日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ロンドンのNagumoさんへ mさんと!

2014-12-29 23:15:21 | 素描 建築の人

足を骨折したmさんの快気祝いをやろうということになって、伊勢原の「竹中」に行った。Mさんに言わせれば、´中伊豆の幸´である。居心地のいいカウンターの隅に小さなコンロにふっくらとした椎茸が炭に焙られて僕たちを待っていた。この店の大将が中伊豆の出身で、そこの特産の食材を提供してくれたのだという。そして日本酒で乾杯・・・

僕の若き朋友mさんと札幌のmoroさんとは、ブログを介して出会い、人生の一部を共有する事になった。僕の世代の共通項、アナログ人間の僕にとっては不思議な縁である。

そしてふと豪雨が襲った九州、天草・下田の様子が気になって大丈夫か?と、建築誌に書いているエッセイなどを同封して小学生時代の同級生吉田君に手紙を出したら電話がきた。心配ないよ!と元気な声。同級生たちの様子を聞いた。床屋の末吉だけがやけに元気なんだよねと笑うその様にホッとしたが、電話は入院している病院の病室からだった。彼は幾つもの手術を繰り返していて、いわば満身創痍、でもくじけない。その彼を明るい奥さんが支えている。

そんなことが思わずmさんとの会話で取りざたされることになった。一回りちょっと若いのに、お互い、人生を語る歳になったということなのだ。

そしてやり取りの中で、思いがけない名前がmさんから出た。
ロンドンのマイケル・ポプキンス卿の元で設計している建築家Nagumoさんのことだ。
数年前のことになるが、鎌倉の近美(神奈川県立近代美術館)に数人の建築仲間と一緒に出かけ記念写真を撮った。
その後誰の案内だったか失念したが、坂倉のOB室伏次郎さんの設計した北鎌倉に近い丘陵地の下のほうに建てた興味深い住宅を表から見た後まちを歩き、駅前の飲み屋でみんなでわいわい建築談義をしながら一献傾けた。イギリスの建築界の様子を漏れ聞いたmさんには印象深い一日だったのだろう。

そのNagumoさんからAIR,MAILをもらった。Season's Greetings 2014/15である。
そこにこういう一文があった。「ブログは拝読しています」。

Nagumoさん。まずこのブログで近況報告をしました。まあなんとか元気にしてます。
さて次の来日の予定は?

<写真、12月22日に行われた愛知県立芸大の耐震改修の検討を行う部会(委員会)で名古屋に行った帰りの新幹線から撮った富士山>

マニラ空港の記憶と新宿西口通路と

2014-12-21 21:27:22 | 自然

新宿駅西口からオフィスへ向かうときに、超高層街を通り抜ける地下通路を通って中央公園に向かうことが多い。この通り道は、嘗て何がしかの都市景観デザイン賞を取ったなかなかのものだった。
車道を挟んで右手が北側で壁や天井が濃いグレーで覆われていたが、白色に改修されて明るくなり、「動く歩道」があって歩くと浮き浮きしてくる。左手の南側は現在改修工事中。その工事中の薄暗い通路を時折通りながら考えることがある。

既に35年ほど前になるが、鑿井の機器(クレーンやスクリーンなど)を輸出し技術指導をしていた従兄の会社の支所がフィリピンのマニラにあった。
ある日、突然従兄から電話をもらった。緊急事態があってマニラに行くことになったが、母を連れて一緒に行かないか!というものだった。急遽母と僕のパスポートを申請し、その日の朝横浜の産業貿易センターに立ち寄って受け取り、羽田からマニラに向かった。母はもとより40歳になった僕の初めての海外旅行だった。

この旅は何年経っても忘れがたいが、赤紙で召集された父がフィリピン本島(ルソン島)のモンタルバンという処で昭和20年の6月に戦死、戦死した場所も状況も不明、遺骨もないまま生地長崎の、長崎地方世話部長名義で、死亡報告書が送付されたことを、従兄はずっと気にしてくれていたのだ。
このことも含めて僕は2007年に「生きること」と題して残された育児日誌をベースにして書き連ねた23編のエッセイをこのブログに記載したことがあり、読んで下さった方が沢山いた。

本稿ではそれには触れないが、訪ねたフィリピンはマルコス大統領の時代、イメルダ夫人によるプロジェクトの建物に火災がおきたことなどが報じられたりした。従兄はマニラホテルに部屋を取ってくれ、しどろもどろの英語で朝食の注文をしたときのやり取りと、えっそんなもの食べるのという従業員の驚く笑顔がよみがえり、何となくため息が出たりする。

一緒に行くか!といわれて同行した従兄と役人との駆け引きなど思い出は尽きないが、従兄は支所の所員の運転する車でモンタルバンに僕たちを案内してくれた。
数日後の帰国、入国時の蒸暑い様に南国に来たことを感じたが、マニラ空国の出国の為のスペースの薄暗い空間。そして通関する人たちが並んでいる中で、たむろしていた男の中の一人が僕達に近寄ってきて、場所をとってやるのでチップが欲しいと手を出すそのさまと、そこの薄暗い様が新宿西口の通路を歩くときに、何故か思い浮かぶのだ。



冬の日のボブ・ディランと衆議院選挙

2014-12-14 12:26:05 | 日々・音楽・BOOK

2014年12月14日、日曜日、選挙の日、晴天。

娘が持ってきたDVD「I‘MNOTTHERE」(2007年の作品)、ボブ・ディランの生き越し方を捉えた映画を見ながらこの一文を書きはじめた。
娘は来年の干支(えと)羊を書いてプリントごっこで我が家の年賀状をプリントしている。いつものことなので、色やその組み合わせにうるさい両親の言うことを面白がって!

6人によるボブ・ディランの一人、リチャードギアが出てきた。
聞いてくれ、俺たちは行くところが無いんだ(I´MNOTTTHERE)、不器用でね!そして暴徒に、悪党が悪党につかまった、真に自然なのは夢だけだ、こういう6人のボブ・ディランにボブ・ディランの唄がかぶさる。・・僕はもういない、僕は去る・・と!

さて選挙。選挙権を得てから五十数年、僕は棄権したことは一度もない。
僕の選挙区、投票に値する人物が居ないがそれでも出かける。年賀状が刷り終わったら娘は東京に戻り、投票に行くという。

ところで札幌。この秋にヒヤリングした上遠野克さんの稿を起稿するが、一昨日電話をしたら克さんが戻るのは夜遅くなりそうだとのこと、スタッフの(愛弟子)の橋村君とやり取りして気になって聞いたら5,6センチくらいの積雪、まだこんなものですといって写真を送ってくれた。一面の白雪、札幌は雪景色だ。さてこの雪は根雪になるのだろうか!

一杯のコーヒーから:bodumで!

2014-12-07 13:30:47 | 日々・音楽・BOOK

一杯のコーヒーから・・・というフレーズでこの一文を書き出そうとしてふと気がついたら、頭の中でこの歌を口ずさんでいた。
ちょっと調べてみたら、霧島昇とミス・コロンビアのデユエットでこの歌が唄われたのは1939年、昭和14年で75年も前になる。コーヒを一緒に飲んだのが切っ掛けで恋がはじまるという素朴な設定、などというと実も蓋もないということになってしまうが、それでも我が若き日を想うと、どこかでちくりと胸が痛んだりする。
僕の書き出そうと思ったのは、「一杯のコーヒーから僕の一日が始まる」というものだ。

そういう朝を迎える人は沢山いると思うが、慌しい朝の時間のなかで僕が淹れるコーヒーグッズ、豆を挽く白い[CARIOCA-MILL](National)と、赤色の「THE original FRENCH PRESS bodum」、これは御殿場のプレミアムで手に入れた。
海老名丸井の一階の店「カルディ」で買った豆をMILLで粗挽にしてbodumに入れ、お湯を注いで4分経ってからブランジャーで圧縮する。車で出かけるときには、このコーヒーを小さいポットに入れて持って出る。

この一文を書きながら飲んでいるのは、この秋の小樽のプレスカフェでも味わった「マンデリン」、インドネシアの豆である。味わい深いのだ。そして明日の朝は「ケニア」、或いは深煎りの「グアテマラ フレンチ」、煎り方が違い、味が違うので朝の気分できまる。

コーヒーを飲むときは、音楽があったほうがいい。いま聴いているのは、エンヤの「And Winter Game:雪と氷の旋律」である。