日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ぶらり歩きの京都(8) 古都の朝・イノダコーヒー本店の鸚鵡

2010-07-24 15:01:59 | 建築・風景

祇園祭。宵山そして鉾山巡行の17日も過ぎ、でもまだあの何処からともなく響いてくる鐘の音に古都はまだ満ちているのだろう。この`ぶらり歩き`も時期後れになっていささか居心地が悪いが、急いで幾つか書いておきたい。

閑期の朝8時なのに、席待ちのお客が3組いた。
イノダコーヒー本店の朝。喫煙席でもいいですか?と店の女性が聞いているが誰もうなずかない。ためらいなく入ってきて右手の大テーブルに据わるのは常連さん、まちの旦那衆だ。新聞を広げたり煙草を吸いながらボソボソと談笑している様も窺える。僕はこういうのを観るのがすきだ。信州松本の`まるも`のヴィバルディの弦楽が微かに鳴る一階の喫茶店を思い出した。同じ雰囲気。
旅をしているという実感を得るのが楽しい。

ガーデン席もあるが僕たちが案内されたのは、温室のようにガラスに覆われた通路に面した禁煙席、ミルクの入った珈琲「アラビアの真珠」がセットされた「京の朝食」。僕の卵はサニーサイドアップだ。卵はというと僕はサニーサイドアップなのだ。
美味しいね、と片付けに来た店のこ(娘)に言う。コーヒーは機械でいれるという。ディロンギ?と聞くと、いえイタリアの機械ですけど○○○と笑みを浮かべながら教えてくれた。うちに来る我が娘は僕のいれたコーヒーを飲まない。まずいから! 妻君の娘だ!はっきり言う。なるほどと得心し、妻君とヨドバシに行って散々悩んだ末ディロンギを買ったばかりなのだ。それがなかなか良い。とまあディロンギしか知らないので聞いたのだけど。

妻君と娘はここへ何回も来たことがあって、三条の支店では朝はやっていないんだよね、そして通路に鸚鵡(おうむ)がいるよという。見に行った。小さな3羽。きょとんとしている。可愛い。時間がゆっくり過ぎていくような気がした。

イノダコーヒー本店の朝食を食べるために、歩いていけるホテルを選んだのだそうだ。近代建築の宝庫三条通を歩く。内部を改修した中京郵便局や、辰野金吾のレンガ・ 京都府京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)を左手に観て、そして堺通りを右折してイノダコーヒーへ。三条通には僕の好きな武田五一の設計した旧毎日新聞社もあるのだ。

イノダコーヒー本店の佇まいは町屋。表からはうかがい知れないが、奥が深いのに驚く。庭もつくっていい店にした。創業は終戦直後の昭和21年。64年を経てこの店自体が京文化の一端を担っている。「アラビアの真珠」のパックを買い求めた。
こうやって2日目の僕たちの京都が始まった。ちょっと思わせぶり、大げさだなあ!

<写真 旧京都銀行と三条通清水九平衛の彫刻 イノダコーヒー本店と鸚鵡>

ぶらり歩きの京都(7) 御菓子司中村軒と京都伝統工芸館へ入ってみた

2010-07-17 19:18:26 | 建築・風景

桂離宮への往きは阪急京都線桂駅で降り、何の変哲もない街の中を15分ほど歩いた。帰りは京都駅行きのバスにする。
時間を見てバス停の向かい側、桂大橋の手前の中村軒に入る。娘がいいお店なんだよという。明治15年の創業した菓子司だ。僕のあんみつも美味いが、娘のカキ氷がなんともいい味わい。掻いた氷がざらざらしておらずすべすべの舌触り、こんなの初めて。これが京都の味か!

駅に近づき車窓から見上げる京都タワーが輝いているような気がした。上ったことがない。設計者山田守の研究者でこのタワーが大好きな大宮司さんの丸顔が頭に浮かんだ。明日昇ってみようか。

地下鉄烏丸御池で降りてホテルへ向う途中の「京都伝統工芸館」が開いている。覘いてみた。「伝統を、未来へ」がキャッチフレーズだ。陶芸や金属装飾などの京都伝統工芸大学校の卒業生で若手の作者が実演をしていた。作品を手に取らせてもらい話を聞いた。この世界で生き抜いていくのは大変だと溜息が出たが、彼らは自信があり皆明るく前向きだ。

皇太子殿下が此処を訪れた時の、僕と同じように問い掛けている写真があちこちに懸けてある。案内する京都の○○さんの殿下を支えこむような愛想笑いが気になった。写真は一枚でいい。京都の品格を損なう。
もう一つ建築家として述べておきたい。この建築の京都伝統工芸館の模型が誇らしげに展示されているが、建築家の名前や其の仕様も施工者名も書かれていない。是非記載検討をしていただきたい。

ホテルにチェックインして「れんこん屋」に向った。

6年目のブログ 人と建築「建築家の清廉 上遠野徹と北のモダニズム」

2010-07-14 14:28:01 | 建築・風景
夏が来て僕のブログも6年目を迎える。
自分の書いた文章を読み返してみて成る程`と思うこともあるが、`くどい`と情けなくなる一文もある。短く書くというのは難しいという当たり前のことが解った。
旅論を書いたこともある。僕の旅論だ。キーワードは「人」。由縁のある人と同行する喜びもあるが、一人旅もあった。出掛けるのは人がいるからだ。沖縄、新潟、札幌、京都、僕が小学生時代を過した天草。存続を願うレーモンドの設計した庁舎がある四国。そしてSeoul。縁あって青森・津軽。

人がいる限り好奇心が刺激され、それは際限がない。新潟、即座に沢山の人の笑顔とその人の声がよみがえる。札幌からターマスのいる小樽へ、そして函館へも。
`建築を見るために旅をする`ことが多いがそれだけでもない。亀甲墓、御獄やJAZZのライブハウス「寓話」が沖縄にはある。そのどれにも人が介在する。まして建築は人がつくり人が使うもの、人あっての建築だ。建築を見ることは人を見ているのだ。

建築家会館の本、第三巻「建築家の清廉 上遠野徹と北のモダニズム」(建築ジャーナル)が発刊された。故あって巻頭に一文を書かせていただいた。こだわるようだが人と建築である。
この本の紹介文を千葉の建築家`安達文宏`さんが書いてJIAの委員に紹介してくださった。ご本人の了解を得たので記載させていただく。

『上遠野氏を私は存じませんでしたが、建築と真摯に向き合い、出会う人々皆から愛され、慕われていた事が・・・建築は人であるという事が・・・
しみじみと心に伝わってきました。
地方で建築設計に携わるという事だけではなく、やはり一人の建築家としての生き様に共感するところがありましたし、人間上遠野徹の魅力が静かに湧き出てくるように思えました。』

5年間に渡って拙いエッセイを根気強くお読みくださって心より感謝申し上げます。
これからもぼちぼち書き続けていきますので、どうかよろしくお願いします。


ぶらり歩きの京都(6) 訪ねた桂離宮

2010-07-05 13:06:58 | 建築・風景

桂離宮が、八条宮初代智仁親王によって宮家の別荘として創建されてから三百数十年の年月が経った。
いま僕たちが眼にするのは、昭和51(1976)年から57年までの6年をかけて行った昭和の大修理から28年経った(その後1991年まで順次部分的な修繕が行われたようだが)離宮である。
新装なった直後の姿は、新建築1982年7月の臨時増刊号に、修繕の経緯や実測図、それに建築だけでなく、襖や、引き手などの金物まで捉えた見事な写真によって見てとることができる。
時折見開くたびに眼に飛び込んでくるのは、松琴亭一の間の床の間の壁と襖の白と青の大胆な大柄の市松模様だ。

木造モダニズムに取り組んだ日本の建築家は、意識するとしないにもかかわらず、常に桂離宮の存在が心のどこかに宿っているのだといわれる。
ドイツの建築家ブルーノ・タウトが1933年、ナチの支配から逃れるために来日し、其の翌日招請した建築家上野伊三郎等によって桂離宮に案内され、賛嘆・激賞されたことからこの建築と庭園の素晴らしさが広く建築界や社会に知られることになったことはよく知られているエピソードだ。
タウトは来日するまで桂離宮の存在を知らなかったが、翌日に桂に案内する建築家のいたことが凄い。ちなみに上野伊三郎の設計した高津邸(1934)が2008年度DOCOMOMO選定建築として選定されている。鉄筋コンクリート造2階建てのモダニズム建築だ。

ところで、木造でなくても、札幌の、H型の耐候性鋼(コルテン鋼)を露出させて少し地面から持ち上げたフラットルーフによって建てた建築家上遠野徹(カトノテツ)自邸を観る僕たちは、一瞬ミースのファンズワース邸を思い浮かべる。だがご子息克さんは「オヤジは桂だといっている」と述べる。
鎌倉の県立近代美術館本館について設計した坂倉準三は、日本の建築を意識したことはないというが、池の中にI型鋼の柱を露出させて建ててピロティをつくったこの美術館を見る僕たちが、桂を連想してしまう。

では桂のどの建築に触発されたのだとなのだといわれるとちょっと困るが、高床式の書院群や、松琴亭の市松模様、あるいは月波楼の膳組という板間や畳などで囲まれた表に開放されている土間など、桂の自然と建築の関わり方が、日本人である僕たちの身についているからなのだと今回の見学で改めて感じた。

さて「ぶらり歩きの京都」は、宮内庁に申し込んだ「桂離宮」見学の日程によってスケジュールをきめた。
桂川沿いの一名`桂垣`といわれる笹垣を廻り、竹を組んだ穂垣に変わった添い道、表門の前を通り抜けて通用門に向う。僕は大磯の隣町二ノ宮に建っている吉田五十八邸の背の高い竹垣を思い出していた。

案内をしてくれる宮内庁の職員(だと思う)のユーモラスな(手馴れた)語り口に、時折参観者から笑い声が起こる。公開するのは困るが撮影もOK、室内に入れないが角度を変えて覗き込めることによって重なり合う奥深い日本建築の真髄を見て取れる。
僕は`笑意軒`の竹による樋の大胆な納まり(ディテール)に見入ったが、何度か訪れたことのある妻君は、桂川の水をひいてつくった池、庭園や建築群を一望できる峠の茶屋の趣向ともいえる小高い一角に建つ`賞花亭`に畳が敷いてあるのに驚いている。ふと気がついたのだ。雨が降りちょっとでも風があったら畳がびしょぬれになる。

松琴亭の市松模様の青が退色していて案内人が苦笑しながら解説している。つくりなおして20数年経ったのでと。
この市松模様は、創設者智仁親王の創意と考えられているそうだ。三百数十年前の宮家の建築文化が、現在(いま)と一体となっているのだ。

<写真 表門と穂垣>