日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

まち(都市)を語る・都市のたくらみを! 明日から四国へ・・

2015-06-28 13:41:00 | 写真

写真家中川道夫さんのトークのタイトル「都市はメディアである」は、中川さんの師・中平卓馬と共にPROVOKE(挑発という意)という同人を考案した多木浩二がよく使ったコトバである。
メディアを単純に「媒体」と訳すと、何と何との媒体なのかとふと問いかけたくなる。そして中川さんが構想したサブタイトル「写真家は建築家と都市のたくらみを目撃してきた」という、僕たち建築家への挑発的な文言、そこに長年海外の都市に入り込んで写真を撮ってきた中川さんの思い`たくらみ`を感じた。
しかし、僕のこの論旨は少し違っていたようだ。
「都市」を伝えたい。つまり「都市とは何か」を、アレクサンドリアや上海などなどの各地の様を伝えながら、会場に詰め掛けた人に、問いかけたい!ということのようだ。

僕は数年前に同じテーマでの中川さんのトークを聞いているので、やはりそうなのかと中川さんの問題意識が腑に落ちた。
上記の写真(1986年6月撮影)は、アレクサンドリアのサラ・サレム通り「馬車の蹄の音がし、ヨーロッパの街角にいるのかと錯覚した」と写真集[アレクサンドリアの風」に記載されている一枚である。進行役の僕は最前列の左に腰掛けていたので、歪んだこんな写真になった。中川さんには申し訳ないが、これもまた都市の何かを現しているようでなかなかである。

会場にはJIAの建築家と共に沢山の方々が来場されて40人ほどにもなり、昨年お話いただいた写真家飯田鉄さんからも、興味深い中川さんへのメッセージが述べられた。翌日、数名の知人から各地の都市の様に魅入られたとのメールを戴いた。同時に僕が中川さんに問いかけた、放映のためにスライドにしたその仕組みとか、使ったカメラやフイルムやデジタルに関する問いかけはチンプンカンプンだったけど、都市の様に好奇心が刺激されたと注釈をつけて送って下さった方もいた。なるほど、そうだろうなあ!とも思う。

僕が感じたのは、何よりも中川さんの「写真の力」だった。でも`文章の人でもある`ね!との僕の問いかけに、写真にしか興味が無いという一言、ハタと考え込んでしまった。
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ところで僕は明日から、2泊3日で四国行き、香川県丸亀の建築家にヒヤリングして、愛媛県の鬼北町に出向き、A・レーモンドの設計した庁舎の保存改修の委員会に出席してくる。


「都市はメディアである」:写真家中川道夫のトーク

2015-06-14 17:17:41 | 写真

写真家中川道夫さんを招いて「写真家は建築家と都市のたくらみを目撃してきた」という刺激的な副題のある「都市はメディアである」と題した写真を拝見してお話戴き、そのあと来場した方々と共に写真談義を行うことになった。
今年のJIA(日本建築家協会)建築家写真倶楽部のアーキテクツガーデンでの一齣である。6月19日(金曜日)の6時半から、会場はJIA建築家倶楽部です。この僕のブログを読んで下さった方々、是非お出かけ下さい。

僕は創設期からこの部会を率いてきたが、一回り若い中川道夫さんと同年代の建築家藤本幸充さんが僕の後を引き継いでくれることに成った。このトークはその彼の第1回目、とは言え中川さんとのやり取りは僕が行うことになった。
藤本さんが中川さんと打ち合わせをして構築したこのチラシの魅力的な写真は、中川さんの著作「上海紀聞」の表紙に使った『時』を感じさせる写真である。

ところで中川さんの「上海」を捉えたもう一編の著作「上海1979-2009双世紀」について、かつてこのブログに記載した一編を記載(再録)させていただく。
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「上海1979-2009双世紀」 <2010年4月7日 兼松ブログ>

写真家中川道夫さんが、写真集「上海1979-2009双世紀」(岩波書店)を出版した。1969年高校生だった中川さんが訪れた上海は、路上には革命歌が流れ,紅衛兵が闊歩しているなど文革の余波が蠢いていて大きな刺激を受けたが、外灘(バンド)に林立する西洋様式の建築の姿が脳裏に刻み込まれたという。

個人旅行が許されるようになった1980年代に待ちかねて訪れた上海は、造反の熱気は消えて改革の時代になっていたが、以降中川さんは普段着のまちと市井の人を撮ろうと30年間に渡って市中を徘徊して写真を撮り続けたのだ。
この写真集は、国際都市上海の歴史を浮かびあがらせるだけではなく、そこで生活する人々の姿を捉えていることによって、僕の心を震わせる。

僕が上海に行ったのは90年代になっていた。
今のように開発がなされておらず、中川さんの80年代に撮った写真を見ると其の時の風景が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

僕も写真を撮った。

カメラを向けた租界の町並みや、道路に面して布団や洗濯物を干す様や、朽ち果てそうな建物の入り口にたたずんだり、道端に数人で腰を下ろして路行く人を眺めている様や、掛け声が飛び交う路上、自転車に乗って仕事に向かう姿を中川さんも捉えているが、其の情景が人が生きている証のように思え、フィルムだけではなく目にもこびりついていて、「生きること」、それでいいのではないか(これで何が悪いのか)と感じたことを思いだした。
それが20年経ってもまだ僕の中に巣食っていることに驚いている。 

僕はこの一度しか上海に行く機会がなかったが、開発が進み、超高層建築が林立するさまも写し撮られており、其の写真も取り込んで構成された写真集のページをめくると、租界とは何だったのか、超高層建築群は人に何を与えているのかなどなどとつい考え込んでしまう。

「長崎市公会堂」と「沖縄の不都合な真実」

2015-06-07 23:00:02 | 建築・風景

奇しくも、DOCOMOMO Japanの会報と、新建築技術者集団(新建)の機関誌に連載している「建築保存物語」の第25稿に、この3月31日に閉館した「長崎市公会堂」の保存問題について記載した。テーマも文字数もほぼ一緒なので文面が重なり合うことになって困惑したが、建築の保存問題の一側面を改めて感じ取ることにもなった。

このことは、建築の保存問題を考えるときの命題とも言えることなので、何れどこかに場をもらって書き綴りたいが、述べたいのは、時が経つとその地の変遷が捉えにくくなるという実態である。移り行くまち、村落の様の経緯が見えなくなる。つまりその地の人は、良し悪しは別として、培ってきたその建築を取り巻く過去の経緯(状況)を想い起こすことがなかなか出来なくて、現状でしか判断しにくくなるということだ。

長崎市公会堂は、長崎生まれの武基雄早稲田大学教授(後に名誉教授)が53年前の1962年に建てた建築、今の長崎の人はまちの現状でしかこの建築の存在を判断し難くなるということだ。市長をはじめとする地元の行政サイドの方々にも、其れを踏まえて建築の存在に眼を向けてもらいたい。
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ところで僕がここに書き留めておきたいことをメモ書きしておく。
「長崎市公会堂」の保存の問題をDOCOMOMOの会報に寄稿したら、事務局から原稿料として(小額であっても)図書カードが送られてきた。さて!と思って書店に立ち寄って手に入れたのは「沖縄の不都合な真実」と題する新潮新書である。

この新書は今年の1月20日に発行されたが既に6刷となっていて、パラパラページをめくってみると、現在の普天間、辺野古などの課題が読み取れるようで、一読してみようかと思ったものだ。

さて余話。
書店のレジで担当する女性とお互い笑顔でこんなやり取りをした。
「図書カードだと、どうしても欲しいと思っていなかった本でも気軽に手に入れられるので嬉しいね!」。
でも読み始めてみると、まだ断言は出来ないが、新聞やテレビの報道では読み取れなかった沖縄の様々な課題が、政界、財界の思惑や地元の住民の様々な立場の状況も含めて、スクエヤに捉えられている様で、興味津々だ。著者は、大久保潤(日本経済新聞社元沖縄支局長・現新潟支局長)と篠原章(成城大学経済学博士・評論家)のお二人である。


初夏の候・地震列島の一齣・錦織敗退

2015-06-03 11:23:04 | 添景・点々

晴天だった昨日、この一文を取りまとめたが、出かける用事ができてUPできなかった。そして一夜明けたら(3時間半寝て)雨である。梅雨の始まりになるのだろうか!全仏オープンで錦織が敗退、深夜の3時過ぎまでTVを見ていて溜息が出たが、寝不足のままいつものように事務所に出てきてこの一文を書き加えている。明日は早朝から東海大学病院に出かけて人間ドック。どうも体調万全ではないのでその様子がわかるかもしれない。
事務所の僕のPCが壊れて、自宅から持ってきたノートパソコンで作業をはじめたが、FIFAの会長辞任の報が流れていてさもありなん、奇態な世の中になった。では昨日起稿した一文を!
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風薫るとか惜春のとか、なんと`老春の`とも言われる5月が過ぎ去り6月に入った。深緑、初夏の候、晴天だが蒸暑い。
過ぎ去った5月―30日(土)―-の夜8時過ぎ、小笠原諸島沖を震源とする地震があった。自宅でTVをちらちらと見ながら原稿を書いていたが、長く続いた大きな揺れに思わず立ち上がった。
一瞬、4年前の3、11を思い出したが、その時は事務所の本棚からファイルや本が落ちたりしたものの、今回は壁にかけてある版画などが傾いた程度、それでも妻君に東京に住む娘に「大丈夫か?」と電話をさせた。しばらくして携帯電話に新潟の知人から「地震大丈夫ですか?ご家族の皆さんご無事で?」とのメールがきた。

妻君は僕の部屋のベッドを取り巻く本棚から寝ているときに本が落ちてくるのではないか、何とかその対策をしたほうがいいよと、今回もまた心配そうに述べる。ハードカバーの本やスピーカーも収めてあって、そうなんだけどね!といつものようにどうしたものかと思うものの、旨い対策が思い浮かばず、いつの間にか忘れていつもそのままだ!

さて1昨日、宮城県雄勝の3.11を記録したTVにチャンネルをあわせ、録画のスイッチを入れたものの画面から眼が離せなくなり、またまた様々なことに思いを馳せたりしたものだ。4月の中旬に訪れた、女川、石巻の様子が思い浮かんだ。

初夏の一断面、考えることがありすぎる。

<写真:朝の通い道/2014年12月21の項で掲載した写真の再録>