10月29日の朝、新潟行きの新幹線の中で妻からの電話を受けた。都城の建築家ヒラカワさんから電話があり、先ほど(29 日)、南九州学園の理事長が、都城市長に「都城市民会館」の20年間の借用を申し入れ、市長が「歓迎する、前向きに検討したい」と表明したという。
新聞報道もされ、ヒラカワさんの「本当に嬉しいニュース、全国の建築関係者も胸をなでおろしているのではないか」と言うコメントも記載されている。
南九州学園は、学園が運営する南九州大学を、2年後に宮崎市に隣接している高鍋町から都城市に移転させることになっている。そのキャンパス計画と設計を、建築家岡田新一氏が手がけており、氏が理事会に市民会館の使用を強く働きかけたようだ。大学はこの建築の建築的な価値を評価し「大学会館」というような名称に変えて使いたいと述べている。
移転するキャンパス計画地には、複雑な経緯があるようだ。しかし先代の市長のときからの大学誘致が念願の都城市にとって、アスベスト撤去などの復旧経費負担など課題はあるものの、現市長も選挙の時に、大学誘致を最重点項目として掲げていたこともあっての決断だと言う。
2005年12月に解体発表のあと、建築家が中心となった市民グループが、8196名の署名を持って2006年5月に市議会に請願を出し、それを受けた市議会では、6月、9月と継続審議になるなど、議員の間でも論議が起こった。
だが、12月の議会では不採用となり、解体が決定していた。更に、つい一月前の9月27日の市議会で、解体費の補正予算が紆余曲折のうちに市議会で採択された。そういう経緯もあり、今回の市長の発表は、市長を支えていた、解体促進派の議員からの反発もあるようだ。
僕の都城市民会館についての想いと行動は、8月6日のブログに「なくしていいのか都城市民会館」というタイトルで書いて以来、9月13日までに4回に渡って書き記した。
その後「日刊建設通信新聞」のコラムに、「建築は文化、経済の道具ではない」とタイトルを打ったメッセージを記載させてもらい、次回の日経アーキテクチュア「保存戦記」でもこの建築を取り上げ、校正が終わったばかりだ。文面はなんとなく慨嘆調になったが、それがそのときの偽らない心境だった。
そして補正予算採択の前に、祈るような気持ちで市長、DOCOMOMOプレートを送呈した時にお会いして話し合った副市長や、多数の議員に残してほしいと私信を出した。
僕だけではない。
都城でのシンポジウムで意見交換をした、東北大准教授の五十嵐太郎さんも、毎日新聞に書いた。DOCOMOMOでは、昨年の6月、メンバーの夏目さんが都城を訪れたときのメッセージが新聞に取り上げられたし、保存要望書を市長に提出し、7月に開催されたシンポジウムには、鈴木博之代表が参加した。東海大学で行われたDOCOMOMOの総会では、都城市民が出席し、サポートしてほしいと声をあげた。日経アーキの「昭和モダン建築巡礼」では、磯達雄・宮沢洋の名コンビでこの市民会館を取り上げ、磯さんがこの建築を`キメラ`と書いたのも記憶に新しい。
いずれもヒラカワさんたち地元の人々のこの建築に対する思いと、粘り強い活動あってのものだ。
いつものことだが、保存活動をしていて学ぶことは多い。
建築とは何かと真剣に考えたりする。この建築の存続に意義を認めない建築家もいる。壊したい人さえいる。なぜかと考える。でもこの建築に想いを託す大勢のひとがいる。出来ることをやる喜びもある。だけど建築がなくなって、自分の無力を感じることも多い。
でもやっていると奇蹟が起こることもある。なにもやらなくては、多分奇蹟は起こらない。今朝ヒラカワさんに状況はどう?と聞いた。奇跡が起こると確信しているという。
建築の保存に関わること、それは喜怒哀楽に充ち、まさに人生の軌跡そのものだ。