日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

秋は来ぬ 高橋靗一の「群馬県立館林美術館」と「籔内佐斗司展」

2013-09-28 14:29:21 | 東北考

晴天、満月を見上げた「中秋の名月」。陰暦の8月15日も過ぎ、秋深しという言葉も頭をよぎった。蝉の声が途切れて秋が来た、と朝日の天声人語に書かれたのは半月以上も前だったが、毎朝通り抜ける新宿西口公園では今を盛んに蝉の声が響き渡っていた。

秋分の日前日の日曜日、籔内佐斗司展が行われていた「群馬県立美術館」を訪ねた。
僕は第一工房(高橋靗一主宰)の設計したこの建築を見たかったのだが、妻君と娘は薮内佐斗司の大フアンなのだ。
建築家同士では仮に大御所といわれる建築家であっても、JIA(日本建築家協会)に所属する建築家間では`さん`付けで名を取り交わすが、学生時代製図を教わった高橋靗一氏には、やはりごく自然に高橋先生と敬意を表することになる。先生は1924年生まれだから89歳、衰えぬそのシャープな感性に驚くが、DOCOMOMOとOZNEによるセミナーの打ち合わせのためにオフィスを訪れた時に、この美術館のスケッチを拝見してそれについて触れたときに勘違いをされ、叱られたことが念頭にあった。

原っぱにあり、これはいいと思ったものの、ちょっと危ういこの美術館のことは別項に記すとして、僕が思いがけず感銘したのは籔内佐斗司展である。
妻君も娘も当然のことながら知っていたが、東京藝大教授として仏像の研究者としての実績と、復刻などに携わっていて後継者を育てるその志業に触れ得たからだ。その蓄積あってのあの愉快な作品群なのだ。

さてその帰り、新宿のオフィスに立ち寄ったら、道路を閉鎖して「熊野神社」の秋祭り、祭礼が賑やかに行われていた。秋が来たのだ。
そしてその翌日いつものように新宿西口公園を通り抜けてオフィスへ向かう。流石に台風18号が通り過ぎた翌日は蝉の声が途絶えて秋が来たと思ったのだが、なんとミンミン蝉が声を振り絞って鳴いている。でも只一人。何か物悲しいはぐれものの蝉の声だった。

<前項にToshiさんが、「新国立競技場」に関しての長文によるコメントを寄せて下さった。是非お読みいただきたい。JIAでは10月10日(金)pm6.00より日本青年館中ホールで、JIAの機関誌に寄稿された槇文彦さんをお招きして「新国立競技場」についてのシンポジウムを行う>

9・11と3・11

2013-09-21 21:57:37 | 建築・風景

<9月12日にメモをしたまま10日ほど経ってしまったが、少し手を入れてUPすることにした。時の経つのが早いと言うことよりも、読み返してみると改めて考えてみたいことと、問いたいことが現れるからだ>

『今朝もBSで、NYヤンキースの試合開始の様子を見た。イチローの名が先発オーダーにないので溜息が出たが、時差のあるアメリカでは試合開始の前に9・11の黙祷がなされる。全ての球場でなされるのかどうかは分からないものの感じるものがある。
9・11。12年前になる2001年の9月11日、ミノル・ヤマサキが設計したワールド・トレードセンターが、アルカイダによる(とされる)飛行機の体当たりによって崩壊し、多くの犠牲者が出た事件である。

休日だったので多くの人々がそうだったと思うが、僕もTVに釘付けになって(呆然として)見入ったが、まず眼にしたのは一機が突っ込んだ直後だった。
飛行機の体当たりとは思わず、各階に仕掛けられた爆薬が、リモートコントロールによって同時爆発したのではないかと一瞬思った。すぐに飛行機によるテロだと分かったが、超高層の上階に突っ込んだだけでこの建築が崩れ落ちるなんてありえないと、その構造に違和感を覚えた。

その翌年の秋、東京大学本郷キャンパスで行われた建築学会の大会で、建築家林昌二さんがこの事件をテーマに、建築としてのワールド・トレードセンターに触れながら講演をされた様が思い出される。

隈研吾さんが、設計した馬頭町の広重美術館を題材にして、歩いていくときに格子の重なりから見えてくる日本の美の文化について語った後の林さんの題材は、このワールド・トレードセンターについての論考だった。
隈さんの話が終わると、学生と思しき若手の聴衆がぞろぞろと退席したのが気になったが、終わってから林さんが「受けなかったねえ!」と僕に溜息をついたのが忘れられない。

林さんの論旨をはっきりと覚えていないが、僕の考えていたこの事件の捉え方とは視点が違っていて興味深く、素晴らしい論考でしたが!とやり取りしたものだ。その林昌二さんが居ない。僕は何かにつけ林さんならどういうコメントをされただろうと思うのである。

3.11もそうだ。
ヤンキースの試合は、ワシントンDCに近いヤンキースタジアムで行われたので黙祷がなされたのか、大リーグの全ての試合でこの日の試合で黙祷がなされのかなど報道されなかったのでわからないが、今年の3,11に行われた日本のプロ野球ではどうだったのだろう。7年後の東京オリンピック、12年後に東北で行われる野球ではどうなのだろうと、ブェノスアイレスでの安倍総理のしてやったりの笑顔が気になるのだ』

台風18号の中で朝日俳壇の「句」を読みとる

2013-09-16 13:41:36 | 文化考

台風18号が豊橋に上陸し、甲府あたりを通過している。京都桂川増水の様子や福知山の河と道の区別がつかない水没した様がTVで放映されている。関東北部を通過するようだが、時折強風はあるものの薄日が差したりしていて奇妙だ。
この夏の猛暑と時折酷い目にあった暴雨に、何者かの意志を感じるなどと言いたくなりもする。その夏と秋への変わり目を、今朝の朝日俳壇の選句を拝借して書いておきたくなった。この朝日新聞の俳壇は、金子兜太、長谷川櫂、大串章、稲畑汀子,四氏の選による。

「月の出の月の大きさ臥す妻へ」(長山敦彦:金子兜太選)
僕の妻君も病院通いだがおかげさまで元気、仕事に厳しくそれはそれで助けられているが、日がな本に読みふけっている。ぽいと読み終えた「かげゑ歌麿(高橋克彦)」をわたされた。面白い。

「電柱の陰ありがたき極暑かな」(瓜生硯昭:長谷川櫂選)
そうなんだ!厚木駅のプラットホームで電車を待つときに、細い電柱の下に身を寄せたものだ。こんな素朴な言い方で句になる。mo「猛暑」ではなく「極暑」。この語句が要なのだ。

「秋祭り遠く闇夜の奥深く」(宮田明:大串章選)
棟方志功の青森なまりの朴訥な一言を思いだす。遠くにいてそのざわめきが消えていくときの吹いてくる風に秋を感じ、厳しい冬を想う「ねぶた」の真髄論考だ。

 
「また今日も残暑に負けて家居かな」(小田島美紀子:稲畑汀子選)
そうなんです。僕だけではないのだ、参っているのは!

長谷川櫂選にこういう一句があった。
「負けたとは言わぬ八月十五日」(塘浩一)
これが俳句なのかと一瞬思ったが、僕の言いたかったことを言ってくれた。

<写真、「ラジオのように」のブリジット・フォンティーン。このレコードを聴きながら書いている。(文とは何の関係もないが今日は「敬老の日」。仕事に追われて少々参っていて、のんびりしたいとぼやいたら、「のんびりするのは80歳になってから」と音楽館を取り仕切っている横田さんからの厳しい一言。ニヤリとしている横田氏の顔が浮んだ)>

小さな旅でも天草を!

2013-09-15 15:01:11 | 小、中、高、大という時

2月に娘を連れて沖縄に行き、聖クララ教会でのコンサートを鑑賞、神父さんとともに簡単な挨拶をしたりした。沖縄の建築巡りをした後、建築家真喜志好一さんと国場幸房さんにヒヤリング。
5月の連休に房総半島・水郷の里に一泊、6月には3泊4日で北海道、倉本龍彦さんにニセコの「ばあちゃんち」を案内してもらって小樽に泊まった。翌朝札幌市大で院生に授業を、7月は名古屋の愛知芸大の委員会のあと大阪で一泊、竹原義二さんに会う。
その一週間後に、福岡―長崎―天草に出かけて、鮎川透さんと中村享一さんに面談、天草・下田では小学生時代の友人たちと一献傾けた。そして9月の3日の愛知芸大新音楽棟の落成式典に参加、名古屋に一泊して帰京と言った按配で、今年の9ヶ月間を過ごしてきた。

この旅のどれもが2013年の僕の痕跡として書き留め置きたくなるが、ことに天草市天草町下田北となった嘗て村だったときの「下田北小学校」がこの3月に閉校されたことにショックを受けた。過疎化である。

同級生山崎一視君の妹がやっている旅館で寝転んでぼんやりと嘗ての村のさまなど考えていたが、呼び出されて宴会席にゆく。
この前の下田行きは、5年前の5月だったので、久し振りとはいえなんだか馴染みの連中。でも中村健人は入院、吉田豊子も体調いまいちの様子で欠席、野口は法事で福岡に行っていてちょっと寂しいが、富岡港まで迎えに来てくれた吉田和正が釣ったという大きなイサキの刺身がでんと卓上にあり、ホウ!と思わず唸ってしまった。挨拶は一視。「皆様ようこそお集まり下さいまして」などと格式ばった言い方をするので思わずニヤリとしてしまう。

そして乾杯したビールを飲みながら、母国の廃校を聞いたのだ。<8月4日の記述と重なるが書いておきたい>

この地域の5校が閉鎖、隣村だった高浜に新校舎をつくりそこへ統合されたという。僕は昭和21年(1946年)の暮れにこの小学校に転校したが、過疎とはいえ200人を超える生徒がいたのだ。半農半漁という産業形態、唯一天草で温泉が出る下田北なのだが、ここでは生活ができないのかもしれない。

床屋をやっている末吉君から、雪江さん(雪江と数十年思っていたら、幸枝だった)きた葉書を見せてもらった。8月の半ばに皆に会いたいので下田に行く、と言うものだ。なんと千葉県(房総方面)に住んでいる。幸枝さんは3年生か4年生になった頃に転校していった丸顔の可愛い頭のいい子だった。どうだった?と和正君に電話をしたら、普通のオバチャン。思わず笑ってしまったが、わが身を思いまあそうだろうと和正と合意。だが、様々な地域活動をしているようだ。それもそうだろうと記憶にある数十年前を想い起こしている。

TVでは、海外の村やまちを巡り、地に根付いて生活する人たちを紹介するドキュメントが大流行だが、下田での僕の友人たちの生活を考えると、ささやかな年金を貰いながら欲張りもせずに生活を楽しんでいることに気がついた。和正君と一視君は、苓北町にある苓洋高等学校(水産学校)に入学し、卒業後、世界を股にして活躍したこともあるのだ。シドニーに行き、ウヲッツンのオペラハウスも見てきたと言われると唸るしかない。さて俺は!と考えるのである。



<写真下段 和正君と一視君の母校の舟>

都会の朝に

2013-09-07 21:47:23 | 日々・音楽・BOOK

鍵を忘れて事務所に入れない。妻君に電話をして「今何処?」と聞く。急行に乗り換えるために海老名駅のホームにいる。新宿に着くまでに1時間ちょっとだ。ふと思いついて近くの喫茶店「ブラジル」に入った。入ってみて分かった、この店初めてではない。妙なことだが鍵を忘れたことがあったんだとふと懐かしくなる。一段下がったフロアの席に腰掛けた

可愛いこの持ってきてくれたコーヒーを飲みながら、流れてくるピアノソロに耳を傾ける。その合間に、入った左手のテーブルの白髪の二人の四方山話が聞こえてきた。消費税、原発、テーマは生々しいが笑顔で取り交わす二人を見ると常連さん、町衆なのだ。松本の旅館「まるも」の喫茶店、町衆の拠り所、その朝の光景が浮ぶ。そうだ、京都のイノダ珈琲店の一角に、町の旦那衆の溜まる大きなテーブルがあって、新聞など広げたり談笑している様子を見ながら旅の風情を楽しんだりしたこともあった。
新宿にも、こういう都会の朝があるのだ。

さて、仕事だ。ノートを取り出し古材を使った移築的な新築家屋のディテールのスケッチに取り組む。繰り返し収まりを模索していた集大成的な寸法がぴたりと収まった。特段のことでもないごく当たり前の収め方なのだが。
ホッとした途端、締め切りの迫る建築家を伝える原稿が気になる。大阪の建築家、竹原義二さんの口から出たチャールス・ムーア。シーランチが瞬時に思い浮かぶと同時に、ムーアの作品集の表紙の彫刻的な装飾のある派手やかな写真が頭を掠めた。

ところで、この日から2,3日経っての妻君からの一言。
「アンタ、カギ、スペアヲ、フデバコに、イレトイタンジャナカッタッケ?」
そうだった。あった!