日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

残暑 鉄砲百合と蝉の抜け殻

2014-08-31 11:48:07 | 自然

時折薄い日が差す日曜日、蝉の音が聴こえてくる。
道端の鉄砲百合にへばりついた蝉殻に見入った。
肌にもほとんど感じない風でゆらゆらと揺れ、カメラのファインダーの中に留めるのに、一苦労する。蝉はどうやってこの百合を選び、飛び立ったのだろうかと考え込んだ。
月日は巡り、明日から初秋、9月長月である。

ー追記ー
一夜明け、小雨降る新宿西口公園を通ってオフィスに向かう。
烏が鳴き、小鳥がさえずる木々のなかで、ただ一匹の蝉がここを先途と鳴いている。
ミーンミン蝉だった。

ー追記ー
更に一夜明けた今朝、見事に晴れ上がった西口公園を通り抜けた。
色づき始めた欅の葉がほんの少し目につく中、蝉の音の饗宴だった。

山本容子の女・女

2014-08-23 22:37:06 | 東北考
『「婦人公論」の表紙絵を描いて五年が経過したが・・六年目の今年は、特定の女性の肖像を、彼女たちの評伝からヒントを得て描きたい』。

これは、「ドアをあける女」と言うタイトルのティナ・モデェティという写真家を、銅版画と短いエッセイで組み合わせて見開きで構成した山本容子の文庫本(中公文庫)「女・女」と言うタイトルの、著作40篇(40人)の前書き的な書き出しの一編である。
そして最後の一編、ガートルード・スタインという詩人の「アメリカはわたしの国、でもパリはわたしの町」ではじまり、『「だけどそもそも問いはなんなのよ?」そして息をひきとったという。生への悦びが結果的に時代をつくったのだろうと感じる』。
という印象的なフレーズでこの著作は終わる。

さて、あとがきはと思ってページをめくると白紙、何も無い。その踏ん切りに山本容子という銅版画家の魅力的な容貌が浮かびあがってきた。
この文庫本は、新宿の西口広場での古書展で見つけて購入、それが僕自身の一側面を見つめなおす契機にもなったことに、ちょっととまどってもいる。

僕はこの一文を、例のNYヴィレッジ・ヴァンガードでの、ハンク・ジューンズ、ロン・カーター、トニー・ウイリアムスによるザ・グレイト・ジャズトリオのライブのCDをかけ、`猫`を描いた山本のエッチングを側に置き、気に入っていた`Switch`(March1994)山本容子特集を見開きながら書きはじめた。
そして親しい建築家室伏次郎が山本容子の自邸を設計したことに思いを馳せている。
建築ジャーナル誌に連載している「建築家模」で室伏次郎を書いたが、その室伏に住宅設計を依頼したことによっても、山本容子という版画家の真骨頂が浮かび上がる。

Switchのタイトルは「世界と遊ぶ方法」。
山本を捉えた写真は繰上和美である。板画家としての山本と女としての山本を捉えていて見事なものだ。
インタビューはスイッチ編集部、その捉え方も山本の答え方も魅力的だが、FROM EDITORSと小さく記載された冒頭の、マン・レイを引き出し、`山本容子は写真を撮られるという覚悟と意味をマン・レイに求めた_`という一文`がこのことを象徴している。

いまみてもカッコいいこのSwitchが廃刊になってしまったことを僕は惜しむ!


 

旧會津八一記念館の活用を!

2014-08-15 20:30:01 | 文化考

「風土に配慮し理念表現」・・・モダニズム建築を考える

猛暑の7月、久し振りに訪れた新潟で「風土と建築の存在・モダニズム建築の抱える課題」と題した講演をさせてもらった。
主題は会場の砂丘館(新潟市中央区西大畑、旧日銀支店長宅)から海に向かって少し歩いたところにある旧會津記念館の、長谷川洋一という新潟の建築家が設計した建物の保存・活用である。

1881年(明治14年)に新潟市古町に生まれた會津八一は、早稲田大学に学び1931(昭和6)年母校の文学部教授に就任。仏教美術史論文によって博士号を得、秋艸(しゅうそう)道人」と号し、歌人、書家として歴史に名を刻んだ。新潟の名誉市民でもある。
この功績を後世に伝えようと75年に開館した旧會津記念館が耐震の問題などがあるとして先ごろ、新潟日報メディアシップに移転した。

館を設計した長谷川洋一は人との交流を望まなかったようで、建築界でも新潟の人々にもさほど知られていないが、建てられた2年後に発行された會津八一記念館報第2号に、設計に当たっての理念と建築への思いを率直な言葉で述べている。

「此の建物が、會津先生の作品の収蔵展示のみを行うとの事で、それにふさわしい力強さと格調高いことが望まれると共に、敷地周辺の自然環境に対して違和感の無いよう心掛けた。外壁の大半を日本古来の漆喰色の感じに近いものとし、軒先の黒、及び軒の出の深さと二階部分のせり出しにより重厚さと陰影を強調した」。
そして潮風に配慮して良質で強度のある壁厚を厚くしたコンクリートをダブル壁で施工したとする。

長谷川は、八一の心根を託した人々に応えたのだ。

1920年ごろからほぼ世界同時に発足した近代化運動で生み出されたモダニズム建築(近現代建築)は世界共通の建築言語を駆使して建てられたとされ、ともすればその時代の産業形態や最先端の技術を取り入れることが主体で、土地の風土に配慮することが無かったと思われがちだ。
だが、実はその地の気候風土を汲み取り、新しい時代を伝える建築意匠にトライしてきたことに長谷川の言葉は気づかせてくれる

明治に生まれ新しい時代を築いた會津八一の記念館をつくるに際し、長谷川は木造の民家や町家などに範をとるのでは無く、新しい時代にふさわしくこの地の気候風土に即した建築を建てた。 
駐車場が少ない、老朽化したとも言われているが、駐車場の無い砂丘館が間断なく使われている。
記念館は既に耐震診断もなされ、改修の検討もされたと聞いた。もし改修することになったら、委員会を設置するなどこの建築の価値を損ねない仕組みを考えてもらいたい。
新しい記念館とリンクし、例えば茶室をつくって茶を戴きながら會津八一の軸を味わう。大きな和室をつくり、句や歌を詠み地元の偉人に思いをはせるのもいい。人々の思いのこもったこの建築を使いながら八一の真髄を味わうのだ。

講演のあと再訪した、松の樹の影が白い外壁を彩るこの建築の姿に思わずため息が出た。新潟の砂丘地に此の建築の在ることを私は忘れない。

<この一文は、7月20日(土)砂丘館で講演したことを受けて、新潟の日刊紙「新潟日報」文化欄に掲載してもらった僕の書いた一文です。文化部デスクの許可を得て記載しました。早大には、今井兼次の設計した旧図書館を會津記念博物館として設置されていて新潟とリンクしながら活動をしていますが、そのパンフレットをいただいて会場の方々に配布しました。市長は解体を表明しているとのことですが、改めてこの記念館の果たしてきた役割とこれからの新潟文化に思いを馳せて、使い続けることを考えていただきたい。切なる願いです。>


原爆の日と長崎市公会堂

2014-08-10 21:29:44 | 文化考

各地に風水害を与えながら、台風11号は日本海に抜けた。
僕の住む神奈川県海老名市は、その余波を受けて時折雨が落ち、生温い風が吹きまくっている。今はまだ台風一過という晴れ間が戻らない。

昨日(8月9日)は「長崎原爆の日」。
朝から行われた`平和祈念式典`をテレビで見て録画した。台風が気になっていたが、テレビで見た限りでは式典が風雨にさらされることは無くてホッとする。

被爆者代表として「平和への誓い」を述べた城蠆美彌子さんは、中学生時代学校は違うとしても僕と同じ学年だと思う。
僕は終戦の翌年の昭和21年に疎開先の千葉県(柏町:当時)の柏小学校に入学し、父方の実家のある長崎の勝山小学校に転校、更に暮れに祖父が事業をやっていた天草の下田村の下田北小学校に転校した。
そして下田の小学校(少子化によってなんと昨年廃校になってしまった)を卒業して長崎中学に入学する。そして祖父が亡くなったことことが切っ掛けになって2年生の半ばに一旦下田中学に戻り(中学に転校)長崎を離れた。そして千葉県の柏中に転校する。しかし中学生だったとは言え、その1年半における戦後間もない長崎での生活は僕の心に深く刻み込まれている。

式典での安倍首相の挨拶は残念ながら通り一遍で無表情、朝日の夕刊では昨年の文言と一字一句違わないところもあると報道された。田上市長の平和宣言は、阿倍首相が国会で力説し採択した「集団自衛権」行使に懸念の意を表するなど一歩踏み込み心打たれた。

だがその田上市長は、昭和31年(1956年)に、秩父宮勢津子妃殿下を総裁とし、副総裁に鈴木茂三郎や三木武吉など超党派の国会議員や長崎県知事など数多くの長崎の人々の意思を受けて「長崎国際文化センター」建設計画により、長崎市出身の建築家武基雄早稲田大学教授の設計によって建てられた「長崎市公会堂」の存続に懸念を示し、市議会では解体の議会決定をしたのだ。

二律背反とも言われかねない。、これでは長崎の平和を願う僕たちの志が世界に伝えられないのではないかと気になる。
15日は終戦の日、この日を期に存続へ向けての再考を願いたい。


僕の手元に長崎の建築家中村享一さんが送ってくれた、復刻された2冊の冊子がある。
一つは、「長崎国際文化センター・建設計画資料」で、もう一冊は「長崎国際文化センターの歩み」。これには「建設事業完了記念誌」と副題が書かれている。
その巻頭に率直に書かれた当時の佐藤勝也長崎県知事の巻頭の言葉に心打たれた。
「敗戦後の虚脱と原発による打撃から、この長崎が、ようやく立ち上がりつつあった昭和30年6月、委員会は発足したのでした。寄付金3億2900余万円、これに県市の財政資金と、長崎観光開発株式会社の投下資本を加え、実に9億円に達する市大事業を完成したのでございます」。
 完成したのは、この長崎市公会堂をはじめ、水族館、図書館、体育館、プール、美術博物館である。

僕はこの冊子を大勢の人に読んでもらいたいと思い、建築学会の図書館に収録してもらために担当する事務局員に預けた。
収録が決定したら全国の建築関係者がこの冊子の検索が出来るようになる。

風景の中に! 菊竹清訓の佐渡グランドホテル

2014-08-02 16:11:32 | 建築・風景

長谷川逸子さんに、菊竹事務所時のことを聞いた。都城市民会館や佐渡のグランドホテル設計時代のエピソードだ。長谷川さんは菊竹清訓さんと構造の松井源吾早大教授の後ろの席で、二人のやりとりを聞いていてそのイメージをクレヨンでスケッチを繰り返し、菊竹さんはそのスケッチなどを見たりしながら構想を練っていったようだ。

ジェットホイルの着く佐渡両津港のすぐ近く、加茂湖畔に建つ「佐渡ランドホテル」に立ち寄った。写真で見ていたイメージがよみがえる。
宿泊客が退出した時間ということもあって、ホールや客室の見学や撮影も許可してくれて、菊竹建築真髄の一端が読み取れる。天井の高さを押さえてハの字型の柱が表現として構築されていることに、見入る人はこのホテルの持つ独特の魅力を見出すかもしれない。

いつもそうだが、上越新幹線「とき」に乗り、長いトンネルをくぐって浦佐、長岡を過ぎると、右手に広がる田畑と点在する小さな家の先に、うっすらと被った雲の下の遠くの山がブルーに手前の山がこげ茶にかげっていることに見惚れる。
何処にでもありそうだがここでしか見ることの出来ない光景だ。

ところが佐渡の加茂湖の対岸から「佐渡ランドホテル」の建つ光景をみて、先端が逆三角形になって建築の存在を謳いあげ高さを押さえた横に連なるこの形態と、くすんだ黒茶に見えるこのホテルの色が、浦佐あたりで見た山並みの微妙な色調に溶け合っていることとの相似に気がついた。
佐渡も新潟県。事務所では厳しかったと伝えられるが、僕たちには鷹揚で気遣いのこまやかだった菊竹さんの、にこやかな笑顔が蘇る。