日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

フリードリヒ・ニーチェの愉しい学問

2017-01-30 14:23:27 | 文化考

東北大学の森 一郎教授(哲学)が送って下さった「愉しい学問」と題したニーチェの著作を読み始めた。
まず何よりも森先生の送り状に魅せられる。こう終わる。・・・私としては、ぼそぼそと夢に描いてきた「世界への愛 amor mundi」の成就を目指そうと、懲りずに自分に言い聞かせています。まだ私は生きている。まだ私は考える。とぶつぶつ繰り返しながら。・・・

まだ私は生きている。まだ私は考える、と言うフレーズは、ニーチェの一言を汲み取ったものだが、ニーチェはこのあとこう続ける。「すなわち、私はまだ生きていかなねばならない。なぜなら私はまだ考えなければならないから。」そしてそうだった、とどこかで聞いたか読んだのかさやかではないが「我在り、故に我思う、すなわち、我思う、故に我在り」は心に留まっている。

朝のロマンスカーに揺られながら55ページまで細々と読み砕いてきたが、こんな僕のコトバをアトランダムにメモした。

深淵 諧謔、洞察、僭越、多様、微笑、失笑、悦楽、トドノツマリ、懐疑、目配せ、羞恥 示唆

それはともかく、この著作の第一部、第二部は1883年に起稿、第3部が翌年と続けた。なんと130数年前のことになる。それが現在(いま)に生きる森教授や、門外漢の僕にさえも身近な課題として問題提起されて、己の來し越し方に瞑目することになるのだ。

それにしても分厚い507ページ。さてどうなることか!と思いながらも実は、この著作を胸に抱いて、岩波新書の湯浅学著「ボブ・ディラン ロック精霊」をあっという間に読み飛ばしてしまった。

<愉しい学問のカバー写真は、仙台の写真家、盟友でもある`小岩 勉`さんの写真です>。

全日本卓球選手権を見ながらの若き日

2017-01-22 19:05:27 | 日々・音楽・BOOK
若き日、卓球にのめり込んだことがあった。この連日の「全日本卓球選手権」のTVの放映を見ながら思い起こすことがある。

嘗て、とは言っても数十年前にもなる高校生時代、高校では文学部の部長を担いながらも荻村伊知郎の時代、住んでいた柏(千葉県)の伯父の会社の社宅の近くに小さな卓球場が出来た。ふと出かけてみたら、その卓球場の近くに住んでいた東京都庁の職員と出会い、その穏やかな笑顔と端正な風情に引き込まれ、卓球にのめりこむことにもなった。
お名前を失念したが、その方は、全国都市対抗戦の東京都の代表を担う、荻村の盟友だった。そんなことを聞きながら卓球を学んだ。

そして僕は、母校での球技祭、3年生のときにクラス対抗球技祭でキャプテンとしてクラスを率いて優勝する。何となく苦笑いをしたことを想い起こすのは、決勝戦で1年生だけは卓球部員の参加を認める仕組み、対になった最終戦、相手は卓球部の俊英、1年生なのにレギュラー。僕たちはクラスメートともにこの卓球台を取り囲み野次を飛ばす。びびった1年生はミスを連発して僕たちが勝った。試合終了後その後輩にごめんね!と囁いたことを憶えている。

荻村が世界選手権で何度か優勝し、国際卓球連盟の会長を担ったことなど想い起こしている。同時に世代が替わり、卓球の技術的なスタイルも変わってきているとは言うものの、その面白さに替わりはない。とは言いながらも、余りにもいまの若き選手たち、生涯を卓球に依存するのかと、ちょっぴり気になっている。

<余話>こう書いてきた僕はいま、錦織とフェラディの全豪テニスの生中継に捉われている。写真がないので何時ものように空を!

雪国のロマン

2017-01-19 18:39:07 | 自然
ふと、僕のどこかに留まっている一文を思い起こした。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。

ところが、新潟へ向かう上越新幹線とき363号。
雪の降っていることなどに物おじせず、車窓から見る景色は、得も言われづと言いたいところだが、僕の住む海老名、東京での晴天はどこへやら、吹雪で薄暗い中を驀進し、窓際を取って外の風景を楽しもうとの魂胆の僕のことなど意に介さない。
しかも2階建ての一階、一階と言っても地階に閉じ込められ、東京でてがら空きだと思った車内は、スノーボードを持ち込んだ学生どもで満席。彼らはひそひそ話をしていて数少ない僕達旅行者になんとなく気を使っているようだ。
今時の若者が!と何やらこみあげてくるものがある。

今回の新潟行きの発端は、ギャラリー新潟絵屋での盟友木版画家「小林春規」さんの個展「京都散見」を見に来てよと言う美術評論家大倉宏さんからの要請によるもの。
これは得たりと、市内にアトリエを構える建築家と、長岡で建築に取り組んでいる建築家の建てた建築を拝見しのヒヤリングを掛け合わせたもの。よっこらしょ!と雪中を歩き回り、北国にお住いのご夫婦などと笑顔での建築談義、帰京したら雪がやんでしまった。

ところで川端康成の雪国、島村の芸者駒子とのやり取り、ぬくぬくとではなくてこの猛吹雪の中でと、一言言いたくなった。

飛んでいく新春

2017-01-12 18:10:14 | 添景・点々

明朝から新潟行き。
親しい版画家小林春規さんの個展が「新潟絵屋」で行わていることもあって、まず新潟市内にアトリエを構える建築家と、帰郷前には長岡の建築家に、建てた建築を案内して頂いて何かを語り合い、それに併せて絵屋に行くことにした。

建築ジャーナル誌に「建築家模様」を連載していてなんと5年目に突入。新年早々、現在(いま)という時を内に秘めて、風土と建築、建築家ってなんだ!という二つの命題を探ることになる。
事務所に出てきて編集者とのやり取り、暮れに取りまとめた横浜の建築家の最終稿を、ヒヤリングした親しき建築家に目を通してもらってOK。ほっと一息。新年が始まったのだ。

実は昨日、東海大学病院に行き、血液検査の結果を確認、予定通り、今回もまたお腹に注射。次は3か月後、ところで新潟から帰京した来週の水曜日には整形外科に!己の歳を慈しむのだ。
さて、22日の週には、英国から来日(帰京?)する建築家と久しぶりに飲み語り合う。テーマは膨大…
そして親しい版画家の個展を拝見してさてその後は!

2月に入ると沖縄行き。例年の「聖クララ教会」でのコンサートを拝聴する。なんだか大忙し。時との戦いか、時との共和か!いやそのどれもが人との`和合`である。

<写真 文面と添わないかもしれないが、これもまた我が家の新春の一齣です>

新春の一齣:建築家・槇文彦の一文から!

2017-01-09 13:36:31 | 建築・風景
自宅のテーブルの上に、「モダニズムの建築と素材について」(第23回タジマ建築セミナー参考資料)と表記した建築家槇文彦さんの小冊子(10ページ)が置いてある。1999年8月26日経団連会館での講演会の資料で、「記憶の形象・都市と建築との間で」と題した槇さんの著書(1999年9月10第1刷発行・ちくま学芸文庫刊)の上巻からの抜き刷りである。
年末の大掃除をした自宅の書棚から見つけ、年の初めに、僕自身の`ある種の原点`のようなものを再考してみようかと思って取り出して大晦日に置いたのだ。

この槇さんの2冊による著作(文庫本)が17年前にもなるのか!と感慨を覚えるのは、僕が進行役を担って槇さんにお話戴いた1999年2月19日に行ったDOCOMOMO Japanのセミナーで、後半の僕とのやり取りの冒頭で、この文庫版による著書に触れて「愛読しています」と一言述べたら、槇さんがことのほか喜んで下さったことだ。

DOCOMOMO Japanは2000年のブラジリアの大会で加盟承認を得たが、その前年に本部からの要請があり、代表を担うことになる鈴木博之東大教授(当時)や、初代事務局長となる藤岡洋保東京工業大学教授と相談をしてメンバー構成をし、僕がまとめ役となる幹事長となってDOCOMOMO Japanを創設して、20選を選定した。

さらに選定したのだからと、鎌倉の近代美術館の太田泰人学芸員(当時)と打ち合わせをして、新館の展示を具体化し、さらに創設に尽力して下さった林昌二さんに呼ばれて日建設計に赴いたところ、大手5社の役員のお一人が鎮座されていての資金調達の相談だった。
何はともあれ大手5社+1社からの資金援助を受けることが出来て、更に僕自身、建築家としての仕事に真摯に取り組んでいて、あるゼネコンから多額の寄付を受けて、ブラジリアでの大会の前に鎌倉近美新館で20選展までやってしまったことと、更にその前に、前述した槇さんの講演会を開催したことなどと共に、妙に懐かしく思い出している。

そこには亡くなられた初代代表を担った鈴木博之さんや、上記20選展でキュレーターを担い後に鈴木さんの後継者として、代表を担うことになった松隈洋京都工芸繊維大学教授(現)の姿がある。

晴天に恵まれた新春のささやかな一齣だが、槇さんのこの講演会の冊子の冒頭に書かれた、下記短い一文・メッセージに惹き付けられた。<共感し、抜き書きを下記に記す>

『・・・すぐれた建築作品にいえることは、それらの作品がつくられた時代に生きた建築家、あるいは建築家以外の人々が、無意識の上で潜在的に表現したいと思っていながら顕在化し得なかった「何者」かを一撃のもとに露にする行為にほかならない。・・・そして建築の創造が発明でなく、発見である・・・と続け・・・建築が・・想像をこえたものを追求することではなく、時代が共有する想像、あるいは幻想にこたえる文化的行為であるからである』と閉める。

<写真2009年2月19日 DOCOMOMOセミナーにて>