日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

DOCOMOMO Japan総会での、ソウル市庁舎と旧ソウル駅舎

2009-04-29 23:26:22 | 建築・風景

もう一月も経った「韓国近代建築ツアー」の余韻が消えないまま、DOCOMOMO Japanの総会に臨んだ。4月18日(土)の午後1時、会場は六本木国際文化会館2階の講堂。
ゲストにDOCOMOMO Koreaの副会長、安昌模(アン・チャンモ)Kyonggi大学教授を招いた。東大生産技術研究所の准教授村松伸さんの研究室に客員研究員として、月のほぼ半数ずつ日韓を往復して研究に勤しんでいる近代建築史の研究者である。
僕が渡邉研司東海大准教授(現)と共に招かれた2004年に行われたDOCOMOMO Koreaの設立総会で、司会を担った方だ。
Japanの総会を行った後、「都市(ソウル/東京)と近代建築」というテーマでミニシンポジウムを行うことにした。

その2週間ほど前、シンポの打ち合わせの為に通訳をしてくれる工学院大学でドクターをとった洪(ホン)さんと共に、僕の事務所に来所いただいた。総会の進行役をやる渡邉さんも同席したこの打ち合わせで、興味深い現状を聞いた。ソウル市庁舎問題である。

新庁舎建設計画がなされたときには、この庁舎を保存して背後に高層庁舎を建てると伝えられていたが、現在はこの庁舎の要の太平ホールが解体され、塔が残されたものの、道路面外壁が鉄骨に支えられて薄皮状に建っている。
安教授によると、この計画ではコンペがなされたが、当選案に対する文化財審議によって、道路に対面する国家史跡「徳壽宮」に対する景観(高層化が景観を壊す)が問題視されて採択されず、再指名設計コンペが行われたのだという。
僕の興味を惹いたのはその時点では、日本人の設計した市庁舎の植民地時代の負の遺産問題が、大きく取りざたされなかったということである。

朝鮮総督府は、論議を巻き起こしながら1995年に解体されたが、それから14年、戦後六十数年を経てやはり時代が移り変わり、世代交代が行われつつあることかもしれないとも思った。北村(ブクチョン)や、仁寺洞(インサドン)にある伝統茶院と名付けられた様々なお茶を楽しめる茶房も、日本人が韓国の伝統様式でつくった建築(群)だが、大切に使われ続けている。
しかし、景福宮(キョンボックン)の前面を塞いでいた朝鮮総督府問題とそれらを同列に考えてはいけないのだとどこからささやく声も聞こえてきて、複雑な気持ちにもなる。

総会の後のミニシンポジウムでも安教授がソウル市庁舎問題を取り上げ、朝鮮総督、市庁舎、それにソウル駅という、ソウルの軸線上に統治を象徴する建築を配した計画を示し、しかし市庁舎の解体は日本人(岩井長三郎)の設計した建築に対する思惑ではなく、コンペに当選した建築家の計画によったものだと力説されたのが印象的だった。

ツアーのとき、解体現場で僕たちを案内してくださったDOCOMOMO Koreaの代表YOON教授から、文化財庁が重要文化財仮指定したが前面を残して解体されたと無念の思いを吐露されたことと併せて考えると、韓国の歴史学者の僕たちへの配慮も感じ取れてぐっと来る。思い過ごしかもしれないのだが!

安教授のシンポでの発表で、好奇心を刺激されたことが2点ある。
一つは市庁舎当選案が、残した旧庁舎の外壁の背後に、高さは抑えたものの、楕円を駆使し、ガラスを多用した超現代的?な形態だったことだ。
僕はパネリストとしてこれが建っていいのか?と思わず口に出したが、景観を壊すことになるのか、ソウルという歴史を内在した大都市に、生き生きとした新しい都市景観を生み出すことになるのか興味は尽きない。

もう一つは、「この駅舎をユーラシアに向けての出発点にしたい」と述べた安先生の思いを取り上げたパネリストの鈴木博之教授が僕達をうならせた、塚本靖が設計したソウル駅についての論考に共感し、僕も複雑な問題を内在する北朝鮮を越えたアジア大陸への民族を超えた想いにジーンとなったことだ。
ツアーで行った「統一展望台」で、映像による日本語の解説で、淡々と述べられたことによって胸に響いてきた統一への思いに言葉も出なかったことを思い出した。

それと同時に使われなくなったソウル駅は、解体論議もあったし、小さな建築なので増改築も取りざたされたが、素晴らしい空間を持つこの駅舎は、ソウル市民にとってはかけがえのない建築だとの考えに集約し、この建築をそのまま残し、建築空間を生かした使い方を検討していくことになったとの報告だ。
素晴らしい建築は、国境や民族や時代、それに建築様式を超えて愛されるのだと、込み上げてくるものがあった。

ふと「愛される建築は残る」という言葉を思い起こした。同時に可愛らしい「東京女子大旧体育館」や、解体が進んでいる「東京中央郵便局」の姿がよぎる。

総会は、渡邉研司さんの総合司会によって、事務局長藤岡洋保東工大大学院教授によるDOCOMOMO Japanも来年度には設立10年を迎えるのだという感慨深い開会宣言で始まった。僕が議長を担い、鈴木博之代表による昨年度の活動報告、桐原さんによる会計報告、それに今年度の活動計画を僕が述べた。
総会の後、桐原さんが写真構成したPP「韓国近代建築ツアー」が、彼の軽妙な口調に思わず笑い声の起こるなかで映し出された。ソウル。学ぶものが多い国際都市だ。
新年度が始まった。

<写真 下・安教授のppよりソウル市庁舎コンぺ案、上・旧ソウル駅撮影・兼松>


泣きの銀次 宇江佐真理の視線

2009-04-24 21:14:31 | 日々・音楽・BOOK

「続」を先に読んでしまった。図書館から借りてきて読み終わった妻君がぽいと僕の目の前において、続きだよという。
「泣きの銀次」? 読んだ記憶がない。数週間前のことだ。
続きを先に読んでも大丈夫かなあというと、独立した書き方なのでいいと思うけど、`泣きの銀次`を読んでないはずはない、物忘れが酷くなったなあ! とぶつぶつ言っている。

「続・泣きの銀次」。読み始めてぐっと込み上げてくるものがあった。物忘れも酷くなり、涙もろくもなったと実感するが、`泣きの銀次`はやはり読んでいない。
「続」では、小間物やを営む大店の主でありながら、岡っ引きに復帰した銀次をとりまく市井を描くどのページからも、ふつふつと湧き上がってくる情感、言い換えると生きていく『人』への作者「宇江佐真理」の慈しむような視線に、僕の心が共鳴して黙っていられなくなった。
共感しながら、僕が読みこなした数ある宇江佐真理(うえざまり)の作品群の中での代表作ではないかと思った。

そして「ほら!」とつい先ごろ手渡された講談社から1997年に発刊された「泣きの銀次」。妻君が図書館を探してくれたのだ。
大勢の人に読みまわされ少々くたびれたいかにも大衆小説を思わせる百鬼丸の装画と丸尾靖子による装幀は、しかしどこかに僕の想いと同じくこの作品に共感した想いに満ちていて品がいい。市井の中で、凛と生きている人々への共感だ。

さて渡されたこの「泣き」の銀次。一気に読んだ。
この細面で小柄とはいえ敏捷で男前の若者は、小伝馬町小間物やの大店坂本屋の長男。「細見(吉原細見)と首っ引きで、やれ玉屋の花魁の誰それ、やれ扇屋の新造の誰それと鼻の下を伸ばし、いっぱしの通人を気取っていた。」
そして友達が皆そうだったからそれが特別なこととは思わなかった、と宇江佐は書く。今の時代もそうではないのかとつい思わせられるところがこの作者に惹かれるところだ。

銀次が変わったのは妹の`菊`がむごい殺され方をされたことだ。「死体を前に身も世もなく泣きじゃくった」。それが後に、死体を見て泣く銀次を見るために好奇心に満ちた(野次馬の)大勢の町人が取り囲む、いわばスター岡っ引「泣きの銀次」のスタートになった。

銀次は妹を殺した下手人を取りつかまえて殺してやるとわめく。そのときの同心が勘兵衛。銀次が言う。
「はばかりながら、こっちには剣術(やっとう)の心得があるんでね、どんな悪党が下手人だろうと恐くはねえのよ」。
しかし、神道無念流の達人勘兵衛の強さは銀次の強さをはるかに超えるものだった。道場で、髪はザンバラになり、眼だけを爛々とぎらつけさせながら勘兵衛に挑む銀次を「容赦なく打ち込みながら、勘兵衛はある種の感動にうたれていた」と二人の男と男の出会いが描き出される。

物語が進むうちに坂本屋の女中、お芳の存在が大きくなり、読み終わってみると予定調和的に、つまりハッピーエンド的にこの小説が構成されていることに気がつく。殺された妹の無念を晴らしたものの、ずしりと重いハッピーエンド。だからこそ心にしみこんでくるのだ。心打つエンターテイーメントってそうなのだ。
泣きの銀次とお芳、勘兵衛、登場人物の全てが僕の目の前で息づいている。嫌味な女でさえも。
ちょっと褒めすぎで、そしてちょっと軽薄だと思うものの、心がうごかさせられるということはこんなものだ。紆余曲折があって銀次とお芳は一緒になる。

「お芳は泣いていた。父親の葬儀にも涙を見せなかった女が泣いていたのだ。
さめざめと嬉し涙にくれるお芳を、銀次ははじめて見た様な気がした。
銀次は感動したが`照れ臭さに`泣き顔の似合わねエ女とうのも、この世にいるんだな`と言って、また知念(二人を取り持つことになったお坊さん)を笑わせていた・・・
世の中なんて・・一寸先は闇じゃあねエか・・肝心なのは今だと銀次は思う。・・銀次とお芳の足元にどこから吹いて来たのか、桜の白い花びらがひとつ、ふたつと落ちてきた」

と書いてきて、ストーリイを書かないので読者は一体何をいっているのか判らないだろうと思ったが、まあいいや。しかしやはり続きは後に読んだ方がいい。
数年後を舞台にした続き。大店の主に納まって少し歳とった銀次がなぜ岡っ引に復帰したのか、物忘れをする僕はもう一度「続」を読み返してみたくなる。

その「続 泣きの銀次」は、淡々と事件が描かれているだけに、更に完成度が高い、としつこく言ってみたくなったのだ。

花便り:愛されているレーモンドのつくった「東京女子大・旧体育館」

2009-04-17 12:18:58 | 建築・風景

桜が散り八重が咲いた。八重桜も桜だが、はらはらと散る花びらがあるのが桜だという気がする。まあそれはともかく欅の新芽が芽吹き、黒かった幹も心なしか明るくなったような気もする。春本番だ。

一週間経ってしまったが、胸がキュッとなるような花便りが来た。こういう書き出しだ。
「ベランダに花を活けて大学を出たのが6時半、満月に近い月がチャペルのうえにでていました」。
メールを読みながら何度も訪れたことのある旧体育館を思い描く。送ってくれたのは東女(トンジョ)のOG。
旧体育館のベランダや、暖炉のある談話室で毎年行われる「桜の花を上から見よう」という学生主催の催しの前日、4月7日のこと。学生が手伝ってくれて「よき後継者が育ちそうで喜んでいます。そして『これからもずっと、花を活けられますように、この水鉢がなくなりませんように』と祈りながら活けました」。

翌4月8日。主催する女子大生による「東京女子大学の建物に関する研究会有志」のつくったチラシには、桜の花と小鳥が、ピンクと鶯色で描かれていて可愛い、と書いてある。学生たちはそのチラシを学内で配って、お昼休みには、大勢の学生が見に来て、ベランダから見える桜を背景に、花を浮かべた水鉢のまわりで盛んに写真を撮っていたそうだ。
彼女が行った2時頃も、談話室で旧体育館で撮影されたEXILのDVDを見ながら、お茶やお菓子で談笑している学生たちがくつろいでいた。「ベランダには切れ目なく人だかりがあり、旧体の前の桜は満開です」。

レーモンドが設計したこの旧体育館は、日本で初めて女子大生の体育授業が行われた日本の女子教育の軌跡を考える上でも欠かせない建築だが、なによりその姿が魅力的だ。
送られたメールを読むと、OGとしての後輩を思う気持ちに溢れていて心が動くが、建てられてから、八十数年経つこの建築が、いまの女子学生にもとてもよく似合うのだと思った。
花を活けた水鉢には、帝国ホテルをつくるために日本を訪れたフランク・ロイド・ライトに就いてきたレーモンドの、まだライトの影響が残っている姿が垣間見えて微笑ましくなる。本当にこの建築は可愛らしいのだ。

去る3月14日(土)、この体育館で学内の教授連が主催したシンポジウムが行われた。僕はDOCOMOMOメンバー26名で韓国近代建築ツアーに出かけていて参加できなかったが、200名を越える人が集まり、改めてこの建築の魅力とかけがえのない価値が確認されたようだ。
送ってもらったこのシンポジウムの記録を読むと、一人一人のコトバが臨場感に満ちていて、それはとりもなおさずこの建築の素晴らしさの虜になってしまった人々の想いなのだと納得できる。

大学の理事会では、この旧体育館を取り壊して広場にするとのことだが、僕に来たメールにこもったOGの次の一言を汲み取って欲しいものだ。

「旧体が今、学内にいる教授や学生たちに愛され始められたことを見ると『愛されている建築は残る』という言葉を思い出し、希望が仄かに見えてきたような気がしました。
フロアではダンス部が練習していました」とある。

<写真 ベランダの水鉢:ここに花が活けられたのだ>

春の一日、写真家飯田鉄の「古いひかり」

2009-04-12 12:05:48 | 建築・風景

北側斜線というのが困るのだ。建築家なら誰でも知っていて当たり前だと思っている法律。北側の隣家の日照のために、高さ制限があって2階を引っ込めるとか屋根に勾配を取るなど工夫しなくてはいけない。「下屋(げや)BOX NO.3」と名つけようと思っているH邸。
四角い箱の一階部分の一部に勾配屋根をつける。洋と和、とまでは言わないが、都市の中の住宅の姿の僕の回答の一つなのだ。

H邸。その角度や高さをきめるのに悩んだ。他の図面を描きながら、何日もふとこれだと思うとスケッチする。5センチが気になる。五十分の一の模型では5センチだと1ミリ、うーん、判らない。2Bの鉛筆で描いた二十分の一の矩計図(かなばかりず)のスケッチの線を描いては消して消しゴムと手のひらが黒くなる。
まあこれでいいか!とふと目を上げて時計を見た。いけねえ、行かなくちゃあ。

「古いひかり・上野の記憶」という気になるタイトル、飯田鉄さんの写真展の最終日なのだ。昨日電話をもらった。そうだった、でも葉書がきてないよというと飯田さんが絶句した。おかしい、葉書が届かないのが僕で3人目だという。オープニングのセレモニーに行くつもりだったがうっかりした。
ちょっと行ってくるよ、と事務所にいる妻君に声を掛けた。飯田さんじゃあ戻るのが遅くなるね!とニヤリと返された。いやね、3時で撤収だからとモゴモゴと答えて新宿御苑前の「シリウス」にむかった。

地下鉄に乗るために新宿公園を通り抜ける。この好天気で満開の桜が飛び散っていて僕にも降りかかり、通路が淡いピンク色だ。1時だというのにゴザを曳いて場所取りをしている若者がいる。屋台が出ている。
一週間前の上野公園を思い出した。東京中央郵便局を国会議員連と見学した後、南教授と上野でも歩いて一杯やろうと出かけた公園は、咲き始めた木々の中に七分咲きもあって宴会が始まっている。
十数年も前になるけど、仲のいい建築家に声を掛けて事務所の連中に場所取りをさせてやった花見、二十名近い友人たちで賑やかに騒いだが寒かった。風が冷たいのだ。咲き始めに競うのがかっこいい花見。花見は寒い。でも今日は暖かい。

そうだ、あるかもしれないと思ってBOOK1st.に寄った。丹下事務所が設計した話題のモード学園のビルに出店した大きな本屋だ。洲之内徹の、芸術新潮に連載された「気まぐれ美術館」を収録した僕の蔵書に欠けているシリーズが欲しいのだ。
今読み始めたのは15年前に買った「さらば気まぐれ美術館」。最後の一編は絶筆となった昭和61年11月号に掲載された「一之江・申幸園」で、その前の一節が「夏も逝く」。それを読むのが辛い。

洲之内さんが亡くなったのは昭和62年の10月28日。74歳だった。そう思って読み進めると、死を予感させる文言が時折織り込まれているのに気がつく。全てを読みつくしてこの二編は最後にしたいのだ。でもなかった。20年前に出版された本だから仕方がない。
その代わり、一昨年(2007年)に発行された`とんぼの本`「洲之内徹 絵のある一生」を見つけた。大倉宏の名前がある。そうだ、新潟の美術評論家、砂丘館の館長大倉さんのこだわっている画家『佐藤哲三』の絵には、洲之内徹もこだわったのだ。
大倉さんと「佐藤哲三」を語ったことはあるのに、洲之内さんの名前が出なかったのはなぜだろうかと考える。大倉さんは洲之内徹が倒れたときに傍にいたのに。

印画紙はバライタのレンブラントを使ったというモノクロの微妙なトーンに言葉が出なかった。銀塩写真の懐の深さ、これがあるのでカメラを向けた
飯田さんに「どうだろうか?」と問われて、このトーンがねえ!葉っぱが、と呟いたらこれでしょと写真の前に連れて行かれた。
そうなのだ、半逆光のかえでの葉の一枚一枚の黒い粒子が光を透して浮かび上がっている。それに「動物公園駅」の天井のトーン。この駅が使われていたのだ。そして何より「旅館・早朝から入浴できます」とかかれた看板。この写真の階調にも魅かれるが、上野の一角に商人宿があったのだ。飯田さんがこだわって20代から撮り続けた上野の「古いひかり?」。

「あんた、若いときから視る眼が大人だねえ!」といわれたという。
`いやね`と僕は飯田さんに言う。写真のセレクトとプリントが今の飯田さんの歳なのよ!ちなみに使ったカメラは、6×7の「プラウベル・マキナ」だそうだ。なるほど!

紀伊国屋書店にも寄ってみた。やはり洲之内はいない。

腰から下、ことに足が重くなり、歩くのが辛い。疲れていることに気がついた。なぜか息があがる。言ってみれば何故だかわからないけど疲労困憊。風邪も抜けない。「あなた、仕事だと疲れるのよね!」と揶揄する妻君の顔がちらつく。DOCOMOMOやJIA、韓国近代建築ツアー?中郵重文の会。うーん、まあそうだが、まあね、「仕事」だからこそ疲れるのだ。といってみたい。
これは駄目かもしれない、家へ帰ろうかと一瞬考えたが今日中に矩計図をまとめて「下屋(げや)BOX NO.3」の工事を依頼する建築会社に送りたい。
事務所にたどり着いてトレぺ(トレーシングペーパー)の矩計図に向かい合った。

妻君に言われた。凄かったよ。ゴーゴーと鼾をかいているんだもん!居眠りをしたのだ。一時間。
描き出したらイメージが確定した。僕の伝えたいディテール(詳細収まり)をフリーで記入した。妻君がA2をコピーして四つ折りにしてA4の封筒に入れて切手を貼った。帰りの駅に行く途中、新宿の中央郵便局で速達ポストに投函した。夜の10時半。
僕の春の一日が終わった。

<写真 水路と桜の花びら>



国会議員による解体中の東京中央郵便局視察

2009-04-05 11:45:16 | 東京中央郵便局など(保存)

3月31日pm4:00より、超党派国会議員(将来世代のために東京中央郵便局を重要文化財する会・略称)による東京中央郵便局の現場視察が行われた。この視察に僕は、南一誠芝浦工大教授、小林良雄氏(新日本建築技術者集団)、それに数社のプレス関係者と共に参加した。
参加した国会議員は、事務局を担う平沢勝栄、河村たかし、それに松木謙公、石関貴史、佐々木憲昭各氏である。名古屋市長選に出馬する河村たかし氏にとっては、国会議員としての最後の視察になった。

線路寄りの東側ゲートから入った。ほこりを抑えるためにホースで散水しながら、7機の重機によって解体作業が行われており、西側中庭の前面ほぼ6スパンが取り壊されている。室内にあった鉄骨鉄筋コンクリート造の8角形の柱や梁の解体部分の鉄骨や鉄筋がむき出しになって見える。

どんな建築であっても解体の現場は無残なものだ。外部から覗き込んではあせって連絡をくれるこの建築に想いを持つ人に、僕は見ないほうがいいよ、と言ってきた。つくる大勢の人、建築主(企業体、クライアント!)、企画者、技術者、職人、そして建築家がいる。僕はこの中郵の解体現場を見て物言う気はしないが、それでもつくる喜びを共有できないこのプロジェクトとはナンなんだろうかと憮然とした思いに駆られる。

国会議員がこの見学会に対応する日本郵政のCOE斎藤隆司次長に、公表された保存部分の増えた案は、登録文化財として文化庁との合意はできたのかと質問した。合意できていますとうなずいた斎藤氏に僕は、新たに保存することになった線路側の2スパン部分を「曳きや」するんですよね、と確認した。

50億円と言う巨費をついやすると報道されたこのやり方は、その是非を含めて広く社会に伝えられているとは思えない。取り囲んでいるプレス関係者に聞こえるように確認したのだ。
免震装置を入れるために一旦切り離して曳きやして元に戻す。しかし免震装置設置の為に末端部分を1メートルほど敷地内に入れるので角度が変わり、しかもエキスパンションジョイントで繋ぐことになる。これで登録文化財! 重文になる価値を持つ建築を継承したというのが郵政の論理だ。当初のレプリカと同じ発想だ。

「免震」。免罪符のように検討されるようになったこの技術は万全なのか?免震の検討からスタートし、耐震実施をした六本木国際文化会館の事例もある。`耐震補強では難しいのでしょうかね`と斎藤次長に聞いたが、構造の専門家ではないので詳細説明ができないが、そのように聞いていると困った顔をされた。
現状を踏まえて南教授が策定して国会議員に検討依頼した高層化以外の部分の保存改修提案を、国会議員から斎藤次長に手渡し、検討・再考の要請が行われた。
この一年、いや僕がJIAの保存問題委員会の委員長の時から考えるとほぼ10年、中郵の保存活動に関わって学んだことが沢山ある。

その一つ、僕の論理はこうだ。
「重要文化財」の価値ある建築が部分保存では、仮に登録文化財であってもこの建築の価値を残したとは言えず、奇妙な形態になるこの有様は建築の正しい姿とも言えない。少しでも多く残した方がいいに決まっている。だが僕は建築で構成される都市の景観を考える。

丸の内を書いた読売新聞の記者と話をした。丸の内を歩いて改めて観ると変ですよね。残した幾つかの建築の姿は、外国人に冗談でしょ!といわれてしまう風景なのだ。残す部分が少ないとか多いとかの問題ではないのだ。これも試行錯誤しながら再開発がなされてきた丸の内を見てきて学んだことなのだ。
更に重要なのは、この庁舎が様式建築ではなく『モダニズム建築』であることだ。現在(いま)の都市が、「モダニズム建築」とその源流による建築で構成されており、その存在と存続の要の建築がなくなることは、僕たち建築家の起つ位置がなくなることなのだ。

この僕の言う論理は、建築と都市を考える時の命題だ。だが、JIAでも重文の会でも異論がでる。