日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

奇蹟が起こるかもしれない! 都城市民会館の存続

2007-10-31 15:52:26 | 建築・風景

10月29日の朝、新潟行きの新幹線の中で妻からの電話を受けた。都城の建築家ヒラカワさんから電話があり、先ほど(29 日)、南九州学園の理事長が、都城市長に「都城市民会館」の20年間の借用を申し入れ、市長が「歓迎する、前向きに検討したい」と表明したという。
新聞報道もされ、ヒラカワさんの「本当に嬉しいニュース、全国の建築関係者も胸をなでおろしているのではないか」と言うコメントも記載されている。

南九州学園は、学園が運営する南九州大学を、2年後に宮崎市に隣接している高鍋町から都城市に移転させることになっている。そのキャンパス計画と設計を、建築家岡田新一氏が手がけており、氏が理事会に市民会館の使用を強く働きかけたようだ。大学はこの建築の建築的な価値を評価し「大学会館」というような名称に変えて使いたいと述べている。

移転するキャンパス計画地には、複雑な経緯があるようだ。しかし先代の市長のときからの大学誘致が念願の都城市にとって、アスベスト撤去などの復旧経費負担など課題はあるものの、現市長も選挙の時に、大学誘致を最重点項目として掲げていたこともあっての決断だと言う。

2005年12月に解体発表のあと、建築家が中心となった市民グループが、8196名の署名を持って2006年5月に市議会に請願を出し、それを受けた市議会では、6月、9月と継続審議になるなど、議員の間でも論議が起こった。
だが、12月の議会では不採用となり、解体が決定していた。更に、つい一月前の9月27日の市議会で、解体費の補正予算が紆余曲折のうちに市議会で採択された。そういう経緯もあり、今回の市長の発表は、市長を支えていた、解体促進派の議員からの反発もあるようだ。

僕の都城市民会館についての想いと行動は、8月6日のブログに「なくしていいのか都城市民会館」というタイトルで書いて以来、9月13日までに4回に渡って書き記した。
その後「日刊建設通信新聞」のコラムに、「建築は文化、経済の道具ではない」とタイトルを打ったメッセージを記載させてもらい、次回の日経アーキテクチュア「保存戦記」でもこの建築を取り上げ、校正が終わったばかりだ。文面はなんとなく慨嘆調になったが、それがそのときの偽らない心境だった。
そして補正予算採択の前に、祈るような気持ちで市長、DOCOMOMOプレートを送呈した時にお会いして話し合った副市長や、多数の議員に残してほしいと私信を出した。

僕だけではない。
都城でのシンポジウムで意見交換をした、東北大准教授の五十嵐太郎さんも、毎日新聞に書いた。DOCOMOMOでは、昨年の6月、メンバーの夏目さんが都城を訪れたときのメッセージが新聞に取り上げられたし、保存要望書を市長に提出し、7月に開催されたシンポジウムには、鈴木博之代表が参加した。東海大学で行われたDOCOMOMOの総会では、都城市民が出席し、サポートしてほしいと声をあげた。日経アーキの「昭和モダン建築巡礼」では、磯達雄・宮沢洋の名コンビでこの市民会館を取り上げ、磯さんがこの建築を`キメラ`と書いたのも記憶に新しい。
いずれもヒラカワさんたち地元の人々のこの建築に対する思いと、粘り強い活動あってのものだ。

いつものことだが、保存活動をしていて学ぶことは多い。
建築とは何かと真剣に考えたりする。この建築の存続に意義を認めない建築家もいる。壊したい人さえいる。なぜかと考える。でもこの建築に想いを託す大勢のひとがいる。出来ることをやる喜びもある。だけど建築がなくなって、自分の無力を感じることも多い。
でもやっていると奇蹟が起こることもある。なにもやらなくては、多分奇蹟は起こらない。今朝ヒラカワさんに状況はどう?と聞いた。奇跡が起こると確信しているという。

建築の保存に関わること、それは喜怒哀楽に充ち、まさに人生の軌跡そのものだ。

愛しきもの(2) おおらかな「道神面」

2007-10-21 16:03:38 | 愛しいもの

信州に伝わる素朴な民族信仰「道神」。
「幾多陰陽の稚気満々たる歓喜の道神は、元来神代の諾、冊の二神を祀り、平和と幸福を象徴する」そして、この神は「実に開放的で天真爛漫、自然そのままの感情を表現していた」と道神面の説明書に書いてある。

陰陽とか、諾、冊の二神が僕にはよくわからないのだが、この神はいつのまにか、旅の守護神や縁結びの神として社寺の境内や路傍に造立され、あがめられるようになっていったようだ。
興味深いのは、この神を、外から家に取り込む手段として「面」というかたちになり、暦のなかの十二直になぞらえつくられるようになったことだ。

最初に眼にしたのは、長野の善光寺のお土産やさんだったと思う。一目で魅かれ今では僕の持つもつ道神面は六面になった。
時には暗室になる洗面所の壁にかけてあるのは、12月「たいら」(写真の上段)と5月「とる」(下段)だ。`たいら`はなんとなくわかる。太平を形にするとこういう顔になるのだ。

`とる`の説明にはこう書いてある。「我慢すれば、待人来て願望開く」。御神籤に書いてあるようなコトバだ。ふーん!これは神様が我慢して踏ん張っている顔か。
僕の生まれた月、2月は`たつ`。「気力あれば立つ」と書いてある。僕は辰年。縁がありそうな・・
この面は、形が気に入って娘が持ってった。

一昨日(11月19日)JIA20周年大会で、哲学者内山節(たかし)さんの話を聞く機会があった。
人には三つの記憶があるが、その一つが「生命自体の記憶」。つまり日頃は意識していないが日本人の身体に宿っている、生命活動にかかわる自然信仰、それが祭りや木々を愛でることになっていくという。
JIAの大会だから、氏は、街をつくるときに、この記憶を思いおこすことが大切だと力説されたが、思い当たることがあり、共感できる考え方だ。
旅をしていてふと小さな祠に気を取られたり、人気のない杜に囲まれた小さな社寺に惹かれることが多々あるからだ。それは、沖縄の御獄に踏み込む時に感じ取れる気配でもある。

この道神面は、どれも素朴で愉快な顔をしていて、僕はその造形に魅かれるが、この面が神様だと思うと、なんとも嬉しくなるのだ。フイルムを増感現像するときのデータを貼り付けてある壁に、申し訳ないと思いながらも無造作にかけてあるが、おおらかな神様だから許してくれるだろう。


黒川紀章さんを悼む 後姿が・・

2007-10-14 12:19:05 | 建築・風景

12 日の夕刻、黒川さんが亡くなったとラジオで聞いた。息を呑んだ。親しい建築家から電話が入り、若い友人からメールが来た。建設通信新聞のTさんと信じられない思いで話をした。

僕が黒川さんと親しく接するようになったのは「中銀カプセルタワー」の保存問題が浮上するようになってからである。僕はJIA、DOCOMOMO、建築学会からの保存要望書作成や提出に関わった。管理組合の理事長や土地や3分の1ほどの床面積の権利を所有していた中銀マンションに、建築家や歴史学者と一緒に要望書を持っていった。そしてプレスに提出した旨伝え、この建築があの場所にあることが必要だと訴えた。

黒川さんから時折電話をもらい、状況確認のために秘書に電話すると、黒川さんが電話に出て話し込んだ。思いがけず、世界に知られるアメリカの評論家からメールが来た。数名の著名建築家からも電話をもらった。中銀に対する彼らの気持ちや評価は様々で、ますますあの建築がなくなってはいけないと確信するようになる。同時に僕の中の「黒川紀章」が変わって行った。思いがけないことだ。
神奈川県立図書館・音楽堂や東大生研の保存問題での黒川さんの発言などで、僕の中には、新しい建築にしか眼を向けていないという黒川像があったのだ。でも自作の中銀だから世に伝えたい、ということだけではないと僕は思い始めていた。

建築学会の神奈川大学での大会で、「モダニズムから70年代へ」と題したシンポジウムで話をしていただき、新国立美術館の「黒川紀章展」で、黒川さんと理科大の川向教授との鼎談で中銀や都市計画、つまり街づくりについて意見交換する機会をつくってくださった。
僕が注目したのは、黒川さんの「路地」論である。海外都市計画プロジェクトの紹介で、黒川さんは路地をつくらなくてはいけないと論じた。僕は路地は生まれるものだから、つくるのではなく残すのだと考えなくてはいけないと思っている。でも人が生活する上で路地が大切だという認識では一緒だ。路地問題は、人のスケールと建築の存在の問題でもある。心の底での共感が芽生えてくるのを感じた。
黒川さんはそういう一見ささやかではあるが、とても大切なことを市民に訴え、共感を得て都市を変えて、生きたいと念じていた、だから無理をして政治の世界にかかわろうとしたのかもしれない。俺しかできないと思っていたのかもしれない。

DOCOMOMOでは黒川さんの最初期の「寒河江市庁舎」を選んだ。100選展での展示とデーター収録の相談をしたところ、秘書に綿密な指示がなされていた。きちんとした方だと思った。担当してくれた秘書や、新国立美術館黒川展での秘書連の、あっけらかんとした明るさにも驚いた。

黒川紀章の評価はこれから時間をかけてなされるだろうと、黒川さんを悼む新聞記事では建築家や評論家が述べている。そうだろうが僕は、黒川展クローズドパーティのときの笑顔の黒川さんと、終わってから一人で、うなだれて控え室に向かう黒川さんの後姿が眼に焼きついている。


愛しきもの(1) 小林春規の「初冬」

2007-10-10 10:07:49 | 愛しいもの

版画家小林春規さんと出会ったのは何時のことだったのだろう。`新潟絵屋`で、新潟市内の、下町(しもまち)を題材にした5人の作品を展示し、美術評論家大倉宏さんの司会によってシンポジウムをやったことがあった。そのときだったような気がする。
僕はハーフサイズカメラで町屋の並ぶ下町を撮ったが、その写真を気に入ってくれた大倉さんから、展覧会での展示と下町を語るシンポジウムへの誘いがあって参加した。そこに新潟を描き続けている、小林さんの作品があり、小林さんがいた。

いや小林さんに初めて会ったのはもっと前の、新潟絵屋`ができた直後だったかもしれない。
この画廊は、大倉さんを中心とした、新潟の街並みを愛する人たちが集まって、下町の一角にある連子格子の町屋を借りて、手を入れ開設したのだ。
展覧会は必ずしも新潟の作家や作品にこだわっていないが、新潟にゆかりのある作家を大切にする。だから`新潟絵屋`は新潟に根付いた。
その下町も都市計画道路開設によって、大半の木造家屋、つまり町屋がなくなった。絵屋も取り壊されることになり、並木町から上大川前通りに6月3日(2007年)に移転した。僕はまだ行っていない。今月末に訪れるのが楽しみだ。

大倉さんとは、もう10年も前のことになるが、JIAの保存大会を新潟でやって以来のお付き合いだ。僕の設計したホテルの定期点検で 新潟に行くと、仕事が終わった後、絵屋を覗き、大倉さんや大会以来親しくなった人たちと一杯やるのが楽しみ。そこに小林さんがいたりすることがある。

昨年の秋、絵屋と姉妹関係にある画廊フルムーンで、小林さんの個展が行われた。
そして発見したのだ、小林さんの版画を。小林春規の版画が突然見えたのだ。不思議な出来事だ。小林さんの素朴な木版画は、何度も見ているし、版画論を時を忘れて語ることもあるのに。
電流が背中を走ったように身体が震えた。
「新潟の光ってこうなのですよ」と大倉さんは云う。「初冬」の重い空の厚い雲の間から、北の光が僕に突き刺さる。


田原桂一の 闇のない「光の彫刻」

2007-10-04 22:15:20 | 写真

僕の書棚の何時でも取り出せる場所に「顔貌」がおさまっている。1988年にパルコ出版局から発行された、写真家田原桂一の撮った肖像写真集だ。表紙を開くと、闇の中に顔の半分だけに光を当てた建築家Ricardo BOFILLが現れる。闇といっても漆黒ではない。右下にかすかな光を帯びた、ボケた小さな物体が写っている。

9月26日の夜、建築家会館大ホールでのJIAトークで、田原桂一の講演を聴いた。チラシに書かれたタイトルは「光の彫刻」。
田原桂一は、写真を考えるときに欠かすことのできない類型のない写真家だが、一瞬だが田原は写真家だったと過去形で言った。氏と親しい建築家山岡さんも、氏を紹介するときに写真家とは云わなかった。
今では光の彫刻家であり、造園家であり、都市計画家でもあり、パリ市とフランス文化庁からの依頼によって映画作品「Cendres」を撮った映像作家、もしかしたら建築家といってもいいかもしれないという。

幼いときに祖父に連れられて歩いた杉林の、足元が覚束なくなる不安感と共に感じた、刻一刻と変化する木漏れ日の不思議さと、11才のときに見た、広島の原爆堂に残された石の壁面に焼き付けられた人の影に光のエネルギーを感じ取り、「光への旅」が始まったという。話しでは異常なまでに「光」にこだわった。

僕が会場から質問したのは、写真「顔貌」(プロフィール)と、田原桂一の考える「写真とアート」の関係だ。僕がずっと気になっていたことでもある。
「プロフィール」シリーズは氏の代表作の一つだが、講演で氏は、フランス語も英語も話せない21才のとき渡仏し、毎日煤で曇った屋根裏部屋の窓から空や屋根を見て過し、それを写真に撮り続けたが、ヨーロッパを理解するために、アーティストを撮ろうと思ったと述べた。
「顔貌」を見続けてきた僕が気になっていたのは、田原桂一は「人を撮ろう」としたのではないのではないかということだ。つまり人に興味があるのではなく、写真の素材として人を撮ったのではないか、それもアートとしての写真として。写真とアートの関係は、結構な「命題」なのだ。
僕が写真を撮ることに魅かれるのは、人を視たいと思うからだ。建築を撮るのも、記録という側面はあるとしても、ふと僕は人の気配や軌跡を探っているのだと感じることがあるのだ。写真家という「人種」は、人を撮るのだとどこかで僕は思っている。

しかし彼の答えはやはり、ヨーロッパを理解するために人を撮ったと言う。
そうだろうか?でもただの人ではなく、アーティストを撮ったところに、若き日の氏の思惑があるような気がした。
氏はモホリ・ナギやマン・レイを曳きだし、こともなげに写真はアートだと述べた。
僕は、「田原さんは一廻り僕より若いが、田原さんの上の年代には、ロバート・フランクやウイリアム・クラインが現れて写真の世界に大きな刺激を与えた。日本ではその影響を受けて、僕と同世代の中平卓馬や森山大道を生むことになったけれど、彼らは写真をアートとは考えなかったですよね」と突っ込んだ。「確かに其の世代の写真家は、報道という写真ジャンルに惹かれたが、彼らも始めは写真をアートとは考えませんでしたね、クラインは親しい友人だが、でも彼も変わっていった」。

興味深いのは、氏が紙焼きでは光を捉えられないと感じ、石に乳剤を塗って焼き付けたり、光は透明なので透明なガラスに写真を焼き付けることにトライしたことだ。それが写真を超えた活動につながっていく。
でも僕は田原さんは写真家だと思いますよと、畏敬をこめて続けた。「でもね、銀塩といっても今の印画紙にはほとんど銀の粒子は含まれていないのですよ。富士フイルムと相談したが、今の技術では(需要と供給の関係があるのかもしれないが)昔のような印画紙はつくれないといわれてしまった」。これでは「光を写し撮れない」といいたいようだ。
そうなのだ。氏の「窓」や「都市」のシリーズの、あの得も云われない粒子の「粒」がなくては、写真家田原の求める光が捉えられないのだ。

パリの屋根裏部屋で、仕事もなく、といって日本に帰ることもできない日々を過した若き日、じっと我慢して吸収することだけがあった日々。それでもいいのではないかという、若い人へのメッセージも、その吸収する日があったから傑出した「窓」シリーズが生み出されて今ある田原氏のコトバとして説得力がある。
氏は率直にいらいらしているといった。なにかを模索しているのだ。印画紙に定着できない写真家田原桂一の姿がそこにある。
しかし氏は「光」を語ったが、光の生み出す「闇」には触れなかった。