別れがあり出会いがある。
BILL EvansとJim HallのデュオIntermodulationのつぶやきあうようなピアノとギターの音を聞きながら人との別れを想う。年末の薄い雲を通して柔らかな日が部屋に差し込んでいる。高架工事の為の仮囲いの向こう側に、建築家岡部憲明さんのデザインしたロマンスカーの白い屋根が音もなくゆっくりと動いていく。陽炎のようだ。
娘がキッチンで正月の支度をしていて微かな包丁の音が聞こえてくる。愛妻は自分の母の介護に出かけているのだ。いつもの年末と少し違う。
嘗てダブルスのパートナーを組んだYさんの訃報、奥さんからの喪中の知らせは堪えた。
膝を痛めてテニスを断念してから10年近くなる。次第に疎遠になったが、都市対抗で格上の平塚市との対戦のとき彼と一緒に戦った一戦が、僕にとってのダブルスでの多分最高の試合だった。
相手はJapanランカーだったが、プレイが始まった途端負ける気がしなくなった。勝てるとも思わなかったが、体も良く動くし前へ詰めるYさんのボレーも角度がありなぜかミスをしない。相手があせり始めるのも良く見え、それが適度の緊張感になって集中していく。チームプレイの面白さだ。
ストレートで破って握手をしにネットに駆け寄ると、相手は憮然としてにこりともせず僕の手に触れただけでそっぽを向く。情けないなあと思ったものだ。テニスってそういうものではないという想いと、Yさんのにこやかな風貌と、テニスを語るときの早口になる彼の声がなかなか消えない。Yさんはまだ67歳だった。
僕が独立した直後からお世話になったOさんが11月に急逝された。若き日、技術も建築感も未熟だった僕に良く仕事を委ねてくださったものだ。愛妻が「そんな人いないよ!」とつぶやいた。
振り返ると、僕の人生の要に必ず人がいる。その人との出会いがなくては今の僕はない。無論そうではなく誰との出会いでも、誰との別れでも今の僕を創ってはくれたのだが。でも厳しかったOさんとの出会いがなかったら新横浜での10棟ものオフィスビル設計の機会がなかったと思う。設計の機会を得たことで又人と建築にも出会える。
女優岸田今日子さんも亡くなった。一度だが撮影をさせてもらったことがある。親しい写真家の新宿タウン誌の取材のとき助手という名目で赤坂のマンション、自宅に同行した。岸田さんはライターのインタビューに緊張されていてにこりともしなかったが、撮影に関してはいやな顔をしなかった。プロなのだ。助手といっても何も手伝わない僕が何故遠慮なく撮るのかわからなかったと思うが何も言わなかった。良い写真が撮れたが気になり発表していない。でもその時の僕も緊張した一齣が瞬時に思い浮かぶ。
人だけでなく建築との別れもある。慨嘆しブログにも記載した白井晟一の旧親和銀行銀座支店だ。眼に焼きついている建築がなくなった。どうあれ人が壊したのだ。
危うい建築も数多くある。東女の東寮、旧体育館。来春早々の1月16日にシンポジウムを行うことにした日比谷の三信ビル。中銀カプセルタワーの問題もある。しかしそういう建築の保存問題での人との出会いもある。東女のOG。三信ビルに思いを寄せる若い建築家と歴史の研究者。一時代を築いてきてこれからが戦いだと言う黒川紀章さん。
もう一つの出会いがある。何度も会っているのに突然心が揺さぶられることがある。僕が変わったのだ。いやそうでもなくふと触発されることが起こるのだ。人にも建築にもそしてモノにも。
年賀状がうまく出せて大晦日に時間が出来た。Intermodulationが終わった。しみじみともの想う大晦日。次はコルトレーンのバラードにしよう。
<写真 プリントごっこで印刷した来年の干支「猪」を乾かしている年賀状>