日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

蝉の音・夏の終わりの:一齣

2019-08-20 10:33:16 | 生きること

8月も半ばを過ぎたが、海老名市の我が住まい、4階の僕の部屋(アトリエ?&ベッドルーム)の窓から聞こえてくる蝉の音が途絶えない。起稿している僕の部屋からは、目の前の5階建てワンフロア6戸の横に長い住戸に陽が当たり、多くの住戸のバルコニーに洗濯物が干されていて、人の住んでいる気配が感じ取れて、それもまたいいものだ。 

起稿していると、その最上階の一戸に小母さんが出てきて、バルコニーの手すりに布団を掛けた。夜中は雨模様だったが、陽が射してきて何でもないその光景を記して起きたくなった。 

後1時間ほど経つと僕は、連日通っている東海大学医学部附属病院に出かけ、放射線治療(対外照射リアニック)を受ける。時折妻君が同行してくれるが、今日は一人旅である。 

<画像・後日・・・・>  (2020年6月19日・・・追記:恐縮ですが、本稿画像無しとします)


新宿の事務所を閉じて自邸に集約しました

2019-07-03 12:29:49 | 生きること

新宿の事務所から運び込んだ本や資料の山を見遣りながら、海老名市の自邸(マンション)のリビングに座り込み、`時の経る`ことを実感しながら此の一文を起稿します。 

此のブログUPが2ヶ月振りになってしまって僕自身驚き、苦笑せざるを得ないものの、どうあれ沢山の書物(本)を処分するのは辛いことです。置く場所がなくて、とは言え、ついついパラパラと頁をめくってしまい、気がつくと溜息をついている。`俺は決断力がないなあ!` と実感、いつものことながら 天 (天井ですが!) を見遣る。 

妻君は所用があって出かけているが、僕の此の戸惑いに共感することもあるようで、この度は何も言わず、少しなら妻君の部屋の書棚に置いてもいいよ!と言ってくれるが、そのためには彼女が読み下してきた本を破棄しなくてはいけなくなるので、出来れば我が書棚に納めたい。

想いは行ったり来たり(苦笑)。我が友連、どう対処しているのだろう! <画像は後日掲載>追記: 恐縮ですが画像掲載無しとします・6月28日

 


2019・東京西新宿の一齣・・・・余話・1

2019-01-29 16:02:09 | 生きること

西新宿関連(こじつけっぽいが・苦笑!)の一齣ということとして、時折余話を差し込むことにしました。

まずは角川書店発行の「俳句」2月号(2019年)。でもこの書を手に入れたのは新宿ではではなくて自宅から近い本厚木の書店だったが、読み説いているのは新宿の我が事務所。本稿タイトルに沿っているので!

本号の特別企画は `100人が読む!金子兜太の100句`。

俳人金子兜太さんは、第2次世界大戦でトラック島に赴任し、多くの戦友が餓死したことを綿々と伝えてきた。僕の父がフィリピンのモンタルバンで戦死したことと時折重ね合わせて考えることもあるが、何はともあれ帰国できてよかったですね!と我が心に秘めておく。一度だけお会いする機会があり、そんなことを話し合ったことがあるが、その時の様相は生涯忘れえない。金子兜太さんが亡くなって1年を経た。

一文を起稿しながらつくづく想いをはせる。弟は既に亡く、僕自身もそれなりの歳になった。 


年の瀬に`南無`

2018-12-17 17:31:55 | 生きること

此処我が住い、海老名市(神奈川県)も寒さを感じるようになった。12月も半ばを過ぎての`年の瀬`という一言を味わっている。NHK・Eテレの「カルミナ・ブラーナ」を音を小さくして聴きながら此の一言を記す。

つい数日前、新横浜から新幹線で名古屋に向かい、地下鉄、モノレールを乗り継いで`愛知芸大`キャンパスに赴き、新デザイン棟に関する委員会に参加、新築なった「デザイン棟」の検証を行いその風情を味わってきた。そしてその翌日、護国寺に於いて従兄の葬儀に臨む。

父を戦地フィリピンで喪った僕達家族(既に没した母と弟、そして名古屋の近くに転居した妹・その夫も既に故人)は、従兄のサポートによって`生きてきた`とも言え、人の生きていくことの切なさをと、改めて僕達家族を支えてくれた従兄の風情を味わうことになった。葬儀の後の会食で、僕が述べたのは、既に、一昔、弐昔・半世紀になるが、その従兄に連れられて父の没したフィリピンのモンタルバン地方を訪れたこと。政府からの父死去の報は、「モンタルバン地方で死去した」との一言だけだったからだ。

さて記載する画像は、故あってお仲人をして戴いた「棟方志功」の、2019年、安川カレンダーの表紙。志功の姪からのプレゼントである。 <文中敬称略>


秋の此のところ・吾の!

2018-10-23 14:47:08 | 生きること

この秋の早朝、小田急線で伊勢原に行き、東海大学病院行きのバスに乗ってすっかり馴染となった病院の、循環器内科の診察を受けた。

心臓の超音波、心電図検査などを受け、UCG(心臓超音波)結果を担当医の診断を拝聴、過去のデータを検索して戴きながら特段の疾患はないが!とのこと、ホッとしたが、でも!と思い、先生と相談して1年先の予約をして戴いた。時を経る、とどのつまり歳を取ること、先が見えないとの我が想いあり!

検査の折、この検査室に来たことがある、と思い出し、なんとなく溜息が出た。この一文は、辿りついた新宿の我が事務所で起稿。さてこれから書き綴っている「建築家模様第72編」の原稿に取り組む。

 <写真:東海大学病院から観る薄曇りの大山>


風吹く`終戦の日`に

2018-08-15 13:27:21 | 生きること

北面に大きな窓があるが、部屋の入り口が廊下に面していて風が通らない。まあ!そんなものだと考えもしなかったが、新宿の事務所から帰ってきてふと僕の部屋を見たらベッドがない。オヤ!と頭を傾げながらリビング(らしき部屋・苦笑)に入ったら、妻君が部屋を変えたからネ、とのたまう。四畳半の和室に我がベッドが鎮座している。南のリビングから此の部屋の北の窓へ風が抜けていく。どうやって重いベッドを運んだのか!と思わず瞑目。これが此の夏の、秋へ向かう一時(昨日)のできごとでもあった。

 今日8月15日は『終戦の日』。

父がフィリピンで戦死してから73年を経た。

毎年この日を迎えると、父が亡くなった『昭和20年6月17日戦没 行年37才』と記載されている位牌に瞑目することになる。と同時に総理を初めとする有識者と言われる人たちの瞑目言に苦笑せざるを得ない。と繰り返し記載するが、言うまでもなく苦笑では済まされない。

 今朝の朝日新聞の「天声人語」、・・・戦争を知らぬ世代が、日本を戦争のできる国へ造り変えようとしている昨今、戦禍に耐えた世代の直言はひときわ重みが増す・・・とのあとの、武力行使を唱えている人がいてそれを支持する人がいる、という一言にさもありなんとの思いと同時に、彼らは戦争によって利を得たのではないかとの疑念が離れない。

 では僕達に何ができるか、喜寿を経ても、いや喜寿を経たからこそ、そんなことを模索することになるのだろう。

 お宮参りについての父の一言を再録する。父の文字です。

『・・・風が強く・・・ついつい風邪をひかせては・・などと今考えると不必要に心配してとうとうお宮参りをせずに終わった。紘一郎よ、許してくれるだろう・』

 <画像 「吾児の生い立ち」 父が記載した冒頭の一文:小さかった時の鉛筆による僕の落書き、僕の頬が思わず緩む!>

 

 

 


戦争をする国

2016-11-10 12:43:08 | 生きること

俳人金子兜太氏の「あの夏兵士だった私」(発行:清流出版)、副題に-96歳、戦争体験者からの警鐘-とある著作を読み終え、その後岡崎万寿氏の`金子兜太の存在`と副題を添えた「転換の時代の俳句力」(発行:文學の森)を読み進めながら、この一文のタイトルにした「戦争をする国」という悍ましい一言を、書き記しておきたくなった。

僕には2006年6月から一年間に渡ってこのブログに書き綴った「生きること」と題した一文がある。

赤紙で召集されて出征しフィリピンで戦没した父が書き始め、、その後父の帰国を待ち焦がれていた母がぽつぽつと書き添えてくれた僕の育児日誌(三省堂刊)だが、昨今の日本政府の状況を鑑みると、一言、僕はこう言っておきたくなる。
『戦争ができる国にするということは、戦争をするという国にするということです』。



40年前のフィリピンへの旅に考える

2016-02-03 09:34:32 | 生きること
従兄に声をかけられて、フィリピンに行ったのは36歳のとき、それが僕の始めての海外旅行だった。横浜に立ち寄ってパスポートを受け取り成田に向かった。ちょうど40年前になる2月、遅咲きの海外渡航だったといまにして思うが、その後香港にはまったりして、韓国などと共に、東南アジアを中心に何度も出かけたものだ。
でも振り返ると、母を連れて初めて訪れた外国・フィリピンには格別の想いがあって、むしろ時を経るごとにそのときの様が想い起される。ことに亡くなって時の経つ母の涙姿が浮んでくることになった。

終戦の年1945年(昭和20年)8月17日マニラ地区のモンタルバン方面の戦闘に於いて戦死、という長崎地方世話部長(政府の所轄)から来た父の「死亡告知書」が、翌年昭和21年の元旦に、実家長崎の祖父から疎開先の柏(千葉県)に届いた。父の死去の様が読み取れるが(僕のこのブログ「生きること」2006・6-2007・6を参照ください)母は何もこのときに、とは言ったものの、いつまでもその死を認めることができなかったようだ。
祖父は一刻も早く僕たちに父の死を伝えたいという思いだったのではないかといまの僕は思うし父は、祖父の長男だったことにも想いを馳せる。従兄(母の姉の長男)は、父が出征した後のそういう僕たち家族を、見守っていてくれたのだ。

従兄はマニラで仕事のための小さなオフィスを持っていて、船で運んだ機材の陸揚げ許可がなされないのでマニラに事実確認と荷揚げ交渉のために訪比することになったのだった。商社の担当者にも状況を伝え、現地の役人との交渉に行くことに合わせて母と僕を誘ってくれたのだ。
余談だが、着いた日に係留されている船の様子を確認した後、役所にも同行させてもらい、この地での仕事をする様を垣間見た。翌日は商社の担当者を招いてゴルフ、僕も母を宿泊したマニラホテルに置いて、クラブや靴を借りてワンラウンド廻ったものだ。その夜はクラブへ、母と共に誘われたその様も僕の中に留まっている。

次の日、所員の車に乗って母と共にモンタルバンに連れて行ってもらった。その地の住民の方々にヒヤリングしくれたものの、父の亡くなったその様子を聞き取ることができなかった。死亡した場所、遺骨の様も聞き取れなかった。鳥取、島根の戦死した方々を祀るコンクリートブロックで作られた廟ともいえる建物があって、地元の男性が僕たちを見てカギを開けてくれたことを想い起こす。
でも印象深かったのは、ヒヤリングした数多くの方々の僕たちに対する「気の毒だね」とも思ってくれているような穏やかな姿が心に残っている。その後その地の教会に立ち寄って、神父にお願いをして追悼してもらい、その後毎日正午に一週間追悼の鐘を鳴らして欲しいとのお願いをした。

この40年も前になるひと時を、両陛下のフィリピン慰霊の旅の報道を目にして想い起している。
ことに、新聞報道で伝えられた、先の大戦でフィリピンが日米の戦場になったことに触れ、「貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。…私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでおります」との一文を繰り返し読む。


必読書 『私の「戦後70年談話」』(岩波書店刊)を 読んでほしい!

2015-09-09 14:01:46 | 生きること

台風18号が愛知県に上陸、電車の運行を気にしながら、妻君は人間ドックへ、併せて早起きした僕はいつものように町田でロマンスカーに乗りかえて新宿に、わずか3分遅れで到着。雨も小降り、ところが中央公園に踏み込んだ途端、暴風雨となって膝から足元までびしょ濡れになった。PCを開いて建築誌に連載している書きかけのエッセイに手を付けるが、報道された自民党の総裁選のことがちらついて、ついつい考え込んだりしてしまう。

10日程前にふと思って購入した岩波書店刊の、『私の「戦後70年談話」』を拾い読みしてきたが、昨日その中の数編を抜き刷りにして親しい友人に手紙を添えて送付、沖縄の若き友に読んでほしいともう一冊購入して、宅急便で発送した。

岩波編集部の`はじめに`にはこう書かれている。
「…戦争体験を持ち、各界で活躍されている1940(昭和15)年以前生まれの41人の方々に、自身の戦中・戦後体験や戦後日本社会の歩みをどう見ているか…等々…次の世代に伝えたいことを語っていただいた」。

赤紙で召集された父をフィリピンで亡くした僕は、1940(昭和15)年の早生まれなので、1939年に生まれた連中と同級生、小学校に入学したのは昭和21年の4月なので、戦後の第1期生である。そして戦前の教育を受けていないことを僕の拠り所としてきた。
しかしこの本を読んで、嘗て先輩の話に出てくる、墨を引いた教科書や一変した先生の態度に、「人の生きること」への人間の奇態な実態・実感がなくてよかったと思っていた僕自身の持つ価値観のようなものが、さてどうだろうかと?考えることにもなった。

41人の方々のどれを読んでも感じるものがあるが、例えば、なんと80歳になられた脚本家、演出家でもあるジェームス三木氏の「若者たちへ」は、こう始まる。

若者たちに遺言しておく。戦争を起こすのは国家ではない。国家に成りすました「時の政府」である。・・・・

生きること 補遺(2) 仙台陸軍飛行学校からのはがき

2015-09-02 16:54:37 | 生きること

ブログ「生きること」は、2006年6月、92歳になった母が入院し、翌2007年の元旦に没するまでのほぼ半年の間、主として「吾児の生立」という僕の育児日誌(三省堂)をめくりながら書き連ねてきた。そして母が没したその年の8月、韓国の大邱(デグ)に行って考えたことなどを補遺(1)として追記した。

時が過ぎ逝くのはどうしようもなく早い。それからなんと9年を経てしまった。その間弟を含めて親しくしていただいた多くの人を見送ることになり、生きることの無常と我が身の行く末を考えたりする。そういう歳にもなったのだ。
というのが前段。今後ブログ構成に少し手を入れて、改めて「生きること」を考えてみたい。

母が逝った後気がついたが、仏壇の引き出しに従兄から来たハガキがあった。
僕の父宛である。消印が薄れていて月日が読み取れない。送り先は杉並の2軒長屋、僕の生まれた家。仙台陸軍飛行学校の検閲済の捺印がある。

「・・・此の度目出度く凱旋の由お喜び申し上げます」とあり、「小生も仙台に来てより益々元気に奉公しております。」(中略)「紘一郎君始め皆大きくなられたことと思います。近頃会社の方はいかがですか。時局がら非常にご多忙のことと思います。優秀なる成績にて教育を終えられた由ですが、商売柄お得意のことでしょう。ここ仙台も非常に暑く、汗を流しながら訓練を受けております・・・」。

赤紙で召集されてフィリピンで戦没した父が、教育実習を受けたことに母は一言も触れていない。
何故だろう。
ちなみにこのハガキを送ってくれた従兄はそれなりの歳を迎えているが健在。僕を含めた家族はこの従兄(従兄の母は僕の母の姉)にずいぶんと支えられて生きてきたことを改めて思う。