2年前になる2014年の5月に訪れた「大城按司(うふぐすくあんじ)」の御墓(うはか)をこの機会に記載しておくことにした。
前記の玉城城址と同じく南城市に位置し、案内板によると、14世紀中期から末期と言われる大城按司「真武」は島添大里按司(大里城主)との戦いい敗れて稲福村で自害し、当初は小石を丸く積み上げて塚にしたと伝えられているとある。
その後いくたびか改築されて1892年(明治25年)にこの地に移築されたとのことだ。上部がドーム状の石積みとなっていて、その形からボントウ御墓とも呼ばれているとも記載されている。
確かに沖縄文化の一端を寿ぐと考えて、数多くの沖縄の墓を訪ねてきたが、この形状の墓を見たのは初めてだった。
先人たちの先達に対しての想いが込められているような気がしていて、拝見してから2年を経たいまでも心に深く留まっている。
この墓は、県の指定文化財となっているが、木々に埋もれながらもおまいりする人の気配があって心打たれた。
<追記:記載してから一夜明け、眼をあけたらこの御墓を想い起こしていた。この御墓を再興しようとしたのは何故?誰なのだろうか?シマンチュウにとっては考えるまでもなく ごく当たり前のことなのだろうか!>
前記の玉城城址と同じく南城市に位置し、案内板によると、14世紀中期から末期と言われる大城按司「真武」は島添大里按司(大里城主)との戦いい敗れて稲福村で自害し、当初は小石を丸く積み上げて塚にしたと伝えられているとある。
その後いくたびか改築されて1892年(明治25年)にこの地に移築されたとのことだ。上部がドーム状の石積みとなっていて、その形からボントウ御墓とも呼ばれているとも記載されている。
確かに沖縄文化の一端を寿ぐと考えて、数多くの沖縄の墓を訪ねてきたが、この形状の墓を見たのは初めてだった。
先人たちの先達に対しての想いが込められているような気がしていて、拝見してから2年を経たいまでも心に深く留まっている。
この墓は、県の指定文化財となっているが、木々に埋もれながらもおまいりする人の気配があって心打たれた。
<追記:記載してから一夜明け、眼をあけたらこの御墓を想い起こしていた。この御墓を再興しようとしたのは何故?誰なのだろうか?シマンチュウにとっては考えるまでもなく ごく当たり前のことなのだろうか!>