日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

旅 トルコ(9)三つのホテル

2007-03-31 10:56:34 | 旅 トルコ

イスタンブールでの「ベラ・パラス」、アンカラの「ラディソン・サス」そしてギヨルメ村の洞窟ホテル「ケレベッキ・ブティック」が僕の泊まったホテルである。どれも知られている一流ホテルだったことはコトバの不自由な僕にとってはありがたいことだった。予約してくれた藤本さんに感謝しなくてはいけない。

ベラ・パラスでは航空券を見せて「リコンファーム、プリーズ」を繰り返したところ、しょうがないねという顔をしながら、それでもにやりとウインクしてトルコ航空へ電話してくれた。旅行社のいない一人旅のリコンファームは結構厄介なのだ。まずトルコ航空を探すところから始めなくてはいけないからだ。
ラディソン・サスでは僕のしどろもどろの英語に困惑しながらもちゃんとバスの席、それも窓際を取ってくれた。

ケレベッキ・ブティックでは翌朝フロントのおばちゃんがニコニコしながら僕を招く。何だと思ったらノートパソコンに日本語のメールが来ているのだ。心配した藤本さんからの大丈夫か?と言うメッセージ。なんと日本語のフォントがPCに入っているのだ。いやいや皆僕が一人で大丈夫かと心配してくれている。うれしいやらなんとも情けないやら!

アール・ヌーボー装飾に満ちたベラ・パラスはアガサ・クリスティの定宿として知られているが、グレタ・カルボやマタハリのネームの掛かっている部屋がある。ぼくの部屋には、モンテネグロの首相が泊まったようだ。
物珍しげにプレートをたどっていたら年輩の男性が現れて手招きされた。共和制を築き上げた近代トルコ建国の父「アタチュルク」の部屋を案内すると言う。

アタチュルクの泊まったことがベラ・パラスの誇り、ステータスになっているのだ。部屋には様々なパネルが展示されている。見入っている僕をうれしそうに見ながらもなんとなくもじもじしている。そうだ、チップだ。ポケットを探ってあせった。金がない。コインなど在るだけのお金を渡した。その様を可笑しそうに見ていてそれでもニコニコしてうなずいてくれた。後日篠田夫妻が「アタチュルクの部屋を見たぜ」と言うので僕も、と言ったら40YTLだったという。えーっ僕は7YTLと返したら愕然としていた。どんなもんだい!

アンカラからもどって再度泊まったベラ・パラスの今度の部屋は最上階、屋根裏部屋風でなかなかよろしい。チンとベルを押すとボーイ(おじさんだけど)がエレベーターを動かしてくれる。そのエレベーターの籠はアールヌーボースタイルの鉄のバーでできているのだ。

「ラディソン・サス」は最新の超高層ホテルである。地下鉄ウルス駅に隣接しているし、アンカラ城へも歩いていける便利な場所にある。
初日は予約どおりツインベッドルーム、ギヨルメから戻ってきてどっちにするかと問われたので、これも体験だとラージベッドルームを選んだ。それがなんとも・・風呂がなくシャワールームのみ、それが透明ガラス張り、いわゆるその手のつくりなのだ。コンベンションルームもある大ホテルの部屋がねえ、と世界は変われど男女の世界は変わらないものだとなにやら安心した。

やることがないので部屋に入った。だんだん薄暗くなっていく。バスもトイレも奥にあるので真っ暗だ。何しろ何だかわからないけど電気が来ないのだ。まあしょうがないやとベッドで横になる。20分ほどボートしていたらぱっと電気がついた。見上げた天井のライトアップされた鑿(のみ)の跡が突然現れた。ああこれが洞窟ホテル。ニコニコしたおばちゃんのいるアットホームなホテル、カッパドギア・「ケレベッキ・ブティック」だ。

<写真 洞窟部屋とフロントのおばちゃん>

舞った、翔けた! 可愛い東女旧体育館

2007-03-25 23:53:03 | 建築・風景

`ちゃっぱ`という小ぶりなシンバルに似た鉦(かね)と、それを支えるような太鼓の音に旧体育館が震えている。「鳥舞」が始まっているのだ。

鶏の姿を模した被り物を頭に抱き、白い扇子を手にして二組の二神が舞う。日本の土地を生んだ神々、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が仲良く舞っているのだ。繰り返されるリズムを刻むだけの鉦の音が単調さを超えて豊かに響き渡る。踊りを呆然と観ながらその鉦の響きに浸りきり、これは神にささげる音なのではないかと思った。

何時の間にか踊りは「三番叟」(サンバソウ)に変わった。
仮面をつけた踊り手が、跳びはね激しく踊る。案内書に「揺れる千早の美しさ」と記されているが、足拍子のリズム感が、舞いの美しい形となって観ている僕たちに迫ってくる。凄い体力だ。
三番叟のこの舞手は、東女の体育授業「日本の踊り」を指導する師匠で、還暦を迎えるのだという。そげた頬、精悍な風貌を持つこの舞手あっての鳥舞と三番叟。この二つの踊りは東北地方に伝承されてきた古能`山伏神楽`だという。

善福寺にある可愛い東京女子大学旧体育館で、東女の学生が中心となって行われる踊りの会に誘われて出かけたのは、3月3日、雛祭りの日だった。
僕の好きな体育館での踊りの会。好奇心を刺激されたのだが、神にささげる神楽を踊るのだとは思いもよらなかった。だがまさに思いもよらず惹きこまれた。

笛が加わり華やかな音が醸し出されると、「ゆらい」と呼ばれる赤い被り物をまとい、だらりに結んだ帯を締め、華麗な着物をまとった8名の美女群による踊りが始まった。古歌舞伎「小原木踊り」だ。着物の柄も色も様々だが扇の手振りも華やかで陶然とする。夢を見ているようだ。
この踊りが体育授業の受講者による先輩と現役の学生によって構成され、ICU(国際基督教大学)で教えていた指導者と共に公演されたということも、東女の懐の深いところだと感銘を受ける。

この「日本の踊り」は場を得たと思った。
ホールでは趣が違ってくるだろうし、大きな体育館ではこの風情を味わうことはできない。神に奉納する場合は、内とも外ともいえない神殿や神楽舞台で舞うのだろう。この東女の旧体育館は体育館だがそれを迎い入れることができるのだ。この後行われた東女フォークダンスクラブと慶応義塾の学生による「フォークダンス」では、この旧体育館は広々とした平原になった。

アントニン・レーモンドの設計によるこの建築は、レーモンドの故郷チェコキュビズムと、帝国ホテルの設計のために一緒に来日した師匠フランク・ロイド・ライトの影響がまだ残っていて、あの大きなライトの好んだ鉢を持っていたりしてとても魅力的だ。周囲の校舎との調和を保つために高さを抑えたこの体育館は、レーモンド建築の軌跡を考えるときに欠かせない建築でもある。

この体育館は「社交館」とも呼ばれていて、2層になっている体育館の両サイドの2階には暖炉がある.
そこでは教師と学生が暖炉に手をかざしながら、様々な対話をしてきたことだろう。この体育館では嘗て芝居が行われたり、今でも社交ダンスクラブでは東大、フォークダンスクラブは慶応義塾、日本の踊りはICUとの交流が行われているが、稽古や発表会の後この部屋を使って和やかな交歓が行われていることだろう。ロマンスが生まれたこともあるに違いない。

踊りの後の懇親会では、暖炉の前での東女OGの作家近藤富枝さんの軽妙な話術に笑いが絶えなかったが、それも豊かな東女の伝統だ。この体育館はここに学ぶ学生の生活にとって欠かすことの出来ない建築なのだ。

東京女子大では「東寮」とともに、この建築を壊してしまうのだという。
信じられますか?

<この華やかな「小原木踊り」の写真を見ていただきたいのだが、地方に伝わるこれらの日本の踊りは秘伝になっていて残念ながら公開できない。公演の後見学者と共に行われた稽古の模様の写真を見て頂くことにした>


素敵な絵本「だんご鳥」

2007-03-21 10:30:22 | 日々・音楽・BOOK
 
写真家飯田鉄さんの奥さん`飯田朋子`さんが、素敵な絵本を書いた。新日本出版社からの「だんご鳥」。絵を描いたのは多摩美OBの長野ともこさんだ。
作者紹介が書かれている。武蔵野美術大学油絵学科OBの朋子さんは、「子供の造形教室」を主宰している。でも児童文学同人誌連絡会「季節風」の同人だということは知らなかった。絵を描くのではなく文章を書くというのがこれで納得できる。

一昨年、飯田さんの写真展に現れた朋子さんはなんとも素敵で、この夫人在っての鉄さんかと思わず口をついたら、そのはにかむ様子にああいいなあ!と思ったものだ。
「だんご鳥」のちょっとハードボイルド風の文体がいい。僕好みだ。絵本にハードボイルド?まあ読んでみてください。

翔はこう言う。「ねえちゃんは、はっきりいってみんなとちがう。いつもニコニコ笑っている。そしてときどき悪魔に変身するんだ・・・」何処にでもあるような、それでいて家族ってこうなんだよな!こういう家族っていいなあ!と胸がキュとなるお話し。

送ってくれた飯田さんへの僕のお礼の返信のはがき。ちょっと格好よくこういいたい。「下記に記す」。

<鉄さんへのハガキ>
『冒頭の小見出し「梓ブランド」から、おやっと思った。梓は、登場するご夫妻の長女なのだ。翔はその弟。「ぼくは、親子の境界を越えて、勝手に自分の世界に浸ることにした」などという翔は、案外朋子さんの旦那、鉄さんをモデルにしたのかも・・・朋子さんの「鉄」感か。

まず登場した母さんは、多分飯田夫人。なんともおかしく魅力的。「翔、こっちがいいかしらねえ、まって、こっちがひきしまって見えるわよねえ」
母さんは、毛糸で編んだ細長い長方形の梓ブランドを首に巻いて、鏡台の前でとっかえひっかえ、ファッションショーをやっていた。
でも翔の父さんはちょっと鉄さんとは違うかも。
いやいや、もしかしたら鉄さンの本質そのものか?

などなど思い巡らしながら、途中でグッとくる涙をこらえてあっという間に読んでしまいました。この絵本の面白さが今の子供たちに理解できるのでしょうか?この絵本が今の子にわかるのでしたら、まんざら今の世も捨てたものではないと思ったものでした』

ところで「だんご鳥」ってのは、翔がつくったインコ。
「ヒバリだか、スズメだか変な鳥いっぱい」梓がお父さんのお店で働くことになったので「ショーウインドーに飾ろうとおもって」「冗談だろう」「本気だよ、夢の実現」なんでぼくのインコと関係あるわけ。猪突猛進の母さん。


残すべき建築はないのか?

2007-03-18 11:28:40 | 東京中央郵便局など(保存)

東京大学本郷キャンバスで2月17日、18日の二日間に渡って行ったJIA保存問題東京大会は、初日の午前に行ったキャンパスの見学会のあと、それぞれのテーマを上げて四つのセッションでパネルディスカッション(シンポジウム)を行った。
僕は初日の第2セッションで日本の第一線で活躍しているジャーナリストを招いた座談会のコーディネーターつまり聞き手として参加し、弥生講堂で行われた二日目の総括的な第4セッションではパネリストとして意見を述べた。

気になって思わず手を上げたくなったのは、若手の論客を招いて「保存と創造」と言うタイトルの第三セッションでのことだ。
招いたパネリストは、東北大助教授で評論家の五十嵐太郎さん、みかんぐみの建築家加茂紀和子さん、建築家手塚貴晴さん、それにJIA保存問題委員でポルトガルの大学の研究生として、歴史的建造物の調査などの経験を持つ倉澤智さんで、副委員長の金山真人さんが進行役を担った。

問題は手塚さんの発言だ。
手塚さんはイギリスの著名な建築家、ロジャースの事務所に学んだ後現在は武蔵工大で教鞭を取る傍ら、住宅を中心とした新鮮な作品を発表し続けている人気作家である。手塚夫人の由比さんの父親は僕の大学時代の同級生で、親交深い建築家だ。

彼は日本の都市についてのこういう言い方からスタートした。
成田について車窓から街並みを見ると愕然とする。「美しくない」。
これはヨーロッパやアメリカから帰ってきた人がよく口にするコトバなのでさして気にすることもないが、それはつまり日本には残すべき良い建築はないということになるようで、99パーセントは壊さなくてはいけないと言うのだ。僕はその論旨におやっと思った。司会から疑問を呈されると、いや96パーセントかと笑ったが、残したい建築なんて!とつぶやくように思い巡らせる姿に驚いた。本当に思い浮かばないようなのだ。

更に手塚さんは、イギリスに例を取り、都市のありうるべき姿、街並みを構成する建築(住宅)は隣家と接して連なっているべきで、お互いに中庭を持ちそこへ降り注ぐ光を享受しなくてはいけないと言う。
聞きながら町屋の姿を思い浮かべ、それは確かになかなか魅力的だが、手塚さんの良き都市のイメージはそうなのだろうか、それが都市のダイヤグラムだと言いたいようだがと首をひねった。
日本の住宅は前庭を持ったり隣棟間に無秩序に植樹がされたりして町並みを構成していない。日本の都市のダイヤグラムは崩壊している。都市の建物群を解体してこれから僕たち(の世代)が都市を組み立て直さなくてはいけない、と言うのだ。

嘗て僕の後に委員長を担った委員会OBの篠田さんが会場から「問題提起として意識的に過激な発言をしたと解釈するが、どの建築にも残す意味があると思う」とやんわり反論すると、すかさず、「篠田さんの発言も恣意的に発言したのでしょうと返したい」となにやら禅問答気味に言葉を返した。そして良い建築を造ることが建築家の仕事だと述べた。
それはそうだ、それが大切なのだと参加したパネリストは頷いたし、勿論僕だってそう思う。でも前段の論考を聞いた後だと何だか開き直った言い方のようにも聞こえてくる。

僕が恐いと思ったのは、それを題目に壊してつくることが容認されることだ。それこそ都市を壊し続けてきた『スクラップ・アンド・ビルド』と言う考え方ではないか。
建築家に、建築に対する生活者の想いやそこに宿った人の記憶を壊す権利があるとでも言うのだろうか。そして悩み試行錯誤しながらも日本の建築文化を築いてきた先達の培ってきた物語に思いを馳せなくても良いのだろうか。
まあもしかしたら、それくらいの元気がないと今の日本では建築がつくれないのかもしれないなどと、ふと思ったりもしたが、若い世代に僕たちの建築に対する想いを託して良いのかと胸が騒ぎ出す。

会場から手を上げた元JIA会長の大宇根さんが「ではあなたのつくった建築は30年後も建っていると思うか?」と問うと、それはカーサブルータスに聞いてくださいとはぐらかした。手塚さんのつくる建築は若き世代に影響を与えているカーサブルータス誌でも人気があるからなのだろう。
述べてきたことがこの日の手塚さんの発言の全てではないが、論旨はほぼ一貫していた。
こういう論旨を述べる建築家が若者を指導しているのだ。

加茂さんが、私も成田に降り街並みを見ると日本は問題が多いと感じるが、すぐに街に同化し良いところが見えてきてホッとすると述べた。こういう素敵な若い建築家もいる。

五十嵐さんが、日本橋の上を走る高速道路問題を取り上げ、仮に高速道路を壊したとしたらその後の街づくりを関係者は本当に真剣に考えているのかと言う問いも重い。
五十嵐さんは、NHKの「視点・論点」と言う番組でこの問題を取り上げ、日本橋の上を走る高速道路も見方によっては魅力的な都市景観を構成し、川の上の交差する箇所などなかなか美しい。これを壊すことはいわゆるスクラップ・アンド・ビルドと言うことなのではないのかと問うた。偶然に見たこの番組での言葉の持つ意味も考えなくてはいけない。

僕の第四セッションでの発言は、PPで映したこういう言葉で始めた。
「美しいと言う言葉の危うさ」

講談中興の祖二代目松林伯圓 第33回「伯圓忌」

2007-03-13 11:32:45 | 日々・音楽・BOOK

日暮里の南泉寺で毎年2月8日に行われる「伯圓忌」。
今年は白梅が花を持ち、紅梅も蕾がちらほら枝についた暖かい日差しに満ちた好天気になった。二代目伯圓の墓の前で宝井琴調さんと、雪が降ったこともあったヨねえ、うーん、これも温暖化ですかねえなどと言葉を交わしながら空を見やる。

ひところ講談家の写真を撮ることが僕のライフワークだと通いつめた定席にも、8年撮った高座の写真展をやった途端モチベーションが減退して通わなくなってしまった。しかしこの伯圓忌は余程のことがないかぎり欠かしたことがない。
仲の良い講談家にもあえるが、長いお付き合いの評論家、写真家や講談友達にも会える。いやそれだけではなくこの会を主催する六代目宝井馬琴師(講談の世界では先生というのだが、会って話しをするときは一門のお弟子さんと同じく師匠とよび、ウチでは親しく馬琴さん)とのご縁もあるからだ。

馬琴師は母校明大の先輩というだけでなく、何だか気心があい、時折酒を酌み交わす(と言ってもいつもご馳走になるのだが)こともあり、芸の最高峰にいる人から聞く芸談は刺激に満ちている。好奇心を満足させてくれるだけでなく、生き方をも考えさせられるからだ。
僕も講談をかなり聞きこんでいるし、講談史や評論,芸談の類は読み漁ったことがありそれなりの薀蓄を傾けることができる。何より馬琴師の修羅場の読み口にぞっこんなのだ。時折詠み込まれる緩急自在なリズムに酔いしれる。伝統話芸・講談美学だ。酒を飲みながら修羅場論を取り交わすなんてなんて贅沢な。学校の後輩という役得をしているような気がしてくる。

そしてこのところ途絶えてしまったが、僕が裏方で仕切っている本牧亭で行っていた馬琴師が修羅場(軍談)を読む「馬琴と修羅場を楽しむ会」は6年続いたし、年2回の助っ人に落語家を招き明大OBが楽しみにしている通称 `鰻やの会` は、昨年の12月に22回目を行った。この会が縁で落語家とも親しくなる。20回記念には落語協会会長の鈴々舎馬風師匠、馬琴師の講談協会会長就任記念になった第21回には林家木久蔵師匠を招いた。

本堂で管主による読経と参列者一同による「般若心経」を唱えたあと焼香をし、墓に向かう。管主がお経を読み、馬琴師がお参りした後は近くにいる人から適当にお参りする。写真家の森さんと横井さんが良いポジションを得ようと工夫しているが、僕も一頃そうだったなあと思いながら、今は一参列者として楽しむ。和やかで穏やかな風景だ。

それでも田辺から桃川になった鶴女さん、鶴英さん、つる路さんたちから「撮って」と言われ、年増の三人官女だねえと馬鹿を言いながらシャッターを押した。
「つる路さん、秋には真打だって?よかったねえ」とお祝いを言う。何しろはじめて上がった見習い高座の写真を撮ってあげたこともあったのだ。

二代目松林伯圓(しょうりんはくえん)は、天保5年(1834年)6月2日下館生まれ、明治38年(1905年)没。講談の中興の祖と言われるのは、創作力に秀で「鼠小僧」「安政三組盃」歌舞伎でも人気の「天保六花撰」など数々の講談本を創作し、講談を引っさげて芸能の世界に大きな力を発揮したからだ。得意の芸域にちなんで「泥棒伯円」の異名をとり、当時の芸人番付では、一方が八代目団十郎、片方が伯圓と位置づけられるほど人気者だった。落語の円朝人気をしのいでいたのかもしれない。この「伯圓忌」は馬琴師が33年前に組織したのだ。

墓参りからお寺に戻りお酒も振舞われる会食(毎年お寿司)を楽しむ。例年だと講談研究者による勉強会の後会食になるのだが、今年は伯圓の名作「お富与三郎」の名場面、切られ与三が啖呵を切る『玄治店』(げんやだな)の場を神田翠月先生が読むと言う。
度胸があるねえというのは僕の隣に座ったベテランの講談家。何しろこの会は講談家だけでなく評論家や講談にうるさいセミプロっぽい愛好家の集まりなのだ。いやいやそんなの意にも介さずさすがに翠月先生は聞かせる。拍手喝采だ。

さて今年の勉強会・講義は、武蔵野美術大学助教授の今岡健太郎さんだ。タイトルは「伯圓と乾坤坊斎 種について」。
「乾坤坊斎」なんて始めて聞く名だ。聞いてもすぐに忘れてしまうのでここに詳細を記せないが、伯圓の面白さが浮かび上がる。まあそれより何より今岡先生の喋り口が、落語家ともいいたくなるような名調子。さすがに検証が素晴らしく説得力はあるがなんともおかしかった。大学での講義は学生の人気を独り占めにしているのではないだろうか。

のんびりした初春の一齣です。

沖縄文化紀行(Ⅱ-5)フクギの郷 備瀬

2007-03-08 11:49:31 | 沖縄考

今回の「風水の郷巡り」は、海洋博公園の先にある「備瀬」になった。
前年訪ねた屋部(やぶ)は正しく風水の郷で、フクギ並木の連なる郷ではあったが様々な形式の屏風(ヒンプン)を確認できた。
備瀬は研究者によって風水調査が終わっているという。期待したが少し思惑が違った。
→が描かれ、順路と記載された看板が辻々に建てられている。備瀬は沖縄の原風景フクギ並木の郷として知られている。明らかにフクギ並木を観光源として整備したようだ。防風林として植えられたがフクギが狭い路地の両側に聳え立ち、沖縄にしかない独特の風景となっている。並木の先が暗い闇になっていたり、光で輝いていたりする。屋部もそうだったが奥深いのだ。

備瀬は海に面している。別荘のようなセカンドハウスを建てる場所としてもとても魅力的な場所だ。海辺に、樹に結びつけたハンモックがあったりテラスのある家が建っている。土地の人ではない人たちに土地を解放したのだ。そこが屋部と違う。
拝所はあるが屏風のある住まいは少ない。石敢当もほとんど見られない。良くも悪くも街が生き延びるために、風水の郷ではなく観光を選んだのだろう。ふと思った。沖縄が培ってきた歴史の代わりざまを、僕たちは備瀬で垣間見ているのかもしれないと。

土地の三人の女の子が仲良く僕たちの歩く先々のフクギ並木を出たり入いったりしている。ふといなくなり、突然曲がった路地に現れる。そして僕たちを見てにこりと笑い合う。妖精のようだ。
写真を撮らせてくれる?と聞いたら、礼儀正しくはにかみながらもきっぱりと断られた。ふたことみこと言葉を交わしたがその様が可愛らしく、躾がしっかりしているとうれしくなる。これも備瀬か。

沖縄の海は魅力的だ。色が違う。珊瑚礁のかもし出す緑の色だ。砂浜にその珊瑚礁の残骸(?)と貝殻が呆れるほど散乱している。大の大人が眼を輝かせて貝殻を拾う。
それも備瀬だ。

フクギ並木の順路を外れた先に、ぽつんと木造の小さな店があった。赤く口紅を塗った背が高くやせていて何か怪しげなおばあさんが店に立っている。にこりと言うよりニヤリと笑った。手招きされたような気がした。白昼夢だ。
おびき出されるように店に向かった。何があるのだろう!
覗くと台の上に貝殻が並んでいた。思わず見とれる。妖しげな光を放つ螺鈿。妖しげ!良いではないか。ついつい買ってしまった。
今では僕の宝物みたいになっているこの貝の艶やかな光を見ると,あのおばあさんの真っ赤な口紅を思い出してしまう。どうしよう!

旅トルコ(8) ギヨルメ村を歩く

2007-03-04 11:56:08 | 旅 トルコ

12時の帰りのバスの予約をした。
6時からアンカラのスエーデン大使公館でのDOCOMOMO大会お別れパーティーに参加するつもりなのだ。バスの旅は5時間掛かるのでこれがぎりぎりの時間。ところが戻ったアンカラは雷雨で市内は水浸しだった。
バスとタクシーが衝突したり、道の真ん中にエンジンが止まって放置してある車が何台もある有様で酷い交通渋滞を起こしていた。乗ったタクシーの運転手の奮闘にもかかわらず1時間たっても行き着かない。ついにOK、OK、Come Backというと、一瞬本当に良いの?となにやら申し訳けなさそうな顔をしたので、僕はいいんだとウインクした。なんと帰りは15分、こんなに近かったのかと思ったものだ。インフラ整備がいまいちの首都の一面を垣間見ることになった。それも一興、興味深い街である。

さてこの午前中をどうしようか。さすがにタクシーやバスを使って地下都市を訪ねる度胸はなく、街(ギヨルメは小さい村だけど木造家屋の日本の村とは趣が違い、街と言いたくなる)を散策してみようと朝のコヒーを飲みながら昨夜の興奮を思いだした。探検するのだ。

昨夜電気が来ないのだとホテルのお兄ちゃんに言われてどうなるのかと思ったが、7時になってパッと電灯がついた。ホテルだけでなく闇に包まれていた街が突然現れたのだ。ディナーを食べるホテルのテラスから眺めるライトアップされた街の石の塔の幻想的な姿に呆然とする。節電のためとはいえ(なぜかそうだと聞き取れた)上手い演出、さすがに世界遺産の街だ。好奇心が湧いてくる。

僕の怪しげな英語をニコニコして聞いてくれ、何も言わないのに、宿泊が僕一人になったので泊まり賃を安くしてくれたふっくらとして優しいフロントのおばちゃん、もしかしたら経営者。チェックアウトをして思わず握手をする。ふんわりと良い気持ちになって歩き始める。

街並は傾斜地をうまくつかった住まいやホテルで構成されていて、ところどころに塔がある。そこが刳り貫かれたり傾斜地が掘られて洞窟部屋になっているのだ。石で組み立てられたどの建物もシンプルな装飾がありしっくりと街に馴染んでいる。木の扉にはグリーンやブルーが塗られていた様だが、すっかりかすれていて風情がある。そういう街なのだ。

人とほとんど出会わない。こういうところを歩く観光客なんていないのだろう。たまに出会うのはそこで生活している人だ。僕を見ると何故なのだろう、皆微笑んでくれる。この時期はOFFシーズンなのかもしれない。どうして大会をラマダンの時期にしたのかと不審に思っていたのだが、ホテルも空いているし何かと具合が良いのだとやっと気がついた。

坂道を登って街を見下ろしその先の岩の立つ風景を眺めた。街は細い川を挟んで広がっている。中心地には平屋建ての学校もある。役場もある。その川を挟んだ反対側の閑散としている坂道を登ってみた。洞窟があったので覗いてみる。壁面は真っ黒に塗られているが中にオーダーがある。上に小さな窓(孔)があいているので中は明るいのだ。集会場だったのだろうか。こういう空間体験は初めてだ。

家を造っている人がいた。石を積み上げていくのだ。コンベックスで寸法を測りながら石を選び、なんと差し金で線を引き平鏨(ひらたがね)ハンマーで削り取って長方形にする。やわらかい石なのだ。それにしても引いた線とは1ミリとは違わない業に見ほれた。ユアハウス?とそっと聞いてもニコニコしているだけだ。トルコ語ではないからなあと思いながらカメラを指してOK?というとうなずいてくれた。
のんびりした家造りだ。でも鉄筋を入れない。モルタルも使わない。ただ積んでいくだけ。ふーん、この街の建築はこうやって造られているのだろうか?地震なんてないのだろうか。

イスラムの帽子をかぶったおじさんと出会った。僕のカメラが気になるようだ。ファインピックスS2プロ。レンズがニコンの17-55、F2.8の大型なので目立つのだ。トルコ語はわからないけど言っていることはわかる。カメラを渡してファインダーを覗かせてあげる。ズームを動かす。びっくりしているのが微笑ましく僕もうれしくなった。写真を撮らせてもらう。良い旅の思い出ができた。