日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

北海道紀行09-(2)北の建築家上遠野徹さんを想う

2009-11-29 10:20:33 | 建築・風景

明日の早朝ADO(エアドウ)で函館に行く。
元町に建っていて市の`景観指定建築物`として指定されている「旧弥生小学校」のDOCOMOMOからの保存・活用要望書を市長や議長、教育長に提出する。
12月にはいると校舎の一部の解体が始まるが、明治15年(1882)に創設され、石川啄木が教鞭をとり久生十蘭や亀井勝一郎が学び、函館大火の後昭和13年(1938)にRCに建て替えられ、復興小学校と呼ばれるようになってからも71年を経た小学校のOBが「私たちはまだあきらめていない」というのを受けてのことだ。

東京も樹々が色づいて寒くなり、晩秋と初冬が一緒に来たような気がするが、11月3日に函館を訪れたときは初雪に見舞われた。北の国と北の建築と北の建築家を思う。

=北の建築家・想いを込めて=
「北の建築」というフレーズを聞くと瞬時に浮かぶ建築がある。その建築を設計したのが函館に生まれ、札幌に自宅とアトリエを建てて北大で教鞭をとるなど、北の地に根付いて数多くの建築をつくって活動をした上遠野徹さんである。竹中時代、レーモンドの設計した札幌聖ミカエル教会の施工を担当し、信徒としてその存続に力を注いできたのも上遠野さんだ。
上遠野さんは僕のことを先生というので面映く、僕も上遠野先生といいたいのだが、親しみと敬愛を持ってカトノさんと言わせていただいた。

11月1日にお会いして、福井の高等工業学校(現福井大学)を出た後、竹中工務店の札幌支店に勤務される経緯などを興味深くお聞きしたのだが、その8日後訃報がとどいた。コトバが出せずこれ以上ここに記すのはお許しいただきたい。でも唯一つ。
「この雨で葉が散ってしまって今年の綺麗な紅葉を見せて上げられなかったのが残念です」そしてご子息の克(コク)さんに、そのときの写真を後で送ってあげてよ、とおっしゃった。自然を慈しみ、人を慈しむそのコトバを僕は忘れないだろう。

DOCOMOMO Japanで選定した、雪の上遠野邸を拝見したし、雨の中の、晴天の、暑い日差しの中の、そして見事な紅葉の中の遠野邸を僕は上遠野さんと一緒に見た。上遠野さんを想いご冥福を祈りながら僕の撮った紅葉の写真を見ていただきたい。

<写真 上遠野邸の紅葉 2007年10月撮影>


四国建築旅(11)  四万十川に架かる鉄橋と曽我の神社

2009-11-26 09:55:00 | 建築・風景

時間に追いかけられているモダニズム建築を訪ねる旅でも、ふと気になる光景に出会ったときに、車を留めてほんのちょっぴりその近辺を散策するのは楽しい。土佐湾に向う国道441号線は、四万十川を主に右に見て走る。チラッとテントやカヌーの姿が見え隠れしたりする。
国道を横切る鉄橋が見えたときに、二人から思わずオッ!と声が出た。
車を道端に留め対岸を見た。円形のコンクリート柱脚が土手から川面に立ち、トラスを組んだ箱状の鉄橋がカーブを描いて走っているのだ。単線。煙を吐いた機関車の走る光景がチラッとまぶたに浮かんだ。土木遺産。

近くに神社をみた。クリスチャンの藤本さんはお参りはしないが、建築家として興味深く神殿を眺めている。この神社は一枚の額に曽我神社と○母神社と二つの神社名が並んで書かれている。○の文字が読み取れないが、曽我が何故この地にと好奇心が刺激され、面白そうな由来がありそうだと思ったがさっとお参りして車に乗った。小さな祠であっても、神社であっても通りかかるとつい気になり足を止め、頭を垂れたくなる。

四国建築旅(10)撮らえ得ない内藤廣の牧野富太郎記念館

2009-11-22 12:08:59 | 建築・風景

稀代の植物学者牧野富太郎の名を知らない人はいないだろう。
でも明治維新(大政奉還)の5年前、まだ寺子屋のあった時代に生まれ、小学校を中退したものの後に東大で教鞭をとり、学位をとり(理学博士)学士院会員に推挙され文化勲章を受章したと知ると、おやっと思うと同時に一気にその足跡が思い浮かぶのではないだろうか。といって僕の中に「牧野富太郎」の名が刻み込まれたのは、内藤廣の設計した記念館の写真を建築誌(GAなどで)で見たときからだ。
2000年の初頭(竣工は1999年)、ほぼ10年前のことになる。

高知市五台山の樹木のなかに白い亜鉛ステンレス複合版による微妙なカーブによる円を描いた屋根が浮かび上がり、米松の集成材による梁や屋根勾配を見せる地元の杉材下地板、それを支えているスチールパイプとコンクリート打ち放しの壁柱、あえて付け加えれば、ウッドデッキなどの姿が眼に焼きついてしまったのだ。

だが、カメラを手にしてそのどれをも眼にしながら戸惑った。植物園の中にあるこの建築は、四角い建築の中に円を描いた中庭のある本館と、円に囲まれた展示館の2棟を渡り廊下でつないであるが、全貌は無論捉え切れないし、撮るポイントも見出せない。

ふと写真家下村純一さんがぼやいていた一文を思い出した。アールトの写真を撮ろうと思ったときのことだ。「正面がない。ここという箇所がない」。
でもこの建築にふれると人は生きていることが嬉しくなる。そうなんだと思った。そしてそのアールトの建築とは趣が違うのだが内藤廣が言っていたことも思い出した。
「数年後には建物は樹木に囲まれやまのなかに姿を消していく。周辺と一帯となって内部空間と中庭という構成だけが残ることになる」。
散文詩のようなこの一文は正しく内藤廣。全貌を撮らえ得ない建築をつくったのだ。

この記念館は牧野富太郎が発見して名をつけた多くの植物や、土佐の高知の樹林に包み込まれている。内藤が考え試みた建築の姿をいま僕たちは眼にしている。
何故ギクシャクとした円を使ったのか。それが内藤のこの場所の自然観で建築は自然との対話なのだ。本館の□。それは自然との対峙。
「フォレスト益子」では宿泊棟とパブリックスペースを緩やかなカーブで対面させ、プロジェクトを周囲の自然と対話させた。島根県芸術文化センターではその土地の赤い石州瓦を使ったが□で構成した。

僕がこの記念館を訪れて心打たれたのは、本館に設えられた牧野富太郎記念室の書斎の有様だ。
壮年時代の見識に充ちた風貌の写真を見た後、書斎を復元して書物に埋もれた牧野富太郎翁の姿をみると、この姿を伝えるためにこの建築があるのだと思った。思わず立ち尽くしてしみじみと牧野博士の足跡を思った。この建築は牧野富太郎の記念館なのだ。当たり前なのだけど・・・



都市を考える 鈴木博之の世界(2)

2009-11-15 13:01:39 | 建築・風景

開東閣は明治33年(1890年)J・コンドルの設計によって建てられた。岩崎小弥太男爵の住まいから昭和13年三菱財閥の迎賓館となり、戦災で内部を焼失したこの建築を昭和39年(1964)修復した以降同じく三菱の迎賓館的な使われ方がなされている。

この建築の好きな鈴木博之教授は、ご自分の東大退職記念のパーティをここでやりたいと望んだと司会の伊藤毅教授が述べたとき、同じく岩崎小弥太の冬の別邸として建てられた熱海の陽和洞(設計・中条精一郎)を一緒に訪れたときのことを思い出した。タウトの設計した日向邸を案内した後陽和洞を訪ねたのだ。

当時日向邸を所有していた日本カーバイド工業のOさんの好意によって小人数ならと見学をさせていただいたのに、鈴木教授が大勢のゼミの学生や海外からの研究員を引き連れて現れたので唖然とした。
だが学生たちの目が好奇心に輝いているのを見たOさんの笑顔にホッとしたものだ。そのときの院生が九州の大学に就任してこのレセプションの最後に花束の贈呈をした。うれしそうな鈴木教授の笑顔と誇らしげな彼女の姿が微笑ましい。

室内を歩きながら、この陽和洞が日本の邸宅のなかで一番いいと思うのだがどうだろう?と問いかけられた。うーん!と生返事をすると、駄目?と顔を覗き込まれたので困った。幾つかのこの手の邸宅の姿が浮かんだが僕には答えるに足る知識とその魅力を味わった体験が不足している。
この陽和洞の作庭が小川治兵衛(植治)なのだ。鈴木教授は日本の近代化の象徴として小川治兵衛をとりあげる(近代建築論講義第7回「伝統」より)。

小川治兵衛は`象徴としての庭`を建築が装飾を消滅させて近代化へ向ったことと同じ視点で`自然主義的な庭園`(石は単に石であるというような)をつくり上げたが、鈴木博之はそれを「地霊(ゲニウス・ロキ)に結びつけながら土地の所有者の変遷に目を向け、伊藤毅が論破した「孤高の都市論」を展開するのだ。この都市論は説得力がある。

松山巌はその原点は鈴木博之の家系が幕臣だという出自にあるという。そして「地霊」というコトバのイメージが`土地の神様`と思われてしまうことになりかねないが、ゲニウス・ロキはもう少し緩昧な概念であると同時に「その土地の持つ文化的・歴史的・社会的な背景と性格を読み解く要素も含まれている」と述べる。

僕は土地を考えるときに、例えば沖縄の「御獄(うたき)」のように、集落(コミニュティ)が一つの御獄を中心として構成されており、現在にあってもその仕組みに代わりがないことに注目したいと思ってしまう。「地霊」というコトバから僕はそれを紐解きたいと思うのだが、鈴木博之はそうではない本流に目を向ける。

日本の近代都市を考察するときに、初田亨元工学院大学教授の銀座の変遷を読み解く事例`勧工場を取り上げた「東京 都市の明治」にふれなくてはいけないように、鈴木博之の「都市論」を抜きにして、日本の都市を語れないのではないかとも思うのだ。 
前項でも述べたが、この「近代建築論講義」が必読書だと考えるのは、その鈴木博之の思考の原点が読みとれるからだ。ゲニウス・ロキのバックには、このレセプションの冒頭の挨拶で石山修が面白おかしく鈴木博之論を語った一説、昼にソクラテスを論じ、夜に泉鏡花を読みふける鈴木博之の好奇心とその問題意識を理解しなくてはいけないだろう。

何年前のことだったか良く覚えていないが、僕の事務所を訪れた鈴木教授が、本棚の「正岡容(いるる)集覧(仮面社1976)」を見つけて、ホー!と眼を輝かせた。講談の面白さとその解読にのめりこんでいた僕に、大正から昭和の寄席場やその時代の市井の様を理解するときにこの本は欠かせないと、親しい講談評論家が出入りの古書店から取り寄せてくれたのだ。僕がと鈴木教授も驚いたようだが、この本にまず目を向けた鈴木教授に僕も驚いたことなど、この一文を書いていてなんとなく懐かしく思い起こしている。

<ちなみに開東閣も陽和洞も非公開>

北海道紀行09-(1) 雪の函館と五稜郭での出来事

2009-11-08 10:58:35 | 建築・風景

3泊4日の短い札幌と函館への目的のはっきりした旅だったが、それでも旅には思いがけないことがおこる。函館で初雪を味わったのだ。
東京は晴れ渡っているが札幌は雨、道南の函館も雨という予報だった。午後1時半に着いた千歳空港には薄日が差していて、建築家上遠野徹さんの自邸に向う道の両側は、焦げ茶色の紅葉に彩られていて、時折現れる黄色の銀杏が鮮やかだ。思わず「いやいや!今年初めての紅葉だ」と運転をしている諸澤さんに向って溜息をついた。

2日前からの雨で庭の樹木が落葉してしまい、僕たちに見せたかったのにと上遠野さんが慨嘆されたが、ひとしきり紅葉談義になった。同席した北大の角教授が、北海道では赤くならなくて焦げ茶になってしまう、でも北大の黄色い銀杏並木の葉っぱは兼松さんがくる4日(11月)にはまだ残っていると思うよと述べる。厳しい自然と対峙している人たちは季節の移り変わりに敏感だがそれを慈しんでいる。

僕は札幌建築デザイン専門学校の学生の設計課題講評(といっても建築談義になる)のために北海道にきているのだ。もう5年(5度目)になるのだがその都度上遠野徹さんに会いたくて時間をつくって訪問している。
今回は「北の建築家上遠野徹」を論ずる本に一文を寄せる打ち合わせもあっての訪問でもある。
徹さん、ご子息の建築家克さんや角教授、それに諸澤さんを交えてひとしきり建築談義に花を咲かせた後、小樽へ向った。

プレスカフェでコーヒー(僕の定番は苦味のあるイタリアン)を楽しみながらターマス(マスターのこと・彼のペン?ネーム)や素敵な店長との再会を楽しむのだ。
今年の食事はオムレツ。くるんだ卵があまりにも美味いので特別な卵?と聞くと、イヤねそこら辺のコンビニの卵だけどクリームをちょっと入れるのですよとレシピを披露してくれた。
宿泊は札幌に戻り坂倉建築研究所の設計したパークホテル。外壁が神奈川県庁舎や改修される前の小田急線新宿駅に使われたダークブルーの窯変タイルだ。

今度の訪札(訪函!)のスケジュールを記してみる。
翌11月2日(月)は、2年生の設計課題の講評の後学生と一緒に、ハーフティンバーによる旧北海道知事公館を見学した後函館に向う。ロープウェイに乗って函館山に登り`まち`の夜景「溢れる光を見渡す」(リーフレットのうたい文句)。
その後ライトアップされた「函館ハリスト正教会」(重文)などの建築群の見学。一泊した2日目は午前中、旧弥生小学校や歴史的建造物で構成されたまちなみや港の金森倉庫群、それに的場中学校、ガーディナーやヴォーリズによる校舎や重文に指定された旧宣教師館の建つ遺愛学院を見て五稜郭へ。
午後から札幌経由で再度小樽プレスカフェへ。そして翌朝は8時に専門学校に行き3年生の設計課題の講評・建築談義を3時間。北大角研究室訪問の後千歳空港だ。

冒頭に初雪という思いがけない出来事に出会ったと書いたが、その初雪は札幌から南の函館に向う高速道路だった。函館市内の雪は山の天気のように視界がさえぎられるほど吹雪いたかと思うと薄日が洩れたりした。

いつも思うのだが北海道の雪は天から降らない。横からさらさらと吹き付けるのだ。
雪を味わいながら思い出すことがある。5年前の専門学校の講評は卒業設計公表を控えた2月だった。ハラハラと降る雪は軽く傘が要らないという僕にとっては強烈な初体験をした。そして学生を連れて上遠野邸を訪問した。
専門学校の学生にとっては上遠野さんは雲の上の人なのだ。北海道の建築家を東京の僕が案内をすることが不思議だったが、学生たちと僕の笑顔に囲まれて、なぜか緊張された上遠野さんがDOCOMOMO選定プレートを大事にもっている写真を思い出した。

大正13年(1924年)に函館に生まれたその時代の人の持つ律儀さと、「正しい道を歩め、列を乱すな」と述べる、例え学生ではあっても真摯に対話する上遠野さんらしい姿だ。引率の諸澤先生(先生と言わなくてはいけない)も少し引いてまじめな顔をして写っている。

五稜郭で、仕事をしているそのときの女子学生Mさんに声を掛けられた。
その一瞬とそこで交わした会話を僕は多分生涯忘れないと思う。
「先生!」と声を掛けられて諸澤さんが驚いた。僕も5年前のクラスの学生たちの姿が瞬時に浮かび上がった。

美しく大人になったその笑顔と品のいい言葉遣いに感銘を受けた。夕刻MOROさんと飲みながら、あのクラスは印象深く、とりわけMさんは優しくて優れた学生だったと懐かしんだ。僕はMさんの写真を撮り、僕とMさんが並んだ記念写真をMOROさんが撮ってくれたが公開できないのが残念だ。
実は思いがけない出来事と書いたのは、雪ではなく僕の講義をした学生が社会で息づいている姿に出会ったことなのだ。その間いろいろなことがあったかもしれないが、学んだ建築ではない職種であっても生き生きしている。ちなみにMさんは函館生まれのひとだ。

<写真:左・函館の五稜郭、右・札幌北大構内の銀杏並木>