日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ギニアの村 人が住むモプティマリ村の空撮をみる

2011-02-27 10:20:36 | 建築・風景

気になって取っておいた一枚のカレンダーがある。
東芝エレベーターからもらった昨2010年10月編に取り上げられている、アフリカ・ギニヤのニジェール川のほとりにたたずむモプティマリ村の空撮による姿だ。
濃い青緑の川に面する地面と集落の建物は濃い土の色、流域に9カ国1億1000万人以上が住む全長4200kmという大西洋に注ぐアフリカで3番目に長いというニジェール川のデルタ地帯に存在しているという。

やや川に寄った中心部に、中庭のある大きな中層の建築が建っていてその前には高い塀がある。塀に面して、アゴラと思われる大きな広場がある。集落のところどころに椰子らしい樹木があるが人の姿は見取れない。
土地は土色だが、土なのか砂なのかも読みとれない。道がない。川に面しているが船着場が見えない。船もいない。

短い解説を読んだ。
8月から1月にかけて起こる川の満ち引きを利用して、交易、漁業、畜産、農業を営んでいるとかかれているがこの写真ではその様がわからない。
だが大きな課題があるのだ。1970年というから既に40年前になるが、降水量の低下がはじまって廃棄物や植物ゴミの堆積による沈泥化によって流れが減少している。9カ国の政府は川の多国間占有がいまだ多くの国家紛争の大きな要因になっていることを調整するために、川の共同管理・開発を行うABN(二ジュール川流域機構)を設立した。

僕は世界を知らないと思った。ことに中東やアフリカの実の情勢。憮然として瞑目して吾を考える。
このブログの数編前に、ムバラク大統領が海外に逃亡したエジプトの、オリエンタリズムが内在する都市アレクサンドリアに触れたが、隣国リビアが、憲法も国会も政党もない国だとは気がつかなかった。そこに名前とその風貌は知っている得体の知れない大佐がいて、数十年を独裁している。
エジプトに端を発してこの世界が揺れていて原油が大きな課題になっているが、我が国の政治家は国を見ないで己の去就にうつつを抜かしている。

モプティマリ村のたった一枚の写真、過疎になった村が市になってしまった小学生時代を過した僕の原風景を重ね合わせながら考えている。
人が住んでいる。ここが故郷の人がいるのだ。



今年のお雛様 山口家住宅とわが家

2011-02-19 12:20:26 | 愛しいもの

今年もお雛様の季節が来る。
昨日、運転免許を取った娘の練習もかねて、愛車に若葉マークを貼り付けて伊勢原の旧家「山口家住宅」を訪ねた。当主の山口匡一さんからちょっと相談したいことがあると、メールと電話を頂いたのだ。
奥様ともご一緒に、この屋敷をベースにして活動しているNPOの方々のつくった御菓子などを頂きながら、2000年に登録文化財になったこの嘗ての名主屋敷(雨岳文庫と呼称するが、雨岳は大山のこと)の今後のあり方について話し合った。

七代目の当主山口左七郎は明治14年に「湘南社」を結成し、自由民権運動の指導者として名を馳せるなどこの屋敷を巡る物語はとても興味深い。建築自体も明治2年に上粕屋石倉から現在の上粕屋〆引きに、なんと500メートルも曳き屋し、その後本屋の2階や北側に訪れる宮家のための控え室や浴室を増築するなど建築としての魅力に満ち満ちている。

入り口の大きな引き戸をあけて土間に入ると、拭き漆が施されてしっとりとした赤黒の14寸もある欅の大黒柱や巨大な梁に眼を奪われるが、見事な雛飾りが目に入った。家内の生まれたときの祝いなので新しいものなのだけどと山口さんは謙遜されるが、とはいっても昭和一ケタ代のクラシックな趣があってなかなか魅力的だ。そうだ、お雛さまの季節になったのだ。

さて今朝(2月20日日曜日)のわが家。妻君と娘が押入れから沢山の箱を取り出した。去年は出さなかったが今年はお雛様を飾るのだ。うきうきと取り出して並べているのを観ると、内裏様が八組に2センチ6ミリの小さな箱に入った段飾りがある。ついでに七代さがらたかしの赤ちゃんを抱いた土雛も一体、同じさがらたかしの内裏様と一緒に並べた。

大きいのは三春の田舎雛、大きいね!と昔大きいのが気に入って買った妻君がわれながらと驚いている。昔は大きいのがすきだったのよね、と娘と眼を見交わして笑っている。
この娘(こ)が生まれてなんとも嬉しかった僕たち夫婦は、仲のいい友人夫妻に紹介された横浜の店でこの内裏様(写真右上)を手に入れた。今観ても品のいい可愛いお雛様だ。
でも娘が気に入って良いね!と見入るのは、妻君が譲り受けた母親が生まれたときの小ぶりな大正初めの内裏雛、娘が言うに何となくひ弱な感じで人がよさそうな、其れがなんとも可愛らしいお殿様と堂々としているお姫様。この時代はお姫様が左に座るのよねという。

<右下のお雛様・山口家住宅 左上我が家の大正のお雛様 右上わが娘のお雛様>

たてはなポトス

2011-02-17 09:03:20 | 愛しいもの

ポトスが好きでわが家では、鉢植えだったり水栽培だったり、ただ皿やボトルに挿したりして楽しんでいる。
僕の部屋の書棚にも鉢植えにしてぶら下げているが、日が当たらないのに元気でどんどん伸びる。中には葉が枯れてしまうのがあって取り除くのだが、弱肉強食、なんだか可哀想な気もしてくる。
洗面所には中国に行ったときに手に入れた石の薄い皿に水を張って、海で取ってきた小さい石で押さえておいたら、なんと元気に生きながらえて楽しませてくれる。健気だ。電気をつけないと暗黒なのに。
観葉植物に詳しい人から叱られそうだが、手間がかからなくて育つのがいいのだ。それにこの葉の風合いが妻君も僕も気に入っているからでもある。無論!

さて掲示した写真のポトスは、格好いいボトルがあるのでどう!とポトスを一本投げ入れて妻君が食卓においた。これはいい、たてはなポトスだ。
芸術新潮に連載している川瀬敏郎氏の`たてはな神話`を愛読しているが、`たてはなポトス`などというのは不遜カナ!

続 アレクサンドリアの風 「そして上海」

2011-02-12 10:52:04 | 建築・風景

写真集「アレクサンドリアの風」の冒頭に、中川道夫さんの書いた一文がある。池澤夏樹と同じくロレンス・ダレルのアレクサンドリア四重奏に魅せられていた写真家は、現実の「官能と頽廃の坩堝(るつぼ)」のようなこの町が「虚構の都市だとわかっていた」。だが、旅するに必要な情報がなく、町がどのような顔をしているかと想うことができないと記す。

池澤夏樹も戸惑いながらこういう。ここでもしも現実のあの都会の現実の住民が「俺はどこにいるのだ?」と問うたら、(誰にも)ダレルにも答えはないだろう。そして、其れに答えることが出来るのは、この写真集であろうと述べる。なんだか答えをほっぽり出して、中川さんに託したように思えてしまう。

中川さんは、アレクサンドリアに行く10年前の1969年、文化大革命の余波の漂う、つまり紅衛兵がまだ闊歩している上海を訪ねている。17歳の高校生だった。そしてアレクサンドリアを訪ねてこう感じ取る。
初めてのアレクサンドリアはヨーロッパの街並みそのものだった、そこにはエジプト人が歩いていた。私の記憶にあるどこかの街に似かよっていた。

―そうだ上海だ。あの上海だ!―

翌1980年に再び上海に向い、以後何度も訪ねて写真を撮ることになる。その成果は「上海紀聞」(美術出版社・1988年刊)に写真と著述によって発表されたが、写真も文章も僕の心に焼き付いてしまった。そのあと昨年岩波書店から発刊された「上海双世記」となるのだが、香港でもソウルでもシンガポール、マニラでもない上海なのだ。でもここでは僕の心を捉えて離さない写真にちょっと触れてみたい。

「上海紀聞」の写真は全てモノクロだが「アレクサンドリアの風」には渋い発色のカラーが時折挟み込まれていてより味わが深くなるのも興味深い。当たり前といわれれば其れまでなのだが、どの写真も決定的瞬間という言い古された一言を付したくなる。巻末に写真をサムネイル的に並べ、中川さんの書いた写真解説が記載されているが、例えば1986年`サラ・サレム通り。
馬車の蹄の音が反響し、ヨーロッパの街角にいるのかと錯覚した`とある。

幌をつけた馬車が道を横切り、その手前に道の真ん中を荷を着けた自転車に乗る男が向ってくる。おそらくシャーターチャンスは「瞬間」しかない。しかも逆光の中にバックの建物は銀塩の粒子で白づんでいて馬車と馬の開いた足と男の姿がかすかな濃淡を見せてくっきりと捉えられている。といった具合だ。蹄の音が聞こえてくる。でも決定的瞬間を撮るのだという気負いはない。その場所と人の営みに共感を持つ、ある意味では好奇心と不思議さにシャッターを押してしまうのだろうと思うのだが、その根底には揺るがない彼の生きることへの確信があるのだ。それに僕は惹き付けられる。

オリエンタリズムというヨーロッパを模し、そこに植民地支配を重ね合わせた否定的な概念と、そのオリエントを美化する幻影を撮るとはこういうことなのかとふと考えるのだ。確かにアールヌーボー的な店が沢山ある不思議なまちだ。d-laboで中川さんは、撮る中川さんを見ながら笑顔で肩を組んでいる人たちをスクリーンに写しながらこういった。何故だか写真を撮ってくれというんですよね。ただ撮れという、欲しいとは言わない。僕もトルコでそういう体験をした。WHY?

この写真群を、ル・ポルタージュと短絡的に僕は言いたくない。ドキュメント(記録)には違いないがドキュメントとも言いたくない。人の生活や、人とはなにか?と問うているとか、人と建築のかかわりを捉えたとも言いたくない。僕はアレクサンドリアを訪ねたことはないが、二十数年前の上海、中川さんが上梓した正しく「上海紀聞」の上海を訪れたことがある。
そこで生活する人がいるのだが「官能と頽廃の坩堝(るつぼ)と虚構の都市」とは上手く言いえたものだと、その二十数年前をいま思い起こしているのだ。

<この一文をUPしようと思ったら、ムバラク大統領辞任の報が入った>

アレクサンドリアの風

2011-02-05 12:16:39 | 写真

写真家中川道夫さんの撮った写真に、池澤夏樹氏が一文を寄せた「アレクサンドリアの風」(岩波書店2006年刊)という写真集がある。
初めてアレクサンドリアを訪れた1979年より2005年までの、人の生活している様と建築を撮った年代をごちゃ混ぜにして組んだ。それが中川さんが伝えたいこの町と人の姿なのだ。だが違和感がない。建て替えた建築が無いからだ。

唯一つ中川さんが気にするのは、この26年間で唯一新しく建てられた大きな建築、2002年に完成した「アレクサンドリア図書館」である。この建築がムバラク大統領によって建てられたからだ。反ムバラク派の人々によって壊されないかと気になるのだという。
デモが拡大しカイロの博物館に暴徒が入ったと報道されたからだ。写真集では石を積んだこの建築の裏面しか掲載されていないのは、石に各国の文字がランダムに刻まれていてそれを伝えたかったのだろう。図書館の前面は海に向って大きなガラスで開かれていて、なかなか魅力的な建築なのだという。

アレクサンドリアは首都カイロに次ぐエジプト第二の都市、カイロはピラミッドのある観光のメッカだが、ここは中東の大金持ちの避暑地でもあるという。
街を行き交うと、建物の間から海が覘かれて風が吹く。アレクサンドリアの風だ。いや中川さんに吹いてくる風なのかもしれない。

ナイル川の河口、地中海に面するこの町は、なんと2300年も前になる紀元前300年代にアレクサンダー大王によって築かれた。
ロレンス・ダレルの長編小説「アレクサンドリア四重奏」にぞっこんになってギリシャで暮らした池澤夏樹氏は、ギリシャ読みのアレクサンドロス大王と書くが、僕たちに馴染みのあるのはアレクサンダー大王、気になって珠玉のエッセイ塩野七生さんの「男の肖像」を紐解いたら、西洋史上ピカ一のこの男は、傑出した母親オリンピアにぞっこんのマザコンだったという。
イッソスの戦いの後エジプトに行き、ナイル川の河口にアレクサンドリアの町を建設する。そのアレクサンドリアでもカイロに続いてデモが起きた。今朝デモは終息に向うと報道されたが、果てもない2000年という時間が今に蘇り遠いオリエント文化の現実が迫ってくる。

1月27日、僕は赤坂ミッドタウンタワーの7階にある駿河銀行d-laboで中川さんの映し出されるアレクサンドリアの写真に魅せられながら、彼の見た「虚構と現実」、そして「アレクサンドリアの本当の守護神である涼しい北風」の話を聞いていた。その直後に反ムバラクデモが勃発し、その時間的な偶然に驚くことになる。

カイロとアレクサンドリアは砂漠で隔てられており、鉄道もあるが普通はバスで砂漠を走ってカイロからアレクサンドリアに向うのだという。二つの都市の内在する文化が違うという中川さんのコメントが興味深かったが、アレクサンドリアという町の名から浮かび上がり奇妙に心が揺さぶれるオリエントという言葉、日の出の地oriens(ラテン)に由来するのだ。

中平卓馬のアシスタント経て自己の写真を撮ることになった中川道夫は、中平のカリスマから逃れるために中東に向う。
中川さんと親しい僕は、中東というところが中川道夫だと思うが、どの国も紛争が起こっていて入国が難しく、アレクサンドリアへ立ち寄るというロシヤの貨客船に乗ってアレクサンドリアへ向ったのだった。
そして上海なのだが、中川道夫の写真を改めて考えてみたいと思う。

<写真  d-laboでの中川さんとアレクサンドリアの風>