日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄へ(2) まず沖縄そば処「やぎや」へ

2016-02-28 23:16:14 | 沖縄考
ANA那覇空港11時25分着、根路銘さんが空港に迎えに来てくれ、携帯電話で待ち合わせ場所のやり取りをする。そして昼食、やはり「沖縄そば」だ。
まず目指した店は車も留められない満席、そうだ!と根路銘が一人合点して訪ねたのは、島尻郡の八重瀬町、石積みヒンプンのある古民家・登録有形文化財、沖縄そば処「やぎや(屋宜家)」である。
一年ぶりの沖縄そば。言うまでもなく絶品。
この日がきっかけになって、このたびの沖縄紀行の昼食は“沖縄そば”尽くし、願ってもないことだった。

沖縄へ(1) 建築家根路銘さんと共に建築・城址・御嶽・陶房そして寓話へ

2016-02-16 17:29:29 | 沖縄考
小さいお子様連れの方々とお身体のご不自由な方々もとアナウンスされてゲートが開いた。
そろそろ立ち上がろうかと椅子から腰を浮かせようと思った途端、携帯電話が鳴った。今起きたところで!と寝ぼけ声の笑みを浮かべている様子が目に浮かぶ。建築家根路銘さんからだ。いま空港で、そろそろ搭乗するところだよと言いながら「いや!ホントニ楽しい訪沖を!」と僕も笑顔で伝える。

昨夜は、いつものことながら根路銘さんに案内されて、那覇市安里の「うりずん」で、琉大を卒業し東京の建築計事務所で設計を学んだ時の先輩、九州工業大学建設社会工学科の教授ご夫妻と共に深夜12時を過ぎたほぼ閉店まで、うまい料理と酒。僕の選んだのは、昼間訪ねた象設計集団の建築今帰仁公民館にちなんで今帰仁酒蔵の島酒。
朝の5時半には起きなくてはいけない僕を心配して大丈夫か!と電話をくれたのは2月14日の日曜日の朝7時40分の那覇空港での一齣だ。(実は申し込みは早かったのに、始発便しか空席がなく、やむなく始発で帰郷)

なにしろこの4日間(4泊5日の旅)、毎晩深夜の12時過ぎまでなんだかんだと島酒を飲んでいて、数時間寝て朝の8時に集合、沖縄の建築家はタフだ・・とつくづく感銘を受けたが、ふと考えたら彼らは若いのだ!
さて、今年の訪沖も、聖クララ教会のコンサート拝聴のため、演奏の始まる前に例年のように一言挨拶を述べさせてもらった。
その日は併設されている修道院の一室に宿泊(僕は2度目)。そして翌日封鎖されている基地内の海軍病院の内外を渉外管梅原一郎さんに案内して貰い、コンセットハウスバーで軽く一杯を!
そして夜は、久茂地から若狭に移ったJAZZのライブハウス寓話へ!

さて訪沖の最終日の前日は、今帰仁方面探索。通り道の読谷のやむちんの里「大嶺實清」さんの陶房を訪ねて、實清さんの陶話に関連した広い視野の話に聞き惚れた。
声を掛けた読谷に留まっている母校明大の後輩、文化人類学を専攻する中田君も目を見張っている。大きな刺激を受けたようだ。
陶器市の直後なので展示棚は空け透け、作品がないので工房で勢力的に作陶をされている父をご息女が、恐縮する僕たちを置いて呼んでくださったのだ。

さてさてその全てを車で案内してくれたのが我が若き友根路銘さんだが、基地内ツアーの運転は、コンサートを主催する建築士会島尻支部の、支部長に就任した大城満昭支部長だった。穏やかで笑顔のやり手、話が弾んだものだ。

<写真 根路銘さんとともに>

紋別の「おもちゃばこ」で北海料理を楽しむ

2016-02-07 16:17:25 | 自然
おもちゃ好きか高じて、その名も「おもちゃばこ」と名づけた家庭料理店を開いてしまった若者がいる。若者と言われると苦笑しそうな店主は長野進さん。moroさんが、バイク仲間と、例年の北海道紀行で紋別に行ったときに見つけた、旨い料理とにこやかな店主にぞっこんになって昨年の11月(2015年)僕を引っ張ってってくれた。若き男女の二組のグループが、一杯やりながら楽しげに会話を取り交わしていて時折笑声が聴こえてくる。
一人で切り回しているので店主は大忙し。申し訳なさそうな笑顔を見ながら、奇態だが可愛い人形コレクションでぎっしり埋め尽くされたおもちゃばこの中で、お酒とつまみを味わいながら、moroさんと僕は積もる四方山話に花が咲いた。

<写真掲載 店主長野さんの了解済み>

40年前のフィリピンへの旅に考える

2016-02-03 09:34:32 | 生きること
従兄に声をかけられて、フィリピンに行ったのは36歳のとき、それが僕の始めての海外旅行だった。横浜に立ち寄ってパスポートを受け取り成田に向かった。ちょうど40年前になる2月、遅咲きの海外渡航だったといまにして思うが、その後香港にはまったりして、韓国などと共に、東南アジアを中心に何度も出かけたものだ。
でも振り返ると、母を連れて初めて訪れた外国・フィリピンには格別の想いがあって、むしろ時を経るごとにそのときの様が想い起される。ことに亡くなって時の経つ母の涙姿が浮んでくることになった。

終戦の年1945年(昭和20年)8月17日マニラ地区のモンタルバン方面の戦闘に於いて戦死、という長崎地方世話部長(政府の所轄)から来た父の「死亡告知書」が、翌年昭和21年の元旦に、実家長崎の祖父から疎開先の柏(千葉県)に届いた。父の死去の様が読み取れるが(僕のこのブログ「生きること」2006・6-2007・6を参照ください)母は何もこのときに、とは言ったものの、いつまでもその死を認めることができなかったようだ。
祖父は一刻も早く僕たちに父の死を伝えたいという思いだったのではないかといまの僕は思うし父は、祖父の長男だったことにも想いを馳せる。従兄(母の姉の長男)は、父が出征した後のそういう僕たち家族を、見守っていてくれたのだ。

従兄はマニラで仕事のための小さなオフィスを持っていて、船で運んだ機材の陸揚げ許可がなされないのでマニラに事実確認と荷揚げ交渉のために訪比することになったのだった。商社の担当者にも状況を伝え、現地の役人との交渉に行くことに合わせて母と僕を誘ってくれたのだ。
余談だが、着いた日に係留されている船の様子を確認した後、役所にも同行させてもらい、この地での仕事をする様を垣間見た。翌日は商社の担当者を招いてゴルフ、僕も母を宿泊したマニラホテルに置いて、クラブや靴を借りてワンラウンド廻ったものだ。その夜はクラブへ、母と共に誘われたその様も僕の中に留まっている。

次の日、所員の車に乗って母と共にモンタルバンに連れて行ってもらった。その地の住民の方々にヒヤリングしくれたものの、父の亡くなったその様子を聞き取ることができなかった。死亡した場所、遺骨の様も聞き取れなかった。鳥取、島根の戦死した方々を祀るコンクリートブロックで作られた廟ともいえる建物があって、地元の男性が僕たちを見てカギを開けてくれたことを想い起こす。
でも印象深かったのは、ヒヤリングした数多くの方々の僕たちに対する「気の毒だね」とも思ってくれているような穏やかな姿が心に残っている。その後その地の教会に立ち寄って、神父にお願いをして追悼してもらい、その後毎日正午に一週間追悼の鐘を鳴らして欲しいとのお願いをした。

この40年も前になるひと時を、両陛下のフィリピン慰霊の旅の報道を目にして想い起している。
ことに、新聞報道で伝えられた、先の大戦でフィリピンが日米の戦場になったことに触れ、「貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。…私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでおります」との一文を繰り返し読む。