日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

円球の中に

2018-06-29 15:46:53 | 自然

我が娘(こ)が出展している書と絵(水墨画)を観に「東京都美術館」を訪れた。絵の方は審査員特別優秀賞、書の方は準特選と表記されていた。この分野で遥かに僕を飛び越えていて、感慨深い。何はともあれ書の文字が読み取れないので、苦笑しながらも、それはそれで、なんとなく嬉しくなった。

 美術館のある上野公園、TV報道がなされていた`パンダの子`を観るための行列が動物園前に連なっていて、苦笑しながらも`日本人って! などと、なんとなくぼやきたくも愛でたくもなった。それはさて置き、僕を飛び越えていく若き人間(我が娘:苦笑!)に、こっそりと拍手を送りたくもなる。

 処で掲載する写真、美術館の前の作品(彫刻?)、これが広い通路に設置されていることに、此処も(日本も!)捨てたもんではないと、ちょっぴり嬉しくなったものだ!

 <写真:美術館に赴く通路(広場)にある彫刻!その中の真ん中にいる小さな男が僕です>


「慰霊の日」に想う!

2018-06-23 23:19:01 | 沖縄考

6月23日は、沖縄戦での犠牲者を追悼する`慰霊の日`である。

沖縄には親しい知人が沢山さんいて「平和の礎(いしじ)」の設計を担った建築家もその一人、その彼の想い・志が浮んでくる。新聞記事の中に彼の名がでてこない事が例年気になっている。僕の父はフィリピンで戦死したが、嘗てフィリピンに社員を派遣して仕事をしていた従兄に誘われて、その地`モンタルバン`を訪ねて現地の人々に父が死去したその場所を聞いてみたが、特定することができなかった。      <このことは数年前になるこのブログにも記載した>

 さて朝日新聞夕刊のトップ記事のタイトルは、「沖縄 負担苦しみ73年」である。父が戦死してから73年を経たのだ!と想うと同時に、父の位牌に毎朝頭を下げていた亡くなった母の姿を思い起こしている。僕は母の想いを継承して毎朝仏壇におまいりしている。

 ところで新聞のサブタイトルは「知事、(基地の)辺野古移設 を非難」。僕は父の亡くなった歳をはるかに過ぎてまだ生きているが、数多くの沖縄の人々の想いと、翁長知事の一言に共感する。この一文を起稿しながらふと想う。沖縄には親しい知人が沢山いるが、このことでお互いの想いを取り交わした事がない。妙に怖くて言い出せない!ということでもあるのだが・・・・<画像 リビングに掲載してある版画より:何故か真っ黒になってしまった!>

 

 

 


夏の始まりの一時:洛陽中国書法水墨画院 軸装展 を観る

2018-06-20 15:23:21 | 文化考

今日(6月20日)で閉じる展覧会の様相を記載して置くことにした。実は我が娘が出展し、`審査員奨励賞`(色紙作品)を受賞したからでもある。絵のタイトルは「古寺晩秋」。会場は大崎O美術館。娘の恩師は、全日本水墨画美術協会の評議員でもある矢形嵐酔氏。この世界(と言っていいのか ! )を率いるお一人でもある。訪れたのは17日の日曜日だった。

我が娘は会場に入ったところに設置されている受付に腰かけて、来客者に挨拶したり会場の様子やレイアウトなどを説明したりしている。何故か一人で!

着物を着ていて結構様になっているので思わずニコリ!としてしまう。親しい同僚が訪ねてきたりしたが、僕とは細やかながら面識があり挨拶を取り交わす。数名の方々を案内していた嵐酔氏が、僕と出会ってお互い笑顔で何となく挨拶を取り交わした。

 初夏の一時だった。


朝のプラットフォーム

2018-06-15 15:30:19 | 添景・点々

週日、住まいのある海老名市さつき町団地に隣接している厚木駅から、小田急線に乗って新宿の事務所へ向かう。この日は建築冊子に記載する原稿起稿のために午前9時に取材させて頂く建築家と町田駅で待ち合わせをした。その直前、朝早く目が覚めたので、近くを流れる`相模川`の光景を見遣って写真を撮り、その様相をメモに書きとったりした。ここに記載するこの一枚はその余波、写真を撮った後、海老名駅のプラットフォームで急行の来るのを待っている時にふと思いたって撮ったもの。何のことのない一枚だが、数十年通い詰めている海老名駅のプラットフォームが、やけに広々として新鮮に観えたからだ。人が(ほとんど)居ないからか!など、何故だろうと起稿しながらも首を捻っている。

 

 


初夏の一休み・この地をブラ歩きで相模川へ

2018-06-10 22:52:06 | 添景・点々

今日6月10日(日曜日)は、どうもすっきりしない小雨降る初夏となった。

ところで、穏やかな晴天に恵まれた昨日(土曜日)。我が家のリビングで、連載している`建築家模様`(建築ジャーナル誌に連載中)次号の起稿に臨んでいたが、ふと思い立って相模川近辺のブラ歩きにトライしてみることとした。妻君の助言もあってのことだが、少しは歩かないと、体調がおかしくなるような気もしてきたからだ。

 さて、まずは僕の事務所のある新宿に赴く小田急線厚木駅(海老名市にあります)前の国道43号を渡り、町家でぎっしりの小道を相模川へのブラ歩き。数年ぶりになるが、よその町へ来たような気がしてくる。そして現れる相模川。その近辺の町並みも,川の様子も、そして遠くに見える大山やその山の連なりも変わっていないことにホッとするやら、この「まち」が停滞しているような気もしてきてチョッピリ複雑な思いに捉われる。とどのつまり、歩いていても差して楽しくのないのだ。

 とは言いながらも、つい数年前まで、時折り通りぬけていた相模大橋の先の『歩み橋』の様相が、歩いて観るのと車を運転しながら観る様相が違うことにチョッピリ驚いた。そしてこの橋の設計者の想いを感じ取ったような気がしてきた。なかなかいい感じなのだ。数十年、車を運転しながら見てきた橋と、ブラ歩きをしながら見る様相が異なることにもちょっと驚いた。なかなか好い「橋」のデザイン:意匠だった。設計に携わったのは誰なのだろう!

 そしてふと想う。昔は`もぐり橋`と言われ、雨が長く降ると川の水量が増えて流されてしまった橋が、この橋に建て替えられたことをふと想い起こした。今の若者はそんなこと知らないかもしれない。時が経つことについつい瞑目し、我が歳をふと想う。

 <余話>この一文をNHK Eテレ・クラシック音楽館、プロムシュテットの指揮によるベートーベンの交響曲第4番と、マリア・ジョアンのピアノによるピアノ協奏曲第4番などなどを聴きながらの起稿、見事な演奏で拍手が鳴り止まない。そして夏の始まりのこの一夜の出来事、作曲家の想いを受け留めればなにをしても好い、私は天才ではないが、私の経験を次世代につなぐこと・・更に弾くことはピアノとの対話、体で音を出すのだと述べるジョアンの一言に心打たれる。続けての「幾つになっても学ぶものを探求する・心の声に耳を傾けて下さい」とのジョアンに瞑目する。

 

 

 

 


国場幸房氏を改めて偲ぶ

2018-06-07 15:05:28 | 建築・風景

「ひんぷん」と銘が打たれた`沖縄県建築士事務所協会`の機関誌VOL.148号(2018年4月) `うりずん号`に、特別起稿された(株)国建代表の平良啓氏による一文が、沖縄の盟友根路銘安史からのメールに添付されて送られてきた。僕にとって馴染の浅い〝うりずん〝とは、「若夏(初夏)の季節を意味する」との付記が記載されている。

 此の寄稿文のタイトルは〝「国場幸房+国建展」を終えて〝。そしてこの2月に沖縄に赴き、国場の自邸を訪ねて仏壇に花をささげて瞑目したことと、その展覧会を拝見したことを思い起こした。そして改めて亡くなった国場幸房を偲ぶことになったが、この平良氏の一文は既読していた。とは言え、改めて国場幸房との出会い(嘗てのJIA・日本建築家協会での理事会で!)と、親しくお付き合いをしたことを思い起こすことにもなった。そして沖縄を訪問しご自宅のお仏壇にお線香をあげさせていただいたことなどなど想いは尽きない。

 僕のこのブログ、前稿は俳人金子兜太氏を偲び、引き続いて国場幸房を思い起こすことになり、うまく言葉にできない何者かにそういうお前はまだ大丈夫か!と、問われているような気もしてくる。人の生きることを改めて考える。

 事務所の起稿している僕の机の前のガラス窓に日が差してきた。昨日は小雨模様で梅雨の始まりか!と思ったものの、少し日を置いてと言う事になるやもしれぬ。今日の夕刻、御茶の水の明大(母校)のキャンパスに行き、若きOBの多い`明建会`と言う建築学科の卒業生による委員会に臨む。前項では金子兜太を偲び、本稿では国場幸房を偲ぶ。さてどうしたものかとも思いながら、この稿を起稿した。

 ところでこの一文、上記した会議を前にしての一稿、繰り返し読みこなし、複雑な想いを秘めての委員会参画と言う事になりそうだ!                                                             <文中 敬称略>

                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

   

 

 


俳人・金子兜太氏を偲びながら

2018-06-03 14:27:15 | 文化考

 朝日新聞の俳壇(歌壇・俳壇欄の・・・)に選者として登場され、心を打つ講評をされていた金子兜太氏が亡くなってから三ヶ月を経てしまった。この公募による俳壇欄の選者は、金子氏のほか(この後文中敬称略とさせていただく)、長谷川櫂、大串章、稲畑汀子の三氏である。

 僕は、高校時代は文学部の部長として様々な活動をし、文化祭の実行委員長を担ったりしたものだが、トンと我が作品らしきものが残っていない。わずかに`日が昇り日が沈んでいく`様を書いた詩らしきものを起稿したりした部誌に、夜間部(母校・千葉県立東葛飾高校の、2部・夜間部はなくなった)の教師をしていた作家川上宗薫との連名で部活の報告を記した事などの、ささやかな記憶しか残っていない。

 其れでさえも数十年前のことになり、卒業してから時を経て同級生たちと4年毎に行ってきた学年の同窓会の開催を提案して初回の代表を担ったが、一昨年の6月に行った第7回の同窓会では2度目の発起人代表を担った。本会も来年には傘寿の会をやることになっているものの、楽しみな会合ではあるとは言え、昨今親しく付き合ってきた朋友が亡くなるなど辛いことも起きてきて、金子兜太氏の訃報と重なってくる。

 手元にある`角川文化振興財団`の発行による「俳句」5月号は、`追悼 金子兜太` と題した特集号となり、その付録「金子兜太読本」は僕の愛読書となった。僕が読み砕いている朝日新聞の朝日俳壇は、兜太氏が体調を崩されてから上記3氏だけとなり、併設している4人の`歌壇`紙面構成が組み合わせの短歌(歌壇)との整合性が気になっていたものの、それだけ金子兜太氏の存在が身に浸みてきてしまう。その本年(2018年)2月22日の項、「革新の俳句 反戦貫く。反骨心と優しさと」。そして2月26日の項・俳句時評のタイトルは「土の人 金子兜太」(俳人・黒田侑布子)である。その記述、取り上げた金子兜太の一句は〝よく眠る夢の枯野が青無まで″である。

 さて敢えて記す僕の心に残る一句は、『水尾の果て炎天の墓碑を置きて去る』。

 招集されたトラック島引き揚げのときの句だとのことだが、こんな一言を記している。「珊瑚礁をでて、午後の水平線に向かって失踪する駆逐艦上に寝て、この句を作った」。

この句を愛でながら、僕はフィリピンで戦死した僕の父の無念の想いを汲み取って、兜太が天寿を全うしたことにホッとしていることを、敢て書き・記しておく。