日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

3・11を考える:初春の中での:訪沖後の日々諸々 女川を! 

2018-03-11 20:37:46 | 東北考

2月初旬の訪沖(沖縄)から、ほぼ一月を経てしまった。時の経つのが何とも早い。

特段、何かをしているからだ!という実感がないが、ふと振り返ると、2月はともかく3月早々の`愛知県立芸術大学′の、「新デザイン棟新築工事」に関する委員会への出席(名古屋から地下鉄を経て、モノレールで芸大前行き)。一日置いて、母校・明治大学建築学科「明建会」の(OBと明大卒の教授連による)委員会への参画。僕は数名の後輩連と共に此の委員会の副会長を担っている。そして、その翌日の東海大学病院行き。これは何てこともない傷めている右足脛の様子をチェックしてもらって`湿布`をもらう為。書き記していると何となく情けなくなる。

 ところで今日は3月11日。「東日本大震災」に襲われた日。此の日で7年を経たことになる。

 僕は例年4月に仙台に赴き、森一郎東北大学教授と、「女川海物語」を書き表した(カタツムリ社刊)写真家 ・小岩勉さんと共に、津浪で被災した女川を訪れ、その変遷を考察してきた。名取市閖上からのスタートが通例になっているが、女川の人々の生活が少しずつ地に着いてきたようでもあるが、この地の人々の思いを受け留め得ているとは言い切れない。

昨年の閖上は、被災後と差して変わらず、そして道中の、海を見遣ることのできない背の高い土手の構築、被災することとは何かという課題を、見せ付けられているような気がしたものだ。

 女川の変遷は建築家の一人として、感じ考えるものがあるが、もし今年もお二人と共に女川訪問が出来るとしたら、まちの変遷の見え方が、今までとは異なるのではないかとの予感がある。時を経ることは我が身が時を経るということでもあるから、体力だけではなくて何かが少し変わってきているような気がするのだ、 が!


桜散る仙台で(3)風に吹かれて

2017-05-20 14:27:22 | 東北考

この風に舞う鯉幟(こいのぼり)の写真を観ながら、ボブディランの´風に吹かれて´を想い起こし音を絞って聴きはじめる。

例年の3.11の跡地巡り、女川の帰りに小岩さんが、つと車を回して立ち寄ってくれた東松島の鯉幟に魅せられた。風に舞うこの先には、新たに構築した津浪よけの堤防があり、のっぱら(野原)のこの鯉幟の手前には、新しい小さな墓地がある。海に向かっている黒御影石の墓碑がこの地を慈しんでいるような気がしてきた。風になびく鯉幟は、此処墓地に留まっている人々(と、この鯉幟を此処へなびかせた人)の想いを受け留めながら風に吹かれているのだろう。

お墓に瞑目することしか出来なかったが、ディランの´風に吹かれて´を届けたいような気がしてくる。

 


桜散る仙台で(2)女川の春の一齣を見ながら!

2017-05-14 09:57:11 | 東北考

女川が(常に)気になっている。

昨年とほぼ同じ時期、写真家小岩さんの運転する車で森一郎教授と共に閖上から女川へ向かいながら、通り過ぎて行く周辺の様相を観る。さして変わっていないと思ったものの、少数とは言え、新しい家屋が建ち並んでいる町村があってその姿を心に留める。 

さて女川のプロムナード(歩行者専用通路)、通称「レンガ道」をブラ歩きしながら、人が居ないなあ!とちょっと気になった。ところが、食事をしようと左右に建ち並んでいる飲食店のフロントに行くと、待っている人が並んでいたりして、ほとんどの店が満室、でも地元の人々とは見て取れない。

盛り土をした駅舎の背後の一帯もまだ工事通中のところがあるものの、日曜日で作業がなされていなかったとは言え、完成したあとどうなるのかと気になった。

<写真が小さくて見えにくいが、この画像の真ん中の先には女川の海が微かに見える>


桜散る仙台で(1)

2017-04-28 10:59:52 | 東北考

咲き誇った染井吉野の花散り、八重(桜)が俺様の方が偉いのだぞ!と満開。でも何やら一人ぼっちで見向きもされず、隣の大樹、緑葉になった染井吉野が大欠伸をしている。

ところで先週(4月21日)の仙台。新幹線やまびこ53号から望む光景。仙台に近づくと、遠くの山並みは雪景色、車窓から飛んで逝く桜花はここを先途と満々 開。2時間があっという間に過ぎて仙台駅へ。例年の、3.11の跡地をただ見るための閖上と女川。今年も写真家小岩勉さんの車に乗せてもらい、森一郎東北大教授と共にその地を訪ねた。

閖上の一画に仮設の店舗が建っていて、家族連れの住民で結構賑わっている。とは言え、この周辺にはほとんど家屋なし。昨年とさほど変わっていない。さて、取り囲んだ子供連れの人々を対象に、セリが始まった。300円とか500円,1000 円程度の魚や野菜などだけど、売店より2割ほど安い。皆、楽しそうだ。僕は、コンロで炭焼きをした魚を取得して頬張る。焼きたてなのでそれはそれは! 旨い。

その後、盟友とも言える建築家針生承一さんの建てた名取市斎場を訪ねてひっそりと溜息をつき、今年も高砂神社へ。参拝して日和山へ。この閖上の一帯、津波で傷んだこの地の改修のために盛土がなされたり、通路(道路)にはロープが張ってあって紆余曲折。前日の雨直後だったせいか、あちこちに大きな水溜りが散在していて、サテこれからどうなっていくのかと3人で首をかしげた。

 


仙台から帰郷し 暴風雨の中で:熊本の大地震

2016-04-17 16:33:45 | 東北考
今朝のここ神奈川県海老名市は暴風雨。昨夜(4月16日)になって、やっと天草の友人と電話が繋がった。

熊本県での大地震、小学生時代を過ごした60数年前になる西海岸沿いの小さな下田村北小学校(廃校になったが・現在は熊本県天草市)の同級生。心配することはないよ!との事でホッとし、下田に住んでいる数人の同級生の様子など聞いた。被災ではなく病状、お互い、万全ではないのでまずそういうことになる。
とは言うものの、小学生時代に、阿蘇山の近くの菊池出身の先生に連れられて阿蘇山に登ったことなどが瞬時に浮かび上がってきた。

13日、先週の水曜日、朝の5時に起き、小田急線の電車に飛び乗って東京駅へ、東北新幹線`やまびこ`での仙台行き。駅の近くで写真家小岩勉さんに車で拾ってもらい、まず建築家針生承一さんが設計した`名取市斎場`に向かう。
4人の方々の葬儀が行われていた被災を受けた名取市閑上地区、この一帯は気になって訪ねた3年前とほとんど変わらない広大な野原のままだ。打ち放しのコンクリートで建てた建築家の力量を改めて受け留める。こうやって今年の東北の旅が始まった。

泉区明石南の「Artgallery杜」で15日から始まる小岩さんの写真展「日をかぞえる/河口へ」のテーマ、名取川の河口。その一角の倒壊した石碑が横たわっている五柱神社(仙台市泉区明石南)と日本一低い山と言われる「日和山(ひよりやま)」を訪ねた後河口へ。新設した堤防、言葉もなく見入る小岩さん。
川水と海水が交わる河口、この地から観る海を望む風景は、良きにつけ悪しきにつけ刻々と様相が変わっていくのだろうと思われる。

その後、例年のごとく北上、今年は高速道に乗って、女川へ向かう。想定していたとはいえ、造成工事が続く女川の1年後の様子を見てこれでいいのかと言葉も出ない。
この夜は東北大学教授森教授を交えて小岩さんと共に青葉区本町の「玄孫(やしゃご)」へ。この呑み食い処は、岡山の建築家大角雄三さんの設計による木造建築。「仙台で 人と人とが つながりて」がこの店のキャッチフレーズ。正しく、僕たちのことだ!

ところで翌日14日は、建てた建築を拝見しながらの仙台の建築家へのヒヤリング、夕刻針生さんと痛飲、JIAの会合での課題、デザインビルドなどの生々しいテーマをボソボソと取り交わす。
さて16日に小岩さんのモノクロによる写真展を拝見して得心、帰郷。新宿の事務所に立ち寄て盛り沢山のメールなどを確認する。

そして昨朝ベッドの中でぼんやりとしていたら、妻君から熊本被災の報が伝えられて動転、TVに見入った。

<写真 閑上(ゆりあげ)と女川の駅前通り(正面に女川駅を見る):2016年4月13日撮影>


東北巡りのその前に:女川と石巻

2015-04-19 14:31:55 | 東北考

東北へ向かう前日、伊勢原の東海大学病院で、前立腺癌摘出手術後の定期検査を受けてから新宿の事務所に行った。山梨県で工事をしている仕事の、現地で打ち合わせをしてきた宮川君から、翌週行う検査機関とクライアントによる竣工検査の日程、現場確認などをするためだ。

そしてまた、右手人差し指のばね指(指の腱鞘炎)の具合がよくなく、2月24日に腱鞘切開手術、3月11日に抜糸をしたが、その余波のような痛みを伴っての今年の東北巡りになった。2年前に写真家小岩勉さんの車で案内してもらい、女川、石巻、気仙沼の3・11、2年後の被災地の様相をただ受け留めてきた。

今年は、東京女子大を退任して東北大学に赴任された哲学者森一郎教授をお誘いして小岩さんに紹介、何が出来るということでもないが、気に掛かる被災から4年後の女川と石巻のまちの姿を、今年も小岩さんに車で案内戴き、確認したいと思ってのことだ。

小岩さんは「女川海ものがたり」という23年前になる女川の人々の生活を捉えた著作を著した写真家である。その著作の帯には、「人」のまち、「漁師」のまち、そして「原発」のあるまち、その「日常」、その「素顔」と記されている。もう一つの箱に入れたその装丁に魅せられる、小岩写真ノート「野守の鏡」(nomorinokagami)は三冊のハードカバー、モノクロによる写真集、その3冊には「茫漠な時間」「植物と人間」「寡黙な関係」と名打たれている。

森教授の、3・11以降の哲学の可能性と副題のある「死を越えるもの」(東京大学出版会)は、必ずしも読み取れ得ないことを自認するが、何かを感じ取るとページをめくる僕の座右の書。実は「あとがきー原子力時代の子どもたちー」に登場するピンク・フロイドの「原始心母」論考にも惹かれたのだ。車中で昨年末に発売されたピンク・フロイドの最終章と言われるアルバム(CD)「永遠」について話が弾んだ。森教授は無論、小岩さんも黙ってはいられなくなる。

そして小岩さんは、女川の仮設住宅に住む知人からの要請があって´女川海ものがたり´の新しくプリントした写真を届けた。知人は写真展示をするようだ。

女川の漁港、そして急遽作られた船の着く桟橋を見、トラックが行き交っていて小山になっていく土盛りの台地と、何故か温泉を併設した新設なった女川駅、その釈然としない形状に言葉が出なくなる。
土手構築作業は淡々と進んでいるようだが、草原になっている石巻の被災地を車を留めて歩く。そして仙台に戻って僕の泊まるホテルに近い飲み屋で酒を酌み交わしながらの話は尽きなかった。

そして、翌日から山形、郡山と巡ってその地を率いる建築家のつくった建築を拝見してその軌跡をお聞きした。

<写真 女川港を望む>

東北へ:山形と宮城、福島の郡山へ

2015-04-13 22:44:24 | 東北考

明日の朝から3泊4日で東北へ出かける。
山形の建築家「本間利雄」さんと、福島・郡山の「清水公夫」さんに、建ててきた建築を案内していただき、培ってきた建築家として、人としての軌跡を・・捉えたい。明日はその前に、森一郎東北大学教授(哲学)と共に、仙台の写真家小岩勉さんの車に同乗し、女川や石巻を巡る。そして夕刻には仙台で酒を酌み交わす。写真を撮るので天候が気になるが、それもまた一期一会。

<写真 2012年9月21日 女川にて>

山本容子の女・女

2014-08-23 22:37:06 | 東北考
『「婦人公論」の表紙絵を描いて五年が経過したが・・六年目の今年は、特定の女性の肖像を、彼女たちの評伝からヒントを得て描きたい』。

これは、「ドアをあける女」と言うタイトルのティナ・モデェティという写真家を、銅版画と短いエッセイで組み合わせて見開きで構成した山本容子の文庫本(中公文庫)「女・女」と言うタイトルの、著作40篇(40人)の前書き的な書き出しの一編である。
そして最後の一編、ガートルード・スタインという詩人の「アメリカはわたしの国、でもパリはわたしの町」ではじまり、『「だけどそもそも問いはなんなのよ?」そして息をひきとったという。生への悦びが結果的に時代をつくったのだろうと感じる』。
という印象的なフレーズでこの著作は終わる。

さて、あとがきはと思ってページをめくると白紙、何も無い。その踏ん切りに山本容子という銅版画家の魅力的な容貌が浮かびあがってきた。
この文庫本は、新宿の西口広場での古書展で見つけて購入、それが僕自身の一側面を見つめなおす契機にもなったことに、ちょっととまどってもいる。

僕はこの一文を、例のNYヴィレッジ・ヴァンガードでの、ハンク・ジューンズ、ロン・カーター、トニー・ウイリアムスによるザ・グレイト・ジャズトリオのライブのCDをかけ、`猫`を描いた山本のエッチングを側に置き、気に入っていた`Switch`(March1994)山本容子特集を見開きながら書きはじめた。
そして親しい建築家室伏次郎が山本容子の自邸を設計したことに思いを馳せている。
建築ジャーナル誌に連載している「建築家模」で室伏次郎を書いたが、その室伏に住宅設計を依頼したことによっても、山本容子という版画家の真骨頂が浮かび上がる。

Switchのタイトルは「世界と遊ぶ方法」。
山本を捉えた写真は繰上和美である。板画家としての山本と女としての山本を捉えていて見事なものだ。
インタビューはスイッチ編集部、その捉え方も山本の答え方も魅力的だが、FROM EDITORSと小さく記載された冒頭の、マン・レイを引き出し、`山本容子は写真を撮られるという覚悟と意味をマン・レイに求めた_`という一文`がこのことを象徴している。

いまみてもカッコいいこのSwitchが廃刊になってしまったことを僕は惜しむ!


 

「虹の彼方に」から、集団的自衛権

2014-06-28 22:32:46 | 東北考
「日本にとってもっとも大きな脅威は北朝鮮でも中国でもなく、アメリカである。」
そして、今、日本の外交はひどい状態にあって近隣のどこの国(中国、韓国・北朝鮮)ともうまくいっていない、と続けて「自衛隊はアメリカの傭兵と化して世界各地へ送り出される」。
「これからの五十年を考えてみれば、日本が立つべきはアメリカの陰の中ではなく、アジア諸国とアメリカ合衆国とヨーロッパと途上諸国のすべてから等距離の位置である」。・・・「その基点が現行の憲法九条だ」。

こう書いたのは池澤夏樹である。

「虹の彼方に」とタイトルをつけたこの著作は、2000年から2006年のまでの間に、月刊「現代」や他の新聞や雑誌に寄稿した文章(コラム)を集めたもので、本稿は2005年の「諸君」六月号に起稿した一文の中から抜粋したものである。小泉純一郎政権の時代だった。
池澤はこう続ける。
「『集団的自衛権』とは要するに、徒党を組んで力の対決でことを決めるということで、実際にはボスに従うチンピラに成り下がるわけだ。この集団の中は決して対等ではない」。
そしてこの項を池澤らしくこう閉じる。アイロニイだ。
「アメリカを見ればわかるとおり、世界の警察を自称するのは危ない。では世界の消防を担うのはどうか。どこが違うかと言えば、消防士は銃を持たないのだ」。

北海道室蘭出身で、ギリシャに移住したことのある池澤は、日本を見るために沖縄に移住、その後フランス、札幌へ移り住んで世界と日本を見ている。
この著作のあとがきに「時代について書くことは、その先を予想することでもある」と記し、外れたものもあるが、`残念ながら`当たってしまったものもある`と「残念ながら」と書き添えるところに胸が騒ぐ。あとがきは本稿を書いてから2年後。しかし初出から9年経った現在、本日、まさに池澤の指摘が実体化されることに黙してはいられなくなる、僕の思いを池澤の、この9年前の想いに託して(引用させてもらって)ここに記す。

ところで、2007年7月、札幌と書かれたあとがきの最後の一言は「この先の7年はもっといい時代だといいけれど」。
さて池澤は、奇しくもそれから7年経った2014の6月の末、昨今のこの事態をどう捉えているのだろうか!
<文中敬称略>


秋は来ぬ 高橋靗一の「群馬県立館林美術館」と「籔内佐斗司展」

2013-09-28 14:29:21 | 東北考

晴天、満月を見上げた「中秋の名月」。陰暦の8月15日も過ぎ、秋深しという言葉も頭をよぎった。蝉の声が途切れて秋が来た、と朝日の天声人語に書かれたのは半月以上も前だったが、毎朝通り抜ける新宿西口公園では今を盛んに蝉の声が響き渡っていた。

秋分の日前日の日曜日、籔内佐斗司展が行われていた「群馬県立美術館」を訪ねた。
僕は第一工房(高橋靗一主宰)の設計したこの建築を見たかったのだが、妻君と娘は薮内佐斗司の大フアンなのだ。
建築家同士では仮に大御所といわれる建築家であっても、JIA(日本建築家協会)に所属する建築家間では`さん`付けで名を取り交わすが、学生時代製図を教わった高橋靗一氏には、やはりごく自然に高橋先生と敬意を表することになる。先生は1924年生まれだから89歳、衰えぬそのシャープな感性に驚くが、DOCOMOMOとOZNEによるセミナーの打ち合わせのためにオフィスを訪れた時に、この美術館のスケッチを拝見してそれについて触れたときに勘違いをされ、叱られたことが念頭にあった。

原っぱにあり、これはいいと思ったものの、ちょっと危ういこの美術館のことは別項に記すとして、僕が思いがけず感銘したのは籔内佐斗司展である。
妻君も娘も当然のことながら知っていたが、東京藝大教授として仏像の研究者としての実績と、復刻などに携わっていて後継者を育てるその志業に触れ得たからだ。その蓄積あってのあの愉快な作品群なのだ。

さてその帰り、新宿のオフィスに立ち寄ったら、道路を閉鎖して「熊野神社」の秋祭り、祭礼が賑やかに行われていた。秋が来たのだ。
そしてその翌日いつものように新宿西口公園を通り抜けてオフィスへ向かう。流石に台風18号が通り過ぎた翌日は蝉の声が途絶えて秋が来たと思ったのだが、なんとミンミン蝉が声を振り絞って鳴いている。でも只一人。何か物悲しいはぐれものの蝉の声だった。

<前項にToshiさんが、「新国立競技場」に関しての長文によるコメントを寄せて下さった。是非お読みいただきたい。JIAでは10月10日(金)pm6.00より日本青年館中ホールで、JIAの機関誌に寄稿された槇文彦さんをお招きして「新国立競技場」についてのシンポジウムを行う>