日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(2) 皇紀二千六百年 

2006-06-28 10:13:42 | 生きること

<誕生の模様>に父はこう書く。天候「晴天」。寒暖「冬の日にしては暖かく小春日和なり」。出生日時「皇紀二千六百年、午後四時〇五分」。
<産婆さん>という欄には産婆さんの名前のほか住所や電話番号まで書いてある。産婆さんの印象という項目もあり、「杉並産婆会の重鎮なる由。如才なき人」。それに本文には、父の字で「取り上げばばあ」とあるので、`ばばあ`とはと、なんだか申し訳ないような気がしてきた。

本文の冒頭に陣痛の始まった様子が記されている。
近くの阿佐ヶ谷にいる母の姉が女中を伴ってきてくれ、用意が整ったのでいても仕方がないといわれて出社する、とある。

「社内にて出生の電話来るを待つ。待てど暮らせど電話なし。延びたのではないかと思いつつ帰宅すれば、既にお産終わりて男子の誕生なり」。そして「喜ばしき極みなり」、と記した後「母子とも健全」で長崎と四日市の両親に「電報す」。
「かくして我は父、千代子は母になったのである」と連ねる。この日記帳のこの項の本文欄に、コウノトリのイラストがあり、万年筆で書かれた文字は変体仮名交じりで、明治生まれの父の面影が見えてくる。

ページをめくりながら、僕の娘の誕生時を思い起こした。
家で破水し、慌ててお腹の大きい愛妻を伊勢原の東海大病院に車で連れて行った。でも完全看護でいてもしょうがないと看護婦さんに言われてしまった。それではと棄権するつもりだった試合の行われる相模原にあるテニスクラブに行った。体育の日。この日は当時正しく夢中になっていた、アマチュアとしてであっても人生の一部をかけていた(今となっては、と思っていた、と言わざるを得ないが)テニスの日なのだ。

試合が終わって(勝ったか負けたか思い出せない)病院に電話したら生まれていた。4時だという。奇しくも僕の生まれた時間とほぼ一緒だ。始まった大会後の懇親会で生まれた!と叫んだら、皆から拍手が起こり、いっせいに乾杯をしてくれた。皆に押し出されるように病院に向かった。
その後時折娘をクラブに連れて行ったので、足を痛めてテニスを断念してから10年近くなるのに久し振りに顔を出したら、皆娘の名前を覚えていてくれた。小さいときの娘はなんとも可愛かったのでね。ああ僕も人並みに親馬鹿だ!

この三省堂の日記はきめ細かくページごとに項目があり、お七夜のこと、お宮参りの日とか初のお節句などという欄もあるし、笑い初め、とか最初の外出、お座り、はいはいなども書くようになっている。子どもの誕生がどんなに喜ばしいことか、親子の情だけでなくその時代の日本の空気も読み取れるような気がしてくる。暗い時代の来るのが目前だったものの。
それを感じ取れるのは命名欄だ。

<命名録>
「皇紀二千六百年、聖戦四年目、八紘一宇の有難き国家に生まれし事を喜び、且つ長男なるにより真中の二字をとり男の呼名郎を付け紘一郎と名付く」。「右哲理生命学原理により命名す」そして命名者名と立ち会った僕の叔父の名前が記されている。

とはいえ次の頁に父はこう書く。
<お七夜のこと>
「お七夜に命名する昔よりの日本の習慣なる由なるも、ああでもなし、こうでもなしで決せず。結局区役所への届出前日漸く前頁のごとく命名した次第である。命名の当日3月1日は大安にして届出までのこの日をおいて、芽出度日なし」

そして命名の当日父は、叔父の勤め先に行き、紘一郎と恵一郎の二様の命名録を貰い、その後逗子の父の姉の嫁ぎ先にまで行って、滞在していた僕の祖父、つまり父の父`百馬`を訪ねて協議した結果、ついに長男の名は紘一郎に決定したという。
もしかしたら恵一郎になっていたかもしれないと思うと、(八紘一宇が気にならないことも無いのだが)今の名前が気に入っているのでホッとする。なにしろ六十数年間僕と一緒なのだから。でもなかなか踏ん切りのつかないところは今の僕を見ているようだ。(続く)

<吾が児の生立にはそこかしこに落書きが描きちらしてある。これは僕が幾つの時に描いたものかわからないが、父の姿だ。いや僕自身なのかな?>

生きること(1) 「吾児の生立」から 

2006-06-24 11:00:55 | 生きること

「東京は卒業だ」というテレビコマーシャルに魅かれる。民家の縁先に立つ、多分還暦になった男のシルエットの向こうに、風の吹き抜ける沖縄の碧に映える海が映しだされる。下部にテロップで東京は卒業だと文字が浮かぶのだ。
そうだ卒業だと思いながら還暦をはるかに過ぎたとは言え、僕にはまだそれは許されないとも思う。

しかし病院のBEDで眠っている92歳になる母を見ていると、やっと卒業して今のんびりと休めるように成ったのだとしみじみと感慨を覚える。昨日愛妻と一緒に病室に赴いた一時間ほどの間には、とうとう眼を開けなかった。ゆっくり寝るのもいいと思う。ゆっくり休んでほしいと思う。

母のいた和室の小さな仏壇の上に父の写真が掛かっている。戦後、長崎の父の実家に僕達家族は引き取られたが、僕の小さいときは父にそっくりだと3人の子どもたちの中で長男の僕だけが叔母たちに可愛がられた。それは嬉しい反面辛いことでもあった。
若き日の父は僕よりずっとハンサムで聡明な面影を、粒子の粗い写真からも漂わせている。これは子が父を想う贔屓目なのかもしれないが写真を見ながら愛妻は、お父さんも年を取るとあなたのようになったのかね!と髯が白くなった僕を笑わせる。

その父は、僕が生まれたときの「吾児の生立」という三省堂の日記の「父として」という欄にこう書き残している。

「遂に父となった。父となってみて始めて私の父のことを思う。父が私を此れまで育ててくれた恩を思う。そして母の恩も。父は高等の教育も出ずして私を商大(今の一橋大学)に出してくれた。
それも何回も入試に失敗した私を、多分生活の苦しい中から大学まで卒業させてくれた。」
そして僕をどんなことがあっても大学までやりたい、と書く。そしてそれは難しい気がするといい、会社に勤務してみて帝大を卒業していないのをと嘆いている。当時の社会の様相が垣間見える。更に父としての責任は重い。うんと働いて勉強して心置きなく大学にやりたいと重ねて記す。

その父に、僕が満四歳になった昭和19年3月17日の夜、召集令状がきた。
3月20日の日記に母はこう記す。
「11時、お父ちゃま、23日の佐賀聯隊入隊のため出発なさる。永久の別れになるかも知れぬ。お別れ、元気で紘一郎は佐様奈良という」



闇に向かう交差点

2006-06-21 13:06:26 | 建築・風景

プリズムガラスを通して仄かに降り注ぐ天光と、

最小限の人口光によって浮かび上がる新丸ビルの交差点。

外への出入り口にはシャッターが下り、撤去した店舗は闇にたたずんでいる。

解体直前の巨大ビルの交差点は、四方に向かう闇を受け留めながら、

その奥に何故か人の気配を秘めている。

素描 建築の人(2) 金澤良春という建築家 Ⅱ

2006-06-18 10:59:00 | 素描 建築の人

金澤さんは法政大学で大江宏先生に学び1972年に卒業後、坂倉建築研究所大阪事務所に入所、そこで運命的に建築家西澤文隆さんに出会う。金澤さんによると、休日になると社寺や桂離宮、修学院離宮などの建築と庭の実測に西澤さんのお供をし、仕事が終わった後深夜まで西澤さんと共に図面化する日々を過ごしたという。

西澤さんは1967年52歳のときに実測を開始し、坂倉準三が亡くなった1969年坂倉建築研究所の代表に就任したものの、翌年には過労で倒れ三年後復帰すると同時に桂や修学院、それに新たに京都御所などの実測を再開、それが命をかけた仕事(仕事としかいいようがない)になるのだ。自分自身の建築のあり方を探るためにはじめた実測が、ライフワークになっていく。ライフワークと言えるのは命を懸けたもの、そうしたものなのだろうか。とても厳しい。

僕は大阪にいる坂倉のOB好川さんから西澤さんの実測図カレンダーを送ってもらっていたので、鉛筆のやわらかいタッチや、実測図自体が作品になっている様子はよく知っていた。何より展覧会で原図も見たし、西澤さんの著作も読みこなしたとはいえないものの、その本自体が作品のような気がして手元に置き、時折めくっては収録されている実測図に見入ったりした。しかし実はコートハウスなどの作品に眼が向いていたのだけど。

しかし金澤さんの話を聞いていて、西澤さんは建築を創るために実測を始めたことに思い当たり、文字通り建築に命を懸けたのだと実感する。金澤さんは幸か不幸か、それは幸には違いないのだがそれを引き継いだ。引き継がざるを得なかったのが人との出会いなのかもしれない。

西澤さんは自分の気に入らない坪庭は実測図面に描き入れない。そこが白い空白になっているのだ。僕も建築家とはそうしたものだと共感したのだが、金澤さんは更に西澤さんの描く建築や庭の断面図の背後に描きこまれた樹林、修景や建築が、カメラで撮るようなパースペクティブ、つまり小さく書かれていることにそれでいいのかと考え込んだ。

建築家は意識しようとしまいとランドスケープの中で建築を創っている。だから西澤さんは人の眼に見えるように描く。西澤さん自身それでいいのかと迷っていたそうだが、いかにも建築家らしいと共感しながらも、本来実測図のあり方はそうではないのではないかと金澤さんは考える。
設計図と同じ書き方、つまり同縮尺で背景を描くことに彼はトライしてみて、やはりそうあるべきだと思ったのだが、西澤さんが何故こういう仕事に命を懸けたかを次第に金澤自身のものにもしていったのだ。
建築がランドスケープの中でしか存在しないことを、大昔の先達が知っていたことに西澤さんが震撼とし、そして彼も引きずり込まれた。

更に西澤さんが早世したためにやりたくてできなかったこと、村落全体を平面と断面で鉛筆による図面で捉える、つまり実測し、居住者や地域の人々と会話し、図面化に彼はトライし始めた。
見せてもらったのは、山梨県の山に囲まれた小菅村の実測図。空から見たような平面も面白いがなにより断面図が凄い。図面を見ていると村の歴史までが感じ取れるのだ。
僕は今母校の大学院で聴講しながら文化人類学に取り組み、風水研究にトライしているが、小菅村における風水の有様も垣間見えてくる。

宮脇壇さんや原広司さんの行ったデザインサーベイは、街道沿いの建築が主体だが、金澤さんはそれでは環境つまりランドスケープが捉えられないと思う。その村落、街全体を掴まえなくてはいけない。そこが彼の素晴らしいところだと思うのだが、そうでなくてはそこに建っている建築や町並みを理解できないではないかと考えるのだ。それがデザインサーベイだと彼はいいたいのだ。

金澤さんとの話に僕ものめりこんでしまった。彼の西澤図面にも勝るとも劣らない、気の遠くなるような綿密に描きこまれた実測原図を見ていると、人には役割があると僕は確信せざるを得なかった。ね!面白いでしょうと笑いを促し、こんなことやっていてどうやって喰っていこうかとぼやく彼との出会いは楽しいくもあり辛くもある。
建築家である彼は創ること、つまり設計することを超えてランドスケープを実測して図面化することに命をかけ始めてしまった。

とまあ理屈はそうなのだが、モダニズムを考えていくうちに、僕は学生時代教わった神代雄一郎先生が、金澤さんのもう一人の恩師大江宏にぞっこんだったことを思い出した。金澤さんとの大江先生や、神代先生とその周辺にいた建築家との交流の思い出話にも花が咲き、そこに僕が学生時代に学んだ堀口捨巳先生や修験道が登場し、宮脇さんの調査した村落デザインサーベイ図面のアーカイブ問題でも話が弾んだ。

こんな話もした。金澤さんは西澤さんに人生を動かされたが、実は西澤さんも金澤さんに大きな影響を受けている。西洋美術館の設計を考えるために鎌倉に近代美術館を訪れたコルビュジエが、坂倉準三のつくった中庭を見てしばし佇んだ、つまり弟子の創った建築に触発されたと言われていることと同じではないかと思う。

彼が帰った後、何故突然僕の事務所に来たのだろう、何故4時間も話し込んでしまったのだろうと考え込んでしまった。その後時折電話を貰う。その都度話が弾むのだ。僕も金澤さんと出会ってしまった、と言ってみたくなっている。

<JIAミニトーク>
さてその金澤さんは、7月12日JIA館一階小ホールで行われる「西澤文隆実測図面集」についてのJIAミニトークに登場する。楽しく刺激的なトークになるに違いない。

「日本の建築と庭・西澤文隆実測図面集」(中央公論美術出版刊・52,500円)


素描 建築の人(1) のめり込む金澤良春、ただただ凄い実測図

2006-06-17 17:20:54 | 素描 建築の人

僕が仲良くなる人間は皆変だと愛妻が言う。その筆頭は「あんた」自身だと言いたい様だ。
僕はこの言葉を誇りに思う。だって林昌二さんだって坂田誠造さん鈴木博之さん内田青蔵さん篠田義男さん大澤秀雄さん松隈洋さんだって、それに東海大の助教授になった渡邊研司さんも年齢を越えての仲良しだし、僕の周りにいる人は皆単に親しいという言葉を超えて仲の良い人だといえるからだ。
松波秀子さんという素敵な女性建築歴史の研究者だっている。工学院大学の初田教授は、若き日建築家を志したそうで、何処かで許しあえる共通認識が生まれた。建築写真を撮る清水襄さん飯田鉄さん中川道夫さんもいる。建築東京でユニークな写文を連載している下村純一さんとも、本音で言い合える仲だ。

それに何より、一緒になってから三十数年たつ我が愛妻は、色々と言いながらも僕を認めているようだ。と書いてみて本当かな!とちょっと気にならないでもないのだが、変だというのは、つまり世の規範では捉えきれない「変に面白い人達」だと言っていると僕は勝手に解釈している。娘はといえば、そんな僕たちの会話を聞いていて、なんとなくにやりと含み笑いをしているような気がするのだ。そこがね、僕が我が娘の好きなところなのだ。

さてこのブログに時折、その変だという友人達を書いてみようと思う。
「素描 建築の人」なんておかしなタイトルにしたのは、建築家だけでなく、建築に志を持つ様々なジャンルの人との交流も考え書いてみたいからだ。書きたい人は「人」つまり建築人ではなくやはり「家」と言いたいのだが、ジャンルがまたがると共通語がない。それに、とは言え僕の勝手な思い込みでしか描けない、つまり「素描」としかいえないとも思うからだ。

< 金澤良春という建築家 Ⅰ >
リード文に書いた仲良しの建築家とはいえないかもしれないが、金澤良春さんは筋金入りの変な建築家だ。言い換えればなんとも不思議な素晴らしい建築家だ。

松下電工汐留ミュージアムで行われた「西澤文隆建築と庭実測図展」を覗いたとき、偶然にも金澤さんがギャラリートークを始めるときで、大勢の人の背後で何事かと聞き始めたのだが、次第に引き込まれていつの間にか僕は展示されている原図に張り付いていて、いつの間にか質問などしていた。
そしてトークの後西澤さんの図面だけでなく、彼の描いたチベットの寺院の展示実測原図を見ながら話し込み、すっかり意気投合した。それが彼との出会いで、わずか1年半前のことなのだ。
でもなんとしたことか、どんどん仲良くなっていく。

僕の事務所を訪ねてくれた金澤さんは、西澤文隆没後20年を記念して出版される重い豪華本「日本の建築と庭・西澤文隆実測図面集」を置き、これから行商するんですよと笑う。そして、彼がトライし始めた抱えきれないほど大きな実測原図を筒から出して、打ち合わせテーブルに広げ始めた。見せたいという思いに溢れていて圧倒される。そこが変なんだけどその原図が凄いのだ。
<この項6/18に続く>


HIV アフリカに托したメッセージ

2006-06-14 12:56:45 | 日々・音楽・BOOK

朝日新聞6月1日の夕刊に「HIV」検査、今日から普及週間という記事が掲載され、「流行の確認から25年、エイズは世界の15歳から59歳までの男女の最大の死亡原因になっている」と書かれている。更に3日の朝刊では「都内HIV感染最多、昨年417人、検査受診呼びかけ」、感染者は実際には報告数の4~5倍はいるとして、「エイズ患者が増え続けているのは先進国では日本だけ。爆発的な流行になる恐れがある」と警鐘を発している。

普段見過ごしてしまうこの手の記事が眼に留まったのは、図書館から借りた帚木蓬生の「アフリカの瞳」という小説を読んでいたからだ。
小説に託して様々な分野を抉りとる作家がいるが、医療の分野ではアメリカのロビン・クックがよく知られている。どの本もシビアな問題提起がされていて心を揺さぶられる。日本では専門家ではないが、山崎豊子の「白い巨塔」は大学医学部の様相が映し出されていて社会的な話題になった。

帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)は、1947年生まれ。東大仏文科を卒業後TBSに勤務し、その後九州大学医学部を出た精神科医。日本では医療関係を題材とした多数の話題作を持つこの分野の代表的な作家だ。

「アフリカの瞳」(2004年講談社刊)は、アパルトヘイトを跳ね除けたアフリカの国の、貧しいトタン屋根の集落が舞台で、現代的でシャープな感性豊かな主人公`作田`という医者がいわば「赤ひげ」的な志を持って庶民の医療に取り組む物語である。作田は、保健センターに勤めるパメラと結婚して一人息子のタケシを持った。作田はこの聡明なタケシとパメラとともに多くの人々の想いを受けて、この国のエイズ対策制度を変えるのだ。

ここでのもう一つの主役は「エイズ」そのものと、その治療薬とされている安価な`ヴィロディン`という薬だ。当たり前のことだがこれは全てフィクション。しかし臨場感に富み、さもありなん、そして何処かに実在の作田がいるのではないかと読んでいてのめりこんでしまうのは、単に帚木の筆の力だけではない。HIVの恐ろしさと社会の仕組み、社会構造の課題といったほうがいいのかもしれないが、それも実は人の思惑によるのだという事実が切々と伝わってくるからだ。小説ではあるが事実なのだ。

このテーマを社会に伝え訴えるのに様々な手段がある。
新聞の記事でも、デスクや担当記者の書きたい、書くべきだという思いもあるだろう。たとえ報道記事であってもジャーナリストの使命感のようなものが。

小説という表現方法では、学会などでの研究発表と同じように、綿密な調査によって取得した資料を噛み砕きながら問題を長い間心に留めて醸成させ、構成を組み立てながら主人公に思いを託してフィクションとして書き記していくのだろう。
ここに登場する人々はそれぞれの生き方の上でプライドを持ち、自分の役割を意識しようとしまいと真摯に人生と対峙している。
それに僕は魅せられる。血湧き肉躍る冒険小説やハードボイルドと同じスタンスだ。多分それは帚木蓬生の生き様なのだ。
更に伝わってくるのは、だらしがなかったり、どうしようもない人を慈しむ心だ。それらは全て彼の心の叫びでもあるのだろうが、大きな声を出さずに淡々と書き込まれているのでなおのこと心に沁みこんで来る。

帚木は村民の演ずる舞台で歌う唄に託してメッセージを伝える。

アフリカには瞳がある。
大きなどこまでも深い瞳だ。
瞳はもう涙を流さない。
・・・・と。

初夏の、梅雨空の中で暑いアフリカを想いながら僕もこれを書く。

中央郵便局庁舎を残したい 郵政民営化の中で

2006-06-09 18:45:19 | 建築・風景

「東京中央郵便局庁舎」と「大阪中央郵便局庁舎」の保存要望書を、虎ノ門にある日本郵政株式会社に三団体で5月26日に持参し提出した。三団体とは、(社)日本建築学会、(社)日本建築家協会(JIA)、それにDOCOMOMO Japanで、僕はそれぞれに関わっているので、一緒に持参しようと学会事務局やJIAと日程の調整をした。

昨年の7月には、建築学会とDOCOMOMOから、またJIAからは12月に郵政民営化を推進している総務大臣と郵政公社総裁に提出したが、今回の提出は、民営化実施についての実務的な検討を進めるために政府が今年の1月に日本郵政株式会社を設立、様々な検討を行っているからだ。
代表は西川善文氏。三井住友銀行・特別顧問全国銀行協会長もされた方だ。この新しい組織は、郵便局、郵便事業、郵便貯金、簡易保険の各社を持つ持株会社で、それぞれの部署で、郵政関係者だけでなく、広く人材、つまり有識者を集めてその分野での検討をしてるという。

東京中央郵便局はつい最近足場がはずされたが、外壁タイル剥落などの補修のための工事が行われた。この工事のための委員会が招集され、建築歴史学者などが名を連ねてその詳細検討がされたようだ。しかしその様子は公表されず、誰がどのような発言されたのかはわからない。結果としては委員長のリードによって多数の意見に集約されていくが、委員会としての結論のみが場合によっては伝えられることが多く、予定調和的な免罪符にされるような危惧を感じてしまう。また何故この時期にという何か割り切れないものも感じる。

東京中央郵便局は1931年、大阪は8年後の1939年に竣工、郵政を率いた建築家「吉田鉄郎」の代表作、というだけでなく、日本のオフィス建築推移を考える上で欠かせない建築である。いずれもDOCOMOMO100選に選定している。

郵政の前身は明治4年(1871年)後に逓信省になる東京、大阪間で近代郵便制度を起こしたのがはじまりで、郵便事業だけでなく電信事業も担っており、DOCOMOMO100選でも、1921年の岩本録の京都西陣電話局を初め、吉田鉄郎と共に郵政を率いた山田守の熊本逓信病院(1956年)、国方秀男の日比谷電電ビル(1958年)、また吉田鉄郎の後継者といわれた小坂秀雄の外務省庁舎も選定した。つまり郵政の建築陣は優れた建築を世に送り出すことによって日本の建築界に刺激を与え続け、都市の構築に大きな役割を果たしてきたといえる。それこそ正しく建築文化を社会に伝えてきたのだ。

その軌跡を表す建築の存続が危ぶまれてる。というよりかなり危うい。政府は東京と大阪の中央郵便局を高層化して収益を上げるのだと公表している。それも民意を受けてというのだ。公的拝金主義といいたくなる。民意とは何か?それをしゃかりきに持ち上げる有識者(自称?)もいる。

JIAでは僕が保存問題委員長を担った時代、まだ郵政省の時代でもあったが、野田聖子郵政大臣宛にこの東京中央郵便局を、重要文化財或いは国の有形文化財つまり登録文化財に登録するよう要望書を提出した。まだ今日のように改築して高層化すると表明されてはいなかったが、どうも様子がおかしいという風説!が巷に流れていたからだ。

それもそうだったが、この建築の3年後に建てられた「明治生命本館」が重要文化財指定を得たことにもよる。明治生命本館の建築としての価値は揺るがないが、日本建築の歴史を考えたとき、岡田信一郎の明治生命本館とは違うモダニズムの源流を語る上ではむしろ重要な建築であり、ブルーノ・タウトが絶賛したように、とても魅力的な建築だということを広く社会に伝えたかったからだ。
DOCOMOMOに関わっている僕のそれが使命でもあるような気がしている。それより何より僕はこの建築が好きなのだ。

東京中郵の存続を考えるとき幾つかの選択肢がある。
現実的なのは、今丸の内で行われている前面の部分を残して背後を超高層化する案。その場合もオリジナルを改修して残す方法と、どう考えても納得できないのだが、取り壊してレプリカで似非(えせ)再現。
これが可能なら支持したいのだが、全てを残して改修し、容積を他地域に飛ばす案。東京駅は千代田区から中央区の八重洲に飛ばしたし、検討の余地がありそうだ。最悪は誰が何を言おうと意に介さず全てを解体して超高層化してしまうという考え。

要望書を持参したのは、学会から建築歴史意匠委員会委員長の吉田鋼市委員長、JIAから野中茂保存問題委員会委員、DOCOMOMO事務局長の藤岡洋保教授、それに僕だがさて肩書きは!
持参したDOCOMOMO100選展図録やリーフレットを興味深く見ながら、対応してくれた持ち株会社の部長など3名の方々からは様々な質問もされた。藤岡教授がこの二つの建築の歴史的経緯や果たして来た役割を(聞いている僕たちでも心を打たれたが)懇切丁寧に説明をされた。
検討会議の場に我々の意を伝えることを約束をしてくれた。僕たちの想いを真摯に受け止めてもらえたと思う、ことにする。郵政の建築家も当然建築家として同じ想いだと僕は信じているから。

この中郵に関しては昨年の9月8日のブログにも「大阪中央郵便局の品格」と題して書いた。国家の品格よりも早いのだぜ!とちょっと言葉が悪いが言いたい。品格があるのだ。この二つの建築には。
でもこの建築の魅力を、つまりモダニズム建築のすばらしさを市民に伝えるのはなかなか難しいと皆嘆く。しかし僕はそうは思わない。かつてテレビ神奈川と30分の番組を作ったときにこの建築を前にしてスタッフや女性キャスターは、何故?普通の建築じゃあない!と戸惑っていたが、説明を重ね、ネ、良いでしょう、と言っているうちに丸の内では一番いい建築だと言い出した。
それよりこの価値を壊したがる政治家、官僚に伝えることの難しさをどうも感じてしまうのだ。

<写真撮影、2003年1月24日。日本工業倶楽部会館より望む。丸ビルが建ち上がっているが、その後東京中央郵便局の左奥の東京ビルが改築され超高層になった。左手前の東京駅駅舎も3階建てに復元される>

ホークという男 男スペンサー

2006-06-01 20:44:36 | 日々・音楽・BOOK

「冷たい銃声」(2005年12月刊)で探偵スペンサーは言う。
「私は大人になって以来の全人生をホークと付き合っていて、たとえ静養中とはいえ、危険な感じを与えない彼は初めてだった」そしてそれでもつくづく「ホークは時に予測するのが困難な場合がある」。
ホークは背後から撃たれて病院で臥せているのだ。
読みながら思うこともあるのだが、僕に全人生をかける友人がいるか・・と己に問うのはやめよう。

ホークの恋人セシルがいう。
`彼は変わることができるわ`
スペンサーが答える。
「彼は変わりたくないのだ、それが彼の中心点なのだ。彼は、自分がなりたい人間でいる。彼はそのようにして世界に対処してきたのだ」
`その世界というのは、人種差別の歪曲的な表現なの?`
「人種差別、冷酷、孤独、絶望・・・世界に対する歪曲的表現だ」
`ということは、彼は人を愛することができない、という意味?` 悩めるセシルが聞く。
「判らない。彼は人を憎むことをしないようだ」
「彼は今の彼であり続ける。今の彼が彼なのだ。彼はほとんどつねに正しい。彼があらゆることを知っているからではない。自分が知らないことについては絶対話をしないからだ。ホークは黒人だ。生まれてこの方、少数派でいる。それがどんなことか、知らないし、たぶん、知ることはないだろう」

スペンサーの恋人スーザンは問う。
‘彼がホークになるのに、なにが必要だったか‘
「ホークであり続けるのに。彼は、維持するのが容易なホークを選ばなかった」

弁護士のリタがホークに言う。
・その男の子に責任を感じてるの?・
『そうだ』
・あなたになにができたというの?・
『彼の父親が殺されるのを防ぐことができた』
・いいこと、ホーク。連中はあなたの背中を撃ったのよ。それがどうしてあなたの落ち度になるの?・
『おれは背中を撃たれるようなことがあってはならないんだ。』
・冗談じゃないわ。あなたは他の男たちと同じように人間よ。傷つくことがあるわ。殺される可能性があるのよ・
『ほかの男たちと同じであってはならないんだ』

スーザンがスペンサーに。
‘あなたは自分に嘘は言わない。あなたの世界では、あれはやらなければならないことだったのよ。ホークはこれをやらなければならない。彼とあなたは、成人後の全人生を通じて、お互いの人生における確信性の象徴だった。あなたは助けてやらなければならない‘

ところでその男たち、すなわちホークとスペンサーと、それに警部クワークがなにを食っているかというと、「スコーン?」
「ドーナッツはないのか?」「俺は警部だ。たまには格上げしたくなる」「ドーナッツからどうやって格上げするのだ?」スペンサーは肩をすぼめてスコーンを取った。彼は言う。「体力を維持しなくてはいけない」
なに?ドーナッツを食って体力維持!そしてそういうスペンサーは昼飯にアップルパイを食べたりするのだ。

彼らはコーヒーになんと砂糖を入れウイスキイをドボドボと注ぐ。
酒も飲むが、甘いものも喰うのが<アメリカの>男というものか!

つい先日の自動化検診、つまり人間ドックでお医者様に僕はこう言われた。「コーヒーを飲みすぎず、甘いものをセーブし、酒に気をつけろ!」
よく分かるなあ僕の好きなものをと、今の医療世界は見事だと感心したのだが、これじゃあいつまで経っても俺は男になれないか(慨嘆!)。

さてさて著者ロバート・B・パーカーは甘辛両党なのだろうか。