日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

東北を・・(5)石巻から女川港へ

2012-10-27 14:14:12 | 東北考

崩れ落ちそうなまま無人の家屋がポツンポツンと建っている石巻に立ちつくしながら、既視感に囚われていた。この光景はどこかで見たことがある。
草原の中のところどころにコンクリートの基礎が残骸として放置されていて、ブルドーザーのキャタピラの跡が地面にこびりついたりしている。ここには木造による、住宅産業企業による住宅群があったのだと憶測するが、何故かその姿と現状が重なり合わない。
晴天。晴天なのに人がいない。当たり前のことなのだが、いま僕はいつの時代の何処にいるのかと不安になる。

石巻を出てまだところどころで工事がなされているが、しっかりと舗装改修がされた街道を、小岩さんの車で女川に向かった。まずなにを置いても路を直したその行為は凄いと小岩さんと語り合う。街道沿いの巨大な工場群は、何事も無かったように作動しているように見えてしまうが、それでも一瞬ほっとする。

女川の、TVや新聞で見ていた津波の引き潮で倒れた鉄筋コンクリート造の建物が、沿岸の整地され広場に横たわっている。つらい光景ではあるがあっけらかんとしていて奇妙な違和感がある。

海のまち、海の村落は、丹後半島の伊根や静岡県の興津、そして少し形は違うが僕が小学生時代を過ごした天草下田村(現天草市)のように、沿岸沿いに建ち並ぶ家屋の隙間からちらりと見える海、その潮風の匂いが感じ取れるものだ。それが海のまち。

女川が立ち直るのはその姿と匂いが戻ったときだといいたくなる。女川のこの姿の向かいに見える女川漁港に立ちよった。
そこで巨大地震は地盤沈下を起こすのだと実感する。改修された道路が一見盛り上がっているからだ。そして大潮の時期が近づいているからなのか、ひたひたと潮がその道路の周辺に打ち寄せている。
漁港では秋刀魚の水上げがされていて活気があり、働く人たちの笑顔がまぶしい。水揚げ量は嘗て日本一だったことがあるのだ。
漁港が息づいてきたことにほっとしたが、でもそれで女川が生き返ったとはいえないことを考える。

もやいブルーとJAZZ 松山空港からのフライトで

2012-10-21 23:38:33 | 建築・風景

子規が「春や昔十五万石の城下かな」とよんだ四国松山市の、その松山城を目の前に見てANAホテル14階のレストランで朝食の後、コーヒーを飲みながら考える。
萬翠荘や坂の上の雲ミュージアム、、それに木子七郎の設計した県庁なども見ているが松山城には行ったことが無い。見学してもさして時間がかからないが、さてどうしようか。でもロープウェイがあるとは言え坂道を歩くのはちょっとつらい。パワーがたりない。

昨10月20日(土)の朝、4時40分に起きてシャワーを浴び、小田急の始発に飛び乗って海老名で相鉄に乗り換え、5分しかないので横浜駅のコンコースを息をつきながら走って京急の羽田直通特急にこれもまた飛び乗ると言う離れ業。そして7時20分の松山行き始発便に乗った。パワー不足はその後遺症だ。

ー日土小学校の重要文化財指定ー
今回の四国行きは、レーモンドの設計した鬼北町(旧広見町)庁舎設計改修委員会に出席するためである。
その件については別項で報告したいが、空港で迎えて下さった曲田愛媛大学教授が買い込んで皆に(藤岡東工大教授や西沢関西大学教授、日土小改修設計をした和田耕一さん)配って下さった愛媛新聞の一面の「日土小(八幡浜)重文に」と題し、「文化審答申 戦後校舎で初」とサブタイトルのある大きなカラー写真入りの記事が目に飛び込んだ。話が弾む。

さて委員会の翌日。帰りの羽田へ向かう松山空港からのフライトは、12時10分発、委員会の前夜にJIAでの会議があって帰宅が夜半になることも考え、そのパワー不足を見越して、あちこちいかないで帰宅しようとおもってフライトの時間を決めた。
少し時間があるが空港でのんびりするのも一興、ホテルから出て空港行きのリムジンにのった。

この時間だから見ることになった晴天なのにもやっている空からの光景に目を奪われた。魅入りながら聴く機内オーディオ。深みのある声のローレンス・タナーがパーソナリティの「JAZZ」がイヤホーンから心地よく響いてくる。 
マッコイ・タイナーが13th House、我がビル・エバンスは訪れた秋にちなんでAutumn Leaves、意外とリズムに乗ったつぶやくようなタッチのセロニアス・モンクのSophisticated Ladyもいい。
頂上に雪をかぶった富士山がもやいの中に小さく浮んでいた。

東北を・・(4) 風土と前川國男の福島教育会館

2012-10-14 14:12:11 | 東北考

講堂の天井が落ち、外壁の一部が被災したという、既に56年前にもなる1956年に建てられた「福島教育会館」を見ておきたいというのもこの度の目的の一つだった。
この建築については、数多くの写真や解説文によって解っているような気がしているものの、福島市に横たわる大河阿武隈川や周辺の山並みとの対比についての記述を読んだ記憶がなく気になっていた。
それともう一つ、建築家前川國男が組織しこの建築を設計をした「ミド同人」の存在である。例えば前川の代表作の一つ神奈川県立図書館・音楽堂とこの建築の何がどう違うのかと気になっていた。ミド同人には前川自身も名を連ねているからだ。

DOCOMOMO100選に選定したこの建築を、前川事務所のOBで京都工業繊維大の松隈洋教授は100選展のカタログでこう述べる。
「阿武隈沿いに建てられた講堂や会議室からなる教育文化施設。火災によって消失した木造の旧館の再建を願う教職員の寄付によって、厳しい予算の中で建設された。そのため、建物は、当時高価だった鉄骨を一切使わずに、波打つ形のシェル構造の屋根と折板のジグザグな壁とを組み合わせた大胆な鉄筋コンクリート構造で建てられ、独特な外観が生み出されている」。そして「・・・簡素で骨太な建築が目指された」とある。

この解説文が興味深いのは、終戦後11年しか経っていない復興時期の鉄骨がコンクリートでつくるよりも高価だという社会状況が読み取れることと、僕には異論のある「骨太な建築」という一言である。更に`独特な外観`としかない記述が気になる。

講堂の屋根の緩やかに波打つシェルは、阿武隈川を挟んだ山並みと呼応していると僕は感じる。時代の先端を行くという戦後のモダニズム建築風潮の中で、前川は短絡的そう述べることを意識的にしなかったのではないか。そういう時代だったのだと僕は考えるのだ。

そして駐車場になっている前庭から見るこの建築は、コンクリートの壁によって内部空間が塞がれているが、ロビーに入ると、打ち放しコンクリートによる細い柱が林立している横浜の「神奈川県立図書館・音楽堂」と類似しており、それを見て何故「骨太な」と表現するのかよくわからない。前川の風貌やある種の建築の重量感から前川の建築が骨骨太だと言うイメージ構成がなされているが、意外に軽やかな空間構成がなされていてそこが僕は好きなのだ、

さて「ミド同人」。
事実検証をしないまま、勝手な憶測を書いてみる。

アントニン・レーモンドの「夏の家」はよく知られている。夏になると軽井沢の夏の家に、気に入った所員を連れて立てこもって設計に没頭した。これに類したいきさつは松家仁之氏のデビュー作「火山のふもとで」と言う小説に(新潮2012年7月号)レーモンドに学んだ吉村順三と思われる建築家に置き換えて描かれている。こういう書き方が許されるのかと気になるが、気に入った建築家を引き連れて構成したのがミド同人なのではないかという憶測である。

戦後の社会構造の中での前川の本物の建築をつくりたいという思いの、建築の造り方の仕組みへの試行錯誤といってもいいのではないだろうか?

敬老の日という休日に講堂(ホール)の照明をつけて撮影をさせてくれた職員は、地震で痛んだ外壁の一部をALC板で応急措置をした経緯を説明してくれたが、ともあれは福島市の外れに建つこの建築は、風土との呼応を表現し難い戦後直後の建築界の様相や、前川という日本の建築を率いた建築家の一段面を僕たちに突きつけているのだ。

<写真 左奥に小さく見え隠れしている白い建築が、福島教育会館。右手に阿武隈川>

「東北を・・」(3)僕が生きていることを考えている

2012-10-07 22:24:59 | 東北考

高校の同級生西田が亡くなったとメールが来た。
瞬時にスリムで背の高い目鼻立ちのしっかりした彼の笑顔が浮ぶ。葬儀では、S33年卒同級生一同から献花がなされたと、そしてグループを作って活躍していた彼の歌う声を聴きたかったと付記がある。
僕はこの一文を’つま恋’で行われたapbankフェス12をNHKBSプレミアムで観、JUJUや小田和正たちの唄と、身体を震わせる聴衆たち見ながら感慨を覚えて書いている。
そして9月の末に仙台に行ったときに、建築家針生承一の設計した´七ヶ浜国際村´の人工池に浮ぶ舞台での仙台ベンチャーズの熱演を、のんびりと飲み食いし、談笑しながら聴いていて、心に響くと拍手を送る大勢の若者たちの楽しそうな姿を同時に思い浮かべている。
西田はこういう世界で生きてきたのではないかと思ったりしているのだ。二世代も違う若者とともに! 彼は自分の来し方を見ていたのかもしれないとも思う。心からご冥福を祈ります。
そして僕はいま、つま恋や七ヶ浜の若者たちを思いながら、秋の夜、僕が生きていることを考えている。

10月1日に行ったシンポジウム(9月28日に記載)での増田一真氏は、構造家であるとともに木造構法研究の先駆者でもある。
氏は日本の木材の資源の枯渇に危惧を憶えて、安く手に入る細い間伐材を組み合わせた木造建築を造って来た数多くの事例を、朴訥とした語り口で紹介しながら、それが枯渇していく資源の保護になることを多くの人に知ってもらいたいと述べる。78歳になるその穏やかな笑顔にぐっと来た。

中村文美氏は、既に歴史を刻んできたといってもいい京都会館の一部改築問題などとともに、間伐材を使って組み立てた東北被災地の仮設住宅を取り上げ、人が住む肌触りやコミュニティに触れながら、建築家の仕事の可能性に言及した。
僕は実は進行役を勤めながらその事例に共感しながらも、1年半経っても仮設に住まなくてはいけない、そしてその先が見えてこない現実に目を奪われるのだと述べてしまう。小岩さんに案内してもらって垣間見た、夏は暑くて冬は寒く、閉ざされているプレハブ仮設住宅の存在にいう言葉がないのである。

小岩勉氏のコトバは、別項目を設けて考えたいが、「女川1988-1991そして2011」と題するモノクロによる写真展示は、賑やかな数多くのアクティヴな展示の多い中で、その一角がひっそりとしていて別空間のような空気が漂っていた。
既に女川原発が存在していた20年前の女川村落のごく普通に見える人々の日常の暮らしが捉えられている。
「そして2011」。津波被災の後のこの2点の写真の一枚、線路が錆びていて、プラットフォームに腰掛けて談笑している女子高生たちや、線路を歩いている学生たちの姿がごく当たり前の日常光景に見えてしまう。それが現実だと言うことに気が付いて、一瞬黙さざるを得ない。