日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

東北を・・(11)来年はいい年になりますように!

2012-12-30 23:12:26 | 東北考
ベイシーでは、世界に知られるJAZZ界オーソリティの演奏がなされてきたことでも名を知られているが、ライヴハウスではない。
自社のつくったJBLのスピーカの音を聴きにアメリカから来た社長が、自社先達のつくった音に聴き入って驚嘆し、席を離れなかったというエピソードもまたよく知られている、と書きたいのは石山修武さんの著作でも伝えられているからだ。
ところで、あのカウント・ベイシーがここへきて演奏した日と、僕の新婚旅行の車中で出会った日がほぼ重なるような気もしていた。あの時、盛岡での公演があることを僕は知っていたからだ。

菅原さんとの話が弾み、寒くて演奏するほうも聴く僕たちも、震えながらオーバーを着てたなあ!そんなこともあったと懐かしそうにいわれると、さて我が新婚旅行はそんなに寒かったかなあ!と時系列がやや怪しくなる。
リアス・アーク撮影の話を切っ掛けに、菅原さんの撮ったカウント・ベイシーの写真を使ったレコードジャケットも拝見した。味わいのある笑顔のベイシーのその写真もなかなかいい。まさしく写真を撮る人でもあるのだ。ライカで、無論フイルムで。

テーブルの上に書きかけの原稿用紙がある。さりげなく太いモンブランが置いてある。朝日新聞岩手版に長年連載しているコラム(エッセイ)、今夜中に送れといわれていると苦笑している。2編の新聞記事のコピーをもらったが、バーナード・リーチとのひょんな出会いの一側面をひとひねりした引きずり込まれるような文章だ。菅原さんは書く人でもあるのだ。

とつらつら書き記していたら明日は大晦日、時の経つのは早い。寒くなった。政権が変わりいやな予感もするが、来年はいい年になりますように!

<写真 ベイシーの外壁>

年の瀬や! はまだ早いが・・・

2012-12-22 23:35:35 | 東北考
気が付いたら冬至も過ぎて年の瀬を迎えることになった。時の刻みは変わらないのに、歳をとると共に時の過ぎるのが早く感じられるのは何故なのだろう!
ゆく年や・・・と書き出して一文をものにしたくなるが、四国での庁舎保存改修のための委員会出席など、まだまだ年内にやることが幾つもある。
行く年と新しい年を思って心を澄ますのは大晦日にならないと無理だろう。

さてこの数日。

シーザ・ペリが外観設計を担当したアークヒルズ仙石山レジデンスを、森飛鳥さんに案内していただいて見学。東京オペラシティアートギャラリーで「篠山紀信展 写真力」を観た。建築学会にてDOCOMOMOの幹事会(対応WG)。従兄弟の奥様の葬儀。1月2日にリニューアルオープンされる東京国立博物館 東洋館のプレス発表に参加、展示されている作品群に魅入る。JIAの保存問題委員会WGに臨み、関東甲信越支部の委員会とは言え全国の保存問題に目を向けて活動の視野を広げてほしいと、OBとして進言、そのあと行く年を思って一杯、忘年会である。

もう一つ、中村文美編集長に同行いただいて、早稲田大学に石山修武教授を訪ねた。建築ジャーナル誌の2013年1月号から連載が始まる「建築家模様」の取材・撮影のためだ。心深く刻みこまれている幾つもの想いが更に蓄積された。

昨12月21日、仕事場へ向かう沿道の欅がすっかり裸になった。

東北を・・(10)続:ベイシーの菅原正二と石山修武-

2012-12-16 13:52:13 | 東北考

ベイシーの近くにある市営駐車場に車を入れる。5時だ。3時には店に居る、とNETで案内されていたが電気もついていないしレンガ壁に貼ってあるポスターがめくれたままになっていて、開いている様子がない。

東北巡り最終日、ベイシーに行く前に新婚旅行のとき訪れた平泉・中尊寺を訪ねることにした。
妻君は中尊寺に行ったんだつけ!なんて言っている。隣の毛越寺(もうつうじ)の近くで、大学の同級生が神代雄一郎研の学生をつれて発掘をやっているのに出っくわした。でも無論妻君は一編の記憶もないという。
境内を歩きながら僕の記憶もだんだんあやふやになって行くのには参った。数十年前の境内の景色がどこか違う!

さて30分経ってもベイシーの様子が変わらない。駄目かと思ったがふと思いついて電話をしてみた。居た、菅原さんが。
「石山修武さんの知人で・・」といったら、鍵開いてるから入ってきちゃってという。
2人の知人と話し込んでいる。車のホイールがとか、エンジンのメカニックシステムが変わってとか、アナログの話だが時折最先端技術に話が飛ぶ。やけに面白い。
この猛暑にくたびれ果てたので今日は臨時休業したのだそうだ。僕はろくな挨拶もしないまま何となく話の輪に加わった。

1時間ほどして二人が帰り、少し話し込んで僕もそろそろと遠慮しようとしたらそんなこと言わないでと「野口久光」の本を持ってきた。
石山さんはご自身のHPで、菅原さんは野口久光がどうだとこうだといっていたとぶっきらぼうに書いていたが、映画評論家でもある故野口を師と仰ぐ菅原さんの師への思いに溢れた話も面白く、また映画のポスターなどが収録されているこの本もまた格別で、見入ってしまった。

菅原さんの撮ったリアス・アークの写真が壁に掛けてある。夜を徹して日の出を待ち伏せて撮った写真だ。
写真家藤塚光政さんからこのポジションで日の出を撮りたいので了解してほしいといわれものの、太陽がここにこなかったと苦笑されたというエピソードは知られているのかもしれないが、先日のセミナーで、京都の迎賓館の撮影の折、屋根のここに月がいる光景を狙ったが、なかなかここにこなくてねえ!と会場を沸かせた村井修さんのお話を、僕はこの一文を書きながら思い出している。

(写真・米紙の壁に張られたポスター  この項もう一編続く)

東北を・・(9)ベイシーの菅原正二と石山修武

2012-12-09 12:28:55 | 東北考
4年前になる2008年、石山修武(早稲田大学教授)の建築展「建築が見る夢」が世田谷美術館で行われた。発刊されたカタログ編で、鈴木博之は建築学会賞を得た気仙沼のリアス・アーク美術館(1994)に触れ、こう書く。
「新しいエポックを開いた」と建築家としての軌跡を捉えたうえで、「仙台で一緒に仕事をしたときにコーヒーでも飲んで帰ろうというのでついていくと、彼は仙台から一関のベイシーまでコーヒーを飲みに行くのであった」。そして「このくらいの距離感は、彼にはなんでもないとないらしい」と鬼才の一端を披露する。

さらに付け加えると、石山は二冊組のもう一冊の石山自身の書く「物語編」では『ジャズ喫茶ベイシー物語・音の神殿計画』という一項目を設けた。そこで率直に書く。「オーディオマニアでもなく、モダーン・ジャズ・フアンでもないが、それでもベイシーなのは、菅原正二という人間に深い興味を抱くからなのだ」と。

いつの頃からだろうか僕は、「ベイシー」の存在を知っていた。だがこの東北巡りでベイシーに行こうと思ったのは、この鈴木博之さんの一文を目にしたからである。
それはつまり、何故鈴木博之が石山に惹かれ、しかも難波和彦との3人組で、石山のブログというかHPでやり取りをしているのかという好奇心を解き明かしたいという想いがあった。

そしてもう一つ、新婚旅行で東北を巡ったときの列車で、カーメン・マックレイ+カウント・ベイシーの一団と乗り合わせたことを思い出していたからでもある。
一関のベイシーは、そのカウント・ベイシーのベイシーである。

登米の後小岩さんに案内してもらい、震災修復がなされて一部を開館していたリアス・アーク美術館を訪ねた。ベイシーを訪ねる前日である。菅原さんに会うための前段でもある。
美術館は気仙沼市街地からやや距離を置いた丘陵地に埋め込まれていて、ジュラルミンという鋼体が樹木や開かれた傾斜地に存在していて自然環境との違和感がなく、当たり前のように建っているのが当たり前なのだった。(この項続く)

写真家村井修さんと都市と建築を語る

2012-12-05 16:03:17 | 建築・風景
Docomomo JapanとOZONEの共催によるセミナーで、僕が聞き手になって写真家村井修さんに240点もの写真を見せていただきながら、お話をお聞きすることになった。
タイトルは「村井修の写真都市」である。昨日スタジオ村井に伺い、セミナーの進め方の確認をしたが、話が弾み気が付いたら3時間半も経っていた。若き日に撮ったスナップ的な写真群からスタートするのだが、PPによる写真を拝見して度肝を抜かれた。写真家が建築を撮るのだという村井さんのスタンスの確信を得ることになった。話し込んでいて、村井さんと親交のあった金壽根さんも紹介してほしいとお願いする。ソウルに行くたびに立ち寄り、その都度新しい発見があって心が騒ぐ「空間工房(Space Goup of Korea Building)」などなど。
早いものでセミナーの開催は明後日になった。

冬になって秋が来た ーJIAの大会で考えるー

2012-12-01 12:53:14 | 建築・風景

札幌が雪になったと思ったら、雪降る小樽の映像がテレビに映し出された。豪風豪雪による送電鉄塔が倒れて大きな被害を与えた登別の様子も映像で知る。
今日は冬月になった12月1日である。
東京の紅葉が色盛りになって秋たけなわ、季節の移り変わりはこういうものだったのかとふと考える。でも去年はどうだったのかと頭を巡らせても思い出せないのは何故なのだろう・・・
散り始めた枯葉はしらっ茶けたただの葉っぱだったが、12月の落ち葉は鮮やかに色づいていて見事なものだ。思わず拾い上げて写真を撮ってみた。
オフィスでも自宅でも暖房を入れて温もる。寒いのは歳と共に苦手になるが、こういう温もりを感じることもさして悪くは無いものだと思ったりもする、冬になって秋が来た初日の朝である。

ーJIAの大会でー
JIAの全国大会が一昨日(おととい)から横浜を舞台にして始まり、懐かしい顔に沢山出会った。楽しくなってJIAの保存の委員会の後輩達(?)とつい終電間際まで飲み続け、さすがにマイボディにはこたえた。身体は素直なものだと吾が身をとおしく思ったりしたものだ。冬を感じる感傷である。

一夜あけた昨日は神奈川県民ホールでのJIA設立25周年でもある式典に参加、今年のテーマは「共に超える」。
3・11を経て異様ないまの政界を横目に見て、僕たち建築家は時代の変わり目を感じ取り、考えるのだ。

その思いを秘めた室伏次郎大会実行委員長の挨拶・メッセージに共感する。ところで田中優子法政大学教授による「江戸」を題材とした『足るを知る』と題する基調講演は、その後のやり取りの中で浮かび上がってきた「人の生活していくこととの原点」のようなことを考えさせられ共鳴することになった。
だが、その後の山崎亮京都造形大学教授をゲストに迎え、芦原太郎JIA会長が加わり、田中優子氏との3人によるパネルディスカッションでは、共感するところもあるが、違和感を覚えるものだった。芦原さんのこういうメッセージだ。

①建築家は!→巨匠から調停者に。
②作品は→運動体へ。
③啓蒙ではなく→対話。

ことに①については違う!と僕は胸の中で叫んでいた。そして総括的に山崎さんがJIAの①のそのスタンスを絶賛したのには、僕との世代の違いなのかとも思ったものだ。
ところでこれがJIA指針だと芦原さんはいう。

僕は巨匠といわれる建築家が居たことを大勢の人に伝えたい。そして巨匠に率いられて作品をつくって来た建築家のやってきたことを。そしてその行為は③では無く、啓蒙という奢った生き方ではないことを!これは僕の感傷ではないことを伝えていくのも僕の生きることだ。

以上!ふと想いに駆られた僕の宣言だが、読み返してみると、なんだか感傷っぽい!