日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

何が起きているのか、建築確認システムの「性悪説」による改訂

2007-09-29 17:23:20 | 建築・風景

止むに止まれない思いで、下記文章を書いてから3ヶ月が過ぎた。建築確認システムの改訂は、いまだに大きな問題を抱えている。建築雑誌日経アーキテクチュアでも、つい最近この問題を取り上げた。国の定めた法律だから、おかしいと思っても当面対応しなくてはいけない。大手の設計事務所やゼネコンでも、其の対策に大童の様子が伝えられている。

この基準法改訂の最大の問題は、人は信頼できないとする性悪感だ。国交省担当官は、人間を信頼できないという。そういわれると、僕たちはそういう国交省担当官を信頼できないと言い返したくなる。
「性悪説」。今の社会を象徴していると事態だと暗然とするが、とても危険な認識だ。そういう状況把握・認識で豊かな社会ができるわけがない。
・・長くなるが読んでいただきたい・・

<3ヶ月前の僕のメモ>
ほぼ一ヶ月前になる6月20日、東京建築士会の主催による「建築確認システム改訂(建築基準法の改訂)」の講習会に行った。地下鉄大江戸線の勝鬨駅から近い、第一生命ホールという2000人を超す人が入れる大ホールだ。
この講習会は3回行われたが、受講希望者が絶えないので、数回の追加開催をすることにしたという。それだけ建築界の関心が高いともいえるし、皆どうなっているのかと戸惑っているのだ。
申込みのとき僕の事務所にいるM君が、2,3日前に民間検査機関の今回の改定説明会に行ったが、担当官が、改訂の見解や手続きがまだ整備されていないので対応できないと困っていたので、受講するのはなるべく遅いほうがいいと言う。そこで受講日は最終回にした。

ところが、講習会の東京都の実際に確認審査を行う担当官である講師は、国交省から毎日のように変更した通達がでるので、対応に困惑していると言う話しに終始した。
分厚い基準法改定の資料があるが、補足資料として昨日国交省から来たという通達が配布された。これもまた改定されるかもしれない。改定されたものは国交省のHPに記載されるので、毎日チェックしてほしいと言う。構造計算を行い、提出された計算書をチェックする国交省認定のソフトもまだできていないと言う。
この改定が施行されたのは、講習会の行われた6月20日なのにこの有様だ。一体何が起こっているのか。

今回の改訂が「姉歯事件」に端を発しているのは論を待たないだろう。人の安全に関わることなので無碍(むげ)には言い切れないが、振り返ってみると、国政や国交省等の行政関係者の慌てふためく有様は見るに耐えなかった。
その結果が性善説から性悪説への転換になった。つまり建築家や民間の建築関係者は信頼できないので、法規制を作り直して役所の監視を厳しくすると言う。言い換えれば役所が責任を負わなくてもすむシステムに、建築基準法を急いでつくり変えたのだと皮肉をいいたくなるのだ。
しかし時間を与えられないので、そういう上からの指示にうまく対処できないのだ。行政の上に政界がある。姉歯事件に対して、専門家ではない政治家のたどたどしい言い訳と恫喝に、不安を覚えたのもつい最近のことだ。
役人は僕たち建築に関わる「民間人」を信頼できないというが、僕たちもそういう「役人に不信感」を持つ。不幸な事態だ。

僕たち建築家は、実務作業をやる中で、役所のシステムのなかに秀でた役人がいることも、著しく無能な、つまり建築の現場を知らない役人のいることも知っている。役人の法の解釈が人によってまちまちであることもよく知っている。
同時に建築がつくられていく仕組みや、物をつくる喜びや、つくられたものが社会の中に果たす役割や、その功罪をしっかりと受け止めている建築家や施工関係者がいて、多くのクライアントや市民に信頼され、一緒に建築や街をつくっていることも知っている。今度の性悪説への改定は、市民の安全のためというお題目はあるものの、建築界だけでなく、皮肉なことにそういう市民をも信頼できないものとして扱うことになりそうだ。

僕のブログにコメントを下さるEMさんは、建築家として民間の検査機関に協力しているが、つい最近のコメントでも、施行から一月経った今も、依然として今回の改訂法の統一見解や手法の整備がされておらず、関係者に迷惑をかけていると困惑されている。
先に述べたが法の解釈は、役人にとっても僕たち実務者にとってもまちまちだ。建築基準法は国の定める法律なのだが、つくったのも人だし、解釈は人のすることだ。

かつて僕は渋谷区や新潟市の建築主事とやり取りし、今まで行われていた法の解釈を替えさせたことがある。だって多数の県や区がOKしている解釈が、ここでは違うと言われても納得できない。僕も困るが、クライアントだって困るからだ。
「新潟の建築の形がこれから変わるなあ」と主事がつぶやいた。ちょっと僕は得意になったが、同時に不安を覚えたことを思い出した。

こういうことがあるから僕は、危ないと思うと、事前に役所と法の解釈の相談をしてきた。無論多数の建築家がやってきたことだろう。しかし今回の改訂では、その事前相談を受け付けないという役所が大半だ。何故なのかよくわからないが(事前相談でOKしたことが申請時に間違っていたとトラブル事を恐れているのではないだろうね。まさかね!)。
とするとこの法律が実質的に稼動され始めたら、大きな社会問題になることは間違いない。こういうこともあるという。建築の現場での、おさまりや仕上げの変更も認めないというのだ。適法であっても。建築というものと、現場をわかっていない台詞だ。
この事件 (事件といいたくなる) は、いずれも僕たち建築家の問題だけでなく、建築を建てる人(クライアント)つまり市民の抱える問題でもあるのだ。

<建築基準法という法律>
EMさんは、建築基準法は「法律」として著しくバランスの崩れた末期的症状を呈しており、技術、工学的な面や確認許可手続き、都市計画法や景観法など他の法律との整備を行い、抜本的な見直しを行わないと、これからの世代に引き継げないのではないかと危惧する。僕もそのとおりだと思う。消防法などとの整合性にも眼を向けるべきだ。
更に僕が言いたいのは、建築基準法は基本的には新築工事に対しての法律であって、建てた建築の存続についての視点に欠けている。これからの都市や社会の在り方における建築の存在を考えるときに、考えなくてはいけない大きな課題だ。
今回の基準法改訂を、僕は国交省の言うように「改正」とは言いたくない。明らかに「改悪」だ。

建築をつくるのは楽しい。大切な行為だ。今回の法改正がどのような仕組みで行われたのかよくわからないが、建築が生み出されていく現場を知らない役人の、机上の論理で改正作業がなされたとしか思えない。数は多くはないが(当たり前だ)民間人や其の組織が処罰されたが、問題を起こした役所が処罰された例は聞かない。いつものこととは云え、どうもうっとうしい。
建築は、そしてその集合体でもある都市は市民のものだ。それをつくる建築家や建築界を信頼し得ない法のつくり方はどこか歪んでいる。
このうっとうしい梅雨空のように、やりきれない思いがしてくる。

<さて今>
梅雨はあけたが湿気のある暑い日の続いていた9月21日、神戸市の新条例報道がなされた。
「建築物安全確認」の為に、市の職員が、「民間検査機関」の検査に、立会い権限を持たせるというものだ。
民間検査機関が信頼できないので、役人が立ち会うということらしい。この民間検査機関というシステムをつくったのはそういう役人ではないか。それなら何故設置認可をしたのだろう。

不信が不信を呼ぶ。背筋が寒くなる事態だ。
安部元首相が「私が決める」と絶叫したとき、僕はあなたに任せたくはないし、任せた覚えはないと言いたくなった。僕は役人に、建築を任せたくない。安全という、それが市民のためというお題目で、街が壊される、つまり文化としての建築が失われていく。
人が、人の為につくる建築や街(都市)が、性悪説でいいと本当に思っているのだろうか。恐ろしい時代になった。

<写真 講習会会場>


レーモンド展シンポジウムにて 東京女子大「東寮」の解体 

2007-09-24 18:24:33 | 建築・風景

アントニン&ノエミ・レーモンド展が、9月15日から鎌倉の神奈川県立近代美術館で始まった。この展覧会は、アメリカに在住する各地の美術館の5人の学芸員が集まって企画した。発端は、レーモンドのアメリカでの拠点ニューハンプシャーに住む遺族が、所蔵していたレーモンドの資料を、ペンシルバニア大学のアーカイブス(ルイス・カーンアーカイブス)に寄贈したことによる。仲のいい5人が集まって、レーモンドの軌跡を世界各地を廻って調査し、アメリカでの開催の後、鎌倉近美へ巡回されたのである。

アメリカの底力を感じるのは、日本で活躍した建築家の調査に、ゲティ美術館(財団)などが資金協力をしたことだ。其の成果の一つが、日本ではほとんど紹介されたことのない、ノエミ夫人のテキスタイルや、絵画の展示だ。そしてそれがとても素敵なのだ。

鎌倉展では、DOCOMOMO Japanメンバーが協力した。日本のレーモンド建築の現状や、レーモンドの元で建築家としてのスタートを切り、日本の建築界をリードしていった、前川國男、吉村順三、増沢洵、ジョージ・ナカシマの活動も併せて紹介した。
カタログやポスターチラシなどは、DOCOMOMOでお馴染みの武蔵野美術大学教授の寺山祐策さんが担当し、建築写真家・清水襄さんの撮影したレーモンドの建築写真や、模型などを追加して展示した。新しくつくった模型は、東海大学渡邊研司研究室のつくった「夏の家」と、京都工業繊維大学松隈洋研究室の大学院生の作った、ジョージ・ナカシマの設計した「桂教会」だ。今も都市の中に活きづいているレーモンド像が浮かび上がった。

鎌倉近美でのこの展覧会の開催は、DOCOMOMOの活動が、ここでの20選展が出発だったこともあって感慨深いものがある。8年前のことだ。
また僕は、坂倉準三の代表作、この鎌倉近美の存続を願って、多数の建築家や歴史研究者、それに市民や学生とともに「近美100年の会」を組織して事務局長を担い活動してきた。しかし20選展の展示を行った池の中に建つ新館が、鉄骨の錆などの問題によって、この展覧会から使えなくなったこともあり、改めて建築のあり方を考えさせられることにもなった。

展覧会に併せて9月16日(日)にシンポジウムが開催された。
会場は、早稲田で教鞭を取った建築家、武基雄の代表作`鎌倉商工会議所`だ。この会場も思いでが深い。
高階秀爾、藤森照信、木下直之、松隈洋などそうそうたるメンバーによって、近美の存続を願う「近美100年の会」のシンポジウムを行い、これがこの会の発足になったからだ。それからも、もう6年にもなる。人と人との価値観の共有による信頼が、どこかで繋がっている様な気がする。

シンポジウムは、前半が日本のパネリストによる「日本のレーモンド」、後半は近美のキュレーター・普及課長の太田泰人さんの司会によって、アメリカのキュレーター5人が壇上に登った。テーマは「世界のレーモンド」である。
後半は、企画の中心的な役割を担った、カリフォルニア大学のカートさんの趣旨文を、中原マリさんが明快に日本語で伝えることから始まった。ケン・タダシ・オオシマさんは、「レーモンドとコンクリート」と題して興味深い発表をした。確かにレーモンドの、打ち放しコンクリートの東京女子大チャペルや自邸によって、日本のコンクリート建築歴史の一端が築かれていったのだ。
当日の会場設置には倉方俊輔夫妻や早稲田の学生渡邊真理さんや、模型を作った学生に僕の娘も手伝った。

建築の専門家ではない僕の娘の感想がわが子ながら面白い。パネリストの話が弾んで1時間も伸びたのに、それに結構難しい建築論であったにもかかわらず、「とても楽しかった」というのだ。
僕は前半の「日本のレーモンド」でコーディネーター、つまり司会をやったのだが、予定の時間が過ぎても、なかなか終わらないのでハラハラした北沢興一さん(元レーモンド事務所所員)の話が、一番面白かったのだそうだ。恐いレーモンドと、優しいノエミ夫人、それを尽きることのないレーモンドご夫妻への想いによって語る北沢さんから、建築や人の面白さが浮かび上がったからだろう。
時折日本語があやしくなるケンさんに、心の中で頑張れ頑張れと云い続けたと言う。ケンさんの朴訥な人柄のなせる業だ。それに何より中原まりさんって素敵だね!僕も同感だ。

彼らが日本へ調査に来たとき、僕は東京女子大のレーモンド建築を案内したし、DOCOMOMO20選展を高崎に巡回したシンポジウムでも、僕は司会をやり、ケンさんにパネリストとして話してもらった。ケンさんや、中原マリさんとは僕も仲良しなのだ。

連休の合間で「人が来るかなあ」と心配した会場は、当日訪れた人もいて補助席をぎっしりと並べたが、それでも入りきれない人で一杯になった。申し込んだ人を数十名も断ったそうだ。
パネリストの大川三雄さん(日大准教授)は、スライドで自分で撮った見事な写真を写した。そのプロジェクターの台は、みかんが入っていたダンボールの箱。挨拶をした山梨近美館長が、其のダンボ-ルを差しながら、この展覧会は「手作りで・・」と述べたら、会場から笑い声が起きた。何だか暖かい雰囲気に包まれる。この雰囲気は武先生の会場あってのことだとも思う。でもこのシンポジウムは、この和やかだけはなかった。

松隈洋京都工業繊維大准教授は、第二次世界大戦を控えてアメリカに帰ったレーモンドが、ユタ州の米軍施設で日本家屋街並を作り、焼夷弾効果の実験に協力したことに触れた。僕たちには周知のこととはいえ、それをどう考えるのか、常に心のどこかに留まっている問題だ。
時折笑いに包まれながらも、歯に衣を着せない様々な論考に、いいシンポになったとホッとする。

僕は前半の最後で、東京女子大「東寮」の解体に触れた。瓦礫の写真をPPで写すと、会場から慨嘆ともつかないざわめきが起こった。
「寝食を共にしつつ 学生らが考え 学び 笑い 悩んだ 熱い青春の日々がここにあった」と東寮の銘版に書いた,ここで学生生活を過したジャーナリスト藤原房子さんの言葉を伝えた。会場にいた藤原さんの眼が潤んで赤かった。

<写真提供 東京女子大学レーモンド建築東寮・体育館を活かす会>



東京文化会館でキース・ジャレットを聴く

2007-09-17 21:58:53 | 日々・音楽・BOOK

キースがピアノに指を下ろした瞬間、胸がジーンとなった。半年も前になる5月8日の上野の東京文化会館大ホール。キース・ジャレットトリオの演奏が始まったのだ。
音がいい。キースの音がクリアだ。僕のいる席は2階の奥で必ずしも条件のいい場所ではないが、音が見事に響くのだ。これがキースの音だと思った。そしてアコースティックベースを電気で増幅するゲイリー・ピーコックの音とのバランスも良い。言うまでも無く、ジャック・ディジョネットの、ピアノとベースを生かすような抑えかたもいい。キースのいつものうなり声も、いい具合に聞こえてきて、微笑ましく納得する。
演奏が素晴らしいから音もいいのだが、やはりこの音は、前川國男の設計したこのホールの音なのだと思った。

僕は、後半のスタート「ベイジン・ストリート・ブルース」を堪能しながら、様々なことを考えていた。時折中腰になってのめりこむキースの姿にグッときながら。
ライブとはいえ2000人を超す大ホールでの演奏と、ヴィレッジ・バンガードのようなライブハウスでのプレイとのスタイルの違い、それとこの文化会館の、改めて感じた魅力である。
休憩時間に人で埋め尽くされた広いロビーの、華やかな様子を見て感銘を受けたからだ。NHKホールは論外だとしても、国際コンペによってつくられた東京国際フォーラムでさえ、ゆったりしたロビーがないのだ。ホールは演奏を聴くためだけにあるのではない。音楽という文化を、演奏を通して感じとり、共感を持って語り合う場が必要なのだ。

ライブの魅力は臨場感だ。確かにそうだが、ライブハウスで録音された演奏にも、人のざわめきや食器の触れ合うささやかな音とともに、人の吐く吐息のような感動が塗りこまれている。繰り返し聴いていてもその趣はいつも新鮮だ。

この日の舞台は、黒い布でフロアを覆い、スポットライトを当てて非常用の案内標識も消灯して演奏された。舞台効果を挙げるためだと事前に場内放送が流れた。演奏を聴きながらその完成度に驚く。ゲイリー・ピーコックの髪がすっかり白髪になった。トリオを組んで時を経たのだ。
しかし60年代後半に、銀座のジャやンクに入り浸って聴いた、プレイヤー同士の、生きるか死ぬかのようなあの緊迫感は無い。
ジャズの臨場感はインプロビゼーション(即興)におうところが多いのだが、それはプレイヤー同士の戦いでもあり、聴衆に対する挑戦ではなかったのか。

でもまず僕が耳を奪われたのは、整った美しさだった。言い方を替えれば演出の美だ。アンコールの心のこもった演奏も心地よかったが、規定の数曲(多分そうだと思う)が終わると場内の照明がパッとついて、聴衆はためらわずに立ち上がる。あっけにとられた。
何かが違う。僕の求めているのはナンだったのかと、自問してしまった。

生きている建築 なくしていいのか都城市民会館(4)

2007-09-13 13:48:02 | 建築・風景

副市長にDOCOMOMO選定建築物に選定した記念として、選定プレートを送呈したが、その後の記者の質問に、副市長は、ありがたく受け取るが、だからといって解体の方針は変えないと答えた。議会決定をしているのでそう簡単に翻意できないのはわかるが、そのコメントで「新しい施設をつくったので、この市民会館の役割が終えた」という言い方には納得できない。

役割を終えたのではなく、都城市が永い間積み立ててきた資金に、県からの助成金受け、更に多額の借り入れを起こして、新しい箱物をつくってしまっただけではないかといいたいのだ。その裏に政治家や業界の様々な思惑があるのではないかと疑いたくなる。

前市長の時代、この建築の存続について市民にアンケートを取ったところ、既に新しい施設ができたにもかかわらず、残すべきだという回答が、取り壊すべきだという声よりもわずかだが上回った。しかし市長が変わった今年になって、多額のメンテナンス費用を掲載し、「役割を終えた市民会館」とタイトルを打って、取り壊す事について市民に問いかけたアンケートでは、約80対20で解体容認が上回った。市の情報操作の恣意が見え隠れする。それでも20パーセントの存続支持があることは大切な事実だ。
この建築の存在を、もう一度市民の方々にも考えてもらいたいと思う。

見学した新施設は、120億円という膨大な事業費によってつくられた、今の時代のデザインスタンスを表現した贅沢だがいい建築だ。しかし菊竹さんのつくった時代を切り開いていこうという意気込みは感じ取れない。建築が総てそうあるべきだとは思わないが、菊竹さんの市民会館の存在が、そのために浮かび上がってくるような気がした。
40年前、市民の誇りとして創られ、様々な想い出の宿っているこの建築を、本当になくしていいのか。その記憶を消し去っていいのだろうか。市民の建築だが、この市民会館は僕たち建築家のものでもあり、日本の世界に誇る文化資産なのだから。

閉館している市民会館を見学させてもらった。
そして仮設の投光機の中に浮かび上った、オーディトリアムの有様に息を呑んだ。幸い、というと言う僕も辛くなるが、日南市文化会館のような改修がされていないのがありがたい。この異形といわれる形が、機能を素直に表現し、それを世界に伝えるために厳しく、情熱を持ってデザインされたことが、オーディトリアムの側面からも、天井からも、ひしひしと僕たちに訴えかけてくるのだ。菊竹清訓さんが若干38歳の時だ。
人間って素晴らしい。人の持つ可能性に僕は奮い立たされる。この建築は生々しく生きていて、使われることを今か今かと待っている。


KING SEIKOが動かなくなった

2007-09-09 15:36:16 | 日々・音楽・BOOK

時計がとうとう動かなくなった。38年前に手に入れて愛用していた腕時計、金色のフレーム(真鍮だろうか)の「KING SEIKO」。
オフホワイトのダイヤル面に、切り抜いたSEIKOのエンブレムが誇らしげに貼り付けてある。針の軸の下部に、KING SEIKOの細い文字と、その下にはほとんど読めないくらい小さい文字でDIASHOCK 25 JEWELSとすっきり書かれている。裏面に刻印されているNOは、7201626だ。

手巻きで機械式のこの時計を買ったのは、大阪梅田の隣の駅、福島の商店街にある小さな時計屋だった。僕はまだ20代、福島に建っている病院の院長室、手術室や食堂・厨房の改修設計と、その工事の監理の為に、10ヶ月間出張したときのことだった。

ショーウインドウに飾ってあったKING SEIKOを見るために、何度も何度も足を運んでは溜息をつき、そして我慢しきれなくなって店に入ったのだと思う。おまけしてと恐る恐る店のオヤジさんに頼んだら、いやこれはね、まけられないのだと苦笑しながら、それでも端数を引いてくれたことを微かに覚えている。グランドセイコーには到底手が出なかったが、僕はこの時計で十分だった。

グランドセイコー(GS)は今でもSEIKOのブランドとして存続し、これを持つのは男のステータスだ。しかし今でも僕には高嶺の花、やっと手の届いた「KING SEIKO」はいつの間にかその名が消えてしまったが、当時はこの二つのブランドは、セイコーの双璧だった。

腕時計にはいろいろな想い出がある。
シチズンから、初めて防水時計が出たので喜び勇んで手に入れたのは、箱根のホテルの現場だった。現場の風呂で時計を腕にはめたまま入って大丈夫かと先輩に心配されたが、防水だからと自慢したものの、すぐに動かなくなった。苦い想い出だが、コマーシャルにすぐ乗ってしまうのは今に始まったことではないと、苦笑いしたくなる。
飛行機の中で,ANA時計も買った。次にANAに乗ったときに、スチュワーデス(今は客室乗務員と言わなくてはいけないのだろうか)に、うちの時計だと喜ばれた。
スターリングシルバーフレームに釣られて買った手巻きの時計は、うっかりすると止まってしまうし、フレームが黒ずんで困惑した。

無くした時計もある。黄土色のダイヤル面にグリーン縁の、格好いいので気に入っていた時計は、テニスの試合で汗になるのではずしたところ、どこかに消えてしまった。DOCOMOMO100選展のときに、ポスターやカタログデザインをしてもらった寺山祐策さんがデザインしたDOCOMOMO時計も、電車の中ではずしてポケットに入れたら、いつの間にかなくなってしまった。

数年前引き出しを開けたら、ダンヒルなど幾つかの時計の中に「キングセイコー」を見つけた。昔が蘇る。オーソドックスなスタイルが、むしろ新鮮だ。腕にはめたらなかなか格好いい。愛用品が蘇った。よく無くさなかったものだ。

動かなくなった時計の修繕を頼んだら、3週間たって「部品もないので修繕不可能」とセイコーから戻ってきてしまった。愛妻とは、部品も手作業でつくる、街の時計屋さんを探さなくてはいけないね、と溜息をついた。
代わりに手に入れたのは、渡辺力さんのデザインした安価な「リキ」時計だ。厚ぼったい機械式で土、日使わないと止まってしまうが、モダニズムフアンの僕にはピッたし。いいデザインだ。でも何だか他人のはめている時計が気になる。


トイレの中で考え込んでしまった!

2007-09-03 10:53:19 | 写真

楽しみの一つは、トイレの中で雑誌のつまみ読みをすることだ。
自宅のトイレには、写真雑誌`アサヒカメラ`が数冊置いてある。僕のお気に入りは、文筆家の大竹昭子さんがゲストを招いて対談する「PHOTO WATCHING 写真を語る」だ。

何度も読んでいるのに、ふと惹かれるフレーズが突然現れたりする。
写真家佐内正史と組んで「恋をしよう。夢を見よう。旅に出よう」を著した作家角田光代さんは、佐内さんをどう感じました?と大竹さんに聞かれて、それまで写真って、在るものを撮るんだって思っていたんですけど、そうじゃあなくて「その人が撮ることで世界をつくっているんだ」って考え方が変わりました、と述べる。思わずドキッとした。

長島有里枝については、「彼女が写真を撮っているのは、世の中を、世界を理解したい、その手段だと思った」という。結構鋭い。
共感した大竹さんは、ではティルマンスは?蜷川実花さんは?大森克己さんは?在元彌生さんは?と好奇心むき出しになって次々に問いかける。大竹さんと角田さんは一回り弱、年が違うが、大竹さんが問いかけた写真家たちは、角田さんの同世代。大竹さんは生々しく自分より若い世代の世界感、ものづくりの原点を探っているともいえる。つまり写真を介して世代の違う二人の人生を語っているのだ。その息使いが楽しい。

さて僕が写真を撮るのは、と狭い空間で考え込む。
ふと絵描きの長谷川利行が「絵を描くことは生きることに値すると云う人は多いが、生きることは絵を描くことに値するか」と自問していたことを思い出した。利行の鉛筆によるぐにゃぐにゃとしたスケッチや、塗りこまれた色が濁らない不思議さを視るとわかってくる言葉だ。
あの`はちゃめちゃ`な生き方をしなくては絵を描けないのか、写真を撮るのも同じことかなどと、もう一度PHOTO WATCHINGのページをめくる。
残念ながらこのPHOTO WATCHING は今年の3月号で連載が終わった。でも、トイレに入ればバックナンバーが読めるのだ。

トントンと遠慮がちにドアが叩かれた。なかなか出てこない僕を心配した愛妻に、大丈夫?と声を掛けられた。