日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

風に魅かれて <Ⅱ> 微笑を誘う配偶者

2007-07-30 17:57:22 | 添景・点々

「風に吹かれて」「ゴキブリの歌」それに「地図のない旅」が五木寛之のエッセイ三部作といわれる。「風に吹かれて」を一気に読んでしまって心が昂ぶったまま本棚から、文庫になった「ゴキブリの歌」を探し出した。

このエッセイは昭和45年(1970年)の4月からほぼ1年間、毎日新聞に連載されたものだ。「風に吹かれて」が過去の回想記と言う五木寛之は、このシリーズは生活の報告であり、内面を写す鏡のようなものであると書いている。
エッセイと書かずに雑文集といい、石岡瑛子さんの文庫本の表紙(カバーデザイン)がどんなものになるのか、と楽しみにしていると後書きに書いているのも興味深い。そのカバーはデザイナーの石岡さん自身が撮影した、黒いバックに浮かぶ無精ひげを伸ばした五木寛之の肖像写真だ。(前項の写真を参照下さい)

1970年は大阪万博の年、その写真は若き日の浅井慎平、十文字美信、沢渡朔、吉田大朋それに森山大道たちが競ってNOWという文化出版から発行されていた雑誌に記載した写真を髣髴とさせる。五木はその雑誌の顔として「魔女伝説」を書いたり、モハメド・アリと対談したりした。そういう時代に書かれたエッセイだ。

その3年前に書かれた「風に吹かれて」では、ジャーナリズムの世界に復帰してから1年と記されているが、この「ゴキブリの歌」では既に売れっ子の作家になっていて、編集者に原稿催促をされる有様が、面白おかしく、そしてどこかに哀歓をも感じさせるタッチであざやかに描き出される。そして心がふんわりとするのは「配偶者」とかかれた五木夫人の姿だ。

どうして毎回こうなってしまうのかと嘆く五木だが、締め切りのとっくに過ぎた原稿の言い訳に電話に出て謝っている彼女の様子を、一見に値するなんていっている。
「申し訳ございません。はいごもっともでございます。・・はあ、もうなんとお詫びを申し上げたらいいか・・」そのたんびに頭を下げ、テーブルの端にゴツンと額を打っては、アッとか、痛ッ、とか声を上げながら謝っているのだ。
この一節に笑みを浮かべない読者はいないだろう。
僕は妻を「愛妻」と書くが、ねじめ正一さんは「おくさん」と書き、連れ合いとか家内と書く人もいる。配偶者という言い方は初めてだが、書かれてみると何ともしっくり来る。

しかし笑ってはいられないのは、「秋の日はあやしくも」の一節だ。
相変わらず約束の原稿がかけなくて虚無的な心境になっているときに、配偶者が国勢調査の書類を持ってきた。学歴という欄があり、早稲田大学文学部抹籍と書こうかというと、「そんなのないわよ、調査票には大卒、高卒という欄があって該当するところに○をすることになっているもの」と配偶者が言う。学費が払えなかった彼はやむなく中退したが、結局○をしない。その複雑な心境を縷々述べていて、貧しくて昼間働いて夜学(二部)を出た僕に複雑な思いを抱かせるが、医師でもあって大学を二つも出た配偶者の学籍の欄も空欄のままにしてあるのを見ると、溜息をつき、何も書いていない原稿用紙の待っている仕事部屋へ、うなだれて歩いていった、とあるのだ。
五木寛之が何故当時の僕たちの心を捉えたのか、そして還暦をとっくに過ぎた僕が、書かれてから40年近くにもなるこのエッセイに共感を覚えるのはこの一節を述べるだけでも充分だ。

そういう心の襞(ひだ)を続けて読もうと「地図のない旅」を探したが、なぜか本棚にない。愛妻にお前の本棚にないかと問うと、五木寛之はみんなあんたのところに持っていったじゃない、といわれた。まあそうだ。
愛妻に言われて図書館に行ってみた。書棚には五木寛之の本は一冊しかない。お寺巡礼にのめりこんでいる最近の五木は、少々抹香臭くなってきて今の人たちに人気が無いのか?図書館に設置したあるコンピュータで検索をすると200冊も収蔵庫にあるようだが「地図のない旅」がない。

書棚にあった一冊は8年前に出版された「風の記憶」。「風」という文字に惹かれて借りてきた。
五木寛之も偉くなったものだと、読み始めてそのお説教っぽさにちょっと困った。ところが少々辟易しながら読み進むうちにだんだん面白くなってきた。昔の面影がどこかにあるのだ。70年の風が吹いている。
でも何故僕は1960年代、70年代に魅かれるのだろう。

この「風の記憶」は、様々な雑誌や出版社の月報、作家の著作の解説文などを集めたものだが、最後の一項は96年から97年にかけたほぼ1年間、朝日新聞の夕刊に連載した「時化の花を読む」という書評を収録したものだ。
最後の2編を除いて3作品を短い字数で紹介している。読み始めたらどの本も手にとって見たくなるような見事な筆致だ。作品の解説というより、五木の人生観を他の作家の作品を借りて論考していると言ってもいいかもしれない。若き日の五木の歯切れのいい文体を思い起こしたが、最後の一作品の紹介がほんの一行になってしまったというのもある。
例えば「最後に、『恋をする躰』。これも甘辛くて魅力的な物語だった。」功なった今の五木でしか書けない一行だ。

<写真 70年代の風が吹いている>



風に魅かれて <Ⅰ>

2007-07-26 18:50:40 | 添景・点々

ふと本棚にあった五木寛之の「風に吹かれて」と言うエッセイを読み始めたら、すっかり引きずり込まれた。僕が手にしたのは、1967年(昭和42年)五木寛之が35才の時に週間読売誌上に書いたものを1970年に文庫化したものだ。

このエッセイは3年後に書かれた「ゴキブリの歌」と言うエッセイを文庫化したときの裏表紙に、「おおむね過去の自分の回想録」と記したように、朝鮮半島でよそ者として少年時代を過し、九州に引き上げてきてからは、余計物として扱われてきた五木の軌跡が生々しくつづられている。驚くのは、血を売って食事代を得たり、その乏しい金で赤線をさまよった学生時代を、やわらかい文章ながら、若さの無頓着さも率直に述べていることだ。

冒頭の「赤線のニンフたち」そのタイトルに総てが集約されているような気がする。
ある作家から「君はセンチュウ派か、センゴ派か」ときかれ、「センチュウ派」と答えるところから始まっている。そしてセンチュウ派の末尾に位置し得たのは、良かったと思う、と続く。
「良かった、というのは、過去の記憶を飾るささやかなリボンに過ぎない」、センゼン派はそのリボンを頭に結んでいるが、五木のリボンは短くて貧弱だが、風が吹くたびに、そいつが揺れるのを感じるという。その感覚を「風に吹かれて」というタイトルにしたのだろう。

僕は今話題の団塊の世代と五木寛之の言うセンチュウ派の真ん中に生まれた。
野坂昭如はよく戦後の「焼け野原」を書くが、それを読むたびに僕は何か居心地の悪い思いがしてきた。戦中派の思いは焼け野原にあると思っていたが、五木寛之の文章には焼け野原が出てこない。彼が書くのは風に吹かれて揺れるリボンの次に続く「いわゆる赤線廃止の前に、その巷に一瞬の光陰を過した<戦中派>の感傷」である。でも僕の居心地の悪さは同じだ。

赤線が廃止された昭和33年に僕は高校を卒業した。
僕の仲の良かった「悪」の同級生には、先生を殴って退学になったり、タバコを喫って停学になったりした愛すべき奴がいた。
彼らも僕と同じく野球が好きで、卒業してからもチームを組んで実業団のチームと試合をしたりした。僕は野球部の先輩から、からだが大きければスカウトしたいといわれるくらい早い速い球を投げたのだが、そのピッチャーをやらしてくれず、小さいのによくキャッチャーをやってトップを打った。

僕たちの寄せ集めのチームは結構強かったが、その「悪」は今思うと大人面(づら)をして、赤線をうろついた空気を持っていた。プラトニックラブにうつつを抜かしていた僕は、彼らにその面では相手にされなかった。
そういう旧制中学の面影を宿した高校の時代を甘酸っぱい感慨を持って思い起こすのだが、僕は「何派」なのだろう。五木に「センチュウ派の末尾にいる」とかかれてしまうと僕の居場所がない。

父を戦争で亡くした僕にとっての戦争は、いつも僕の心の奥に澱んでいる。
五木の戦争と団塊の世代の戦争感は明らかに違うが、僕の戦争は多分五木に近い。そこにこのエッセイに共感し、僕にはできないその露悪的な書き方にも憧れを覚え、その憧れは赤線を介して居心地の悪さを感じながらも共鳴するのだ。
五木の赤線記述は、一部の読者から赤線を容認しているとして批判を受けたそうだが、このエッセイが書かれたのは、彼がジャーナリズムに復帰してからの一年間で、仕事の上での第二の青春という季節だという。
五木寛之の、常に時代と共存したその生き方に惹かれる。

風の音が聞こえる「前川國男のクラブハウス」

2007-07-20 19:20:38 | 建築・風景

「白の家」へ向かう途中の大通りを曲がって右を見た途端、おやっと思った。もしかしたら前川國男の設計したクラブハウスがここに在るのではないか。1954年に建った木造2階建ての旧NHK富士見が丘クラブハウスだ。覗いてみると広大な敷地の中に樹々がたち、あるはずの運動場やクラブハウスはさえぎられて見えないが、誰でも入ってゆけそうだ。

ほぼ1時間半後、白の家の余韻に浸りながら恐る恐る敷地に入ってみた。右手が木造の住宅街になっていて塀も無く開放的だ。樹の茂みの先に写真で見ていたクラブハウスが現れた。ホッとした。NHKが運動場を手放すと聞いていて、このクラブハウスが取り壊されてしまったのではないかと気になっていたからだ。

運動場とクラブハウスの間には背の高いフェンスが設けられていて、野球の試合をやっている。スコアボードを見ると杉並、世田谷と書いてあり、どうやら区の対抗試合らしい。声が飛び交い楽しそうだ。外階段は上がれないように板で塞がれている。気になりながらエントランスホールに入り、天井までガラスになっていて、中の様子が一目でわかる事務所に近寄って声を掛けた。
「僕は建築家で・・・」。おばちゃん(失礼)が出てきてくれたが、書類をめくっていた30代とおぼしき男性は含み笑いをして下を向いた。どうやらこの建築のことを知っているようだ。

「この建築を設計したのは前川國男という有名な建築家で・・・上野の東京文化会館とか都の美術館などを設計したんですよ。その人の若いときの代表作で・・」。ニコニコしながら聞いていた優しくて人のよさそうなおばちゃんは、そうなの、と相槌を打ってくれる。そしてびっくりしたような顔をして「初めて聞いた」とうれしいことを言う。僕の能書きを聞いてくれるし、わかってくれる。素敵な人だ。話が弾みだした。

階段の鎖の鍵を開けてくれたおばちゃんと一緒に2階へ上る。
あれっ!と思った。どこかで見たような階段の手すりだ。「この階段はね、前川國男の先生のレーモンドというアメリカの建築家のつくった軽井沢の聖ポール教会の階段とそっくりだ。きっと尊敬する先生のデザインを映したのだと思う。いやいやこの建築は面白いね!」
息が合い仲良くなったおばちゃんは、うなずきながら「この建物にいるとクーラーがなくても涼しくてとっても気持ち良くてね、友達からあんたいいとこにきたねって、うらやましがられるのですよ」おばちゃんはこの4月にここへ来たのだそうだ。「そうだよね、この風はね、運動場の廻りの樹々を通って来るから涼しいのだよね。風の音が聞こえるでしょ。部屋の四方が床から天井までガラスになっていて開放感もあるしね」

この運動場やクラブハウスは、NHKから杉並区が暫定的に譲り受けたのだそうだ。3年間ぐらいらしいという。
「ねえ、ここは素晴らしい!と使っている事務所の人たちが、区の人が来たときみんなで言い続けていると、よしそれでは区民のものにしようといってくれるかもしれない。そうすると貴女もづっといられるじゃない」そうだね、と頷いたおばちゃんが、だんだん可愛くなってきた。

でも油断できない。この近くの三井の持っていた運動場を開発してマンションにするとき、その敷地の樹林の一部を杉並区が譲り受けたが、建っていた久米権九郎の初期の傑作、大正ロマンに満ちた三井高井戸運動場クラブハウスの存続を、杉並区は一顧だにしなかった。つい先ごろそんなことがあったばかりだからだ。この前川國男のクラブハウスについては、建築界をはじめとして皆で残して使いたいと声を上げなくてはいけない。

大勢の人が上がると危険だといわれていて2階を閉鎖している。「みんなにね、2階も使わせてあげたいわね」とおばちゃんが言う。「木造だから補強すれば大丈夫。ソンナニ難しくないですよ。ところで今日はね、この近くの素晴らしい建築の見学に来たのだけど、これから何人か見せてと来るかもしれない。よろしくね」って、つい手を出して握手したくなったが、それはちょっとまずいと思って深々と頭を下げた。

「クラブハウスがまだ在りましたよ」と京都工業繊維大学の松隈洋さんに電話した。彼もホッとしたようだ。
階段の話しをすると「いやそうなんですよ、レーモンドは俺のつくった階段の手すりをパクッタ奴がいると、自著に書いちゃった。実際はね、担当した田中さんが好きでやったのだという。でも前川は自分の弟子じゃない、俺のデザインが素晴らしいからだろうって笑って自慢すればいいのにね、と僕は恐い顔と、恐いエピソードを持つレーモンドの風貌を思い起こしながら述べると、電話先の松隈さんも声を上げて笑った。
とはいえそのレーモンドだって、軽井沢の「夏の家」でコルビジュエの作品をパクリ、コルの逆鱗に触れたじゃないか。しかし、後年コルビュジエは、いやあのレーモンドの創った作品は素晴らしいと前言を翻したのだ。
建築ってなんとも楽しい。





<添景・点々> いい日曜日

2007-07-15 15:44:26 | 添景・点々

点描というシリーズをつくってみたがどうもしっくり来ない。点景、添景、光景という文字がちらついた。景ばかりだ。でも何だかイメージが固定しそうだ。ふらふらとちょっと感じたり思いついたことを気軽に書いてみたい。点々をくっつけた「添景・点々」という言葉がふと浮かんだ。これでやってみよう。

三連休、何の休日かと思ったら「海の日」。その海の日を吹き飛ばした猛威を振るう台風に日本列島は見舞われている。亡くなった方もいる。言葉では言い表せないが心が痛む。沢山の友人のいる沖縄や天草や長崎が気になっていたら、岡崎にいる妹から電話があった。数年前に家の周辺が水浸しになったことがあって心配だという。電話を変わった愛妻が、マーちゃん(妹の次男)に来てもらうといいよ、と言っている。台風には気をつけたほうがいいと言うのだ。

僕が子供の頃は二百十日と言った。立春から数えて210日目、9月1日頃に台風が来るのを警戒する言葉だ。二百十日の前に行う「風祭」という風情のある詞のお祭りは、その風を鎮め豊作を願う神事だ。小田急線に風祭という駅があるが、台風との由縁があるのだろうかなどと思ったりする。ここ数年、二百十日という言い方を聞かなくなった。7月なのに台風が来てしまうからだろう。何か様子がおかしい。
嵐の前の静けさとよく言うが薄日がさしてきた。TVでは南関東地方が暴雨風域に入ったと言っているがどうしたのだろう。

この原稿を書きながらチラチラ見ているTVで、マリナーズがタイガースと戦っている。解説の高橋直樹のしゃべる投手とキャッチャー、打者との駆け引きが面白く、つい見入ってしまう。イチローと首位打者争いをしているオルドニエスを三振に切って取ったときには、思わず腹の中で喝采した。
その前の試合で、レッドソックスの岡島が、最終回ツーアウトでツーストライクを取ったときの観衆が、スタンディングオベーションをしたときにも感激した。イチローが五年契約をしてマリナーズに残ることになって、会場から大きな拍手で迎えられる有様も心を打った。大リーグって素晴らしい。岡島は次の一球でヒットを打たれてしまったが、次の打者をしっかりと抑えた。おや!城島が満塁ホームランを打ったぜ。すごーい。
プッツが三者連続三振に抑えてマリナーズが勝った。球場の全員が立ち上がって踊っている。

妹に電話をした。マーちゃんが泊まってくれた。何だか安心して久しぶりにぐっすり眠れたそうだ。マーちゃんは風の音が気になって眠れなかったようだが、部活の指導があるのでと朝早く起きてすぐに出かけたと言う。中学校の先生なのだ。マーちゃんの奥さんがお母さんのところに行ってあげたほうがいいよ、と言ってくれたという。そっけないくらいさっぱりした奥さんだが、温かい心が一杯だ。
いい日曜日だ。




写真展「東京―街の余白」から・写真家村井修を考える

2007-07-09 13:56:03 | 写真

写真家村井修を探りたいと思った。
村井修さんを考えることによって、写真の世界と同時に建築の側面を捉える(試みとしかいいようがないのだが)ことが出来るのではないかと思うからだ。
でも困るのは、僕は「建築写真家・村井修」と書き始めたいのだが、村井さんは「僕は建築写真家ではないよ、写真家が建築を撮っているのだ」という。となると1983年の「写真都市」や1989年の写真集「石の記録」などを視なくてはいけない。でもまず忘れ得ない2002年に神楽坂の`アユミギャラリー`で開催された「東京―街の余白」という個展を思い起こすことからこのエッセイを書き始めようと思う。

何故僕が村井さんに魅かれるかというと、JIAの中に建築家写真倶楽部という部会をつくったとき、村井さんがその設立の会とその年の忘年会に出席してくださり、その風貌どおりの穏やかな口ぶりながら、村井さんの写真に対する激しい想いに触れたからだ。写真倶楽部の顧問格としてメンバーになってくださった林昌二さんが、親しい村井修さんを誘ってくださったのだ。

アユミギャラリーは、木造2階建ての洋館の一階の部屋をそのままギャラリーにした趣のある会場で、写真展も時折開催される。
僕が思いがけなかったのは、展示されている写真に建築の姿がなかったことだ。
その大半がネオンや都市の中のショウウインドウなどをカラーで撮った写真で、思わず立ち尽くしてしまった。少し前にJIAのホールで、村井さんの撮ったシドニーのオペラハウスの写真展示を観ていたからでもある。そのときの写真は、ウオッンの設計したオペラハウスの建築そのものに対するオマージュに満ち、同時に建築を解き明かそうとする想いに溢れていると感じたので。ちなみにこの建築は、世界遺産になった。


展示された写真「東京―街の余白」をしばらく観ていると、不思議な想いにとらわれていく。
写し撮られた写真には都市の不条理のようなものがないのだ。そしてそれは必ずしも今の都市の姿を短絡的に容認しているからではなく、その不条理を内在しながらも、それ事態を容認する、つまり都市を慈しむように視ているそのユニークな視点の面白さを感じた。
僕たちを刺激する都市を視る写真は、概して都市の暗部に目を向け、たとえコンポラとしてありのままを撮るとしても、カメラを向ける対象は `面白いところ` は視ても決して都市の美しさに目は向けない。村井さんの眼はそれを視ながらもその美しさを写し撮っているのだ。
何故なのだろう。
しかも思いがけないことに、大型カメラだけではなく、ライカ使いだというのだ。

でもこれだけで村井さんが視えたとは思えなかった。僕は村井さんがなんと言おうと、村井さんは傑出した建築写真家だと思うからだ。DOCOMOMOにかかわりながらモダニズム建築を検証していくときに、どこからともなく村井写真が起ち現れるからだ。

林昌二さんのつくった、三愛ドリームセンターの写真を見たときには参った。DOCOMOMO100選展では使わなかったが、竣工直後の夜の各階に人の姿が表れる大型カメラで撮られた写真は正しくプロのものだし、村井さんではないと捉えきれないこの建築の姿だと思った。林さんの想い、この建築は透けて見えること、何もないほうがいい、というそのコンセプトを見事に捉えている。しかし「これは建築写真」なのだ、と言っていいのだろうか。

僕も写真を撮る。この写真は当たり前なのだが僕には撮れないと思った。技術的な問題もあるが、写真家としてのポジションを持たないと撮るチャンスを得られない。そして撮りきる。でも無論それだけではない。しかし村井さんは「撮れといわれたから撮っているだけ」だなんて平気で言う。
建築家写真倶楽部では、村井さんを招いて公開の写真論考を行おうと思っている。その不思議さを少しでも紐解きたいので。

実はこのエッセイを書き始めたのは丁度1年前である。ここで筆(キーボード)が止まってしまったのだ。後に(昨2006年の10月) JIAのアーキテクツガーデンのプログラムとして村井さんを招いて公開の写真論考を行った。林昌二さんにも登場していただいて、ぼくが聞き手のような役割を担って建築写真をテーマとした鼎談を行ったのだ。
そしてそのときスクリーンに映し出された、林さんのつくったパレスサイドビルや住友3Mビル、さらに新宿の住友(三角)ビルのモノクロの写真に衝撃を受けることになる。仕事での撮影の終わったあと撮ったというその写真は、建築を撮りながら都市を見事に捉えているとおもった。無論それが写真家村井修の都市感なのだ。
1年前に,アユミギャラリーでの写真展で都市の美しさを捉えたと書いたのは、果たして間違っていなかったのだろうか。困ったことに今こんなことを考えている。

さらに昨年の12月、竹中工務店本社の一階にあるギャラリー(GALLERY エークワット)で開催された「村井修展」で村井修さんの全貌を見たと思った。しかしこうやって書いていくと、到底写真家村井修を捉えたとは思えなくなってくる。
鼎談のスタートは、村井さんの一面を撮り得たと思ってチラシに使った僕の撮ったにこやかに笑っている村井さんの顔写真を、「これは僕の顔ではない」という恐い村井さんの一言から始まった。そんなことを思い出してしまった。(だからそのチラシを掲載できない)村井さんが恐いのではなく写真は恐いのだ。