日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

朝の来し越し方:さつき町

2016-09-30 17:20:14 | 建築・風景
「市の花のその名をとってさつき町」と記載されたポールが何時の頃からか建っている。
この`さつき町`には既に40数年住んでいることに気がつき、時折ホー!とため息が出たりする。

さつき町(団地)の高層棟(と言っても7階建て)の4階から毎朝EVで降りる。
右手に回るのは、時折妻君に`出してって`と言われてゴミや読み終えた新聞の束をぶら下げてゴミ置き場の金網引き戸を開けてぽい(いやよいしょ! )と置き、狭い小川の桜並木道をちょっぴり歩いて右折し、左手の高架小田急線沿いの道に出る。そして、右手の愛車の置いてある駐車場にちらりと目をやり、その先に現れる幼稚園を見ながら駅へ向かい、新宿へ・・・・

左手へ歩き始めると、まず、駐車場を通るか、中央広場的な広い通路を駅に向うことにするのかは、それもまたその日の気分。まっすぐ行けば左手に小さな公園と幼稚園、右手に所有者の異なる3階建ての共同住宅をちらほら見ながらということになる
なぜこんなことを意識するようになったかと申せば、駅までに出会う人たちが異なるからだ。

団地の中を通れば、清掃する小母さんたちや、おじさんと笑顔で挨拶を取り交わすし、幼稚園沿いに歩くと、これも何時の頃からか定かではないが、園児を運ぶマイクロバスを運転するおじちゃんと、笑顔で挨拶、運転台にまだ居る時は、窓を開けてくれて一言二言言葉を取り交わす。降りようとしている小っちゃな園児が、何事かと一斉に僕に目を向け、僕は何となく照れくさくなったりもする。

こんなことがちょっぴり気になるのは、熊本県天草の終戦直後の小学生時代過ごした下田村(現在は天草市下田町)の小学生の時の同級生が、過疎になり小学校が廃校になったので隣町へ子供たちを連れて行くバスの運転手をしたとのことだからだ(その彼も体調を崩していて天草を訪ねても会うこと叶わず・・・)。

さて、時折幼稚園に向う小さな子供二人を連れた若き父親とすれ違うこともある。何時の頃からか、お早うと挨拶を取り交わすことになった。
そして我が団地の入り口に立つ「市の花のその名をとってさつき町」と記載されたポールをちらりと見て、小田急線厚木駅に向かう。

JAZZ・「ルー タバキン トリオ」と巡りあって!

2016-09-25 11:03:19 | 日々・音楽・BOOK

柏市のWUUでのLEW TABACKIN TRIO(ルー タバキン トリオ)のライブ。
今年も訪れた2月の那覇`寓話`でのライブ以来のJAZZ。テナーサックスとフルートのタバキンを支えるベースのボーリス・コズロブとマーク・テイラーのドラムスとの絶妙なコンビネーションに心が揺さぶられた。

更にタバキンの、JAZZというジャンルを遥かに越えたといいたくなったフルートのソロは、日本の風土の一側面を美学として捉えており、ふと、若き日、アメリカを舞台にビッグバンドを率いてきた秋吉敏子夫人の故郷への想いへの心根を、極く自然に汲み取っているかとつい瞑目する。

ルー タバキンは僕と同い年、敏子夫人は11歳年上とのこと、JAZZに酔いしれながら人の生きることを思いもかけず考えることにもなった。
僕は何はともあれ建築家。同時に同じ建築家にヒヤリングをして写真を撮り文章を書いて人を考えているが、タバキントリオのJAZZ MENはさてどうなのだろう!

WUUは高校時の同級生小柳の所有するビルの4階にあるライブハウス。此処でこの6月、母校東葛飾高校の同級生の「葛の会」同窓会の2次会を行った。僕の住いからは電車を乗り継いで2時間半ほど掛かるが、何はともあれ人の縁とは不思議なものだ。

「芸術は森からはじまる」:愛知県立芸大建築環境専門部会で!

2016-09-19 14:50:42 | 建築・風景

今年の2月に行われた「愛知県立芸術大学」の第5回の委員会(施設整備委員会建築環境評価専門部会)に続く、先週9月16日の午後2時からの、今年度第1回(通算第7回)の委員会に出席した。

校舎群のある長久手の森は、まだ紅葉の姿を見ることができなかったとは言え、秋の気配が深まってきて、耐震改修がなされた建築群が僕たち委員を待ち受けてくれたような気がしないでもない。言い方が悪いかもしれないが`喜びと照れ、ささやかな困惑`。

キャンパスでは「芸術は森からはじまる」と題した大学創設50周年記念展示が様々な`場所`でなされていて、このキャンパス建築群の設計者吉村順三と実務を担った奥村昭雄の名前が記されたキャンパスの大きな模型が「芸術資料館」に展示されていた。

そして帰宅したものの、何時までも僕の頭の何処かに残っているのは、誰しも眼を向けるこのキャンパスの要、「講義棟」の東側に設置されていて、異様な(失礼!)若者群(男女)が声を発している寺井尚行(1979年卒)の`50sVoices`である。そのコメント……開学以来、多くの若者が、人生でもっとも多感なとき、様々な悩む事が出来る時を、自然に包まれたキャンパスで送ってきた。そして、今も、これからも、脈々と……
そしてふと、この講義棟に刻まれている「直指天」を見遣る。上野直昭初代学長の想い、`己の心を見極める`という意とのことだ。

委員会では、状況報告と芸術学部新校舎(新デザイン棟)新設の検討をした後の小一時間、委員と共に改修された校舎群を見た後会議室に戻って、その成果などをやり取りした。予算が厳しい中でそれなりの成果を得たのではないか!というのが一致した僕たちの評価だったが、長期間に渡り、この委員会(部会)で関わった8棟、担当する設計者、施工業者も変わって、委員として関わった愛知芸大の先生方の現地での苦労も察しできる。

終会後、委員長を担った水津教授と共に、ここも手を入れたかったものだね!などとのやり取りをしながら改めてキャンパス巡りをした。

<写真・耐震補強をした鉄骨面の一部に「芸術は森からはじまる」と記した大きな布がさりげなく掛けられた。講義棟の左脇に設置された白い作品が`50sVoices`>  :文中敬称略

朝ドラ「とと姉ちゃん」でのコトバ使いに!

2016-09-14 15:16:53 | 日々・音楽・BOOK
「そういえばお母さんはよく『暮らしの手帖』を見ていたね!」と我が妻君がのたまう。
妻の一言で、大正3年生まれだった亡き母が愛読していたことをふと想い起し、一冊くらいとっておけばよかったと悔やんだ。

僕は毎朝NHK 1チャンネルの朝ドラを見てからやおら立ち上がり、リュックサックの中を確認して背負い込み、小田急線に乗って新宿の事務所に向かう。
我が家の新聞は、僕の生まれる前から朝日、でも週刊誌「週刊朝日」を読むことはほぼ皆無。
処がふと何かの広告で,NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」に異議あり!!という特集が組まれていることを知って駅の売店で買ってページをめくった。

僕が気になっていたのは特集されている「暮らしの手帖」編集長だった花守安治のことや、その多少の事実誤認問題ではない。伝記を伝えるドキュメンタリーではなくて、`朝ドラ`なんだから!そんなの目くじら立てるほどのものではない、と思っている。

ということで毎朝TVを楽しく拝見しているものの、例えば、主役とと姉ちゃん常子が、常に発するコトバ「・・・してもらってもいいですか?」という言葉使いが耳障り、気になっている。
「・・・して下さい」とか、「…してくださいませんでしょうか」というのが、このドラマの時代の当たり前の言葉使いだろう。まあ、昨今。何処へ行っても、著名百貨店でもレストランでも…その言葉使いに僕はなにがしかの違和感を覚えるものの、この朝ドラ、時代を考えればありえないコトバ使いではないだろうか。
さてさて、「どうしたもんじゃろう!」これは誰の言い回しでしたっけ!

<付記:とと姉ちゃんのTV画像や、上記した週刊朝日の写真などは使えませんので、何の関係もありませんが、我が家の近くにある賑やかな海老名中央公園の写真を添付しておきます>

9・11 米同時テロから15年

2016-09-11 18:02:24 | 建築・風景

今日は9月11日、「9・11」である。

2001年の9月11日(日)の午後、何気なく自宅でテレビを見ていたら、ニューヨークの超高層二棟並列のWTCビル(世界貿易センター)の一棟に、飛行機が突っ込んだ映像が飛び込んできた。思わず身を乗り出して観ていたら、もう一機が隣り合わせのもう一棟に突っ込んだ。これは生放送だった。

年月を経ての9・11、感慨深いものがあるが、その映像を観たのは既に15年前にもなるものの、いつまでも忘れ難い。TVでは、その後他の政府施設にも突っ込んだ様子が放映され、「同時多発テロ」だと伝えられた。更に300人を超える死者がでて、二十数人の日本人が含まれていたとの報道があり、当時はアラブ系のグループによるハイジャックだとされた。

今朝、9・11の朝日新聞では、第2面全面を使い`「テロとの戦い」9.11から15年´と題し、マドリード、ロンドン、パリ、ニース、そしてつい最近(2ヶ月前)のダッカなど世界各地で行われてきたテロ、「見えない敵」「拡散する戦場」と題した特集を組んだ。
そして39面(社会)には、此処で父を亡くし、当時3歳だったテロ遺児とも言われる大学生が父を想いながら国際法、アラビア語を学び、NYでの追悼式典に今年も母と共に参列すると記載されている。

ところで沖縄に関する生々しい報道などで気になっていた「東京新聞」を駅の売店で購入。どう捉えているのだろうかと眼を通す。

2面にニューヨーク共同便の記事が記載されていた。副題に「傷痕今も生々しく」と記され、跡地は再開発が進んで賑わいを取り戻したが、犠牲者の4割の遺体がまだ見つからず…傷痕が今でも生々しく残っていると書かれている。更に5面の社説欄に、「不条理な死」をなくすと題し、このテロで当時34歳だった長男をなくした父親が、9・11になると毎年「息子に会うために」NYのグランド・ゼロを訪れてきたが、79歳になった今年も訪れ、息子の声は聞こえないものの「どこかでみていてくれると感じる」と述べたことが記載されている。

そして「世界はテロにおびえている」との巻頭言に即して、世界のワーキングプアは世界で一億5千万人にも及び、圧政や腐敗と並んで貧困は過激派主義の栄養源だと指摘した。

更に今日のTV、NHKプレミアムの午後4時からの`幻解!超常ファイル`でも、3・11が取り上げられている。サブタイトルは、私たちと`「9・11」陰謀論`である。何となく釈然としないながらも様々な憶測が紹介され、ちらちらと画面を見遣りながら僕はこの一文を書き進めている。

ところで建築家槇文彦さんは、崩壊したWTCビルの跡地に、世界の著名建築家によって建てられた数棟の建築の一つを担当された。
DOCOMOMOセミナーでの講演依頼と講演テーマの打ち合わせのためにオフィスをお訪ねしたときに、公表する前のNYの建築の映像を拝見し、感嘆したことを思い出し、この一文に付記したくなった。

<初秋9・11、うろこ雲(秋の雲)の写真(空の右上に微かに見える雲)を添付します>

小田急沿線・ただ見て歩き(2) 槇文彦の町田市庁舎:追記0907

2016-09-04 16:25:11 | 建築・風景

毎朝厚木駅から各駅停車に乗り、町田駅でロマンスカーに乗り換えて事務所のある新宿に向かう。
その町田には、小田急百貨店、ヨドバシカメラ、版画などを額縁に収める作業をしてくれる世界堂、そしてJIAの同人・大宇根弘司の設計した版画美術館などがあり、時折出かける馴染みの街でもある。

その町田、毎朝駅に着く直前の左手奥に、一目見て槇文彦の設計した建築だとわかる瀟洒な「町田市庁舎」の姿が垣間見えていて長い間気になっていた。ことに、そのペントハウスの姿のどこかにル・コルビュジエ建築が想い起こされて好奇心が刺激されてもいた。

そして、何時の日だったか親しい建築家から「エ!まだ観てないの!」といわれた事も僕の中に留まっている。この夏休み、リオのオリンピックTV観戦で寝不足、少々ボーっとしていたがウイークデイでないと閉館しているだろうとも思い立って、出かけてみた。そして、オヤッ!と思ってしまう。

電車から見える光景が見て取れない。前面には市民ホールと、時を経た都営の高層共同住宅が建っていて全貌が見えず、屋根のある自転車置き場が設置されていて、下からは見上げるしかない。前面道路に面してはベンチのある屋根の付いたアーケイド(ともいえる)が併設されていて、そこから庁舎に入る主要な入り口が設置されている。そこを通り抜けるとこの庁舎の全貌が見て取れる。

庁舎は、上記アーケイドのある前面道路面は側壁、建築の正面には張り出した低層建築があって、この庁舎にはいわゆる`正面`がないのではないかとも思える。そして前面に縦リブを配したカーテンウォール的な形状とタイルを張った壁、正面のない建築?これも一つの回答ともいえるだろうが、さてどうしたものかと首を捻った。

追記―0907
「正面のない家」と表記された住宅がある。坂倉準三建築研究所大阪支所の西澤文隆によって1962年に建てられた先駆的な!と言ってもいいコートハウスで、DOCOMOMO150選にも選定された西澤の代表作の一つでもある。塀が外壁で建築の様を見せない構成・意匠である。

では前記した`正面のない建築`という言い方を改めて考えてみると、趣きがちょっと変わって、正面がない=「全てが正面」と言った方がいいのでないかとも思えてきた。
ことに裏道であっても道路に面した、或いは他の建築越しに現れる外観のすべてが、その趣は違えどファサード「正面」なのだと言いたくなる。とすると大通りの反対側の川添いの狭い道路面を歩いて高層面を仰ぎ見て、その先の低層部分を見ながら右手に回ると、何となく裏面だと言いたくなる意匠なのだがさて如何なものか?

<写真:左手に町田駅につながるメイン道路がある> ―文中敬称略―