1月26日(土)。槇文彦が1972年、沼津に建てた「加藤学園初等学校」を見学させていただいた。41年前、日本で初のOPENシステムによってつくられ、日本の教育改革の原点になった小学校である。
創設者加藤正秀理事長や、90歳を越えてなお赫灼(かくしゃく)とされている亀田佳子元学園総務主事、校長先生や創設期に在学したOBやOG、それに槇事務所の所員やそのOBの方々に迎えられた。
僕は当時槇事務所の所員として元倉真琴さんたちとともに、設計を担当された建築家中村勉工学院大学教授に声を掛けて頂いたのだが、文科省の施設課長や、この学校を支えている長澤東洋大学教授、建築ジャーナリストの磯さん、新建築社の面々などなど大勢の建築の関係者が参加した。この学校の存在とその教育方針などを知ってもらいたいという学校の方々の想いが伝わってくる。
設計理念は「壁のない学校」だったと中村さんは言う。
試行錯誤を繰り返したというが、若き日の中村さんの日本にない学校をつくるという喜びが、僕たちに伝わってくる。現場に来た槇さんは、しゃがんで高さの確認をしていたという。
その高さ、子どもの背にあわせて作られた台や小さな中庭にはね出したガラスで包まれたコーナーに設置されたベンチに寝っころがって勉強したというOGの一言と、あんたはいつもそうだったね!という同級生の言葉に笑いが起きた。そういうことが許される教育がなされてきたのだ。そのための学校、槇さんと担当された若き日の建築家たちとの思いが見事に結合している。
でも僕の心が躍るのは、アメリカのグラフィックデザイナー レイ・コマイ氏に委嘱したというスーパーグラフィックである。そしてもう一つのキイワード、4分の一の円だ。
この建築空間が妙に懐かしく感じられるのは、僕の(僕たちの)心を震わせたアメリカ西海岸に建つシーランチ(チャールス・ムーア)の味わいがあるからだ。大きな文字や切り取った原色を壁や天井に取り込むスーパーグラフィック、槇さんもやったのだとなんだか嬉しくなる。
創設者加藤正秀理事長や、90歳を越えてなお赫灼(かくしゃく)とされている亀田佳子元学園総務主事、校長先生や創設期に在学したOBやOG、それに槇事務所の所員やそのOBの方々に迎えられた。
僕は当時槇事務所の所員として元倉真琴さんたちとともに、設計を担当された建築家中村勉工学院大学教授に声を掛けて頂いたのだが、文科省の施設課長や、この学校を支えている長澤東洋大学教授、建築ジャーナリストの磯さん、新建築社の面々などなど大勢の建築の関係者が参加した。この学校の存在とその教育方針などを知ってもらいたいという学校の方々の想いが伝わってくる。
設計理念は「壁のない学校」だったと中村さんは言う。
試行錯誤を繰り返したというが、若き日の中村さんの日本にない学校をつくるという喜びが、僕たちに伝わってくる。現場に来た槇さんは、しゃがんで高さの確認をしていたという。
その高さ、子どもの背にあわせて作られた台や小さな中庭にはね出したガラスで包まれたコーナーに設置されたベンチに寝っころがって勉強したというOGの一言と、あんたはいつもそうだったね!という同級生の言葉に笑いが起きた。そういうことが許される教育がなされてきたのだ。そのための学校、槇さんと担当された若き日の建築家たちとの思いが見事に結合している。
でも僕の心が躍るのは、アメリカのグラフィックデザイナー レイ・コマイ氏に委嘱したというスーパーグラフィックである。そしてもう一つのキイワード、4分の一の円だ。
この建築空間が妙に懐かしく感じられるのは、僕の(僕たちの)心を震わせたアメリカ西海岸に建つシーランチ(チャールス・ムーア)の味わいがあるからだ。大きな文字や切り取った原色を壁や天井に取り込むスーパーグラフィック、槇さんもやったのだとなんだか嬉しくなる。