日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

初蜻蛉(はつとんぼ)

2013-08-27 10:57:50 | 添景・点々
初蜻蛉(はつとんぼ)

こういうのはどうだろう。

`初蜻蛉わが先にとびゆきまた還る`

自宅を出て駅に向かう通路で、今年初めての蜻蛉(トンボ)に出会う。昨夜は小雨が降り窓を閉めて寝たが、真夜中、ふと目が覚めてほんの少し開けてみた。涼しい風が通り抜け閉めるのもおっくうで毛布をかぶって寝る羽目になった。蜻蛉に出会う寸前、たわわに花をつけた百日紅(サルスベリ)が、くぐろうとした僕の顔にしたたかに雨粒をこすり付ける。気が付くと新宿超高層の街路のケヤキ並木が色づき始めている。それでも西口中央公園では蝉が声を振り絞って鳴き続けている。蝉殻が小枝に幾つもへばりついているし、歩道には時折ひっくり返った蝉が落ちている。こんなところにいると踏んづけられちゃうよ!とおもって草むらにそっと横たえる。秋が忍び寄ってきたのだ。僕の好きな、好きなはずの秋が・・・

4000本安打

2013-08-24 18:34:30 | 日々・音楽・BOOK
イチローが4000本安打を打ってから3日を経た土曜日の今朝、ヤンキースのレイズとの試合を観る。黒田が投げて負けたが、イチローの打席のときに時折4000本安打達成時の映像が挟み込まれるものの、イチローが打席に立っても観衆からの何の反応も伝わってこなかった。米紙ではささやかな報道しかなされたかったとも聞く。でも総立ちになったヤンキースタジアムの観衆や累乗に駆け寄った選手たちの姿に、野球が好きでその場に立ち会った人たちの率直な気持ちが伝わってきて嬉しいものだった。今日の試合はレイズの本拠地のせいかもしれないが、ヒットが出なかったこともあり、4000本安打が通過点であるのも確かなことなのかもしれない。

その3日前の21日の朝、いつものようにTVのチャンネルを回す。
ヤンキースタジアムでのブルージェイス戦での第一打席の左翼へのクリーンヒットをリアルタイムで見て、いつものように、いつもの時間に本厚木からブルーのロマンスカーMSEに乗る。まだ夏休みの余波で賑やかな子供連れの家族の多い車中で、過ぎていく窓の外の風景をぼんやりと見ながら、人の可能性の無限のようなものを考えていた。

ピート・ローズは「4千本安打を認めない」と述べ、大リーガーのプライドを評したが、その論旨の中に、大リーガーは年間の試合数や時差や移動距離が違ってハード、同列には論じられないとある。しかし、言葉の違いや異なる風土、生活習慣の違う中でのプロとしての施業に僕は瞑目する。そしてプロとしてのとてつもない努力を思う。

イチローはリベラやジータと同じフィールドにいること自体が喜びだと言う。野球少年だ。でも時を経れば、それはベーブルースや、ゲーリック、或いはヨギ・ベラというキャッチャーと同じ舞台に立っていたということと同じことになるのかもしれない。そしてまたいずれ異国から来た偉人と同じ舞台で戦ったのだと多くの球人からイチローも言われることになるのだろう。


建築家倉本龍彦と竹原義二の自邸

2013-08-16 13:48:55 | 建築・風景
昨日は終戦記念日、敗戦と言わずに終戦とは!という論考も新聞紙上で垣間見たが、「過去があって現在(いま)があり、現在があって未来がある」と上記と併せて終戦の日のいまの政界陣の様を考えることがある。釈然としない。
現在もすぐ過去になっていくが、1945年8月15日を実体験した人たちが少なくなって、ただの文字の上での記憶になっていくのは致し方がない。それでも何がしかの形で記録としてとどめておくのは、人が「生きていくことを」考える上でとても大切な行為ではないかとも思うのだ。

僕が建築ジャーナル誌で連載をしている「建築家模様」のスタートは、建築家の実像を社会と建築界へ、ことに若い世代に伝えたいという長年の思いが実ったものだが、何人もの建築家に会って話を取り交わすと、いまの建築家の様相だけでなく、建築家のなすことは、過去と現在と未来を考えることに繋がってながることだと、改めて実感することになった。

北海道の建築家「倉本龍彦」の項を脱稿し、大阪を中心として仕事をしている「竹原義二」の項の構想を練り、書き出している。一言書き出すと全体像が見えてくるのだ。文章を書くときの僕の一試行である
倉本は道都大学の名誉教授となり、大阪市立大学の教授だった竹原も退官したが、二人は次代を背負う若者を育て上げてきた言わば建築界の強者だ。
仕事ではとてつもなく厳しい二人の、懐の深い大らかな一面を垣間見て、物をつくる僕たちの仕事の神髄を改めて汲み取ることになった。

僕より若い二人だが、倉本は引退・事務所を閉じ、著作「無有」を著した竹原は、原点「閑谷学校」から記述をはじめ、『還る場所を求めて』という小見出しで再度閑谷学校に触れ、自邸「101番の家」に還りつき、「新たなる建築の旅に出るのである」と結ぶのだ。
僕の興味を引いたのは、二人の建築家の4畳半、つまり一間半(竹原は3、3メートルという数値をいうが)角空間への思いとのその論考、共通項だ。4畳半に廊下・通路をとると3畳になる。その豊かな味わい深い人の住まうことの空間、一見半角つまり4畳半という広さは、ほぼ同世代の傑出した二人の建築家のその原風景なのだ。

<文中敬称略 写真 上:倉本邸 下:101番の家>


花火の夏の夜

2013-08-04 12:26:50 | 生きること

福岡ではしご階段を滑り落ち、わき腹を打つなどし、翌日曜日の朝、長崎の救急病院でレントゲンを沢山撮って貰って診察してもらったが骨折はしていないとのことでひとまずホッとする。
古町の実家を訪ねた後、伯母も同乗して茂木港まで従弟が車で送ってくれた。富岡港には小学生時代の親友、吉田君が迎えに来てくれた。僕の母校のある下田温泉へ向かう。6年ぶりの下田だ。そしてショックを受けることになる。

138年前に開校したという我が母校が、この3月で閉校、同じ天草町の他の4校も閉校して、嘗ての隣村高浜小学校に統合されたとのこと。天草市になったにも関わらず過疎化が進むこの地の様相を実感し、友人一視君の妹が女将となった泉屋旅館で寝っころびながら、とっくに無くなった小学生時代の住屋や関連している過疎のこと、次々と我が原風景が消えていくことなどをぼんやりと考えることになった。

さて我が家に帰ってきたら、厚木市の「鮎祭り」の花火である。ここ数年横着して4階の我が家の窓から音が響くたびに身を乗り出してみていたが、今年も同じこと、これは新作だなどと妻君や久し振りに来た娘と能書きをいいながら、行ったりきたりしたものだ。