日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

新沖縄文化紀行(3) 若き研究者たち

2009-01-30 16:28:21 | 沖縄考

昨年僕は、仙台で行われたJIA(日本建築家協会)の大会で、主に1960年代から70年代に行われた集落・コミュニティの調査、デザイン・サーヴェイの展覧会にかかわり、シンポジウムのコーディネーターを担った。
様々な大学の建築学科で行われたデザイン・サーヴェイは、学生の共同作業による調査だった。学生たちがそれぞれの得意分野を分かち合うことにより、貴重な教育的成果があったと報告された。図面をも描くのが苦手でも人当たりが良くて交渉が上手い。料理がお手の者、運転ができる。各自が役割を果たすことによって共同作業が完結するからだ。

だが中田君たちが行っている沖縄の調査・フィールドワークは、個人による研究調査だ。
建築サイドから集落の調査を行う場合も、研究者としてのテーマによっては個人による調査がなされるのかもしれない。いずれにしても「地の人」の信頼を得られなければ調査ができないし、数ある文献も把握していなくてはいけない。そして調査の整理をし、分析をして新たな理論構築をするのは並大抵ではない。好奇心と行動力、幅広い視野も求められる。時代を見据えた問題意識も大切だ。好奇心だけでは駄目かもしれない。感動力(こんな言葉があるだろうか?)だ。

僕は文化人類学に関しては門外漢だが、建築のデザイン・サーヴェイと文化人類学のフィールドワークは、極めて近しいものがあると感じている。
僕たちを率いてくれる渡邊欣雄先生からの手紙にも、そのことが書かれていた。沖縄での写真と、デザイン・サーヴェイ展のカタログをお送りした返礼を、なんと「沖縄文化の拡がりと変貌」という榕樹書林から出版された20年に渡る論文やエッセイ・記事などを集めた分厚い評論集とともに送ってくださったのだ。

`2009年歳首・兼松紘一郎様指`とサインをしてあるのが、沖縄や中国文化研究の権威、人類学研究者から頂いたのだと感じとれて嬉しい。
この著作は、沖縄に興味を持つ人の必読書だと思った。いずれ僕のこのブログでも取り上げてみたい。大半を読み終えたが、感じ考えさせられるものが沢山あるのだ。

でもそれよりなにより、頂いた手紙に書かれている、調査に没頭している若き院生についての渡邊先生の記述に、僕はぐっと来た。
「皆沖縄に移住して調査を進めている。それが文化人類学の方法論なのだが、ガクモンの為に青春を犠牲?にするなんて、とんでもないことを要求するガクモンです。彼らはしかし犠牲とは少しも思っていない」そして、「私もそうだった。環境はもっと劣悪で、車もなく隣村の状況もわからなかったが、村は個性的だった。世の中が便利にはなったが、生活も人間の個性も画一化してきて、創造的な業績を創り込めることが難しくなった」と、彼らを思いやる。

時代は変わったが、フィールドワークは、単に沖縄の古代からの歴史を検証するだけでなく、様々な社会問題や基地の問題をも含めた今を見据えて行うことによって見えてくるものがあるのだろうと、彼らの成果に期待したくなって来る。
渡邊先生の数多い著作を紐解くことによって(僕は大半の先生の研究書を読んだ。理解?うーん!といわざるを得ないが・・)、先生の視点もそうだったと畑の違う僕も大きな刺激を受けているし若き彼らもそう考えているに違いない。

彼らや渡邊先生と接することで、かけがえのないものを享受しているのだと、その幸せを今かみ締めている。大げさに云えば、生きることへの示唆を得ているのだ。

<写真 東村の墓を見る>

新沖縄文化紀行(2)ハチウガン(初拝み)と春節

2009-01-25 21:08:32 | 沖縄考

沖縄読谷で調査をしている大学院生中田耕平君からメールが来た。
送ってあげた、一緒に歩いたときに撮った集合写真のお礼と共に、読谷(よみたん)の正月の様子が記されている。とても嬉しいです、という一言に、同行した那覇や屋嘉に泊り込んで調査をしている女子院生の質問に、笑顔で丁寧に答えている彼の姿がダブってくる。

彼は東京に戻らず読谷で正月を迎えた。研究者としての志しと、沖縄の正月に対する好奇心によるものだが、このメールは、僕の好奇心に応えてくれるものでもある。
既に今年が始まっているが、今年の旧正月は明1月26日。中国も韓国も旧正月を大切にしているし、国内でも地域によってはそこに住む人々の心に、旧正月が潜在していると思われるので、正月に触れてもいいだろう。

僕の事務所の上に住んでいる官さんが、福建省に帰ると挨拶に来た。息子と一緒に旧正月を故郷で祝うのだ。横浜の中華街も26日からの「春節」で賑わう。沖縄も本来は旧正月が大事で、昔は豚をつぶし、1年に消費する豚を塩漬けにしたりしたが、正月を新暦一本にするという運動がなされたのだという。

しかしふと思い起こしてみると、終戦直後に小学生時代を過した天草(熊本県)の正月はまだ旧暦だった。旧正月が近づくと朝のまだ暗いうちから数軒の家族が集まって餅をついたのだ。`あんこ`をくるんで柔らかく暖かいうちに頬張る。何十年たっても忘れない。貧しい僕たちの年に一度の贅沢だったからかもしれない。

琉球文化やそれ以前の古来の仕来たりを内在する沖縄の今に至る経緯には、単に文化という視点からだけでなく、様々な施政サイドからの思惑に翻弄された歴史をかみ締めなくてはいけないと、僕だって思う。でも本土(大和)だって同じだ。
しかしその意味合いの違いを認識しなくてはいけないと、沖縄を旅する度にその思いを強くする。

中田君が調査した集落では、12月24日にはフトウチウガンという一年を集落の神に感謝する拝み、31日は大晦日で、1月5日にハチウガン、つまり初拝み、これが初詣ということになるのだろうと彼は言う。ウガンは拝むというコトバだ。
興味深いのは、ということは12月24日から1月5日までは集落の神様方はお留守なのだという。どこへ行っているのだろうか。神様は!
研究者ではない僕にはわからないが、まるで神無月ではないですか、面白いですね、と中田君は書く。

でも沖縄の正月は大和の影響を受けていて基本的には変わらないと云う。
門松はあまり見ないが、注連縄(しめなわ)を飾って紅白をみたりして大晦日を過し、ウガンを新暦で行うのだそうだ。ただ`おせち`はなく、田芋の料理やナカミ汁(豚の内臓の吸い物)をご馳走になったと書かれている。
三日にはムーチーを食べた。旧暦の12月28日にあたり、餅をサンニン(月餅)の葉にくるだムーチーをつくって食べる家が多い。ムーチビーサ(寒さ)という慣用句が生きているという。なるほど!今年の正月はとても寒かったと中田君は云う。感じるものがあるのだ。

<写真 首里の御獄>


夕焼け・正月の「晩夏」

2009-01-18 17:15:51 | 日々・音楽・BOOK

雲の合間から帯びて注がれる光と、輝く雲に思わず息を呑むことがある。人が息を呑む気配を僕は見ているのだとも思う。
つい先日小田急線の窓から見た空を2分するような飛行機雲も凄かった。空の端から端まで繋がっている飛行機雲をはじめてみた。誰も気がつかない。つい指を指して乗客に知らせたくなった。

夕焼けに見惚れることもある。
新春に夕焼けは似合わない。夏、それも終わりの夏がいい。でも正月だって西の空が茜色に染まることがある。
「ほら見てご覧」と娘を呼んだ。一緒に4階の我が家の窓から厚木の駅の方を見やった。1月3日の夕方、空気が澄んでいて雲ひとつない空がほんのりと赤く染まっている。真っ赤もいいがこういう夕焼けもあるのだ。

「ね、こういう夕焼けがあるんだね」と壁に掛かっている小林春規さんの木版画を見やった。娘がただ黙ってうなずく。正面に立つ二本の欅のバックの空が淡く染まっている。同じ空の色だ。
僕はこの版画に眼を凝らすたびになぜか眼が潤んでくる。

昨年の11月、小林さんが送ってくれた新潟の画廊Full Moonで行われた新作木版画展の案内はがきに掲載されている、シルエットになった松林の向こうに描かれた砕ける波「秋波」が気になった。美術評論家の大倉宏さんに電話した。
彼が気に入った数点の作品をデジカメにとって送ってくれた。
「小林さんの作品はますます寂しさにつつまれるようになった」とコメントが添えられていた。
「秋波」が気になり、田んぼに焚き火の小さな赤い炎がぽっと灯る「初冠雪」に魅かれた。「晩夏」が胸にしみこんでくる。
でもこの寂しさに僕は耐えられるだろうか

壁に掛かっているのは「晩夏」。
電話先で大倉さんがぽつんと云った。屋根がねえ!彼の心打たれた溜息が聞こえたような気がした。
小林春規さんが言う。新緑の頃ここをスケッチをして版画にしたことがある。でもこの欅が気になって自転車で行ってみた。そして出会ったのだ。晩夏の夕焼けに。
ここにいる人がこの中にいるのだ。気配だけなのかも知れないがその吐息が聞こえるような気もする。
屋根がある。見えない人がいる。人がいる寂しさが僕の心を揺さぶる。微妙なトーンのシルエットの中の息遣い。
何なのだろう!この小林春規さんの寂寥感は。

相模の国の一宮・寒川神社で凶をぶっ飛ばす

2009-01-14 19:32:42 | 添景・点々

正月が過ぎ七草粥を食べて今日は成人の日、弟の三女が成人式を迎えた。二十歳(はたち)になったとき僕の娘は京都の大学にいたが、戻ってきて成人式に出たのかどうか。思いを馳せてみたが覚えていない。以来娘は一人住まいだ。でもいつものことだが暮れから我が家に来る。

元旦。神社に初詣をし御神籤を引く。
正月は区切りだ。いい年になることを念じて心を新たにする。今年も近くの有鹿神社に出かけた。氏神様だ。娘は着物を着た。吾が娘(こ)ながらなかなか素敵だ。僕は妻君と娘からお年玉としてもらった横縞のセーターだ。ふんわりと柔らかく、これはいいと着てみたらちょっと違う!と二人が首を捻っている。セーターに僕の歳が追いつかないのかもしれないと何だか情けない。

娘が叫んだ。「凶だ!」。
御神籤を毎年引いているのに生まれて初めて凶を引いたと騒いでいる。
ところで妻君は小吉で僕は中吉。「さびしさに何とはなくて来て見ればうれし桜の花ざかりかな」おもふままなるうんなり。願い事・心ながくおもいまてば叶ふべし。争いごと・短気を戒めよ勝つ。よくできた御神籤だ。

二日。一家揃ってロマンスカーで新宿に出かけた。娘は久し振りにロマンスカーに乗ったと大喜びしている。事務所に年賀状を取りに行ったのだ。
「ちょっと」と妻君と娘が言う。先に行ってて。事務所の近くの熊野神社にお参りするのだ。凶はこれ以上悪くはならないので転じて吉となす、とはゆかないようだ。

四日、寒川神社に行くのだと娘は張り切る。『凶をぶっ飛ばす!』。
相模国の一宮「寒川神社」。御祭新は寒川比古命と寒川比女命。お宮参りも寒川神社だった。娘をくるんでお参りしたことを思い出した。七五三も寒川神社だった。空は快晴、よし行こう。

JR相模線の宮山駅から人が連なっている。時間は掛かるが娘に付き合って妻君も僕も本殿にお参りすることにした。祈祷料、僕と妻君は中式3000円にしたが、娘は大式5000円だ。いやはやしまり屋の娘なのにこの心意気は凄い。でも必要だと思うと躊躇しない。僕と同じだ。血を引いている吾が娘だとなんとなくうれしくなった。

「凶」はぶっ飛んだと思う。1時間半も待ったが何だか僕も吹っ切れた。榊を神前に捧げた。運命は切り開くものだ、などと大げさなことを云いたくなった。
参道に建ち並ぶ屋台で買った「薩摩芋スティック」の美味いこと。妻君もニコニコしている。

いろいろな神様にお参りする。八百万(やおよろず)の神様に戸惑はないか?自宅では何故か二人の大黒様だし!でもこれぞ我が家の新春だ。

<1月12日に記す 写真寒川神社>

「つるかめ建築を支える人々」にみるモダニズム建築

2009-01-10 14:58:36 | 建築・風景

隔月刊誌`CONFORT(コンフォルト)`2月号「つるかめ建築を支える人々」に、松井晴子さんが僕のことを書いてくれた。タイトルは「モダニズム建築には、建築家の魂が投影されている」。
自分のことをここに書くのは面映いのだが、松井さんの文章はほんのりと柔らかく、しかし論旨がしっかりしていて、今僕が考え伝えたいことをしっかりと捉えてくれた。
おそらく松井さんと僕には、モダニズム建築の魅力や、その建築が街の中に存在することの重要性と課題についての共通認識があるのだと思う。

この号には、やはり松井さんが担当した「時間仕上げの家」というミニ特集が掲載されている。
リード文の『自然素材だけでなく、打ち放しコンクリートやラワン合板、安価な工業製品の仕上げ素材であっても、日々の気配りや暮らしを積み重ねていくうちに、新築では得られない深い輝きが家の内外に出てくる』という一節には、「時」という命題と、つくる「建築家」の感性や建築感、それに使う人の建築に対する慈しみへの暖かい眼差しを感じ取ることができ、僕の価値観に自信を与えてくれるのだ。そして三つの時を経た魅力的な住宅が紹介されている。

松井さんは「つるかめ」のリード文では、機能性・合理性を追求したモダニズム建築に共感を持つ市民は少ない、と喝破しているが「時間仕上げの家」のリード文を噛み締めてもらうと、(不遜かもしれないが)市民の側にだって課題があることに気がつくのではないだろうか。

昨年僕は、記述の間違いがないように眼を通して欲しいと送られてきたゲラを読んでうっと詰まった。返信で僕はこんなことを書いた。
「自分のことが書かれていて自分で言うのも変なのですが、密かに感銘を受けています。僕はこういうことを伝えたいのだと確認できた。そしてそれに共感を持ってくれる人がいる」。

戦うのではなく、相手と共通認識を持って一緒に考えるのが保存活動には大切、と思っている兼松さんだが、そんな悠長なことをいっていられなくなったのが「東京中央郵便局」だ、と松井さんは書く。そうなのだ、だがしかし。だから僕のことを、`モダニズム建築の保存家`と書いたのだろうが、それだけは違うといっておきたい。

かつて鈴木博之東大教授から言われたことがある。兼松さんは建築保存家だと思っていたのですが、建築を設計しているのですね!HPをみて愕然としたという。
「僕は建築家ですから」とついつい苦笑したが、`モダニズム建築の保存家`と書いた松井さんだって僕を叱咤する。
現役の建築家が保存を考え活動していることが大切、と。つくってください!

本文を読んでもらうのが僕にとってはうれしいのだが、一つだけ松井さんの感性の素晴らしさに触れたい。建築のことを話し始めると僕はついついとまらなくなって迷惑をかけるのだが、基本的にはインタビューでは聞かれたことに答える。聞き手、大切なのだ。
シンポジウムのコーディネーター(司会も)を時折やって実感しているのでよくわかる。

躯体(構造体)を残すことが大切だという考えはどうですか?無論否定をすることでもないのだが僕の答えはこうだ。僕の都市論にも通じる。
「・・・壊すのがもったいないというエコの見地から保存を考えるのでは、建築をモノとしてしか見ていないことになる。建築がなくなることで、街の風景が変わり、人々の記憶が失われていくことの方がもっと深刻だ」

僕はいつ松井さんに出会ったのだろう。気がついていたら仲良くなっていた。松井さんは銀座の歴史的建造物!奥野ビルについ最近事務所を構えた。そういう人だ。「郵便局のあるまち」を考えるシンポジウムに松井さんに出てもらった。ジャーナリストという僕の提言に「困ります、私は単なる編集者です」
そうかなあ!会場にいた娘は、松井さんの論旨に感銘したという。東京中央郵便局のビラ配りのときに感じたことを松井さんは語ったのだ。

正月に走る箱根駅伝

2009-01-04 12:16:51 | 建築・風景

箱根駅伝には様々なエピソードがあり、それが積み重なって伝説として伝えられるものもあるが、例え母校の学生が走っていなくても僕たちが惹き付けられるのは、そこに人生の縮図を読みとることが出来るからだ。しかしそうでなくたっていい。ただ必死で走る姿を見るだけでも楽しいのだ。
49,195キロを走るマラソンだって、コースを回るだけのF1だってレーシングカーを操って人が走るから心が打たれる。
歳を重ねた僕の思わせぶりな言い方なのかもしれないが、必死で走る姿を見る、それだけでもいい、そして誰にでも頑張って欲しいと願う。

それでも書いておきたいことがある。
今年の駅伝は、東洋大が初優勝をした。箱根の登りでなんと今井正人(順天堂大)の記録を越えて、東洋大1年生の柏原竜二が区間新を出した。新聞には怪物と書かれた。昨年の今井の見事な走りとさわやかな姿がまだ頭に残っていて、唖然とした。しかしそのときは東洋大が優勝するとは思ってもいなかった。

TVを見ていて辛かったのは、最終10区で農大の主将が抜かれてシード権獲得ができなかったことだ。故障が続いて走れなかったがそれでも主将に選ばれる。彼の苦渋と人生を併せて考えてしまう。でもその姿はいつまでも人の心に残り僕たちを励ましてくれるだろう。

明大がシード権を得た。
東洋大の優勝より、早稲田が勝てなかったことより、昨年の覇者駒大がシード落ちしたことより、日大のダニエルが20人抜き、でも山梨学院大のモグスがもっと早かったことより、何より母校明大がシード権を得たことに驚いた。43年ぶりのシード権、古豪復活とTVで誰かが云ったが、昔は強かったのだろうか。`箱根へ`という駅伝部復活サポート要請が先輩から来たことがあったが、チームが組めなかったこともあったのだ。

世話人をやっている宝井馬琴さんの会へ駅伝部の監督が出席して校歌の音頭をとってもらったことがある。昨年の箱根駅伝リタイアで意気消沈したあとで、監督を励ます会になったりした。
今回はラグビーがなんと全国大会に出られなかった。ありえない思いだが、それでもなぜか早稲田には勝った。その早稲田が10日に決勝を戦う。何たることぞ!

駅伝を見ていて思ったことがもう一つある。青山学院が繰り上げもなく「たすき」を継いでゴールしたことを喜んでいる。33年ぶりだそうだ。シード落ちなんて関係ない。予選を突破して箱根を走ったアンカーとその仲間たちの笑顔がさわやかだ。
若者はいい。初春の快晴のようにさわやかだ。そしてその若者を率いる指導者がいる。まだ日本は大丈夫だとホッとした。

<写真 快晴>