日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「新建築」2010年東京建築案内・選んだ3っの建築

2010-04-23 11:12:35 | 建築・風景

新建築4月号の特集「東京2010・110人による東京建築案内」はなかなか興味深い。どんな建築が東京という大都市に存在しているかということではなくて、誰がどの建築を選んだのか?という好奇心が刺激されるのだ。

巻頭には`110人の建築家・専門家の方々にそれぞれ3つの建築とそれらを廻るルートを選定して推薦してもらった、これまでとは違うガイドブック`だと記された。
新建築社からのメールでは、東京の建築をみに来た人に見てもらうために・・あるいは、建築を志す若い世代に東京の建築を伝えたいという編集長の想いも読みとれる。見てもらうために建っている場所をマップに落とすという。
原稿締め切りは一週間後、ちょっとあせった。プライバシーが気になる住宅や、社寺などでもいいのか?と「選定基準」を聞きたくてメールした。編集長からはジャンルは問わないが、まあそれなりの見識を持って的な、でも住宅だとマップに記載出来ないかもしれないですねえ、と記されていた。

僕はこう考えた。誰もが選びそうな建築を選んでも面白くない。といっていい建築を伝えたい。3つとはいえその3つには何かの関連性があって物語があったほうがいい。さて!
自作を臆面も無く掲げている建築家もいるが、思いがけずオーソドックスな選定で「ふーん」と驚いたのもある。一番数多く推薦を受けたのが「国立代々木競技場」。「ヒルサイドテラス」更にあのガラスブロックを驚異的な技術で構築した「プラダ ブティック青山店」そして「塔の家」。納得できる。

「青木淳」。長沢浄水場(山田守)、目黒区区役所(旧千代田生命本社ビル・村野藤吾)、パレスサイドビル(林昌二+日建設計)。オーソドックス!

ところで今の日本を代表する建築家「槇文彦」が選んだのは?
1、上野の森(西洋美術館、東京文化会館などなど・ここは建築の宝庫なのだ)、2、東京駅―日比谷を繋ぐ領域。東京駅を出て日生劇場に至る様々な分野の建築群。多様な建築の魅力として推薦。3、表参道エリア・国立代々木競技場(丹下健三の代表作というだけでなく日本の建築を世界に伝えた記念碑的な建築!)からスタートして表参道、プラダに至ると記されている。秀れたモダニズム建築をきちんと伝えたいという思いに溢れている。

「藤森照信」。国立代々木競技場、そうかやはり!東京の建築を語るときには欠かせない。旧前川邸(小金井の建物園・僕だったらその後建てたRC造の自邸だけどなあ!)そして藤森さんらしい`うかい鳥山。僕は行ったことがあるが知っている人はほとんどいないだろうなあ!

では「鈴木博之」は?明治神宮宝物殿、国立代々木競技場(やはり欠かせないか?)、根津美術館(コメントは2010年の現在を知る好例、つまり和風表現を知るにはいいとある。そしてこの青山一体を歩いて青山学院に足を伸ばしてもらえば研究室でお茶ぐらいは出してあげるかも、なんて書いてある。大丈夫か!

ところで、青山ではねえ!と悩んだ僕も青山だ。
僕はこう書いた。「青山は時代にトライする現代建築のメッカだ。一味違う建築の存在も味わっていただいた後、旧山田守自邸の喫茶店で、美味しいコーヒーをどうぞ」
僕が選んだのは、大谷幸夫の「旧東京都児童文化会館」「フロム・ファーストビル(山下和正)」そして「旧山田守自邸」。山田守事務所に電話して所長からマップ掲載の許可を得た。ところが僕のほかに推薦者が二人もいた。なかなかいいのだ、この建築。コーヒーもほんとに美味しいし・・・

<写真 児童館のパーツ:こういう窓、ちょっと懐かしい)

歌舞伎座さよなら公演・夢幻の世界 歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」

2010-04-18 14:54:42 | 日々・音楽・BOOK

勘三郎が軽妙な語り口と仕草で詰め掛けた人々を沸かせている。
おやどこかで見た顔だなあ!と覗き込まれた團十郎は股を開いて踏ん張り、少しも表情を変えない。笑いを抑えているのだろうかと僕も顔を覗き込みたくなる。歌舞伎十八番『助六由縁江戸桜』を僕と妻君は楽しんでいるのだ。

勘三郎は股くぐりをやらされる通人里暁を演じている。幸四郎に言わせれば「演じている」のではなく「役を勤めている」ということになるのだろう(文藝春秋2002年11月号)。でも勤めを超えてしまって独自の世界を醸し出している。それがそれ、少しも嫌味がないのは永い修練と先代の面差しを受け継ぎ、中村座を率いる総領の風格と品格があるからだ。

続いて股くぐりをする白酒売新兵衛の菊五郎には、忍ちゃんがねえ!(ついでに)中村座もご贔屓に!拍手がおきた。和やかな笑いを取って花道を引くときにふと立ち止まって、客席から天井、舞台を見渡した。
いい芝居小屋ですねえ、と溜息をつく。そして瞬時間をおき、ちょっとためらって、でも3年後には新しくなるのでと僕たちをしんみりとさせる。そして上半身を微動だにさせずにつつつと消え去った。

玉三郎の三浦屋揚巻にはオーラがあり、くわんぺら門兵衛・片岡仁左衛門の軽やかさ、転じて左團次の重量感。口上は若きスター海老蔵。次代を見据えた多彩な顔見世だ。

「実録先代萩」の『子別れ』の一幕。芝翫・浅岡の貫禄、抑えて風情のある片倉小十郎の幸四郎。そして何より凄かったのは浄瑠璃三味線入魂鶴沢宏太郎の撥捌きだった。

これも残念なことに今年の2月で終刊となった季刊誌『銀花』の1998年第七十三号`紅霞喜色`号に、今年で百周年を迎える「歌舞伎座」を「わたしは歌舞伎座の猫」と一捻りしたタイトルの頁がある。
`團菊左`で杮落しをして明治二十二年に東京・銀座に開場した歌舞伎座の、黒紋付の新旧歌舞伎役者が勢ぞろいした「古式顔寄せ手打ち式」の様は、猫の一言に借りて、さながら夢のようでありました、とある。3階から撮った写真の天井の緑色の間接照明に対比して彩られた舞台は正しく、朱塗りの扉をギイと開くと心ときめく「夢幻の世界」。

ページをめくると「脂粉の香り漂う楽屋内芝居好きの職人たちが技を競う」、次「檜の匂いのする役者花道にて見得を切る」、写真はなんと玉三郎丈の花魁「揚巻」ではないか。次の頁、「機械油のにおいと黒衣と闇舞台裏には色がない」。
僕はこの歌舞伎座の全てを見学したことがある。天井が高いと役者が喜んだ楽屋、そして闇の廻り舞台下の奈落(言いえて妙だ)。猫が呟くのもわかる。そして「芝居小屋に住む猫は決して舞台を横切らない」
最後の一言「銀座四丁目にどっしりと腰を据えた不思議な空間」。猫にも想いがあるのだ。

ひとしきり僕たちが座っていた平土間(一階の舞台に近い右手の椅子席だけど)からこの芝居小屋を見渡して東銀座の雑踏に出た。見上げる提灯の文字は「御名残四月大歌舞伎」。

銀座ライオンで妻君と乾杯した。妻君は歌舞伎座の平土間は前の人の頭が邪魔でちょっと見に難いのよねというが、菅原栄蔵の設計したこのビヤホールと歌舞伎座が僕に取っての銀座の華だ。

旅ゆかば(1) 「旅って何だろう」と考え 沖縄のJAZZピアニスト屋良文雄さんを偲ぶ

2010-04-10 15:20:47 | 沖縄考

新聞の広告は旅だらけだ。旅しかないのか?と思う。
となると僕も旅って何だろうと考えてみたくなる。
僕のこの1年の、旅や旅らしき出来事を振り返ってみた。そして困ったことに建築三昧だったことを確認するハメになった。これでは妻君も娘も僕と一緒に旅をしたくないというわけだ。

昨年の3月にDOCOMOMOメンバーを引き連れての韓国近代建築ツアー、4月の金沢工業大学でのJIA―KITアーカイヴスの委員会出席のための金沢での1泊旅。7月末から8月に懸けては3泊4日の四国行き。これも四国の建築をみるために出掛けたのだ。

「旅」。広辞苑にはこうある。「住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと」そして、古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れること全てを「たび」と言ったとある。読んだ途端に「たび」と言うコトバが改めて面白く興味深い対象になった。「人生は旅だ」という言い方も無くはなしだし!

8月には新潟へ。僕の設計したビジネスホテルの定期調査と、不況のあおりを受けて閉館することになっての善後策の検討、これは仕事だから出張だ。
ちなみに広辞苑では「出張」とは、一節に「でばり(出張り)の音読で、戦場に出て陣を張ること。と冒頭にあり次の項に「用務のため、ふだんの勤め先以外のところにでむくこと」とある。仕事は「戦場」なのだ。

しかし僕はその後もう一泊して新潟の知人とまちを歩いて建築を見、夕方、版画家や美術評論家とも一緒になって酒を飲みながら「まち」やそこに建てる「建築家」、「絵描き」の世界を語り合った。出張を旅に変えた。

JIAの保存問題委員会の木曽福島で一泊した理論合宿。木曽のまちや建築を見学して語り合う旅だった。11月の3泊4日の北海道は学生の設計課題講評とはいえ旅。函館へ脚を伸ばしたから?
僕は教える立場とはいえ、若者から学ぶものもある。未知への好奇心があれば旅になる。

では11月30日のDOCOMOMOからの「弥生小学校保存要望書」を持って教育長や議長に提出した後記者会見を行った日帰りの函館行きは?沢山の人との出会いと発見があったから旅といってみたい。旅でないとしたらどういう言い方をすればいいのだろうか?そして今年に入った2月の札幌での建築家上遠野徹氏を「偲ぶ会」「偲び会」。
思い起こすとこの1年で3回も北海道を訪れた。北海道には僕にとって掛け替えの無い人たちがいるからだ。それにしても建築ばかりだ!

それでも懲りずに、今月の24日と25日にはシンポジウムで話すために四国に行く。愛媛県、宇和島の近くの鬼北町、地元出身の建築家中川軌太郎の担当したレーモンド事務所が設計した庁舎の存続をサポートしたいと思うからだ。
6月には家族とともに京都へ。建築は観ないぞ、ではなくて桂離宮を見学するのだ。妻君と娘が僕を桂へ招待してくれるのだ。WHY?と思うでしょ!

この一文を取りまとめていた8日、沖縄のJAZZピアニスト屋良文雄さんが亡くなった。
昨年は沖縄に行けなかった。那覇の「寓話」へ往けなかった。屋良さんのピアノが聴けなかった。僕の沖縄紀行アルバムには、屋良さんと僕が肩を組んでいる写真が貼ってある。オフィスの机の前にはピアノの前に腰掛けた屋良さんが微笑んでいる。四つ切の写真だ。屋良さんの右に少し離れてなぜかドラーマー津嘉山さんの奥さんが座っている。笑顔だ。僕はいま屋良さんにサインをもらったCD「シルクロードの詩」を目を瞑って聴いている。

そう、建築をみるだけが僕の旅ではないのだ。かけがえのない人との出会いがある。でもつらい別れもある。

「旅行かば」。旅に行けば何かが起こる。
過去形が多くなってしまうかもしれないが、10回ほど飛び飛びに旅を考えてみたい。「旅は人生」だからだ。いや「人生は旅だから」?

<写真 光る沖縄読谷の海 水平線が高くそこに光があたりえもいわれぬ美しさだった。思わず車を降りシャッターを切った。屋良さんはこの海のどこかにいて僕たちを微笑んでみているような気がする)

中川道夫の写真集「上海1979-2009双世紀」

2010-04-07 10:44:10 | 建築・風景

写真家中川道夫さんが、写真集「上海1979-2009双世紀」(岩波書店)を出版した。1969年高校生だった中川さんが訪れた上海は、路上には革命歌が流れ,紅衛兵が闊歩しているなど文革の余波が蠢いていて大きな刺激を受けたが、外灘(バンド)に林立する西洋様式の建築の姿が脳裏に刻み込まれたという。

個人旅行が許されるようになった1980年代に待ちかねて訪れた上海は、造反の熱気は消えて改革の時代になっていたが、以降中川さんは普段着のまちと市井の人を撮ろうと30年間に渡って市中を徘徊して写真を撮り続けたのだ。
この写真集は、国際都市上海の歴史を浮かびあがらせるだけではなく、そこで生活する人々の姿を捉えていることによって、僕の心を震わせる。

僕が上海に行ったのは90年代になっていた。
今のように開発がなされておらず、中川さんの80年代に撮った写真を見ると其の時の風景が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

僕も写真を撮った。
カメラを向けた租界の町並みや、道路に面して布団や洗濯物を干す様や、朽ち果てそうな建物の入り口にたたずんだり、道端に数人で腰を下ろして路行く人を眺めている様や、掛け声が飛び交う路上、自転車に乗って仕事に向かう姿を中川さんも捉えているが、其の情景が人が生きている証のように思え、フィルムだけではなく目にもこびりついていて、「生きること」、それでいいのではないか(これで何が悪いのか)と感じたことを思いだした。
それが20年経ってもまだ僕の中に巣食っていることに驚いている。 

僕はこの一度しか上海に行く機会がなかったが、開発が進み、超高層建築が林立するさまも写し撮られており、其の写真も取り込んで構成された写真集のページをめくると、租界とは何だったのか、超高層建築群は人に何を与えているのかなどなどとつい考え込んでしまう。

建築と写真のポストモダン(Ⅱ) 槇文彦のスパイラルと、写真家ホンマタカシの論考

2010-04-01 10:19:29 | 建築・風景

槇文彦は、私はモダニストですというが、メタボリにも関わったし今の時代をも率いている。MOROさんの気にする東京青山に建つ槇さんの代表作の一つ「スパイラル」は、さてポストモダンと位置付けするのか?

イヤ!と僕が思うのは、DOCOMOMOセミナーで槇さんが、スパイラルの2階に上る階段の踊り場につくったベンチにふれて、人は大勢の人の中で個を確認したくなるときがある、ここに腰掛けてまちなみをみながら個と(つまり人間と)社会のつながりや在り方を考える場をつくったと述べたことだ。建築家の公共の「場」をつくる重い役割をさり気なく伝えたのだが、スパイラルに行くと必ず人が座って思索しているのを見て、その試みは間違いではなかったとセミナーで述べたのだ。そこに僕は市民に目を向けたモダニズムの源流をみたのだ。

そうだ、でもこの槇さんの一言を伝えるために「楽しい写真」を取り上げたのではなかった。
ホンマタカシは明快にこう述べる。
『ブレッソンの水溜りを飛び越える男性を撮った一枚の写真「サン=ラザール駅裏」、つまり「決定的瞬間」、この写真が(この写真も収録した写真集のタイトルは「決定的瞬間」)モダニズムの写真の頂点だ』というのだ。

土門拳、木村伊兵衛の写業を思い起こす。この一瞬、この一枚だ。土門拳はライティングをして仏像を撮るときも、その一瞬があるという。
70年代に入ると「ニューカラー」(僕はこういういい方が写真界にあるのに気がつかなかった!)というジャンルの写真が現れる。
決定的瞬間なんてない、視点が分散し、時間は持続していていつ撮っても等価値という姿勢。そしてここまでが「モダニズム」だというのだ。へー!と思うが、でもこの論考はホンマタカシ流ではなく写真界では通説になっているようだ。

では何が「ポストモダン」なのか。「アート」に接近して行く。つまり「アート」から決別して決定的瞬間(ドキュメントの手法を考えると納得できる)という「モダニズム」へ向った写真が、新しい視点でアートへ向い(回帰か?)アートも写真に向う。つまり重なり合う。(90年に入って)この思潮の転換がポストモダン(ポストモダニズム)だというわけだ。

この経緯を建築の言語に置き換えると解ってくる。装飾をアートと置き換え、例えばジェンクスのジャンル分けの一部門歴史主義のオーダーなどを短絡的に装飾復活の「アート」といってしまうのだ。
時代的には建築の方が早い。産業形態など社会とのかかわりがより強いからからだろう。

写真を考える。「よいこのために・・」なんて言われていながらこの著作には心が揺さぶられる。
ホンマタカシはこんなことも言う。「写真って動きが無いから時間を撮れない、しかし時間しかないんだ」そしてホンマと対談した仏文学者の堀江敏幸氏はこういう。
「写真でもっとも恐ろしいのは、映された人がそこにいたという事実、過去がいきなりそこにあり、同時にその過去はそこに無い」。僕たちは写真に学ぶことが沢山ある。こんな言葉を目にするとそれが事実であるだけに、ある種愕然とする。

では建築はどうか。過去がある恐さとその事実の大切なことを僕たちは思わないか!