日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

桜日和の一日 一夜明けて

2008-03-30 23:38:06 | 添景・点々

北海道の雪に想いを寄せていたら、桜が満開になった。ふと部屋の窓から見おろした8号棟の前の桜の大木が真っ白だ。
娘から愛妻の携帯にメールが来た。引っ越したマンションの目の前の大岡川の両岸の桜が花開き、提灯もつけられて桜祭りが行われるという。愛妻と合意した。行こう。

僕の住む団地に走る小川の両岸の桜も満開だ。
駅に向かう途中、溜息をつきながら僕は写真を撮る。気がつくと水仙が咲いていて、雪柳もたわわに花をつけてその重みで枝垂れている。ヤマブキの黄色い花も綺麗だ。椿もまだ紅い花を残している。
柔らかな日が差している。ちょっと驚いた。欅の枝先が黄黒く芽吹き始めているからだ。まだ枯れ枝のままの樹があるのも面白い。こういうのを春爛漫というのだろうか。

ピンクの着物を着て娘が玄関に現れた。帯が名古屋の八寸帯だ。こんなの持っていた。着物は、なんと吾が愛妻が僕に嫁ぐとき、いらないというのに、母親がつくって持たせてくれたものだという。あなた、覚えていないでしょう?いつのことだったか、正月に一度だけ着たことがあるのよという。さーて!思い出せない。でもね、娘が着てくれる。新しいままでよかったんじゃない?そーよねと愛妻もうなずいた。

川の両岸は人で一杯だ。テントを張った屋台。焼きソバ、鯛焼き、咳止め飴、金魚すくい、広島のお好み焼き、じゃがバター、射的、串焼き、肉だけでなくホタテもある。定番のケチャップやマスタードをつけたフランクフルトソーセージ。20分くらい歩いて弘明寺にお参りし、何か旨いものを喰おうと人ごみの中を歩き始めた。チラチラと娘の着物姿を見る人がいる。でもとうとう耐え切れずに「たこ焼き」を食べた。桜祭りに参加したのだ。

弘明寺で御朱印帖に墨書してもらった。僕のは鎌倉の建長寺のものだ。ついこの3月、16日に訪れた伊勢神宮外宮と内宮の御朱印に続く京都三十三間堂の後へ、坂東第十四番とかかれた読みとりにくいが味わい深い文字だ。神社では大体巫女さんが書いてくれるが、ここはお坊さんのようだ。弘明寺は地元に根付いた妖しげな雰囲気の禅寺なのだ。

愛妻は娘のところに泊まるという。
僕は二人と別れて京橋に向かった。気になる版画家の個展が開かれているのだ。その前に思いついて上野に立ち寄った。世界遺産になる(多分!)西洋美術館の写真を撮っておこうと思ったのだ。
ところがなんと、公園口の改札は人が溢れていてなかなか出られない。お花見に違いない。桜は僕達にとって特別の花なのだ。無論美術館の前庭も人で一杯で写真にならない。一工夫する。前川國男の設計した東京文化会館のエントランスホールから窓枠を入れてシャッターを押した。

笹井祐子、この春から日大芸術学部の准教授になる版画家の名前だ。出展されていたのは、銅版画は3点だけで、紙に木炭、アクリル絵の具によるタブローだ。紙を貼り付け(コラージュだ)たり、一部を削ぎ落とす。「いろいろやってます」という笹井さんの笑顔が明るい。
話が弾む。僕が聞きたいのは抽象と具象。
モダニズムが抽象だというのは建築だけではない。ひところ抽象画にしか魅かれなかった僕が、具象にも眼が行くようになったのはなぜだろう。作家はどう考えているのか。そして僕はなぜ笹井さんの作品に惹かれるのか!事象の一瞬を捉える感性、それを紙にうつしとる。そうなのだろうかと自問自答する。
大きなカメラですね、何を撮っているかと聞かれた。笹井さんは、写真家とのコラボレーションによる版画にトライをしたことがあるのだ。デジタルになってからはね、建築を撮っている。でもね、と僕の答えは情けないくらい歯切れが悪い。僕のテーマは人だが、デジタルでは撮りこなしきれない。

一夜が明けた。
昨夜は冷蔵庫から残り物を引っ張り出して一人で酒を飲んだ。
ロックで`くろちゅう`喜界島の「三年寝太蔵」。その後「オールドパー」をグラスに入れてちびちびと,でもしたたかに。音は平良重信の唄・聞くほどに引きずり込まれる爪弾く三味線による「宮古島古謡」と、大西順子がトリオで弾いた1992年のWOWだ。

空が曇っている。午後3時、一週間前に買って袖を少しちじめてもらったジャケットを受け取りに町田に。小田急に乗る。昨日と打って変わって空気が冷たい。
途中の座間駅プラットフォームの両サイドは、呆れるほどに凄い満開の桜並木だ。でも曇り空の中の満開の桜花は気味が悪い。黄泉の世界の使者のような気がした。

<写真 右、桜祭りで。着物姿の吾が娘。左、笹井祐子さんのリーフレットより・風を待つNー1>

07北海道の旅(3) 横から舞い上がる雪

2008-03-27 13:06:50 | 建築・風景

11月なのに雪だという。それは楽しみだと、僕なりに万全の用意をした。万全といっても昨年買ったヨネックスの雪用の革靴、それに手袋と毛糸の帽子だ。
JAL機の窓から下を見た。雪がない。
迎えに来てくれたMOROさんと笑顔で手を振る。一年ぶりだ。雪の少ない所を選んで千歳空港をつくったとはいえ、ないねえ!と問うと、札幌市内はですねえ、と意味ありげだ。
夜から降り始めた。
そして2日後、釧路へ向かう。反住器(毛綱毅曠の設計した母の為の住宅)を訪ね、毛綱毅曠(もずなきこう)のお母さんにDOCOMOMOで選定したプレートを差し上げ、厚岸に建っているやはり選定した「北大臨海試験場」を観るためだ。そして毅嚝建築ツアーをやる。

市内の高速道路は閉鎖している。雪が積もったのだ。MOROさんは車間距離を取って慎重に慎重に車を走らせる。それでも時折ツッとすべる。スタッドレスが3年目、喰い付が衰えた。スリリングで北海道に来たのだと僕は面白がったが、MOROさんは来年はタイヤを取り替えなくちゃと心配げだ。

通り道の夕張は雪に埋もれている。まちの中心で左折し、そして右折する。この季節から雪と対峙しなくてはいけないのは厳しいと思った。この地にさえ箱物を乱立させることになった時代、日本中がそれが当たり前でそれが社会を、つまりまちを活性化させ、生活を豊かにすると思い込んだ時代があったのだ。いや今にしてもと考えさせられた。でもここで生きていかなくてはいけない人がたくさんいる。故郷だからだ。
やりかけの高速道路の工事の現場が時折現れる。政界で問題視されている課題を思い出した。ここに高速道路がいるのか。高速道路はバイパスだ。まちを通過してしまう。まちが置き去りにされてしまうのではないかと気にかかる。

その高速道路に乗った。日が差し始めたが、微かな風でも雪が舞う。驚いてMOROさんに「ホラ横から吹いているよ!」とまくし立てると、何が珍しいのかと意に介さない。北海道の雪はサラサラでどこででも横に飛んでいくのだ。

ところで滑ってひっくり返り、したたかに頭を打った。一瞬何が起きたのかわからなかった。気がついたらカメラを持った右手を差し上げ、カメラは?と叫んでいた。
釧路へ行く通り道に「水の教会」があるという。ふと思い出したMOROさんがよってみましょうか?と言ってくれた。断るわけがない。この教会は、池の中に十字架を立てた安藤忠雄さんの代表作。ところが教会を持つホテルの玄関が雪に埋まっていて足跡もない。一ヶ月の休館。しょうがないと未練がましく戻りかけた途端滑った。雪靴を過信した。道が凍っているのだ。靴底のゴムがMOROさんのスタッドレスと同じになったのか?

釧路の夜、ホテルのマッサージのおばちゃんに雪道の歩き方を教わった。チョコチョコとね、こうやってと実演入りだ。ほんとはね、もんじゃあいけないのよ、と首にはそっと、そして肩と背中、腰、ふくらはぎ、何処を押されても飛び上がるように痛い。痛い痛いと身をねじると、おばちゃんは喜んで、話が弾んだ。身の上話だ。

07年の秋は一ヶ月の間に、韓国、新潟、宮古、そして北海道。面白かったがさすがにこたえた。行く年、来る年、身体に来るのだ。身体は、いやだと言っても年齢(とし)を教えてくれる。

<写真 夕張の街路>

保存戦記から「東京中央郵便局を重要文化財にする会」へ

2008-03-22 13:34:17 | 建築・風景

日経アーキテクチュア誌に1年間12回に渡って連載した「保存戦記」が3月10日号で終わった。
最終回のタイトルは「僕を保存活動へと導いた、母校本館の取り壊し」。
関東大震災直後の大正14年(1925年)にRC造で建てられた母校、千葉県立東葛飾高校本館の解体が僕の保存活動の原点なのだ。
本館を部室として使っていた在校生による生徒会が保存活動を始め、それをPTA会長が支え、同窓会会長が解体に同意した。その経緯に僕の好奇心が刺激された。
14年前のことだ。以来建築をつくりながら、様々な建築の保存に関わってきた。建築感が変わり、多くの人々との出会いがあった。教えられることが沢山あった。皮肉なことだが、若き日の記憶の詰まった建築の解体があって今の僕がある。年をとっても学ぶことが沢山あるということも学んだ。

保存活動をやってきて得たのは、`建築への愛情と価値感`の共有ができないと残せないということである。戦っては価値感の共有はできない。だから日経アーキの副編集長宮沢さんから掲載の打診があったとき、「戦記」というタイトルに一瞬、逡巡した。しかし戦いは僕自身への戦いでもあり、社会のシステムや時代への戦いでもあるのではないかとも思った。
多くの人と一緒に活動し、何年もかかわってファイルが数冊になった例もある。それを600字程度のコラムに書くのはなかなか難しい。でも面白かった。
宮沢さんに学んだことも多い。彼は文章の組み立て方などに結構厳しいのだ。わかりやすく、明快に!もっともだがそれだと僕の文体でなくなる、などと楽しいやり取りをした。

今年の新春の入稿のとき、「昨年は、フランク・ロイド・ライト建築アーカイブス主催の国際シンポジウムのコーディネータ役など、12月に入ってからまで様々な役割を担うことになった、『今年はのんびりしたい』」と宮沢さんに言うと、カネマツさんに、のんびりは似合いませんよ!と言われてしまった。溜息が出た。でも喜ばしいことか?

「僕自身の保存戦記はいつ終わるのか」と書いて保存戦記を閉じたが、1月9日、TBSラジオ「スタンバイ」からの、建築学会で策定した「建築物の評価と保存活用ガイドライン」の取材と、北海道近代美術館で行われた「北海道の建築家展」の上遠野徹さんのコーナーに、DOCOMOMOの活動を紹介するパネル展示の打ち合わせを、パネル制作をしてくれる東海大の渡邊研司准教授や学生との打ち合わせによって今年が始まってしまった。
2月になって、DOCOMOMOからの学習院ピラミッド校舎群の保存要望書の提出。鎌倉近代美術館についての相談のために、高階秀爾先生、阪田誠造さん、鈴木博之先生、坂倉竹之助さんと共に鎌倉行き。愛知県立芸術大学存続の相談に吉村順三邸訪問。22日には、学習院ピラ校シンポにパネリストとして参画。残したい東京女子大旧体育館の東女OGとの相談。なんとしたことか、年が変わっても僕の生活は一向に変わらない。

そして、東京中央郵便局。
郵政の中に昨年来「歴史検討委員会」(非公開)が設置されて審議されてきたが、このままだとほんの一部を貼り付けて高層化し、民意を受けて保存したのだといわれかねない。思い余って、危機感を持つ多くの人と共に「東京中央郵便局を重要文化財にする会」を設立することになった。
時間がない。3月25日、憲政記念館の会議室を借りて設立発起人会を開催することにした。準備会を開いたのが13日だから12日後ということになる。
さーて。何人の方々に賛同をいただけるか。建築家吉田鉄郎のつくった大阪中央郵便局と共に、日本の近代建築史を考える上でも大切な、「東京中央郵便局庁舎全面保存」の正念場かもしれない。

このブログを読んでくださる方々にお願いしたい。ぜひ発起人に名前を連ねていただきたいのです。恐縮ですが、ブログにリンクさせている僕のHPの「イベント情報」欄を、ぜひ開いてください。たってのお願いです。

<写真 日本工業倶楽部会館屋上から撮った。2006年6月19日にこのブログに掲載したものの再録。既にこの丸の内の風景が変わっている>


韓国建築便り(9) 興味深かった三国の近代建築保存へのスタンス

2008-03-13 16:42:02 | 韓国建築への旅

手元にシンポジウムの資料として配布された冊子がある。
セッション1で行われる国際シンポジウムのパネリストの主題解説(講演)の原稿が、バイリンガルで掲載されており、更にセッション2と3に分けて一日をかけて行われる近代建築研究成果の報告が記載された134ページに及ぶものだ。ちなみに僕の日本語で書いた原稿は、英語とハングルに翻訳されている。

興味深いのは、基調講演をした金晶東前会長の書かれた、1987年と1999年に開催された、韓国、中国、日本の三国による国際シンポジウムの記録だ。
1989年は台湾(自由中国と書かれている)で行われており、日本からは神奈川大学の富井教授と、まだ東大生研藤森研究室の院生だった西澤泰彦現名古屋大准教授が講演をしており、記念写真には若き日の藤森照信教授、同じく藤森研の村松伸さんや、金晶東教授、尹(ユン)教授などが写っている。

1999年には「東北亜都市環境会議」として中国の瀋陽で3日間に渡って行われた。日本からは、槇文彦、伊藤滋、三宅理一、陣内秀信、益田兼房、北澤猛各氏、それに西澤さんや志村直愛さんなど、17名もの発表者がいるという大きな会議だったようだ。韓国からも金晶東教授を始め数多くの方が参加している。この会議で、中国と韓国の国旗が初めて同時に上がり、地元の韓国人が涙を流したとの逸話が残っていると、尹教授が感慨深けに話してくれた。

僕は日本の文化財行政について、文化財保護法や指定や登録の文化財を管轄する文化庁のシステムなどを報告した後、JIA、DOCOMOMO、建築学会やそれをバックにして行ってきた僕自身の保存活動と共に、草の根といってもいい市民の活動にもふれた。そして、高度成長期に建てられたモダニズム建築保存の抱える課題、市民になかなかその魅力が受け止めてもらえない状況と、財界、政界の経済優先問題に直面して、次々と解体される現状の悩みを、パワーポイントによって建築を紹介しながら伝えた。
最後に、ジャーナリストとの信頼関係を築くことによって、市民との建築文化共有の期待ができるのではないかと会場の方々へ問いかけた。

1stセッションが終わった後、日本からは同行した山名理科大准教授が参加して、意見交換が行われた。そこでの好奇心に満ちたChong、Jae UK壇国大学教授(M。Arch)のコメントに、今回の近代建築保存についての3国の問題意識が上手く総括的されていると思った。
『韓国は、都市を生誕時からの変遷を説き起こしながら現在を把握してその是非を考察し、中国は建築単体(その価値についての)保存への関心はなく、開発の中で一街区を残すことに興味を持つ。日本は単体の建築の価値、建築家の存在や建っている建築への記憶の必要性を把握してその保存の持つ意味に関心があり、三国のまち(都市)としてのアイデェンティティが異なるのが興味深い。』そしてそこに、探っていくべき東北アジアの課題があると思ったというものだ。

僕が歴史の研究者ではなく建築家だということもあるような気がするが、近代建築の保存は、国のシステムや国情によって異なってくるという実感を改めて得ることになった。中国のDOCOMOMOへの加入は検討案件かもしれないが、自分がかかわろうとは思わないという、ユンジェ副教授同済大准教授のコメントも伝えておきたいことだ。

シンポジウムの後、尹教授に案内していただいて、ユンジェ副教授や山名さんと共に未だ観ていないという三星美術館を訪れた。記念写真の撮りっこをした。シャープで論旨の明快なユンジェ副教授は30代半ば、それでも400名ほどいる教師陣の中ではもう年輩のほうなのだそうだ。将来へ向けての、中国の底力のようなものも感じ取れる。

年の開けた1月12日、建築学会大ホールに於いて、三宅理一教授のコーディネートによる「朝鮮通信使」に関するシンポジウムが行われた。パネリストとして招かれた金晶東教授とがっちりと握手し、尹教授が金正新教授を引き継いで、DOCOMOMO Koreaの代表に就任すると報告を受けた。
尹教授とは、来春Seoulの近代建築見学ツアーを、DOCOMOMO JapanとKoreaの連携によって企画する約束をしてきた。
韓国の丹下健三とも言われた金寿根の傑作、空間工房のホールで会合を行い、庭で懇親会を開きたいものだ。あの楽しかったDOCOMOMO Koreaの設立総会の一瞬を蘇らせたい。

<写真、三星美術館にて、中央に尹教授、向かって右にユンジェ副教授>

建築写真って何だ! ニコンの24mmシフトレンズD

2008-03-09 16:45:34 | 写真

ちょっと大げさだが、これは事件だ。
2月22日、ニコンのPC24㎜、F3,5Dアオリ機構(シフトとチルト)レンズが発売されたのだ。
「D」?デジタル対応だ。写真雑誌の新製品紹介欄には、さり気なく「広角シフトレンズ登場」、そしてニコンでは今後シフトレンズをシリーズ化していくとしか書かれていない。
ヨドバシカメラによって、レンズのカタログを手に取った。やはりフルサイズカメラD3に使えると書いてある。D300にも使えるようだが、広角を使って建築を撮るのにはフルサイズでないと役に立たない。
そうかやはりニコンはフルサイズの廉価版、つまりキャノンのEOS5Dに対応する機種を近じか売り出すのだろうと思った。そのカメラには、フラグシップ機D3にはないダスト処理(ごみ対策機構)もなされるに違いない。これは間違いがないと確信する。

素粒子にゴミのつくのが嫌で、僕はレンズ交換をしない。それじゃあ一眼レフを使う意味がないジャン!と、建築の仲間たちに笑われたばかりだ。癪にさわるが事実そうなのだ。これは「事件じゃないの?」

僕はPC28mmは持っているがニコンには24mmがなかった。キャノンにはTSE-24というシフトもチルトもできる24㎜のレンズがあり、それが使えるデジタルフルサイズカメラもある。
このレンズを使いたいために多くの友人が、ニコン党からキャノン党に転向した。僕はどうしても踏み切れない。そんな腰軽ではないのだ。と言いたいが、いやいや実態はやせ我慢、愛妻にまた買うのか、「馬鹿じゃないの!」と一蹴されるのが眼に見えている。
それより何より、幾つものフィルムカメラとレンズを持っているし、どうも使い込んだニコンこだわっているのです。結構「俺は保守的なのだ」とふと思う。

3月5日、DOCOMOMO主催で選定した「東京拘置所」(小菅刑務所)を見学した。若き歴史学者Yさんに「行ってきましたと」と自慢げに池辺陽の設計した「鹿児島宇宙空間観測所」の写真を見せられた。あまりにも見事にシフト(縦線の垂直)がなされているのでカメラは何?と思わず聞くと、案の定キャノンの5Dに24mmのシフトレンズ、フーっと溜息が出た。ニコンから24mm出たよというと、エーッと今度は彼のほうが愕然とした。彼は転向者(失礼!)なのだ。

デジタルになると、ソフトで収差(ディストーション)修正やパースペクティブも直せるというが、ディストーションはともかくシフト調整はなかなか旨く行かない。それにファインダーを覗いて確信を持ってシャッターを押すのが撮るということだ。デジタル補正を頼りにしては撮れない。
サーて、値段だってねえ!レンズだけだって30万円を越える。

写真家Nさんからメールが来た。仕事として初めてデジタルで撮った(D300)写真が東京新聞に掲載された。カラーのはずがモノクロになっちゃったと笑っていうが、送ってもらった新聞の写真を見てドキッとした。名コンビ、作家森まゆみさんと組んだ3月1日の芸術欄、`根津教会`と木造3階建ての`はん亭`の写真。シフトはなされていないが存在感のある温かみのある建築の姿だ。これがシフトでカチッと撮られていたら、この二つの建築の街の中にある存在が表現できなかったに違いない。

人の眼は不思議だとおもう。建築の上部はパースペクティブ、つぼまって見えるのに、まっすぐに建っているように感じている。
建築写真とは何か?シフトレンズなんて・・・アホか!
楽しい悩みがまた始まった。

<写真 左・東京拘置所 右新聞記事>




韓国建築便り(8)近代建築保存についての国際シンポジウム

2008-03-02 17:26:36 | 韓国建築への旅

そもそも!10月(2007年)の旅は、27日に行われた韓国、中国、日本の三国による、シンポジウムに参加するためだった。テーマは(主題)は、「東北アジアの近代建築保存と展望」である。
簡単にシンポジウムの概要を伝えようと思っていたが、4ヶ月を経て振り返ってみると、このシンポは三国の交流にとっても、建築の存在を検証する上でも、また僕自身の軌跡を振り返る時にも、とても大切だったと考えるようになった。あまり理屈っぽくならないように気をつけながら、2回に渡って報告することにしたい。

開催趣旨はこのように書かれている。
『最近急速な経済成長と都市開発で、東北アジアの都市は急変しており、近代遺産は消滅の危機に直面している。韓国は、2001年登録文化財制度の導入以後、近代文化遺産に対する認識が高まっている。しかし、地域均衡発展、ニュータウン,再開発などによる人為的消滅の脅威が加重されている。
先経験を持つ日本や、今現在中国も開発と保存の均衡と調和において、類似な悩みを持っている。近代における多様な遺産をどういうふうに保存・活用し、経済的成長をなしつつ、持続可能な歴史文化都市の未来を準備することができるか?韓・中・日3国の専門家が顔をあわせ、互いの経験と情報の交流を行い、正しい方向を模索する』

会場は、ソウルから車で南へおおよそ1時間くらいの龍仁市(Yong In)に設立された壇国大学竹田キャンパスである。
壇国大学(Dankook University)は、設立60周年にあたって、新しくキャンパスをつくり、建築学科(ここでは建築大学という)などがソウルから移転した。このキャンパスは龍仁市竹田地域を眼下に見下ろす高台に建てられ、盆唐線(地下鉄・鉄道)の竹田駅が新設され12月に開通するとパンフレットに書かれているので、既に開設されていると思う。今後壇国大学が町のシンボル的な役割を担い、町や韓国の教育界に於いて大きな役割を果たしていくことになるのだろう。

このシンポはそれを記念して開催されたのだ。主催は壇国大学とDOCOMOMO Koreaである。Dean(学科長というより実質的に建築大学長という立場)に就任された金正新(キム・ジョンシン)教授がDOCOMOMO Koreaの代表なので、この企画がなされたのだ。

金正新教授の挨拶の後、DOCOMOMO Koreaの前代表(創設時)金晶東牧園大学教授が基調講演をされた。会場に詰め掛けた学生に語りかけるような口調だ。
ハングルなのだが、僕の隣に座った尹(ユン)教授が概要を小声で伝えてくれた。
・これまでは日本の植民地時代の建築についてなど、国内を考えることで勢一杯だった。特に朝鮮総督府問題では親日派ではないかと批判されるなど、様々なことを言われた。韓国の場合は植民地時代の問題を抜きにして建築の保存を考えることは難しいが、世界各地を廻ってきて、今ではそれを乗り越えて、アジアの中での建築を考えて行かなくてはいけないと考えている。
・ソウルからここへ来る車中すざまじい開発の状況を見て恥ずかしい思いをした。今の若者は変な形に興味を持っているようだが、先達の培ってきた近代建築の基本を学ぶことが必要だ。正新先生による壇国大学が新しい時代を創っていくと楽しみだし、期待している。

中国からは、上海の同済大学建築、都市計画科シャ ユンジェ副教授が、「中国上海の都市開発と都市景観」について英語で講演し、韓国を代表して、ジュ スギル延邊科学大学副総長が「延吉市の変遷と近代遺産」と題して、ご自身の研究成果をハングルで報告された。

僕はまず、鈴木博之DOCOMOMO Japan代表のメッセージを代読した。「アンニョンハセヨ」からスタートし、「チョヌン、カネマツラゴハムニダ」。これは洪さんに教えてもらったのだ。
僕の主題は「日本の近代文化財保存運動の成果と課題」である。
「私は貴重な経験をしています。数年前になりますが、DOCOMOMO Koreaの設立総会に招かれてお話しした折、会場から近代建築史を研究している学生さんに、日本統治時代の日本人の設計した建築(の保存)をどう考えているかと質問され、答えに窮しました。この質問によって、建築が社会的な存在であることと、建築の持つ重さに震撼としたのです」
僕の講演はこの一節から始めたのだが、これは僕が建築の存在を考え、保存問題に取り組むときに、常に感じる命題なのだ。<つづく>

<写真 檀国大学竹田キャンパスと町>