<誕生の模様>に父はこう書く。天候「晴天」。寒暖「冬の日にしては暖かく小春日和なり」。出生日時「皇紀二千六百年、午後四時〇五分」。
<産婆さん>という欄には産婆さんの名前のほか住所や電話番号まで書いてある。産婆さんの印象という項目もあり、「杉並産婆会の重鎮なる由。如才なき人」。それに本文には、父の字で「取り上げばばあ」とあるので、`ばばあ`とはと、なんだか申し訳ないような気がしてきた。
本文の冒頭に陣痛の始まった様子が記されている。
近くの阿佐ヶ谷にいる母の姉が女中を伴ってきてくれ、用意が整ったのでいても仕方がないといわれて出社する、とある。
「社内にて出生の電話来るを待つ。待てど暮らせど電話なし。延びたのではないかと思いつつ帰宅すれば、既にお産終わりて男子の誕生なり」。そして「喜ばしき極みなり」、と記した後「母子とも健全」で長崎と四日市の両親に「電報す」。
「かくして我は父、千代子は母になったのである」と連ねる。この日記帳のこの項の本文欄に、コウノトリのイラストがあり、万年筆で書かれた文字は変体仮名交じりで、明治生まれの父の面影が見えてくる。
ページをめくりながら、僕の娘の誕生時を思い起こした。
家で破水し、慌ててお腹の大きい愛妻を伊勢原の東海大病院に車で連れて行った。でも完全看護でいてもしょうがないと看護婦さんに言われてしまった。それではと棄権するつもりだった試合の行われる相模原にあるテニスクラブに行った。体育の日。この日は当時正しく夢中になっていた、アマチュアとしてであっても人生の一部をかけていた(今となっては、と思っていた、と言わざるを得ないが)テニスの日なのだ。
試合が終わって(勝ったか負けたか思い出せない)病院に電話したら生まれていた。4時だという。奇しくも僕の生まれた時間とほぼ一緒だ。始まった大会後の懇親会で生まれた!と叫んだら、皆から拍手が起こり、いっせいに乾杯をしてくれた。皆に押し出されるように病院に向かった。
その後時折娘をクラブに連れて行ったので、足を痛めてテニスを断念してから10年近くなるのに久し振りに顔を出したら、皆娘の名前を覚えていてくれた。小さいときの娘はなんとも可愛かったのでね。ああ僕も人並みに親馬鹿だ!
この三省堂の日記はきめ細かくページごとに項目があり、お七夜のこと、お宮参りの日とか初のお節句などという欄もあるし、笑い初め、とか最初の外出、お座り、はいはいなども書くようになっている。子どもの誕生がどんなに喜ばしいことか、親子の情だけでなくその時代の日本の空気も読み取れるような気がしてくる。暗い時代の来るのが目前だったものの。
それを感じ取れるのは命名欄だ。
<命名録>
「皇紀二千六百年、聖戦四年目、八紘一宇の有難き国家に生まれし事を喜び、且つ長男なるにより真中の二字をとり男の呼名郎を付け紘一郎と名付く」。「右哲理生命学原理により命名す」そして命名者名と立ち会った僕の叔父の名前が記されている。
とはいえ次の頁に父はこう書く。
<お七夜のこと>
「お七夜に命名する昔よりの日本の習慣なる由なるも、ああでもなし、こうでもなしで決せず。結局区役所への届出前日漸く前頁のごとく命名した次第である。命名の当日3月1日は大安にして届出までのこの日をおいて、芽出度日なし」
そして命名の当日父は、叔父の勤め先に行き、紘一郎と恵一郎の二様の命名録を貰い、その後逗子の父の姉の嫁ぎ先にまで行って、滞在していた僕の祖父、つまり父の父`百馬`を訪ねて協議した結果、ついに長男の名は紘一郎に決定したという。
もしかしたら恵一郎になっていたかもしれないと思うと、(八紘一宇が気にならないことも無いのだが)今の名前が気に入っているのでホッとする。なにしろ六十数年間僕と一緒なのだから。でもなかなか踏ん切りのつかないところは今の僕を見ているようだ。(続く)
<吾が児の生立にはそこかしこに落書きが描きちらしてある。これは僕が幾つの時に描いたものかわからないが、父の姿だ。いや僕自身なのかな?>