日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

写真家中川道夫と 横浜の隠れた歴史撮り歩き:6月18日(土)

2016-05-31 11:38:48 | 写真
JIA(日本建築家協会)関東甲信越支部の「建築家写真倶楽部」を、僕の後を引き継いでくれた建築家藤本幸充さんの初仕事を案内します。

中川道夫さんは、60年代末に生じた写真思潮[PROVOKE]に森山大道などと共に関わった中平卓馬のアシスタントとして卓馬を支え、「上海紀聞」や「アレキサンドリアの風」などを写文によって世に問い、独自のスタンスで写真に挑んでいる写真家です。
普段はちょっと歩き難い処をカメラを携えて巡りながら、写真談義を取り交わしたいものです。
是非ご参加ください!

―JIA建築家写真倶楽部主催―
申し込み・問い合わせ先― 鎌倉設計工房(担当:藤本)
FAX:045-316-1453 
集合:6月18日(土)13:00 JR桜木町南改札口

まち(都市)を語る・都市のたくらみを! 明日から四国へ・・

2015-06-28 13:41:00 | 写真

写真家中川道夫さんのトークのタイトル「都市はメディアである」は、中川さんの師・中平卓馬と共にPROVOKE(挑発という意)という同人を考案した多木浩二がよく使ったコトバである。
メディアを単純に「媒体」と訳すと、何と何との媒体なのかとふと問いかけたくなる。そして中川さんが構想したサブタイトル「写真家は建築家と都市のたくらみを目撃してきた」という、僕たち建築家への挑発的な文言、そこに長年海外の都市に入り込んで写真を撮ってきた中川さんの思い`たくらみ`を感じた。
しかし、僕のこの論旨は少し違っていたようだ。
「都市」を伝えたい。つまり「都市とは何か」を、アレクサンドリアや上海などなどの各地の様を伝えながら、会場に詰め掛けた人に、問いかけたい!ということのようだ。

僕は数年前に同じテーマでの中川さんのトークを聞いているので、やはりそうなのかと中川さんの問題意識が腑に落ちた。
上記の写真(1986年6月撮影)は、アレクサンドリアのサラ・サレム通り「馬車の蹄の音がし、ヨーロッパの街角にいるのかと錯覚した」と写真集[アレクサンドリアの風」に記載されている一枚である。進行役の僕は最前列の左に腰掛けていたので、歪んだこんな写真になった。中川さんには申し訳ないが、これもまた都市の何かを現しているようでなかなかである。

会場にはJIAの建築家と共に沢山の方々が来場されて40人ほどにもなり、昨年お話いただいた写真家飯田鉄さんからも、興味深い中川さんへのメッセージが述べられた。翌日、数名の知人から各地の都市の様に魅入られたとのメールを戴いた。同時に僕が中川さんに問いかけた、放映のためにスライドにしたその仕組みとか、使ったカメラやフイルムやデジタルに関する問いかけはチンプンカンプンだったけど、都市の様に好奇心が刺激されたと注釈をつけて送って下さった方もいた。なるほど、そうだろうなあ!とも思う。

僕が感じたのは、何よりも中川さんの「写真の力」だった。でも`文章の人でもある`ね!との僕の問いかけに、写真にしか興味が無いという一言、ハタと考え込んでしまった。
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ところで僕は明日から、2泊3日で四国行き、香川県丸亀の建築家にヒヤリングして、愛媛県の鬼北町に出向き、A・レーモンドの設計した庁舎の保存改修の委員会に出席してくる。


「都市はメディアである」:写真家中川道夫のトーク

2015-06-14 17:17:41 | 写真

写真家中川道夫さんを招いて「写真家は建築家と都市のたくらみを目撃してきた」という刺激的な副題のある「都市はメディアである」と題した写真を拝見してお話戴き、そのあと来場した方々と共に写真談義を行うことになった。
今年のJIA(日本建築家協会)建築家写真倶楽部のアーキテクツガーデンでの一齣である。6月19日(金曜日)の6時半から、会場はJIA建築家倶楽部です。この僕のブログを読んで下さった方々、是非お出かけ下さい。

僕は創設期からこの部会を率いてきたが、一回り若い中川道夫さんと同年代の建築家藤本幸充さんが僕の後を引き継いでくれることに成った。このトークはその彼の第1回目、とは言え中川さんとのやり取りは僕が行うことになった。
藤本さんが中川さんと打ち合わせをして構築したこのチラシの魅力的な写真は、中川さんの著作「上海紀聞」の表紙に使った『時』を感じさせる写真である。

ところで中川さんの「上海」を捉えたもう一編の著作「上海1979-2009双世紀」について、かつてこのブログに記載した一編を記載(再録)させていただく。
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「上海1979-2009双世紀」 <2010年4月7日 兼松ブログ>

写真家中川道夫さんが、写真集「上海1979-2009双世紀」(岩波書店)を出版した。1969年高校生だった中川さんが訪れた上海は、路上には革命歌が流れ,紅衛兵が闊歩しているなど文革の余波が蠢いていて大きな刺激を受けたが、外灘(バンド)に林立する西洋様式の建築の姿が脳裏に刻み込まれたという。

個人旅行が許されるようになった1980年代に待ちかねて訪れた上海は、造反の熱気は消えて改革の時代になっていたが、以降中川さんは普段着のまちと市井の人を撮ろうと30年間に渡って市中を徘徊して写真を撮り続けたのだ。
この写真集は、国際都市上海の歴史を浮かびあがらせるだけではなく、そこで生活する人々の姿を捉えていることによって、僕の心を震わせる。

僕が上海に行ったのは90年代になっていた。
今のように開発がなされておらず、中川さんの80年代に撮った写真を見ると其の時の風景が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

僕も写真を撮った。

カメラを向けた租界の町並みや、道路に面して布団や洗濯物を干す様や、朽ち果てそうな建物の入り口にたたずんだり、道端に数人で腰を下ろして路行く人を眺めている様や、掛け声が飛び交う路上、自転車に乗って仕事に向かう姿を中川さんも捉えているが、其の情景が人が生きている証のように思え、フィルムだけではなく目にもこびりついていて、「生きること」、それでいいのではないか(これで何が悪いのか)と感じたことを思いだした。
それが20年経ってもまだ僕の中に巣食っていることに驚いている。 

僕はこの一度しか上海に行く機会がなかったが、開発が進み、超高層建築が林立するさまも写し撮られており、其の写真も取り込んで構成された写真集のページをめくると、租界とは何だったのか、超高層建築群は人に何を与えているのかなどなどとつい考え込んでしまう。

カルティエ・ブレッソンの「決定的瞬間」について

2014-11-23 15:03:11 | 写真

何気なく図書館の本棚から抜き出した今橋英子東京大学教授(現)の著書(中公新書:2008年)「フォト・リテラシー」に好奇心が刺激された。
フォトは言うまでもなく「写真」である。リテラシーは、「読み書き能力」を意味する用語とのことだが、今橋は報道写真をターゲットにしながら、写真の深層に踏み込んでいく。大雑把に言い換えると、`写真を読み解いていく時に浮かび上がる様相とその課題を論考する`といっていいのかもしれない。

第一章で取り上げるのは、カルティエ・ブレッソンの「サンラザール駅裏、ヨーロッパ広場」、写真に興味を持つ人が誰でも知ることになった「決定的瞬間」という写真にまつわる論考である。
発刊されてから既に16年にもなるこの著書に眼を奪われ、写真の持つ原風景のようなものを改めて考えてみたくなった。図書館の本には書き込みが出来ないので、この新書を出版社から取り寄せた。

こんなことを知ることにもなった。
カルティエ・ブレッソンはブレッソンといわれることを嫌がり、カルティエをつけることを望むとか、決定的瞬間といわれるようになったことで、この写真に対する撮影者自身の言い方が、変わっていくこと、そしてこの鏡のような水を渡る男(飛ぶ男)は、カルティエ・ブレッソンの友人で詩人レイモンド・クノーであることなど、様々な文献を探って解き明かして行き、僕の好奇心もそれに引きずられていく。

ユージン・スミスが登場し、ウイリアム・クライン、ロバート・フランク、エドワード・スタイケン、などなど写真集を持っている写真家が次々と現れる。
ユージン・スミスの「スペインの村」「水俣」へと今橋は踏み込むが、彼自身はスペインの村は失敗作だった感じていたとの論考、その経緯を解き明かしていく。

今橋は、新書でなくては成果を伝えることが出来なかっただろうと`あとがき`で出版社の担当者にお礼を申し上げたいと記すが、巻末の「図版典拠一覧」や「参考文献」の膨大なリストに研究者の心根は凄いものだと感銘を受けた。

ところで気になることがある。
写真月刊誌「アサヒカメラ」2014年4月号のWORLD欄に、「カルティエ・ブレッソンの決定的なまなざし」と題したパリのポンピドウセンターで開催されたカルティエ・ブレッソン回顧展(2014・2・12~6・9)の紹介がされている。そこに「サンラザール駅裏」と題したその写真と共に氏の代表作とされているが、文中にこうある。
「画面いっぱいに広がる水たまり。次の瞬間にはそこに飛び込んでしまいそうな少年が、水面を境にその陰と触れようとしている」。執筆者は村上華子とされているが肩書きはない。

僕がこの誌面を見て気になっていたのは、飛んだのは「少年」だと書かれていたからだ。
今橋の「フォト・リテラシー」を興味深く読んだ僕は、執筆を依頼してこの一文を掲載した編集者は、余りにも有名なこの写真を、どう捉えているのだろうか?と問いたい。

ニコンD610を購入

2014-10-12 13:32:17 | 写真

何処に行くときもカメラを放さないというスタンスは、数十年変わらない。
フイルム時代はカメラにこだわってライカのM6を2台手に入れた。黒の方とフィルム・コダックTRI-X400をバックやリュックサックに詰めて持ち歩いた。仕事関連で飲み屋やクラブに出かけたりしたときには、女将や席に着いた女の子を臆面も無く撮ったりした。その時代の1眼レフは、ニコンのF3とF4だった。

しかし時代には逆らえず、僕もデジタル化。M6の一台を手放し、今持ち歩くのはコンパクトなマイクロフォーサーズ、LUMIX-GF1。レンズは写真家飯田鉄さんに勧められた20ミリF1,7。その一本だけ。ゆるぎない描写力。流石だ。レンズもそうだがプロの眼力に脱帽している!
APSの20ミリは35ミリカメラの40ミリに該当し、広角レンズとしては物足りなく、プロフィールを撮るにはワイド過ぎる。しかし数年使い込んでいくとその角度の微妙な面白さに馴染み、時折どうしようかとは思うもの交換レンズは持っていない。

ところで建築を撮る僕のカメラはD700である。一度も故障したことが無く、描写力も流石で何の不満もない。しかし突然もう一台1眼レフを持つべきではないかと思った。

昨年の1月号から「建築家模様」と題したシリーズを建築ジャーナル誌に連載を始め、正しく北は北海道から南は沖縄に出歩いて地域を率いる建築家に会って、建てた建築を案内してもらう。建築を撮るのは主として24ミリのシフトレンズ。プロフィールは85ミリ。そしてもう一本持ち歩くのは35ミリF2である。僕は基本的にはオートフォーカスとズームレンズを使わない。でもこの一文を書こうと思って調べたら、数は少ないが何故か数本あるのだ。

もう一台。もしカメラに不測の事態が起きたら撮り直しに出かけなくてはいけない、しかしそれはほとんど不可能。その建築家に会ってその時のその天候の中でのやり取り、一期一会だからだ。
同時にふと思ったのは、カメラの故障は無かったが、充電をうっかりして、電池がなくなってどうしようもなくなったり、撮りまくってメモリーの容量が不足して撮った写真を削除してみたりしたことがあった。沖縄でのことだ。またフィルム時代はフイルムが残り少なくなって往生したことが頭を掠めた。

旅先で撮るカメラは軽いほうがいい。フルサイズ一眼レフではないが、フジのX-T1とも考えた。だが、やはり何本も持っているレンズを使いたい。飯田鉄さんに相談したらDfはどうかとのこと。触手が動くがあのマニアック的な作動だと、多分切れ目無く、歩きながらでも撮ることになるこのシリーズでは、700の作動との違和感が無いほうがいいと判断した。
値段のこともあってD610はどうだろうかと打診、とてもいい、業界人からいろいろと言われた600でもいいと思うよ!とも言ってくれた。ということもあって現役のD610を購入した。

ところがその数日後、ほぼ同じランクのD750の登場が報じられた。後日「アサヒカメラ」誌でも紹介されたその表紙のタイトルは、真打登場D750である。そして例の如くかつて610を絶賛したカメラ評論家は、610への不服を述べる。新しく開発されたものがいいのは当たり前なので、まあそういうものだとも思うが、チェ!と舌打ちしたくなった。

さてそのD610、青森、盛岡、仙台と撮り歩いてきて戸惑ったのは、正しくいまどきのデジタルカメラ、うっかりするととんでもないことになって困ったりした。僕はやはりアナログ人間であることを自覚。なんとも!と思いながらも、そういう自分を慈しみたくもなった。

さて、東北ではD700にはシフトレンズをつけっ放しぱなしにして使いこなし、建築家のプロフィール撮影に610でトライした。
それにしても、シンプルなLUMIX-GF1とD700はとても使いやすい。

新潟での荒木経惟 往生写集―愛の旅

2014-09-07 21:53:13 | 写真

旧曾津八一記念館の見学会(会館内の一日だけの公開)が行われた。見ておいて欲しいと「新潟まち遺産の会」の大倉宏さんからの要請があり、新潟へは行ったばかりなのでためらったものの、日帰りで新潟に出かけた。
折角の機会なので、前回の訪問で見ることの出来なかった展覧会巡りをする事にした。
新潟駅から歩いたルートは下記の如し!

敦井美術館「楠部彌弌展」→にいがた文化の記憶館「曾津八一記念館・曾津八一の奈良」
万代橋を渡って金比羅さんへ、金比羅通りを覗いてシャッター街になった様子に戸惑う。
そして絵屋「半間道子展」へ→新潟市美術館「荒木経惟 往生写集―愛の旅」「牛腸茂雄<わたし>という他者」を観る。
砂丘館の角を曲がってあいづ通りを海のほうに向かう→旧曾津八一記念館見学→砂丘館に戻り「村の肖像・角田勝之助写真展」。

この夏から秋にかけて『新潟写真の季節』だというパンフレットを絵屋で貰った。
先日の新潟では、「JAZZストリート」という催しが行われていて、あちこちの店で気楽に楽しめるライブが行われていて、新潟文化の一側面を実感したが、この写真展のチラシが、東京のギャラリーなどにも配布されていて、新潟のまちがより身近になる。
2014年9月5日、多分僕にとっていつまでも心に留まる一日となった。

砂丘館で展示されている、1928年に福島県の只見川上流の村に生まれた、角田勝之助という村民が撮り続けている豪雪地帯での、村の人々の姿の素朴な写真群にも魅せられた。
同時に、何度も見てきたアラーキ(荒木経惟)の今回の写真展を見て、荒木がなぜあのような写真を撮り続けているのか、ストンと腑に落ちるものがあった。

妻陽子との新婚旅行「センチメンタルな旅」1971年からのスタート。
死を捉えた「冬の旅」など何度も見てきた写真と、大竹一重という魅力的な女性との赤裸々な様子を捉えた『冬恋い』。ヌードなどポラロイド写真を二つに切って組み合わせた1357枚、そして新潟古町界隈、新宿の素朴なまちの姿を捉えた写真などなど併せ見る。

この荒木の写真達は、ちょっと悲しく、そうでなくては人は生きていけないことを・・・ふと僕の生きることを考えた。
それにしても「往生写真」だと言われると・・・・


都市と写真の狭間で 飯田鉄さん論考第2項

2014-07-05 14:20:32 | 写真

JIAでの飯田鉄さんの講話は、「建築ならびに都市の景観写真略史」と題した世界の写真史の紹介・論考から始まった。

配布された資料の冒頭に1453年のレオン・バティスタ・アルベルティが「幾何学遠近法」を書き表すという一行がある。よく言われることだが、人の目から見る光景は正しく遠近法なのだが、単純に見上げて撮る建築の写真は間違いなく歪むものの、歪んで見えない人の目の不思議さを、改めて考えたりする。
ここからスタートする飯田さんの取りまとめた資料に、写真の実態を伝えたいという飯田さんの試みが現れている。

世界で最古とされる1826年のニエプスが南仏の自邸の窓から撮影した「窓からの眺め」を、写真を写しながら紹介。そしてタルボット、ダゲール、デラモッテ、マルヴィルなどと続き、1900年に小川一真が伊東忠太らに従って北京紫禁城を撮影して東京帝大に収蔵と紹介。F・R・ライトが活躍を始めると建築家に触れる。
1914年に第一次大戦勃発、1925年にライカがⅠ型を発表し、ル・コルビュジエがパリ万博で「エスプリ・ヌーボー館設計」と続く。

アッジェ、マン・レイ、アボットという聞くことの多い写真家の名前が続き、1938年(昭和13年)、僕の生まれる2年前に、ウオ-カー・エヴァンスがニューヨークの近代美術館で初個展開催するが、その後その7年前にエヴァンスは、アッジェやアウグスター・サンダー等の写真を論考と記す。
写真が作品として認識されたという言い方をしてもいいのだろうか!
飯田鉄の論考は、戦前戦後の都市を主要なテーマとして撮影した写真家として、主として桑原甲子雄を取り上げ、聞いている僕は飯田の撮る写真との写真家としての共通認識と、先達への敬意を感じ取った。

その後の僕と飯田とのやり取りでは、デジタル化の課題など多少マニアックな論考になった。
ともあれ三十数名が参加したこの会合は僕自身もそうだったが、おそらく来場された方々も写真を撮るという行為の原点を感じ取っていただけたと思う。

ところで帰り際に、親しい建築家から、飯田さんは都市景観が大きく変わった昨今の都市を写真家としてどう観ているのだろうか?と問いかけられたことが気になって、翌朝飯田さんに電話した。

電話先の飯田さんのメッセージは、11年前(2003年)に発行した「街区の眺め」を取り上げながら、一見ノスタルジックだと思う人がいるかもしれないが、撮った写真はその「まち」(都市)の最新の状況を捉えていてそのスタンスはいつになっても変わらない。そしてこう付け加えた。
「撮るということは、まちに、種を埋め込む行為である」。

そうだ!と聞いていて溜息がでた。そこにあるものを撮るのが写真だ。
それが未来に示唆を与える!

写真家・飯田鉄さんのトーク「街並み、都市空間、建築物」

2014-06-20 18:41:08 | 写真

JIA(日本建築家協会)のアーキテクツ・ガーデンというイベントで、写真家飯田鉄さんをお招きし、写真を見せていただきながら話をお聞きすることになった。(6月26日木曜日,JIA建築家会館にて)

飯田さんは、朝日カメラ、カメラ毎日などの写真誌に登場、クラッシクカメラ談議で知られているが、様々なテーマによる写真展を開催して問題提起をしている。そして、写真を愛好する方々とグループをつくり一緒にまちを歩いて写真を撮り、その人達の発表する場をつくり出してきた。
同時に武蔵野美術大学で学生を指導し、大山裕氏や美術・写真評論家家大日向欣一氏、と「写真の内側・外側研究会」を結成して、写真論を展開している論客でもある。

嘗て僕は、オリンパスペンなどのハーフサイズカメラを持って街歩きをしたことがあった。大宮さんという女性が中心となった「三軒茶屋写真倶楽部」である。共に歩いて僕たちを触発したのが飯田さんだった。いつの間にかこの会は自然消滅したようなことになったが、そこで参加したメンバーの街を見る視点の違いに興味をもったことを思いだした。消滅したのは、社会が(カメラが)デジタルへ移行していったからかもしれない。写真を撮る行為は、社会と時代の変遷を身近に感じ取ることにもなるのだ。

飯田さんには「レンズ汎神論」、「使うライカレンズ」そして「街区の眺め」などの著作があるが、僕は汎神論という「神」という一文字を使うところに飯田さんらしさを感じ、街区の眺めでの作品群を見ると、飯田さんの写真家としての対象物との独特の距離感に魅かれることを不思議に思う。つまり僕の見る距離感との違い、写真を撮る僕とのスタンスの違いが興味深いということになる。

それはおそらく、写真を考えることだけではなく、都市や、村落、建築という対象物だけではなく、人が生きていくことについての距離感の違いという事ではないかとも思ったりする。26日には、そんなこのとやり取りもしてみたい。

当日、8ミリのムービーを短時間だが見せてもらえるという。それも興味深い。
このトークの後半では、飯田さんを囲み、会場の方々と一緒に写真を題材にしながら語り合いたいものだ。


写真家飯田鉄の「螺旋のぬいとり」

2012-06-24 22:53:00 | 写真
神田小川町の`オリンパスギャラリー東京`で始まった飯田鉄「螺旋のぬいとり」展のオープニングパーティに出かけた。メモを添えた案内葉書をもらい、電話もあって「凄いね!」と積極的な写真発表についての率直なやり取りをしたものだ。
ところでまず驚いたのは四十数点展示の会場が、百人を越す来場者で溢れたことだが、写真の仲間だけでなく、多分武蔵美で教えている女子学生やワークショップでの教え子たちなのだろう。これも多彩な活動の成果だと思う。

日本カメラ誌7月号に、`螺旋のぬいとり`の写真が掲載されている。発売されたばかりのオリンパスOM-Dなどのデジタルで撮った6点の写真のセレクトが見事で、さらに色の濃度が濃いが素直な発色で心が打たれる。編集者がセレクトしたとしても、飯田さんの意図したものなのだと確信する。
日本カメラの「口絵ノート」で飯田鉄はこう書く。「街を歩きながら目に留まるものを撮影する。これはずっと変わらない撮影スタイルだが、その目に留まる対象は時間とともに少しずつ変わっていくようで面白い」。

会場での挨拶でも、このところなんだか渦のようにぐるぐると回っているものが面白いんですよね!なんてあっさりとした一言だけだった。オリンパスの担当者からは、「ぬいとり」がよく分からないので、これからじっくりと考えると述べて会場を沸かせたが、「口絵」では、『螺旋』には触れず「・・・自分の変わりぶりにも興味がわいてくる」と書き、飯田さんの率直な表明に共感を覚える。

このところいくつかの写真展で、会場に展示した小さな文字で書かれた飯田さんのメッセージ(エッセイだ!)は究めて詩的で、読み解く面白さに満ちている。
螺旋のぬいとりの「ぬいとり」は螺旋を写真としてぬいとったのだと書く。僕が感じ獲ったのは、写真誌ではタイトルの下に英文で『A scenery』(風景の連なり)とあるが、会場のエッセイではさりげなく『Screw』と書かれていて、飯田さんの問題意識が面白く、一言述べてみたくなったのだ。

こういうことである。螺旋を「スパイラル」ではなく「カーブ」でもなく、『スクリュー』としたことで、飯田鉄の惹かれる対象と写真としての捉えかた、つまり感性が感じ取れるのだ。そして撮りながら光を感じて対象の浮遊感に覚醒すると書くのは、光の矢(複雑な直線だ)によってスクリューを、つまり芯のある螺旋が浮かび上がり(自然界と人のつくった対称物にも)、スクリューを感じ取るその視点に僕の心が共振するのである。

<東京展、6月27日(水)まで、オリンパスギャラリー大阪展、7月5日~18日>

「川内倫子写真展」のイルミナンス

2012-06-16 17:06:59 | 写真

気になる写真家がいる。
川内倫子。
2002年写真集「うたたね」と「花火」で、第27回木村伊兵衛写真賞を受賞した時には30歳だった。写真誌アサヒカメラ6月号に発表された「あめつち」が気になるのだ。都の写真美術館で写真展が開催されているが、視る時間が組めない。
 
6月9日(土)JIAのイベント、アーキテクツ・ガーデンでの保存問題委員会の主催する「普連土学園(設計大江宏)」と十数年前に拝見し写真も撮った「慶応義塾幼稚舎(設計谷口吉郎)」の見学会に参加した。
生憎の雨になったが、モダニズム建築の代表作に感じ・考えることが多々あった。もう一件区立の`望楼も外観も残った`と新聞で報道された「広尾小学校」も予定されているが、情けないことに疲労困憊して見学落後、幼稚舎の先生に広尾の駅を教えていただく。一駅乗ると恵比寿だ。そうだ、東京都写真美術館がある。

川内倫子展のタイトルは、「照度 あめつち 影を見る」である。
光を意味する「照度(イルミナンス)」は、川内倫子の代名詞なのだという。`あめつち`をみても、‘影を見る`を見ても、光つまり照度がテーマだ、といえば言える。写真は光と影の舞台だから理屈を言えばそうなってみもふたもないが、それをいとも簡単に飛び越えているのが余人にはない表現力と感性なのだろう。
白い天井と白い床通路状の白い両壁に四角い(ローライフレックスによる6×6フォーマットの)大きな写真の一つ一つがドキュメントではなく、ルポではなく、アートと言い切りたくないものでもある。写真なのだが生々しくはなく、写真でしか得られない類例のない感性表現がなされたと言ってみたくなった。走る車の窓から沿道に立ち並ぶ樹木を流し撮りしたり、阿蘇の野焼きをただ延々と写し撮った映像にも繋がる表現に惹かれるのは何故だと自問する。会場には大勢の若者が座り込んで映像に浸たっている。

ただひとつ、気になるのは会場構成された白い天井と白い床白い壁があっての写真なのかということだ。

体調万全とは言えず、くたくたになったが、視るものは見たと一寸ホッとしたものでもある。同時に写真を撮りたい!とも思ったものだ。