日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

福建省円形土楼・客家に住んで中国伝統文化に臨む若者

2010-01-31 20:51:37 | 文化考

小林宏至というユニークな若者がいる。首都大学東京で渡邉欣雄教授の下で文化人類学を学び、風水に魅かれ、中国の客家(ハッカ)を研究テーマとした博士論文をまとめるために、福建省永定県湖坑鎮の客家の土楼に住み込んだ。
その小林君が、朝日新聞の「歴史を歩く」(2010・1・30)に登場した。

渡邉欣雄教授は2009年度から中部大学に移ったが、僕はこの数年明大の大学院で開講していた風水研究を主とした講座を時折聴講し、渡邉教授と共に明大の院生や小林君とも一緒に沖縄研修に毎年出かけた。
これらの旅のことは何度か僕のブログにも書いたが、「こいつは変わった奴で」と渡邉教授が笑うのは、小林君は那覇の牧志の市場で買って似合うと皆が囃した派手な黄色の`かりゆしウエヤ`を首都大にも着てきて、どうだ!と自慢するからだ。まあそんな彼に引きずられて僕も紅型デザインを模した派手な青色の半袖ウエヤを着たし、同行メンバー全員が買ってしまって記念写真を撮ったりした。ユニークというのはそんな他愛の無いことだけど、まあ研究者ってそんなものだ。みんなどことなくおかしくて微笑ましい。

彼はその頃(2006年)から湖坑鎮の伝統家屋、円形の土楼(厚さが1メートルにも及ぶ土壁で円形の建築ををつくり、一族が住む)に興味を持ち、時折出かけては客家家屋が数千件もあるその周辺を歩き、研究テーマとしてトライするのは可能かと考えていたようである。その様を書いたエッセイを読ませてもらったことがある。

朝日の編集員が書いたこのレポートにも、そのときの小林君の述べていた課題が書かれている。伝統と観光、其れにまつわる民族問題だ。漢族とその一族ともみなされるが独自の文化を持つ「客家」といわれる一族との微妙な問題だ。彼の好奇心がまず刺激されたのは、円形客家とそこに住む人たちそのものなのだが、この地域が2008年、世界遺産に登録されたこともあり、この地を単に研究対象とするだけでなく、その歴史を愛している彼の「慣習や伝統が廃れてしまうのではないか」という危惧が僕にも伝わってくる。

その微妙な問題については、2008年の6月に明大駿河台キャンパスで行われた公開シンポジウム「都城・住宅の風水思想―東アジアの陽宅風水―」で、梅州市、嘉応大学客家研究員準教授(現在)の河合洋尚さんの発表でも実感した。この河合さんもこの朝日のレポートに登場している。
シンポのときの休憩時間に僕が河合さんと話し込んだことは、正しくその危惧についてだった。

問題は風水が迷信という側面をもち、中国の伝統が誤解されることを恐れることと、漢族の本流と其れをとりまく民族問題を政府が気にしていることのようだ。しかし「客家」は、先祖崇拝や中国古来の習慣や伝統を色濃く残していて、研究者魂を揺さぶるのだ。

文化大革命の後途絶えていたこの分野の研究が、観光と結びついた客家ブームによって観光に冒されるという危惧観が課題を浮かび上らせ、実証研究が更に必要とされると、河合さんの上司研究院の房学嘉院長の言葉でこのレポートは括られているが、小林君の「自分が観察するより観察されていた」と述べる言葉に、村の人から「シャリオン」と呼びかけられるようになり村に溶け込むことが出来た彼の、これから研究が出来るという言葉が気持ちいい。
沖縄の読谷には明大の中田君が住み込んでいるし、那覇のカプセルホテルに泊まりこんで研究・調査に没頭している女性の院生もいる。つい最近一人で調査に出かけたサンパウロから2年ぶりに帰った女子学生もいる。話せるようになったのと聞くと、いやいやとはにかむが、若き研究者は頼もしく心強い。

<牧志の市場にて(2006年)、中央が小林君、右が同行した民家の研究者Sさん>

棟方志功のいる風景(2)「宇賀田次助のこと」と「岩伍覚書」「櫂」

2010-01-28 13:53:09 | 日々・音楽・BOOK

`宇賀田次助`といわれても、その名に思い当たる人はほとんどいないだろう。(財)棟方板画館の理事をされている宇賀田達雄さんの祖父のことだ。
手元に2008年3月に文芸社から出版された「宇賀田次助のこと」があり、達雄さんが送ってくださったときに挟み込まれていたメッセージにはこう書いてある。
「こんなものを書いてみました。私の祖父たちの話です。ほとんど記録に残っていない一市井人、小説にならないように努力してみましたが、読むに耐えるものでしょうか」。
読んでみるとそれがめっぽう面白いのだ。

次助は天保6年(1835年)新潟県頸城郡に生まれ、幕末の嘉永2年家出して江戸に出た。14歳だった次助は吉原に職を見つけたが、その働きを古河の遊客・お大尽に認められ江戸を離れる。
明治3年に平民も姓を名乗ることが許されたとき、35歳になっていた次助は宇賀田姓を名乗った。その後酒造工場をつくったりしたが、家庭内でも様々な出来事が起こって満ち足りない晩年を送ることになる。そして明治36年に亡くなるが、明治から大正、昭和と近代化の変化は早く、その後の経緯を読んでいくと、その子供たちを含めたごく普通の一市民の人生にもその時代の歴史が覆いかぶさっているのだと心に響いてくるものがあるのだ。

メッセージに書かれた「小説にならないよう努力してみた」というところが大切だ。

棟方志功は宇賀田達雄さんの妻の父親で、世間で一般に思っている志功像と、内側から見る志功像がかけ離れていて驚いたと達雄さんはいう。
著名になったあとの志功の記録は整っているが無名時代の伝記資料は想い出を語った話しが大部分だから信頼性が低く、その信憑性の検討を重ねて部大な「祈りの人棟方志功」(1999年刊筑摩書房)を著した。その経験の蓄積によって懸案だった祖父の伝記を書き終えたとある。

一市民の生きる様の資料は乏しく、小説にすればいいのではないかと幾度と無くその誘惑に捉われそうになったが、それでは駄目だ、頑張って歴史的な意味のある研究にもって行くべきだという声も聞こえたとある。そしてこの著作は、この本の帯びに書かれているが「日本近代史における`現場`の記録」になった。朝日新聞社の記者から朝日ジャーナルで活躍した達雄さんの、ジャーナリスト根性を感じる。

作家宮尾登美子の若き日の代表作ともいえる、父親(小説のなかでの名前が岩伍)の遊郭に遊女を紹介するいわば女衒という職業に携わりながら市井の人々に熱い思いを持って援助する男の人生を捉えた「岩伍覚書」と、岩伍の妻(小説では喜和)を主人公とした女の世界を描いた「櫂」を、「宇賀田次助のこと」と比較したくなる。この宮尾登美子の二つの作品を読んだ人は数え切れないほどいるだろう。

文庫になっている宮尾さんの対談集を読むと、この2作は小説ではあるが、史実に基づいて書かれており、ルポルタージュと言ってもいいと思うものの、そこに作者のずしりとした想いがこもっていて見事な文学作品になっていることがわかってくる。そして「宇賀田次助のこと」と同じく、その時代の社会状況(岩伍のその世界はシナにまで及び日本の裏面史が浮かび上がる)のと、ある意味では時代に翻弄される人の生きることとは何かという示唆に富んだ面白さが浮かび上がってくるのだ。
宮尾登美子が生誕地、同時に両親の持つ土佐のイゴッソウを受け継いでいることは、小説という形態をとったことによって鮮やかに浮かび上がる。
しかしやはり研究書ではない。小説なのだ。

ずい分前のことになるが、僕は宮尾さんと話を交わし写真を撮らせてもらったことがある。ある出版社の編集者の肝煎りで行われた六代目宝井馬琴の講談の会でお会いしたのだ。
にこやかで謙虚で素敵な女性が実は土佐のこういう家庭で育ったのだとは思えなかった。でも大相撲を観戦すると立ち上がってこぶしを握って差上げ、頑張れえと叫ぶのだそうだ。馬琴師の修羅場読みに魅せられ、その思いを伝える宮尾さんの姿を思い浮かべると、やはりそうなのだと今は思う。

次助は一市井人、岩伍と喜和は特異な人たちと言えるのかもしれないが、実は人は誰しも深く時代や社会のと関わりの中で中で翻弄されたり切り開いてきたりして今に引き継がれているのだと溜息が出てくる。ルポルタージュでも小説でもちゃんとしていれば、読む僕たちにとってはどちらでもいいのだ。

宇賀田達雄さんの文体は明快で、ハードボイルっぽく歯切れがよいが品格がある。繊細で細やかとも思える宮尾さんの文体は、其の底に骨太いところがあって臨場感があり、並では太刀打ちできない。
さて僕が3年半前に書き綴った「生きること」は、戦前と戦後と今の歴史のそのほんの一端でも担っているのだろうか!



カザルスホールの閉館とお茶の水スクエヤA館問題(2)三菱一号館とリヨン大聖堂へ

2010-01-24 15:30:48 | 建築・風景

建築学会の機関誌「建築雑誌」2010年1月号の特集は「検証・三菱一号館再現」である。五十嵐太郎に代わってこの号から編集長になった早稲田大学理工学術院建築学科準教授、若き建築史の研究者中谷礼仁の問題提起第一号である。
興味深い特集でまず目に付いたのは、レプリカや復原、復元という言葉ではなく、一号館については再現という言い方を主としたことだ。コーディネート役を担った内田祥士東洋大学教授と後藤治工学院大学教授の、「再現は是か非か」というテーマを解き起こすときに、復元ではなく再現という言い方をすることによってこの課題の論点が明快になるとの二人の判断である。

この特集では、言葉の使い方の問題も含めて意見が錯綜していて考えさせられるが、無論一号館プロジェクト(超高層棟新築も含めて)に対して疑念を述べる強い意見もあり、この特集のどの論考も興味深い。

読み進める中で、ふと眼にとまった頴原澄子(九州産業大学建築学科講師)のイギリスにおける再現に類する行為の批判の系譜を辿る「The Gothic Revival」が面白い。18世紀からから20世紀に懸けてゴシック建築の再現についての試行錯誤を繰り返した事例の報告だ。「再現・レプリカ」問題が歴史を経ても簡単に答えの出ない命題である事が示唆されている。
お茶の水スクエヤ問題は、現在(いま)の時代の僕たちに新たな課題を含めてこの命題を突きつけているのだと思い、ちょっと戸惑う。
頴原さんは東大鈴木博之研のOGで、僕は頴原さんの院生時から面識があり、優れものの系譜が継承されるのだと別の感慨もあって興味深く読んだものだ。

三菱一号館については別項で考えてみたいが、東京駅の復元作業を率いている田原幸夫の「<つくり直し>という行為についての私見」という論考のなかで、`免震レトロフィット`について、「免震装置で建築を大地から切り離すというシステムは、建築と大地の関係を根本的に変えてしまうものでもある」という指摘に眼を見張った。
田原さんとは長い付き合いになるが、彼がこのフレーズの続きに、`事態は更に複雑化している`と述べているように、更に興味深い新たな課題を突きつけられたような気がする。

カザルスホールとお茶の水スクエヤA館の問題の先般の論争の中である建築家が、主婦の友社旧館のレプリカ問題について、このレプリカ?(ともいえないか?)と一体となった建築を、レプリカという視点で問題するのではなく、建築家磯崎新の作品として考えたらどうか!と指摘した。確かに旧館の外壁面の色を変えた門型のフレームと、カザルスホール棟の最上階の黄茶色に塗ったオーダー(柱)との組み合わせに作品としての整合性を見てとることができる。ポストモダンだ。
だが磯崎は「都市の記憶装置」という概念でつくったともいっている。これでは堂々巡りだ。でもまあ絶え間なく論考すべき命題ではある。

ホール自体が楽器だという指摘がある。ことにオルガンは単なる楽器ではなくホールと一体となって豊かな響きを醸し出す。そのカザルスホールをなくしていいのか!と書きながら、20年ほど前のリヨン大聖堂での一時を思い起こした。画家や蕎麦やの主など10人ほどとパリへ行き、リヨンへ足を伸ばしたのだ。

大体僕は、どこへ誰と行ってもペースが合わなくなり、夕食を一緒に食べる場所と時間だけを決めてふらふらと歩き回ることになってしまう。
このときもホットドックを頬張りながら肌色や黄色に塗られ、窓を白や原色で縁取った建築群の連なる魅力的な旧市街を抜け、高台に建っているリヨン大聖堂(カテドラル)にそっと入った。そして動けなくなった。2時間、ただオルガンの響きに身をゆだねた。練習をしている奏者と僕の二人だけの至福の時間。今僕のなかにそのときの感動が駆け巡っている。

<いい写真が見つからない。これはリヨン旧市街の町並みだ(と思う!)。大聖堂の写真が出てこない>


カザルスホールの閉館とお茶の水スクエヤA館の問題(1)

2010-01-17 21:03:51 | 建築・風景

昨年来、新聞などでも報道されてきたが、日本大学が所有している東京千代田区・御茶ノ水のカザルスホールの閉館が二ヵ月半後に迫った。
ドイツの名匠ユルゲン・アーデントが製作したパイプオルガンの行く先の検討がされているようだとの話を耳にすると、周辺と一帯となったキャンパス再開発計画が具体化され、カザルスホールを持つこのお茶の水スクエヤA館の存続が気になってくる。

お茶の水スクエヤA館は、ウイリアム・メリル・ヴォーリズの設計した旧主婦の友社社屋の外壁だけを残すことを唯一の決定事項として、磯崎新の設計により1987年(昭和62年)に竣工した。翌1988年の「新建築」誌1月号にこのプロジェクトが発表され、その後、同じく新建築社による「現代建築の軌跡」1988年の欄にも取り上げられている。

旧館部分の内部はヴォーリズの図面をもとに復元を計ったが、設計条件だった外壁は風化がひどくてそのまま残すことは不可能と判断し、若干の意匠変更も含めて建て替えた。この建築は厳密な復原ではなくイメージ復原だと明言している。そして磯崎は、場所を意識して「都市の記憶装置」という概念に基づいて設計したのだと述べているのだ。
日本大学は2002年主婦の友社からこの建築を取得し、現在は法科大学大学院として使っている。周辺の建築群(嘗て在ったお茶の水スクエヤB館とC館)は既に解体され駐車場となっている。

新春、数名の建築家とお茶の水スクエヤA館について語り合う機会を得た。不穏な空気が漂うくらい意見が錯綜した。
カザルスホールで室内楽に浸った至福の時をもつ音楽の好きな建築家にとって、カザルスホールの音楽界に果たしてきた役割や、オルガンの響きなどの素晴らしさとこのホールのあることの大切さについては異論が無い。論議の争点は建築に関わる三点である。

(1)ポストモダンとれる建築思潮をどう捉えるか。この建築は磯崎のポストモダンの代表作といわれる「つくばセンタービル」の4年後に建てられ、その系譜にあるとみなされているのだ。
(2)このカザルスホールのある高層棟を含めて建築としてどう評価するか。好き嫌いもある。
(3)当初から旧館の外壁のみを残して都市の景観に配慮するとしてスタートしたスタンスの問題。主婦の友社は社のステータスを担ってきた社屋の少なくとも外壁だけでも残したいと考えたのだろうが、その旧館のあり方を建築家としてどう考えるか。

内部が無いものを建築とは言わない。当たり前のことだが内部があって外部のデザインもある。外壁の一部を残すことによってまちの景観に寄与するとして特区制度を使って容積割り増しなどのボーナスを得て再開発を進める日本橋地域や丸の内の在り方に危惧を持ち、声明を出し、シンポジウムを行ってその正常でない建築の姿やまちのあり方に警告を発したJIAのそこに参加した僕自身のスタンスとこの問題の整合性はどうなのか?考え込んだ。

道路の向かい側に僕が学んだ明治大学の駿河台キャンパスがあり、当時は明大のシンボルだった「記念館」が建っていた。明大キャンパスはこの場所の当たり前の風景だった。磯崎は触れていないがそれを当然のこととして認識していたのではないかと推測する。それから22年を経た。まだ22年なのだとも声を上げていいたいが、明大キャンパスの様相も変わった。

ちなみにこの建築は千代田区の`景観まちづくり重要物件`に指定されている。

<15年まえの今日、阪神・淡路大震災が起こった。そこで得たことを胸に秘めながら四川震災の復興をサポートしているNGOの一人の男性の活動リポートを胸打たれながらBSで見ていて、ブログアップに腐心していていいのかと思いながらも問いかけたい>


愛しきもの(13) ピノキオ

2010-01-10 20:30:27 | 愛しいもの

数年前に我が家の手入れをしたとき、キッチンとリビングの間に科(しな)のランバーコアを下がり壁の手前に立てた。同時に20年以上も使っていた冷蔵庫を取り替えることにしたら10センチほど出っ張る。そこはそれ僕も建築家だからちょっとデザインして、柿渋を塗ったりした。
その上に鎮座したのがピノキオたち。ところを得て嬉しげに座っている。一番小さいピノキオは、大谷に行ったときに手に入れた大谷石でつくったペンたてに座らせた。座らせ方の工夫をしたのは妻君だ。
いつの間に、こんなに沢山のピノキオたちがわが家に集まってくれたのだろうか?覚えていない。

棟方志功のいる光景(1) お正月

2010-01-04 21:02:35 | 日々・音楽・BOOK

わが家の正月は棟方志功のカレンダーをめくることから始まる。今年のタイトルは「羽海道棟方板画」だ。
松尾芭蕉の`奥の細道`を辿った志功が陸奥から出羽への道を「羽海道」として顕した。芭蕉の句は「眉掃きを俤にして紅粉の花」。1975年正月と志功のサインがある。

元旦。いい天気だ。
カーテンを開けて新年の光を部屋一杯に入れる。
妻君と娘が台所でおせちの準備を始めた。時折二人の笑い声が聞こえてくる。
僕は幾つも並んでいる銘酒のなかから、従兄弟のヒロッチャンが送ってくれた佐渡のにごり酒「金鶴」にした。`米から手がける酒造り`として「五百万石」の生産者の名前を記し、折りたたんだ中には蔵人の名によって`一点を見据え風土を醸す`書かれた紙片がビンの口に添えられている。今風の宣伝文句だがもやもやっとした濁りがお屠蘇にいいと思ったのだ。
お正月はこれよ!と朱塗りの大きな片口が妻君から渡された。片口に入れたにごり酒を、まず小さなお猪口に注ぎ仏壇に供えた。

さて年の初めに何を聴こうかと考えた。まずカントロフがミュンヘン室内管弦楽団をバックに弾くバッハのヴァイオリン協奏曲イ単調をディスクに入れた。今年をバッハからスタートさせるのだ。
新婚旅行で買った根来の重箱に入れた料理が並んだ。ひとしきり三十数年前の初々しかった東北を訪ねた旅のはなしになる。毎年のことだが娘もフンフンと聞いている。

CDを平良重信が三味線を弾き唄う「宮古島の古謡」にした。イヤだあ!と妻君と娘から声が上がる。でも爪弾く三味線と独特の節回しの古謡の響きは晴れた元旦になかなかいいのだ。2年前に訪れた南の島の青緑の海とサトウキビの様が浮かんでくる。

年賀状をわいわいいいながら見た後、有鹿神社へ初詣。鄙びた神社だがドラム缶に薪を入れた焚き火を囲んで手をかざしている人が沢山いて賑やかだ。ちゃんとお参りしようねと3人で二礼二拍手一礼をした。鐘楼の鐘を打つ。この神社はお正月に限って誰にでも鐘をつかせてくれる。
「エーツ」と娘が叫んだ。「大吉」。お御籤だ。これ以上発展なしと嘆く。そうかねえ!昨年は「凶」で娘が叫んだ。凶をぶっ飛ばせ!と家族三人でお払いをしてもらったことを思い出した。

僕は「小吉」。其れがなんともいいことが書いてある。
「・・よく一家和合し他所には困りごとありても自分の家のみは春風吹く様に楽しみ集まる他人のために尽くせ」とあり、願い事も思いのままだが人の世話よくせよ、ともある。待ち人も来るし病はなほる、ただしよき医者に頼めとある。やはりね。調子の悪い膝、そうだ優美堂に行こう。読み進む。旅行(たびだち)は早くしてもよく方向も何れもよろし。

ではやるか!愛媛に行ってレーモンド建築を。気になる、鎌倉近美を、愛知芸大を、大阪中郵を、函館の弥生小を、東京中央区の明石小はどうだ!
そうもいかないか・・・争いごとには勝つが人に頼むが吉とある。ふうーん、そうだなあ!争いごとにしてはいけないのだが!