宮古島平良の麻姑山書房で手に入れたCDのカバーは「人頭石」の写真だ。三線(さんしん)でなく、三味線とあるのが宮古なのかもしれない。
沖縄の諸島を琉球弧という言い方をするが、宮古は独特の文化圏を持つことをふと思う。

宮古のコトバなので歌詞を見ても何を唄っているのかよく解らないが、ゆったりしたリズムと渋い声、爪弾く三味線の音が、宮古の歴史を背負っているのだと思わず空の奥に眼を向けた。ハヤシを自分で唄うのもなんともいい味だ。
島(スマ)がまんな生(ナ)さりゆてユナウラセ。「来間押(クリマウス)ミガ小(ガマ)」という唄だ。

ふと右手に本棚の側壁に目がいった。柿渋を塗った科(しな)のランバーコアに、書家小林紘子さんの謹書「良寛様御詩」が額に入れて飾ってある。漢詩なのでしっかりとは読み取れないが、竹林に鳥雀が飛んできて、帰って来た老農は独り酒に陶然として、鳥雀たちと相対して談笑するといったようなことらしい。ずい分と前、バリ島に行ったときもって来た木の小さなインコが、ふらふらと揺れながら小林さんの文字に見入っている。

これはいい、今年の読谷で大嶺實清さんにねだって手に入れた泡盛を注ぐ器で杯を重ねよう。僕の相手は鳥雀たちではなくて、妻君と娘だ。
談笑?塩分の取りすぎ、控えなさいといわれそうだが、その後除夜の鐘を聴きながら、京都松葉屋の鰊蕎麦で年越しをする。大阪にいる従兄弟が送ってくれたのだ。

PCのスイッチを入れてみた。入った。妻君が云う。乾けばつくのよ。なんとも即物的だ。
でもありがたい。心底ホッとした。もしかしたら2009年はいいことがあるかもしれない。


新沖縄文化紀行(1) ふと心が和む、日常性と非日常性の沖縄

2008-12-25 16:27:34 | 沖縄考

師走の沖縄は、矢張り沖縄だった。
沖縄は沖縄、当たり前だが今年の沖縄の旅、文化人類学研修旅行には感じるものがあった。一昨日の(12月22日)夜遅く帰ってきた3泊4日の短い旅だが、昨年の`宮古`にも触れながら書き連ねてみたい。

トヨタが業績悪化で数多くの労働者を解雇した。同行した社会人修士(明大の大学院)の清水さんが東村(ひがしそん)の民宿のようなホテルでの朝食の時、沖縄の新聞を見ながらこの問題に触れた。
解雇された60パーセントが沖縄出身者なのだという。彼は経済が専門で実務について38年、定年になって大学院に入学した。明大で文化人類学の一齣を持った首都大学渡邊欣雄教授の高校時代の同級生だ。気になっているのだ。今の経済界が。沖縄が。

僕たちが2泊したホテルも、この暮れで閉鎖するという。ホテルを仕切ってきた笑顔が豊かなおばちゃんとせっかく仲良くなったのに。おばちゃんは寂しそうだ。体調がねというが人が来ない。

帰る前、新しい町`おもろまち`で建築構造事務所を主宰しているSさんに会った。1年ぶり、5時から建築現場での配筋検査だという慌しい時間に押しかけたのだ。
DFC(免税店)の3階でアイスクリームをちびちびと舐めながら、どうしても僕が彼に聞きたかったのは沖縄の建築確認申請問題だ。
専門的で解りにくいのだが、ルート2以上になると適判に廻るが、沖縄には審査機関が3箇所しかなくその上人材不足。台風とシロアリに悩む沖縄は住宅であっても鉄筋コンクリート造だ。
適判になると時間とお金が掛かる。クライアントから要請され、適判にならないように設計を変える建築家がいる。建築のあり方が壊れる。おかしな三段論法だが社会が壊れるのだ。何とかしようと建築家がボランティアで試行錯誤をしながら動き始めた。

でも彼がそれだけでなく吐き捨てるように云ったのは、トヨタの解雇問題だ。いきなり宿舎を追われ、住むところもなく帰京する飛行機代もない。沖縄に帰ってきても仕事がない。
僕の頭に、通ってきた名護十字路のシャッターで閉じられた商店街の姿が掠めた。なぜあのような理不尽なことができるのか。Sさんのこの問題意識は僕のものでもある。トヨタが解雇に踏みきったので、他企業も免罪符を得たように動き始める。
僕もこういう大企業論理には組しない。話しは釈然としない選挙目当ての一律交付金問題にもなった。
マネーは大切だが、マネーでは豊かな社会はつくれない。大企業には豊かな社会を築く社会的な責任があるはずだ。

金武(キン)と石川の間にある屋嘉(ヤカ)の調査をしている首都大学の院生が東村で合流した。最終日に、彼女がカミンチュウ(女祭司)から貸してもらって住んでいる家とその村落を案内してもらう。
家の座敷には、門中(ムンチュウ)やノロの杯、それに歴代の位牌が祀ってある大きな仏壇がある。よそ者の彼女も、徐々に地の人に迎え入れてもらえるようになったようだ。ヤマトウチュウがカミンチュウの家に住む、そこが地の人にとっては微妙なようだ。その戸惑いも、ヤマトウチュウの僕には興味深い。

米軍から払い下げを受け、一軒・一区画が110坪に仕切られ、整然と碁盤の目状に区切られた屋嘉の村落。こういう即物的に構成された村は初めてみた。人の生き方の微妙な感性に目を向けなかった奇妙な風景が目の前にある。でもそこの一画に神を祭る拝所があり屋根のある会所がある。裏山には御獄もある。

街道に出てイカ墨ラーメンを食べた。真っ黒だ。口も歯も。おつゆをこぼすと墨が取れない。細麺で美味い。美味いがこぼさないように慎重に箸を使う。慎重になりすぎてゆっくり味わえない。それも沖縄だ。

首里の石畳からほんの少し入った場所に、仲のいい友人夫妻が別宅を建てた。夫人は建築家で、実家は那覇の前島にある。
Sさんに会った後、壷屋の仁王窯をちよっと覗き、タクシーで石畳に向かった。年配の運転手が和やかな笑顔で言った。運転手が老人ばかりになってね、若い人はタクシーでは食えない。規制緩和でタクシーが増えすぎたのだ。

彼女の旦那に案内してもらったのは、家の背後にある巨大な樹木の立つ御獄(ウタキ)。思わず手をあわせて頭を下げた。
御獄に面したシャープな打ち放しコンクリートの住宅で、ショパンのプレリュードを聴きながら味わうクース(古酒)。夢のような沖縄だ。

取りとめもなく序論的に書きはじめたのは、僕の沖縄は、興味深い神の、そして風水の世界。ひめゆりや対馬丸事件を内在した基地問題に揺れる生々しい非日常世界。でも沖縄の人にはそれが日常世界なのだ。
話し合っていた旦那が僕に言う。やや呆れた声で。「ほんとに沖縄が好きなんですね!」

そうなのだ。陶芸家大嶺實清がいてあのJAZZピアニスト屋良文雄がいる。御獄があって亀甲墓がある。基地がある。根強く張り付いて調査をしている若い研究者がいる。ふと心が和むのだ。
人が生きている。

<写真 屋嘉のさっぱりした街並み>

師走の一夜 六代目『宝井馬琴先生』と助っ人の『小遊三師匠』を聴く

2008-12-18 23:59:53 | 日々・音楽・BOOK

15年前、母校明大の先輩、六代目宝井馬琴師から相談があり、二人の明大OBと共に世話人を引き受け「明大AアンドB倶楽部・宝井馬琴ビジネス講談の会」を始めた。
6月と12月の義士討ち入りの14日前後の年2回、それが12月15日の会で30回を迎えた。
助っ人として「明大体育会卓球部卒業」の三遊亭小遊三師匠が駆けつけてくれ、賑やかな笑いに満ちた楽しい会になった。

僕の挨拶。
「おかしい世の中になったが、この会が30回を向かえ、こんなに沢山の方が来てくださると、まだまだ日本は大丈夫!」。ぎゅう詰め上の池之端の鰻や‘伊豆榮本店`の座敷が笑顔でいっぱいになった。
前座の琴柑さんの演目は「紀伊国屋文左衛門」。小遊三師匠が乗りに乗って客席を湧かせた後の馬琴師は家康が登場する「鯉のご意見」。
30回記念なので薄っぺらだがコピーによる冊子を作った。そこに書いた僕の一文を紹介したい。

『千代と修羅場』

父がフィリピンのモンタルバンというところで戦死したのは、昭和20年の6月、終戦の2ヶ月前だった。とっくに僕は父の歳を越えたが、13年前、父のささやかな50回忌法要を営んだ。池之端、不忍池に面した料理屋だった。この地を選んだのは、講談の拠点「本牧亭」に近いからだ。   

僕も僕の弟や妹も父の顔や姿を覚えていない。ことに妹は母のお腹の中にいたときに父が招集され、生まれたときに父はいなかったし、そのまま帰らなかったので、父は生まれた妹の顔、自分の娘を見ていない。
でも、法要に集まってくれた年上の僕の従兄弟(従姉妹)たちは、微かに父の姿と陽気なその語り口を覚えていてくれて懐かしがってくれた。母も集まってくれた親戚の人たちの思い出話を聞きながら、一言一言に頷いている。この日の主役は母だった。

50年間いろいろなことがあった。でもやっと父を供養できる。23回忌は生活に余裕がなくまだ無理だった。
この日、僕は集まってくださる方々に、馬琴師匠(先輩をさんとは言い難く、講談界の慣わし`先生`と呼ぶのも親近感がなくなる。宝井家の一員のつもりで、師匠とよぶ)の講談を聞いてもらいたかった。その母も2年前に亡くなったが、馬琴師匠の講談が大好きで、時折一緒に本牧亭の定席に出かけたものだ。
馬琴師匠と飲む機会(いつもご馳走になるのだけど)があると、まず師匠の口から出る言葉は「お袋さんはどうしてる?」。

その頃僕は夢中で講談家の高座を追いかけていた。写真を撮るためだ。思い起こすとこのとき既に、「明大AアンドB倶楽部・宝井馬琴ビジネス講談の会」をやっていた。日本の伝統話芸「講談」は僕の生活の一部になっていたのだ。

本牧亭から釈台を借りた。五十回忌が本物の寄席になった。演目は「出世の馬揃い・山内一豊の妻」。主人公は「千代」。
馬琴師匠がこのネタにしたのは、僕の母の名が「千代子」だからだ。講談を聞く機会がほとんどない僕の従兄弟や叔母たちが笑みを浮かべながら、千代の良妻賢母振りに聴き入った。

僕は実は驚いていた。このネタは真打になる前の二枚目が良く高座にかける。よくできた解りやすい話だからだ。
でも違う。馬の市の市井のざわめきが聞こえてきた。宝井家の伝統、修羅場調子のリズムによって、きらびやかな甲冑に身を固めた勢ぞろいした馬揃えの武者の姿が浮かびあがる。そして現れる一豊。一瞬シーとした空気と賛嘆のどよめきが僕たちを包み込んだ。これぞ芸だ。

その8年後、僕は写真展をやった。タイトルは「講談・この不思議世界・高座」。朝日新聞やカメラ雑誌が紹介してくれた。会場にいらした神田派の総師`神田松鯉`先生が食い入るように僕の撮った写真に見入って動かない。力を入れて読み上げる自分の首に浮き出た血管に驚いたのだ。
祝辞と乾杯は勿論馬琴師匠。懇親会には僕が敬愛する建築家巨匠`林昌二`さんが現れ、女性建築家に囲まれてご満悦だったことも忘れない。そこにはニコニコしている母の姿があった。

[おかげさまで30回]
この会もおかげさまで30回、なんと15年を経た。
佐藤満喜さんが十五歳年を取ったと、誇らしさの中に嘆きのような、しかしこれからも馬琴さんを追っかけると宣言した一文を寄せてくれた。
孫弟子が師匠にできた。可愛い(というとセクハラ?まさか!)琴柑さん。ときどき前座をお願いする。
今回も。助っ人として、僕たちの同窓・三遊亭小遊三師匠が駆けつけてくださるのもうれしいことだ。

運営(大げさだ)。沼田さんや市川君という吾が母校明大のOBが僕と共に世話人として役割分担をしている。でも主役は出かけてきて楽しんでくださる皆様方だ。2回参加して下さった村山富市元首相が毎回律儀に一言コメントを書いて送ってくださる。

でも本当の主役は無論馬琴師匠。この会をとても大切にしている。
校歌を肩を組んで歌う。その音頭とり。さて今回は誰がやってくれるのだろう! 裏の主役?僕ではない。リストを整理してはがきを出してくれる吾が妻君だ。そして鰻の老舗伊豆榮あってのこと。
この会はチームワークの賜物。それがうれしい。

<写真 「馬琴と修羅場を楽しむ会」第一回のチラシ。馬琴師が還暦になったとき、宝井家の伝統、武士の戦いの様を読む「修羅場」を伝えたいとはじめたこの会も僕がコーディネートし、20回ほど開催した。>


やむを得ず「東京中央郵便局」 書きたいことは沢山あるのだけど!

2008-12-14 10:01:15 | 建築・風景

書きたいこと、書いておきたいことは沢山あるが、経済界の状況がおかしく、政界も`うんざり`と言いたくなる異様な事態。今になって始まったことではないと思いながらも、文化論を書いていていいのかと逡巡する。
財界も政界ともほんの少し前までは無縁だと思っていたが、どうもそのどれもが、身近な事態に直結している。やはり黙ってはいられない。例えば「東京中央郵便局」。

まだ千代田区の都市計画審議会も、都の景観審議会、都市計画審議会が行われていないのに、施工業者が入札で決まり、VE・技術提案までなされている。本来各審議会で様々な検討がなされ、それを設計に反映させる、そのための審議会なのではないのか。郵政は不備が指摘されても意に介せず11月4日に解体告示が現地に掲示した。12月5日からアスベスト撤去工事が始まり、引き続いて解体に入るという。
千代田区では、総務委員会の要請によって、都市計画審議会等でのこの問題での審議がなされていないので解体を見合わせるよう郵政に申し入れる事態となった。

更に気になることがある。
東京建築士会の機関誌「建築東京」11月号に、設計概要が記載された。ほんの一部を保存、残りをすべて解体し、その一部をレプリカで再現する。そして超高層を建てる。それで日本の建築の歴史を刻んできたこの庁舎の価値を保存・継承したのだと、郵政サイドがとくとくと述べているのだ。

日本郵政、不動産企画部次長のS氏は、全て解体すればコストを抑えて斬新なデザインの建築に生まれ変わることが出来たのに、保存に要するかなりな費用を費やして保存し、次の100年に歴史的価値を継承したと力説する。K氏の「巨星落つ、されど光は消えず」。なぜ光が消えないのか、僕にはわからない。

区の審議会では、この建築のあり方を検証するために設置された「歴史検討委員会」の意向を受けて決定したと、会場の聴講者や議員からの質問に、郵政や関係者が答えていることだ。そのような見解表明した歴史検討委員はいないのに。ではと、その歴史検討委員会の報告書を公表するように求めると拒絶する。これはいわゆる偽装だ。何とも情けない。

僕たち「東京中郵を重文にする会(略称)」では、国会請願をするなど頑張っているが、今の時代、これでは日本の社会が壊れる。
審議会で答えるのはなんと、「建築東京」記事と同じく、郵政(旧逓信省)を率いてこれらの秀でた建築群をつくり上げた先達・建築家吉田鉄郎の後輩たちというのがやりきれない。恥ずかしいいことだ。僕のこの発言は、ぼやきでなく「怒り」だ。

こういう状況の中で、微笑ましくグッと来たのがテレビで放映された「ノーベル賞」の授賞式。異例だというが、送呈者が日本語で祝辞を述べた。会場が暖かい空気に包まれたのが画面から伝わってくる。報道したアナウンサーも述べていたが、単なる演出ではなく、日本の科学者に対する尊敬の念と、スエーデンのゆとりある奥深い伝統の賜物だとおもった。
日本の奥ゆかしい伝統はどうなってしまったのかと、溜息が出てくる。

土曜日の夜。神田駿河台から帰ってきてこの一文を書き継いでいる。母校明治大学で行われたシンポジウム「風水思想と墓地・東アジアの隠宅風水」に参加したのだ。懇親会で大勢の文化人類学の研究者と親しくなる。このシンポをコーディネートした首都大学東京の渡邉欣雄教授や院生たちと、来週沖縄に行くのだ。隠宅とは墓のこと、墓のあり方が変わりつつある。時代が変化するのだ。

「風水」。人の生き方と自然環境を考察する風水研究。人に眼を向けず、マネーに犯された今の都市(中郵の存在を!)を、沖縄を歩きながら視点を変えて考えてみたい。

<写真 初冬の東京>

「晩秋の鎌倉Ⅱ」 カレーライスからウルトラセブンへ

2008-12-07 18:40:14 | 建築・風景

紅葉が真っ盛りなのに暦の上では初冬になった。時が移るのが早い。

小町通からちょっと入った路地に、僕のお気に入りの店「ミルクホール」がある。鎌倉好きには知られている店だが、mさんもMOROさんも行ったことがないという。しめたと思った。僕しか知らない。何だかうれしい。小町通の人混みを掻き分けて案内する。

古い町屋に手を入れ、小さな骨董店を併設した小さな店。ミルクホールというネーミングがいい。ハヤシライスやカレーライスなどにコーヒーや紅茶にミルク。
席があった。僕とMOROさんはカレー。美味い。福神漬けもラッキョウもない。ないのにこんなに美味かったかと驚くほど美味い。
mさんは無言でもくもくとハヤシライスを味わっている。美味いだけでも案内した僕は自慢したいのに、木枠の窓から注ぐ光が穏やかだ。この光と影を味わう空間。建築だ。

僕が引っ張って行ったのは市役所の向かいにある武基雄の設計した「鎌倉商工会議所」。四角い箱を4本柱上のピンで持ち上げたシャープな建築。地階にある僕の好きなホールを覗かせてもらう。ここで近美のためのシンポジウムを2回やったのだ。
切れのある造形と共に、この小さなホールを観れば、建築家武基雄の建築感、真髄を読み取れると思うのだ。MOROさんは言葉を発しないが、彼に見せたかったのだ。

そしてかつて保存のために活動をした「御成小学校」。先生に率いられたサッカーの試合をやる二組の小学生チームがウォーミングアップをしている。校庭をぐるぐる走りながらの掛け声にぐっと来た。可愛いのだ。

ここから歩いちゃいましょう、というmさんに案内してもらったのが洋館・鎌倉文学館と吉屋信子邸。木造平屋の作家吉屋信子邸の枠や梁型が太い。
繊細なハッカケを駆使して日本の近代数奇屋を築いた吉田五十八の持つもう一面が見えてくる。大磯に建つ旧吉田茂邸や、上野の日本芸術院会館の骨太に通じる吉田五十八の美意識だ。

吉田五十八らしいのが、白く塗り幾何学的な形を張り合わせた天井の目地の銀箔貼りだ。でもなんとなく釈然としないまま歩き始めて、裏庭に面した書斎のモノトーン空間が心に残っていることに気がついた。
机の上の天井にフラットに設けられたトップライトから光が落ちる。書斎だから書物に埋まっていたことはなかったのだろうか。心に残ったイメージは虚空間だ。
しかし撮った写真を見るといささか人臭い。オヤと思い骨太は五十八の美意識だけではないかもしれないと考える。日本伝統対峙の五十八の回答なのかもしれない。僕の心が揺らぐ。

ぎゅうぎゅう詰めの江ノ電を江ノ島で降りて、タクシーに乗る。次はMOROさんだ。そしてカルチャーショックを受けることになった。

扉を開けガラス越しに右手の部屋を見たMOROさんの身体が固まった。いる、森次晃嗣が!ウルトラセブン、モロボシ・ダンだ。
といわれても僕にはピンと来ない。敵と戦い、学習院ピラミッド校舎が壊れ、次の回ではなんと壊したはずなのに建っていたというピラミッド校舎のエピソードしか知らない。そのウルトラセブンがいるのだ。

その森次さんのカフェ「JOLI CHAPEAU」でコーヒーを飲みながら僕は考える。少なからずショックを受けながら。

小学生だったMOROさんにはウルトラセブンがいた。そのウルトラセブンが、なんと三十数年間MOROさんの人生に居座っているのだ。
呆然としている彼の顔を観て唖然とし、なぜか笑うどころか考え込まされた。
MOROさんが云った。演じたモロボシ・ダンこと「森次晃嗣さんは、僕にとっては=ウルトラセブンなのだ」と。MOROさんは、ウルトラセブンに逢っているのだ。「西の空に、明の明星が輝く一つの光が、宇宙に飛んで行く」(MOROさんのブログから拝借)。
解る。だが!僕にはウルトラセブンがいないのだ。
ショックを覚え、ショックを覚えたことでショックを受けた。

純だ。もしかしたらそこに単が付くかもしれないが(失礼!かな?)MOROさんが繰り返し言う「正しい道を歩こう。列を乱すな」。札幌の建築家、上遠野徹さんが講演会で述べた`F・L・ライトに学んだ田上義也のコトバの意味がしみ込んで来る。
でも僕は相も変わらず考え込むのだ。

緊張のあまり強張った顔で森次さんと記念写真を撮っているMOROさんを見て、僕は思わず微笑んだものの困惑した。僕とも握手をしてくれたウルトラセブンの掌は暖かかった。
おや?この笑顔、観たことある!

<写真 旧吉屋信子邸書斎>

「晩秋の鎌倉Ⅰ」 手を振る「鎌倉近美」のピロティ・天井の影

2008-12-03 10:44:22 | 建築・風景

札幌から来たMOROさんや、大山の麓`伊勢原`から足を運んだMさん達と共に、久し振りに鎌倉に神奈川県立近代美術館を訪ねた。11月22日(土)の朝10時。快晴。
僕は展覧会ではなく、MOROさんを案内して坂倉準三の設計した傑作、この建築を観に来たのだ。ところが思いがけず、開催されていた展覧会日本画家「岡村桂三郎」の作品群に圧倒された。
屏風様に建てこまれた木の表面を焼いてその上に岩彩で描き、表面を線描に削ったりして象や龍、架空の鳥`迦楼羅(かるら)`を刻み込んだ作品の、その動物たちの眼が僕たちを射抜く。

胸の中がざわざわしながら2階の展示室を出て階段を下りた。予感はした。でもピロティの天井いっぱいの池の波紋の影をみて、思わず(声にはしなかったが)歓声をあげた。
晩秋の朝の光は低い。平家池に建つピロティを支える柱や、その基礎の石の影がスレートを張った天井にぶっとく映し出されている。

僕はこの美術館を訪れるたびに、この天井に映し出される影を楽しんだ。
季節や時間や、天候の具合によって全て様子が違う。しかしこの朝の異様ともいえる影の有様は初めてだ。基礎石だけでなくコンクリートの手すりまでもが映し出されている。息を呑んで見とれた。

ふと思いついて手を振ってみた。
僕の頭や身体や手が、大きく天井に映し出された。手の平や指が動いている。これは凄い。単なる池の波紋ではない。自然界から提供された作品だ。
異様な、黒いそして白に浅黒い黄色を混ぜたような岡村桂三郎の迫力に満ちた作品と、白に淡いグレーの揺らめく影との対比は、新たな緊張感を生み出して僕を興奮させた。

面白い一日が始まった。

そして夕方、カルチャーショックを受ける出来事に出会うことになった。

<岡村桂三郎展は11月24日に終了しました>